四季彩
わたしの世界は、いつもわたし一人だけ。
広い広いお城の中の小さな部屋で、白いウサギのぬいぐるみだけが友達の、そんなさみしい世界。
気晴らしは本を読むことと絵を描くことくらいなもので。
部屋の中の窓からは青く澄んだ空が見えるけれど、わたしは鳥じゃないから空なんて飛べない。
そんな素敵な出来事は、ここでは起きない。そんなことは夢の中だけだって、ちゃんと知ってる。
起きたら何も覚えていないくらいのあやふやな嬉しさなんて、無いのに等しいではないか。
いつものようにカンヴァスに向かう。
こんな世界なら、もういっそ壊れてしまった方がいい。
絵を一枚描き上げ、ふうと息をついた。今日の題材は朝日だ。外の世界が新しい日に染まっていく様子をどうしても描きたかった。
朝早くから起きていたため、すごく眠い。少し寝ようかな、と思いながら床に無造作に置いてある絵を見る。
絵を描いている時はそんなことを忘れられる。わたしのただ一つの趣味といっていい。
外を見ながら描いた、抜けるような青の空の絵、輝き始めた新緑の森、雨の後の七色の虹。
わたしの心はこんなに真っ黒なのに、使う絵の具はいつも決まって明るい。
どうしてなの? と自分の心に訊いてみても、答えは黒く霧がかかったように見えなくなる。無理矢理に見ようとすると、蟻地獄に嵌ったように霧から抜け出せなくなってしまう。
そのモヤモヤから解放されたくて絵を描く……この繰り返しだ。
窓から見える小さい花に目を留める。今日の相手はあの子だ。
パレットの上で絵の具を混ぜ合わせる。
赤だったものがオレンジになり、青だったものが緑に変わる。この色を作る瞬間が一番好きだ。
真っ白なカンヴァスに下書きも何もせずにいきなり絵の具を乗せる。どう描いたらいいかの筋道なんて、筆が知っている。
鮮やかな黄色が、赤が、緑が、次々と花を描いていく。
魔法使いになったみたいな気分だ。だって、こんな何もないところに花を咲かせられるんだもの。
機嫌良く筆を動かしている幸せな時間に、いきなり異物が混じり込んだ。
人だ。
描いていた花が、人の背中で見えなくなってしまった。
背中はわたしと同い年くらいの男の子のものだった。花を愛でているのか、なかなかそこから動かない。
何してるのよ、そこよけてくれないと見えないの。
わたしのジトッとした視線に気付いてか気付かないでか、その背中がこちらを向いた。
目と目が合ってしまう。思わず固まる。
途端に昔のことが思い出されてしまう。わたしがこの世界を創った理由である、ありとあらゆる出来事だ。
美しくない言葉が飛び交い、それらが全てナイフとなって心に突き刺さる。
アイツも、何かわたしに害をなすんじゃないのか。
威嚇するように睨む。
しかし、驚いたことに彼は嫌そうな顔一つせずに、爽やかに笑って去って行った。
……なんなのよアイツ。
わたしはまたカンヴァスに視線を戻す。
その後はなんだか筆が乗らなかった。
今日は雲が綺麗だから、空を描こう。
そう思って窓の前に座ると、またいた。今度は空を見上げてる。
ムッと思ったが、気にしないことに決めた。
黙々と筆を進め、自分で納得のいく雲が出来上がった時、ふと下を見下ろした。もうその時には青年のことなんて忘れていたのだが……。
まだいる。しかもなんかこっち見てる。
男の子は笑顔でカンヴァスを指差し、見せて、というようなジェスチャーをする。
それに驚いて、大急ぎでカーテンを閉める。
何なのよあいつ、何なのよあいつ!
カーテンを掴んだままの手がぶるぶる震える。
チラリと隙間から様子を伺うと、彼はあの爽やか笑顔で手を降った。
じぃっと見つめていると、背中を向けて歩いて行ってしまった。
一気に気が抜けて床にへたり込む。何だか、このほんのわずかな時間でものすごく疲れてしまった。
何であの人はこんなに雑に扱ってるのに来るんだ?
