林檎の揺れ、ゆれ、
三階から「りんご」が投げ落とされた。
僕は無回転で近づいてくる真っ赤と言ってもよいくらいの「りんご」を、まるで時間が止まったかのように感じながら、両手で視界を遮るようにしてキャッチした。両の手の平にパチッと「りんご」が当たったのは、まさに、視界から「林檎」が消えた時だった。
「実家から送られてきたの。ちょっとそこで待ってて。」
ヒカリが三階の窓から上半身を乗り出すようにして言った。びっくりするくらい、大きな声だった。
「うん。」
僕の小さな返事は、ヒカリに届いただろうか。恐らく、届かなかっただろう。でも、ヒカリはニコッと笑顔を見せてから窓を閉めた。恐らく、僕の精一杯の首肯は、見えたのだろう。
僕は「林檎」を見ないようにして、紺色のパーカーの腹の辺りに取り付けられたポケットの中に、「林檎」を入れた。パーカーのポケットの内部は、中で隔てる仕切りがなかったので、左右の手で「林檎」を触れることができた。「林檎」の表面は、グリースのようなもので塗りたぐられたかのように、ヌルッとしていた。僕は、ポケットの中で、持て余すようにして両手で「林檎」を愛撫するうちに、そのヌルッとしたものが、実は、「林檎」の内部から表面に、たまらず染み出てしまったものではないのかと、そのようなことを意識の隅でぼんやりと考えていた。腹の熱で暖められたポケットの内部は、肌寒い外とは異なり、かなりあたたかかった。
窓が閉められてからしばらくすると、上の方から笑い声やらなんやらが聞こえてきた。複数の男の声が混じっていた。ヒカリの声もあった。笑っていた。それは、ゼミ旅行の打ち合わせだった。僕は、居心地が悪くて、何も言わずに抜け出してきたのだった。期待してはいなかったけど、やはり、誰からも何も言われなかった。パーカーのポケットの中で、「林檎」がモゾモゾと動いた。
――「林檎」を見てはいけない。あの赤い色を見てはいけない。見てしまったら、これはなくなってしまう。赤い色の代わりに、これは、無かったことになってしまう。――
なぜかは分らない。ヒカリから僕に投げ落とされたものが消えて無くならないようにするには、「林檎」を見てはいけないと思った。なぜだろう。ただ、ただ、その時の僕が弱かったからなのか。
三階の窓からは、軽自動車、温泉、四人乗り、紅葉、ビール、テニス、三国峠などの大学生らしい単語が漏れてきた。僕はその間、ずっと、「林檎」を見てはいけない、とだけ考えるように努めた。だが、上が盛り上がるほどに、どうしても「林檎」を見たくなった。赤色を確認して、安心したいと思った。
「帰ろ。」
ヒカリが後ろに立っていた。いつの間にか、僕のいた校舎の裏は、傾いた夕日と、コンクリート造りの素っ気ない校舎によって作られた、大きな薄暗い影にスッポリと包まれていた。
僕は、寄りかかっていたスーパーカブのスタンドを片足で上げて、パーカーのポケットから両手を慌てて出して、ハンドルを掴み、前方に体重をかけて歩き始めた。腹の辺りの生地の筋目をより複雑なものにするために、腰をいつもより曲げていたかもしれない。
僕は、苔から色素を抽出して濃縮したような、ジジくさい緑色のスーパーカブを押しながら、それを買った当時の自分の選択を恨んだ。野暮ったくて汚れの目立つ白のレッグシールドくらいは取り外して、少しでも車体をスマートに見せておくべきだった。それは、入学した当時からずっと考えていたことだったが、数年に渡ってずっとためらっていたことでもあった。
その日、僕らは、初めて、二人だけで帰った。
「おいしかった?」
「ああ。」
スーパーカブを間にして、僕とヒカリは並んで歩いた。歩くたびに僕は、揺れ動く「林檎」を腹で感じた。
周囲のあらゆるものから夕日が反射されて、まぶしかった。僕は、ただでさえ細い自分の両目を、さらに薄目にせざるをえなかった。加えて、夕日に染まったヒカリのショートカットの表面があまりにもきれいだったので、僕はもはや、ヒカリを直視することができなかった。それでもいい。それがいい。見なくてもいい。感じることができるのなら、それでいい。願わくは、触れることができたら。誰からも見えないようにして。
僕はヒカリにいろいろと聞きたいことがあったが、やめた。
僕らは、左右に背の高いススキが生い茂る大学裏の砂利道を抜け、上り坂になっている国道の途中に出て、原付を押して登るには難儀なその坂道を、茜色に染められた町を見下ろしながら越え、少し下り、夕方になるといつも混んでいるスーパーマーケットに立ち寄った。その季節の夕方は煙のにおいがするが、その日もそうだった。
「あ。」
「何?」
「行かないから、私。ゼミ旅行。」
「・・・・・。」
ヒカリが借りているアパートの前で、言われた。動揺。
僕は「りんご」の扱いに苦心した。