3話
「大丈夫ですか?」
そう声を掛けると、おばあさんは顔を上げた。
顔は風呂上りのときのように赤く、火照ったような感じだ。
「へ、へい……き……」
うまく喋れていない。
どうやら口の中が渇いてるみたいだ。
この症状は……多分、脱水症状だろう。
「日陰に入って、座っててください」
おばあさんを日陰へと連れて行く。
ポケットからハンカチを出して、地面へ敷いた。
敷物としては小さいが、我慢してもらうしかない。
おばあさんをハンカチの上に座らせる。
「ちょっと待っててくださいね」
俺はさっきのコンビニへと走り、ショートサイズ缶のお茶を買って戻る。
本当はポカリ系の吸収率がよい飲み物が良かったんだが……。
確か、ポカリは点滴と同じ成分だと、どこかで聞いたことがある。
それに、飲み切れないにしても500mlの方を買うべきなのだろうが……。
金がないのだから仕方ない。
我慢してもらおう。
大体、俺が見ず知らずの人にそこまでしてやる義理はないんだ。
「少しずつ、ゆっくり飲んでくださいね」
缶の蓋を開けてから、おばあさんに渡す。
おばあさんはペコリと頭を下げ、ゆっくりお茶を飲んでいく。
そして、飲み終わった瞬間――。
「結婚してくれないかしら?」
そう言いだした。
「あー、えっと……」
人生の危機を助けて貰った恩人に、感謝する気持ちはわかる。
だが、百円未満の飲み物に対して、それは重すぎるだろ。
「もっと自分を大切にしてください」
「え? あ、ごめんなさい。ほほほ。言葉が足りなかったわ」
おばあさんは手を口に当てて笑った後、お茶の缶を地面に置き、正座する。
そして、真剣な眼差しで俺を見上げた。
思わず俺も正座してしまう。
「結婚して欲しいのは娘とです」
いやいや。さらに重みが増しただけだろ。
俺は百円くらいで人生を左右するようなことをするなと言いたいんだが。
「お茶一杯で大げさです。きっと暑さで思考が鈍ってるんだと思いますよ」
スマホをポケットから取り出して、チラリと見る。
予約の時間は過ぎているが、10分くらいなら頭を下げれば許してくれるだろう。
「すぐに動かないでくださいね。めまいが治まってから立ってください」
そう告げて立ち去ろうとすると、おばあさんは俺の腕をガシッと掴んだ。
「ほほほ。逃がさないわよ」
怖ぇ!
なぜだ……。なぜ、人を助けたのにこんな思いをしないといけないんだ。
そこまで普段の行いが悪かったんだろうか?
「あなたは237人に1人の逸材ですわ。是非、娘と!」
「……妙に細かい数字ですね。それに言うほど凄いかどうか微妙ですよ」
「ここに1時間近くうずくまっていたんです。その間、横を通ったのが237人ですわ」
「数えてたんだ……。結構、余裕あったんですね……」
「助けてくれたのはあなただけです。こんな優しい人は他にいません」
「いやいやいや……」
路地裏とは言え、誰も気づかなかったんだろうか?
なんにしても、俺が助けなかったら、おばあさんはもう少し苦しむことになってかもな。
そう考えると、俺の判断は正しかったと言えるだろう。
予約の時間は過ぎてしまったが、見る物件を1つ減らせばいいだけだし。
「すいません。俺、ちょっと急いでるんで」
「あ、それなら連絡先を聞いておいてもいいかしら?」
おばあさんは手さげの鞄から一枚の紙とボールペンを出す。
「名前、住所、電話番号を書いて、ここに拇印を押してくれる?」
おばあさんが出してきたのは、婚姻届けだった。
「いやいやいや……」
結局、俺はもう少しこのおばあさんに捕まることになる。
そして、話は思わぬ方向へと展開していくのであった。