彼はそれからというもの、毎日毎日わたしの視界に入ってきた。
絵を描いている時や、ぼんやり外を眺めている時。鬱陶しいと思っていたけれど、そのうち慣れてきた。
彼は毎日違うことをしていて、ある日は走って、ある日は昼寝をして、またある日は猫まで連れてきたりした。
日々めまぐるしく変わるその行動は、わたしを混乱させて、困らせて、怒らせて、笑わせた。
今まで絶対に人と関わるなんてしてこなかったのに、彼がわたしをこうさせたのは、やっぱりあの笑顔のせいだろう。
こっちも自分の意思を軽いジェスチャーで返すくらいの余裕は出来始めた時のことだった。
コンコン、と窓を叩く音で目が覚めた。
……ここは三階のはずなんだけど。
不気味に思いながら、閉めたままになっていたカーテンを薄く開く。
やっぱりというか、彼がいた。こっちに向かって何かを投げている。
白くてひらひらとしたそれは……紙飛行機?
窓に当たって落ちて、それを拾ってまた投げている。
うるさくてしょうがないから、窓を開けた。
彼は嬉しそうに笑って紙飛行機を投げてよこした。
ゆらゆら揺れる飛行機をどうにかキャッチすると、下から小さく拍手が聞こえた。
べーっと舌を出してやると、笑われた。続いて、開いてというようなジェスチャー。
何事だと開いてみると、手書きの綺麗な文字で、
『素敵な絵を描く人へ
いつだったかの花の絵、ちらりと見えただけでしたが、とても素敵な絵ですね。
もしよろしければ、明日もっと近くでじっくり見てみたいのですが、いいでしょうか?
明日扉をノックします。嫌だったら出なくても結構です。
宙汰』
爽やかな顔に似合った爽やかな文章だ。まず最初にそんなどうでもいいことを思った。
そうか、あの人宙汰っていうのか。澄み切った雰囲気を持つ彼になんて似合いの名前だろう。
ぼんやり文字を見ながら思いつく。
あ、返事!
慌てて外をみると、彼はもういなかった。
……で、どうしてわたしはこんなことしてるのよ!
雑巾片手に一生懸命床をこすっていた時、ハッと気がついた。
そうだわ、絵を全部よけたときに床の絵の具のシミが目について……気がついたらぞうきんで拭いてた。
思わずため息をついた。そして膝を抱えて顔を埋める。
これじゃあすごく楽しみにしてるみたいじゃないの。
出なくてもいいって書いてあるじゃない。別に、出なくていいのよ。
人になんて、関わらなくても、いいのよ。
はあ、とさっきよりも大きく、もう一度ため息。
こんな考え方をする自分がいやでいやで仕方がない。でも、こうしないと自分を守っていけない。
折角彼がわたしに好意を持ってくれている(と思っていいよね?)のに、嫌われてしまうのが怖い。前みたいに無視されるのが、悪口を言われるのが、すごく怖い。
そばに置かれた彼が素敵だと言ってくれた花の絵は、自分ではそんなに綺麗だなんて思えない。
どうせわたしは他の人とは違うんだから。
皆が可愛いというものにあまり魅力を感じない、面白いといっているものも面白いと思えない。
それに加えてこの通りの捻くれた性格なものだから、余計関わりづらかったんだと思う。
以前、お前の目は私たちとは違うんだ、別なものを見ているようで気味が悪いと言われたことがある。
それになんて返してやったんだっけ。もう覚えてないや。
窓の方を見やっても、彼はいない。
彼は、いない。
ハッと起きたらもう窓からは暖かい太陽の日差しが注ぎ込んでいた。
うわ、まさかこんなに寝るなんて! どれだけ寝てたのわたし!?
飛び起きると、座ったまま寝ていたからか体中が悲鳴を上げた。
どうにか窓までたどり着き、カーテンを開ける。彼は……いた。丁度今来たらしく、こちらに気が付いてにこやかに手を振る。
どうしよう、最悪のタイミングで開けてしまった。
これだと待っていたように見えるだろうし、そうなると部屋に入れることを了承しているということになる。
わたし、出ないつもりだったのに!
