8話
黒い彗星。
俺は遊び半分で、奴をそう呼んでいた。
マンガやアニメで、奴と遭遇したキャラが悲鳴を上げているのを何度も見ている。
あんなものは大げさに描いたものだ。
そう思っていた。
実際に、奴に出会うまでは……。
昼、少し前。
作り置きのカレーを食べたことによる副作用で腹痛が起き、寝ていた俺。
ちょうどウトウトとし始めた頃だった。
激しくドアがノックされる。
ノックというより、まるで太鼓のように叩かれている。
「い、今すぐ開けなさい! あと5秒で開けないと、ドアをぶち破るわよ!」
沙霧の声だ。
なんだか、少し震えている。
沙霧なら本当にぶち破りかねないので、慌ててドアを開ける。
と、同時に、青白い顔をした沙霧が俺に抱き着いてきた。
柔らかい物が、胸に当たる……。
「お、おい?」
「早く、あいつを始末して!」
「あいつ?」
リビングを見渡す。
だが、誰もいない。
不審者が侵入してきたというわけでもなさそうだ。
「沙霧、あいつってなんだ……」
そう言いかけたとき、視界の端に何かが動いたのが写った。
「……ん?」
顔を向けてみるが、そこには何もない。
「はう……はうぅ……」
沙霧はというと以前、俺に抱き着いたままガタガタと震えている。
「沙霧。説明してくれ。あいつってなんだ?」
「そんなの、Gに決まってるでしょ!」
「……G?」
なんかの暗号か? まるでわからんぞ。
だが、沙霧は知ってて当たり前のような口調だ。
「沙霧、そいつはまだこの家の中にいるんだな?」
「ううー。終わりだわ。1匹、見たってことは10匹はいるってことよ……」
既に半泣き状態の沙霧。
しかし、俺は沙霧の言ったフレーズが、頭に引っかかった。
どこかで聞いたことがある。
そのとき、頭上で何かが動く気配を感じた。
そして、俺は天井を見上げる。
――黒い物体。
大きさは、10cmはあるだろうか。
長い物が2つ飛び出ているが、あれは触覚だろう。
奴は天井に張り付いたまま、ジッと動かずにいた。
「うわあああああ!」
恐怖。
そう、恐怖だ。
それを見た瞬間に、全身鳥肌が立つ。
無意識に感じ取る嫌悪の感覚。
なんだあれ、なんだあれ、なんだあれなんだあれ!
なんでなんな巨大な虫が存在する上に、家の中にいるんだ?
「沙霧……。もしかして、あれがゴキ……」
「言わないで!」
沙霧は俺の胸に顔を埋めて、本泣き状態に移行を始めた。
恋愛ドラマでよくある、泣いている女の子を慰める主人公。
絵面的には、そんな胸が熱くなるような展開だが、実際は全く違う。
大の大人2人が1匹の虫に恐怖している図だ。
「なあ、沙霧。俺、よくわからないんだが、あれが出た時って、どう対処するんだ?」
「殺すに決まっているじゃない」
「殺す? どうやって?」
「……あんた、何言ってるの?」
心底不思議そうな顔をして、俺を見上げる沙霧。
「俺、初めてなんだ。あいつを見るの」
「……嘘でしょう? あなた、一体、どんなところに住んでいたの?」
「北海道にはいないんだよ。あいつは」
「……なにそこ。天国なの?」
「漫画とかアニメで存在は知ってたんだけどな。まさかここまでグロイとは……」
「私、将来は北海道に住むわ」
「まあ、というわけで俺はあいつとは初戦なんだ。お前の方が経験あるんじゃないのか?」
「何言っているのよ! か弱い私に戦えって言っているの!?」
初めてあれを見た俺と同じくらい、沙霧は動揺している。
確かに漫画やアニメでも、沙霧のような反応をするキャラは多い。
あれは見慣れるなんて、生半可なものじゃない。
別にこちらに対して、何かしら危害を加えてくるわけではないと聞いたことがある。
ただそこにいるだけで、恐怖を与えてくる。
……すごい生物だな。
沙霧は泣いているが、俺だって、膝がガクガクと震えている。
だが、2人でこうして抱き合っていたところで状況は変わらない。
「……沙霧。戦おう」
「え?」
沙霧が顔を上げる。
その瞳には涙が溢れていた。
「一緒に……戦ってくれるか?」
俺の言葉に、沙霧の目の奥に決意の意思がこもるのがわかった。
「うん」
こうして、俺たちの心は1つになった。
よし! 開戦だ!
深呼吸をして、改めてやつを睨みつけるのだった。