第9話 弊社、社員旅行を敢行
「社員旅行」
それは、社畜時代には「業務の延長」であり「上司への酌み交わし大会」でしかなかった、忌まわしきイベント。
だが、経営者(仮)となった今、その意味は劇的に変わる。
「……最高だ」
俺は、白濁した湯に首まで浸かりながら、心からの吐息を漏らした。
場所は、日本某所の雪山奥深く。
地図にも載っていない、妖怪たち御用達の秘湯である。
視界には一面の銀世界。頭上には満天の星空。そして、漂う硫黄の香りと、適度な熱さの源泉掛け流し。
「これだよ。俺が求めていたのは、こういう"何もしない贅沢"なんだ」
連戦の疲れ(俺は何もしてないけど)を癒やすため、俺は福利厚生の一環としてここを訪れていた。
もちろん、経費である。
「お気に召しましたか、旦那様」
涼やかな鈴のような声が、湯けむりの向こうから響いた。
現れたのは、透き通るような白い肌を持つ美女だった。
その長い髪は氷河のように美しく青い。歩くたびに、周囲の空気がキラキラとダイヤモンドダストのように輝く。
雪女のユキ。
この秘湯の女将であり、氷雪を操る大妖怪だ。
「ああ、いい湯だ。雪女、ここは天国か?」
「ふふ、恐縮ですわ。旦那様のような素敵なお客様をお迎えできて、この雪女、溶けてしまいそうです」
彼女は桶と手ぬぐいを手に、しなやかな動作で湯船に近づいてくる。
その瞳は、冷たくも情熱的な熱を帯びて俺を見つめていた。
「よろしければ、お背中をお流ししましょうか? それとも……冷たい私の体で、火照った旦那様をクールダウンさせて差し上げましょうか?♡」
彼女がタオルを少し緩めると、雪のような白い肌が露わになる。
ゾクリ、とするような色気。
だが、その冷気を遮断するように、熱波が割り込んだ。
「……おい、かき氷女」
ドスの利いた声と共に、狐火がゆらりと燃え上がった。
タマモだ。
彼女はタオル一枚を体に巻いた姿で、仁王立ちしていた。
「誰に色目を使っている? その冷たい身体で我が君に触れれば、全身の水分を沸騰させて蒸発させるぞ?」
「あら、怖い。狐臭いと思ったら、人事部長様でしたか」
雪女は涼しい顔で微笑み返す。
「ここは私の旅館ですの。お客様への"おもてなし"は女将の務め。部外者は狐うどんでも啜って引っ込んでいてくださる?」
「なんだと……? この万年冷凍庫が……!」
バチバチバチッ!
炎と氷のオーラが衝突し、露天風呂の温度が上がったり下がったりと忙しない。
サウナと水風呂を同時に味わっている気分だ。整うどころか風邪を引く。
「……喧嘩するなら上がってやれ、のぼせるぞ」
「申し訳ありません我が君! ですが、この女が!」
「あら、私たちの体調を気遣ってくださるの? 旦那様ったらお優しい♡」
二人の美女が俺を挟んで火花を散らしているが、今の俺にはそれすらもBGMだ。
とはいえ、さすがにのぼせてきた。
「ふぅ……」
俺は湯船から上がり、備え付けの竹製の涼み台へと移動した。
火照った体に、雪山の冷気が心地いい。
バスタオルを羽織り、ゴロンと横になる。
視界には満天の星空。
耳には遠くでじゃれ合う(?)美女たちの声と、温泉が流れる音。
(ああ……最高だ……)
湯あたりした体が、重力から解放されていく。
泥のような眠気が襲ってきた。
雪山で裸同然で寝るなど自殺行為だが、不思議と寒くない。
ふと見れば、俺のベンチの周りだけ、青白い狐火がフワフワと漂い、春のようなポカポカとした暖気を保ってくれている。
タマモの奴、喧嘩しながらもしっかり主への配慮は忘れていないらしい。
俺は思考を放棄し、深い微睡へと落ちていった。
***
俺が完全に寝息を立て始めた、その直後だった。
──ヒュンッ。
音もなく、上空から黒い影が舞い降りた。
銀河帝国軍の暗殺用ステルスドローンだ。
熱源探知が、無防備に眠る俺の姿を捉える。
機械的な照準が、俺の眉間に定められた。
『ターゲット確認。排除シマス』
ドローンが凶悪なニードルガンを展開した、その瞬間。
「──お客様」
絶対零度の声が響いた。
「当館では、騒音および他のお客様への迷惑行為は固くお断りしております」
パキィッ!
ドローンの周囲の空間が、一瞬にして凍結した。
雪女だ。
彼女は俺の寝顔を見つめる優しい表情とは裏腹に、空の敵には氷の魔女そのものの冷徹な視線を向けていた。
『エラ……ー……機体……凍結……』
ドローンは身動き一つ取れず、空中で氷の彫像と化した。
そこへ。
「へっ、氷漬けの刺身か。悪くねぇな」
つむじ風と共に現れたのは、鎌を持ったイタチの妖怪──カマイタチだ。
彼は片手に湯上がりの牛乳を、もう片方の手で鎌を一閃させた。
「一丁上がりッ!」
ザンッ!
氷像となったドローンは、音もなく微塵切りにされ、キラキラと輝く氷の粉となって夜風に消えた。
完璧な連携。
そして、完全な静音処理。
「ふぅ……。危うく旦那様の安眠を妨げるところでしたわ」
「まったくだ。社長は起こされると『うるさい』って機嫌損ねちまうタイプだからな」
雪女とカマイタチは、何事もなかったかのように頷き合った。
そして雪女は、再びトロトロの笑顔に戻り、眠る俺の頭を膝に乗せようと──したところで、ピタリと動きを止めた。
青い狐火が、牽制するように彼女の目の前で揺らめいたからだ。
「……何のつもりかしら、人事部長様」
「勘違いするな、氷女」
タマモが、腕を組みながら近づいてくる。
その表情に、先ほどまでの険しい殺気はない。あるのは、厳格な評価の眼差しだ。
「……我が君の安眠を、音もなく守りきった手腕だけは褒めてやろう」
「あら、素直じゃないこと」
「フン。だが、膝枕の許可までは出していない」
二人の大妖怪は、顔を見合わせて小さく笑った。
かつての敵同士が、主君を守るという一点において、奇妙な共犯関係を結んだ瞬間だった。
「おやすみなさいませ、我が君」
「いい夢を、旦那様」
満天の星空の下。
最強の護衛たちに見守られながら、俺は幸せな夢の中にいた。
***
「……んあ?」
俺が目を覚ましたのは、一時間後だった。
なんだかすごくスッキリした気分だ。夢の中で、キラキラした雪が降るのを見た気がする。
「お目覚めですか、我が君」
「いい夢は見られましたか?」
タマモと雪女が、左右から覗き込んでくる。
なぜか二人とも、妙に晴れやかな顔をしている。
あれ? さっきまで喧嘩してなかったか?
「……まあいいか。いい湯だった」
俺は起き上がり、伸びをした。
帰りの車内で食べた温泉饅頭は、格別に美味かった。