慌てていると、彼はどんどん城の中に入って行く。
待ってと言って、カーテンは開けていても窓を閉めていたことに気が付いた。
部屋は散らかり放題、わたしの格好だって酷いものだ。
でもこれで追い返して嫌われたらどうしよう。でも部屋に入れてあまりの汚さに嫌われるのもいやだ。
どっちも嫌だ。どうすればいいの。
心の中で叫んだ質問の答えは聞こえず、かわりにノックの音が聞こえた。
固まる。時間が止まったみたい。
出てこないわたしを不思議に思ったのか、もう一度控えめにコンコン、という音がする。
「あの、すみません」
風が吹くような声も聞こえる。
とりあえず何か言わなきゃ。そう思ってドアに駆け寄る時に、置いてあった雑巾を踏んづけて転んだ。
積んであったカンヴァスが音を立てて崩れ、わたしの上に落ちる。……結構痛い。
「大丈夫? ……開けますよ」
声が心配してる。ドアの開く音がする。
きっと彼はこの部屋を見て幻滅するだろう。
いくら絵が綺麗でも、こんなのじゃ。そう思ってしばらく立ち尽くすだろう。
それから何も言わずに立ち去っていくんだろうな。
そしたら、きっともう彼はここへは来てくれなくなるだろう。
ああ、終わった……。
立ち上がる気力もなく、転んだ姿勢のままうなだれる。打った膝や絵が落ちてきた背中が痛い。
転んで体を打っただけではなく、心まで打たれるともう泣くしかない。
一歩部屋に踏み込んだ気配がした。そのまま立ち止まってる。
ああほらやっぱりね。わたしの推測通りじゃないの。
足音が聞こえる。
でもそれは、離れていくんじゃなくてわたしに近づいてくる音で。
え、なんで……
「随分派手に転びましたねぇ」
カンヴァスをかき分けて彼が笑う。
差しだしてくれた手を取るか取らないか迷っていたら、手が、どうしたの、というように揺れた。
恐る恐る手を重ねて立ち上がる。
そっと顔を盗み見ると、彼の視線はわたしの足元に散らばったカンヴァスに吸い付いていた。
「本当に綺麗だ……」
ぼうっとしたようにそう言う。
見たいと言っていたあの花の絵を手に取り、食い入るように見つめる。絵の具の重なりを大切に確かめるようにして指がすらりと動く。その仕草はまるで恋人に触れるようで……。
自分の描いたものがそんな風に扱われるとなんだか照れてしまう。
「すごいですね、僕はどんなに頑張って勉強してもこんな素晴らしいものは描けない……」
勉強?
「絵を勉強してるの?」
「はい、祖父の影響で。画家だったんです」
画家……。
あまり耳にしない職業だったので、呆然とした。
彼が小さく笑って一瞬絵から目をそらし、わたしを見つめる。
「ちょっと羨ましいですね、こんなにお上手なんて」
「そんなに言うほどうまくないよ……」
恥ずかしくて居心地が悪くて、視線をうろうろと彷徨わせる。
「いいえ、凄いです!どうやって描くんですか?この光のあたり具合とか」
そんなこと言われても、意識なんてしてやっていない。見えたとおりに描いてるだけであって……。
答えが探せずにうつむいていると、彼は優しく私の手を取った。
そして優しい声で、こう言った。
「もしよければ、僕に絵を教えてくれませんか?」
信じられなかった。誰かが自分を頼ってくれるなんて。
久しぶりに訪れたそれに、わたしの背中に痺れるような感覚が走った。
「え、……わたしが?」
「僕もこんな風に絵を描けるようになりたくて」
久しぶりの人との会話で慣れてなかったんだと思う。それに、嫌われたくなかったし。
何よりも、嬉しかったし。
気がついたら頷いていた。
*
「朱音、どうしたんですか」
彼の声が聞こえる。相変わらず風が吹いていくみたいな綺麗な声だ。女のわたしが悲しくなってくるくらい。最初に聞いた時、聞き惚れてしまったなんて絶対言ってやらないけれど。
目を開けると上から覗き込んでくる宙汰の顔があった。わたしと目が合うとにっこりと微笑む。
寝ころんでいた芝生から体を起こす。風が、わたしの頬を撫でていく。
視界の隅には絵の具セット。パレットにはたくさんの色が混ぜ合わせられている。
「描いてる途中で寝ちゃったみたい。宙汰は? 描けた?」
「はい、結構うまく描けたと思うんですよ」
自信ありげに笑って見せてくれたそれは、いつもの優しい宙汰の絵だった。
ふんわりとした色合いの絵の具が優しいタッチで置かれたカンヴァスに、思わず見とれる。
「やっぱりわたしが絵を教えるなんてこと、しなくてもいいと思うんだけど……」
「えー、たくさん勉強になってるのに」
そんなこというなら、わたしの方が教わりたいわ。
そう思いながら散らばっていた筆を鞄にしまう。宙汰も帰り支度を始めた。
明日学校へ行ったら先生にコンクールのことで話をして、部室においてある描きかけの絵を仕上げて、ああそうだ、テストも近いんだっけ……。
先に立ち上がった宙汰に置いていかれないように歩き出す。こいつは優しいようでたまに酷いから。
今日はわたしの家から近いところにある湖までスケッチに来ていた。この時期はたくさんの花が咲き乱れて、もうそれは美しい。
この場所を教えてくれたのは宙汰だった。わたしはこんな近くに湖があるなんてこと、ずいぶん昔に忘れていた。
「そういえば」
宙汰が思い出したように口を開いた。
「初めて絵を見せてくれた日から今日でちょうど三年目なんですよ。知ってました?」
知ってるよ。そう言いたかったけど、なんだか恥ずかしくて口に出せない。
その代わり、少しだけ昔の事を思い出した。
「噂だけでわたしのところに来るんだもん、びっくりしたよあの時は」
宙汰はわたしが引きこもりを始めてから少しした時、転校してきたんだそうだ。
クラスにいつもある空席のことをクラスメートに聞いたところ、わたしの話を聞いたらしい。
そこでわたしの家に来てみたところ、絵を描いている。自分も絵を描くのが好きだから、と友達になりたくなったらしい。
爽やかな見た目からは想像できないくらいの、ものすごい行動力だ。
「本当に変な奴だよね、宙汰って」
「朱音もなかなかですよ」
お互いにそうやってニヤリと視線を交わし、同時に吹き出した。
家の近くの交差点で宙汰とは別れる。
少し歩くと、小さな丘が見えてきた。あの丘を越えたらすぐに家が見える。
もともと田舎の町だ、それ故に小さな噂も伝染しやすい。
家には電気が灯っている。きっと母が晩ご飯を作っているんだろう。
ぎくしゃくしていた母ともずいぶん前に仲直りした。わたしが学校に行くようになってから、なんだか急に明るくなった。
ただいまとドアを開けると、キッチンの方からお帰りと言う声がした。それを背中に聞きながら、わたしは部屋まで階段を駆け上がる。
部屋には宙汰と一緒にスケッチに行って描いた絵も、部活で描いた絵も、宙汰と出会う前の絵も、全部が詰まっている。そろそろ整理した方がいいだろう。
部屋中に染みついた絵の具の匂いと一緒に、思い出も思いっきり吸い込む。
宙汰と出会って三年か……そう思うと、なんだか涙が出てきてしまう。
あの頃はこんな小さな家だって、ものすごく大きいお城に思えた。自分を理解してくれる人なんていないと思ってた。
でもそんなことはなかった。家は案外小さかったし、宙汰という仲間もできた。
いつも抱きしめていた白いウサギのぬいぐるみは、窓の横にちょこんと置いてある。最近は話しかける事も少なくなった。
今なら自分のあの質問にも答えられる気がする。
カンヴァスに広げた明るい色は、わたしが欲しかったもの。
青い空も、新緑の緑も、夕日の赤も、七色の虹も、わたしがこの手でつかんでみたかった物なんだ。憧れていたんだ。
彼が今でも好きだという、あの花の絵を手に取る。家の前にしゃがみ込んだ彼の背中を、今でも覚えてる。
来月には絵画コンクールがある。わたしも宙汰もそれに出るつもりだ。
これを出そうと前から決めていた。
そっと絵を抱きしめて、離した。いつかの彼のように、絵の具の重なりをなぞってみる。
「朱音、ご飯よー」
お母さんの現実的な声にふっと引き戻される。はあい、と返事をして立ち上がってドアノブを開ける。
ドアの先に、広がったのは特別でもなんでもない、見慣れた家の中。
わたしの世界は、これからどんどん広がっていく。
広い広い世界の中の小さいわたし。
世界はこんなにも鮮やかにわたしを引きつける。その原因をつくってくれたのは、きっと彼。
わたしは今までの小さい世界に心の中でさよならをして、一歩踏み出した。
もともと童話として書いてたんですが、こんな童話はないよな……と。でもジャンルが果たしてこれでいいのかよくわかりません。
ともかく、ここまで読んで下さってありがとうございました!