第7話 弊社、労働安全衛生法を遵守
地下というのは、労働環境として最悪の部類に入る。
閉塞感、湿気、そして換気の悪さ。かつての職場(ブラック企業)の地下倉庫での在庫整理を思い出して、俺は憂鬱な溜息をついた。
「……で、なんで俺がこんな所に来なきゃならないんだ」
場所は、東京の地下鉄廃坑道。
その奥深くに、銀河帝国軍たちが新たな拠点を築いたという報告が入ったのは、昼寝をしようとした矢先だった。
「仕方ありません。現場の者たちが『これ以上は進めない』と泣きついてきたのですから」
隣を歩くタマモが、ハンカチで鼻を覆いながら言った。
彼女の言う通り、坑道の奥からは異様な紫色の霧が漂ってきている。
敵は、この地下空間で巨大な植物兵器を育成しているらしい。
地球の霊脈を根こそぎ吸い上げ、地上へ胞子を撒き散らす対妖怪に特化した最悪の生物兵器のようだ。
「我らの『防御結界』は、攻撃は弾きますが、敵意のない自然界の物質──つまり空気や水は素通りさせてしまいます」
「……なるほど。防弾チョッキで銃弾は防げても、ガスは防げないからな」
妖怪とて呼吸はする。現世に実体化している以上、空気を取り込まねばならない。
霊的な守りをどれだけ固めても、そこに含まれる物質までは選別できない。幽霊に物理攻撃は通じないが、ファブリーズは効くのと同じ原理だ。
いやらしい手を使う。
「あら……。せっかく新調した着物が、この湿気で台無しですわ」
その時、霧の向こうから落ち着いた、それでいて芯の通った声が聞こえた。
現れたのは、一人の女性と、彼女に従う巨大な蜘蛛の群れ──土蜘蛛部隊だった。
女性は、蜘蛛の巣を模した意匠の和装を淑やかに着こなし、指先を顎に添えてこちらを見つめている。
背中から伸びる八本の漆黒の脚が、獲物を定めるように静かに蠢いた。
女郎蜘蛛のオリエ。
男を誘惑し、絡め取り、喰らう。危険な美女妖怪だ。
「ふふ、お久しぶりですわ、社長」
俺の姿を認めるなり、彼女は蜘蛛の脚で音もなく天井を伝い、俺の目の前へと降り立った。
そして、流れるような動作で俺の腕に手を添えてくる。
「私に会いに来てくださったのでしょう? 嬉しいですわ」
「……少し近い」
柔らかな感触と共に、神経を麻痺させるような、甘く危険な香りが鼻を突く。
彼女は俺の胸板に白皙の指を這わせ、慈しむような、それでいて冷酷な光を宿した瞳で見つめてきた。
「ずっと社長のことが気になっていましたの。ねえ、この件が片付いたら、私の巣でゆっくりとお話ししませんこと?」
──バチヂヂヂッ!
女郎蜘蛛の背後の空間が、青白い狐火で焼き尽くされた。
凍りつくような殺気。
タマモは聖母のような完璧な笑顔を張り付けたままだが、額には青筋が浮かび、背後の九本の尾は怒りで逆立っている。
「……おい、害虫女」
絶対零度の声。
タマモは、ゴミを見るような目で女郎蜘蛛を見下ろした。
「分際をわきまえろ、下郎。……我が君は、貴様ごときが触れて良いお方ではない。その節操のない脚、一本ずつもいで串焼きにしてやろうか?」
「あら、怖い。人事部長様は、少々独占欲が強すぎるのではありません?」
オリエは余裕を崩さず、むしろ挑発するように俺への密着度を高めた。
「でも、社長は組織の長。特定の誰かの所有物ではありませんわよね?」
俺を挟んで、美女二人の火花が散る。
物理的にも狐火と毒糸が飛び交いそうだ。
やめてくれ。俺は平穏が欲しいだけだ。
「……いいから、仕事しろ」
俺は二人を引き剥がし、紫色の霧が充満する坑道を見据えた。
奥に見えるのは、不気味に脈動する巨大な蕾。あれがバイオプラントか。
「ゲホッ……こりゃひどいな」
少し吸い込んだだけで喉が焼けるようだ。
「労働安全衛生法違反だ」
「えっ?」
「我々は職場における労働者の安全と健康を確保し、快適な職場環境の形成を目指さねばならん」
俺は懐から一枚の和紙で作った形代を取り出した。
穢れを祓うのは陰陽術の基本。造作もない。
「職場環境の改善は、雇用主の義務だからな」
俺は形代を霧の中へ放り投げる。
「──『清浄なること風の如く。遍く塵芥を浄化せよ』」
「急急如律令。──散!」
言葉と共に、形代が強烈な白光を放った。
光は衝撃波となって坑道を駆け抜ける。
──シュウウウウウッ……。
化学反応を中和する音が響く。
充満していた紫色の毒ガスが、瞬く間に透明な空気へと置換されていく。
有害物質の分解、無害化、そして除菌消臭。
陰陽道式・超高性能空気清浄システムの発動だ。
「な、なんと……!」
タマモが驚愕に目を見開く。
「空気中の分子構造そのものを書き換えたというのですか。これこそ、真に理を極めた御業……!」
「素晴らしいわ……。あれほど濃かった毒を、一瞬で消し去ってしまうなんて」
オリエが恍惚とした表情で俺を見た。
毒が消えれば、こっちのものだ。
俺は背後に控える土蜘蛛たちに顎で合図した。
「環境は整えた。あとはお前たちの仕事だ」
「アイアイサー! 社長!」
オリエの表情が、一瞬で戦士のそれに切り替わった。
「さあ、お掃除の時間ですわ。一人残らず、網に沈めてあげなさい」
──ギシャアアアアアッ!
彼女の号令と共に、無数の土蜘蛛たちが壁や天井を縦横無尽に駆け、雪崩のように突撃を開始した。
頼みの綱であった毒ガスを失い、銀河帝国軍の兵士たちはパニックに陥る。
「ヒッ、毒の防壁が無効化されただと!?」
「来るな! うわあああ!」
あとは一方的な蹂躙だった。
土蜘蛛の糸が敵を捕縛し、女郎蜘蛛の鋭い脚がバイオプラントの茎を容赦なく切断していく。
「ふふ……いい悲鳴ですわ。もっと聞かせてくださいな」
戦場を舞う女郎蜘蛛は、美しくも残酷な処刑人のようだった。
これで地下の脅威は排除されただろう。
俺は埃っぽい空気を手で払い、出口へと踵を返した。
「……帰って、風呂に入りたい」
しかし、背後からは依然として熱を帯びた視線が二つ、俺を射抜いている。
「あ、待ってください我が君! お背中をお流しするのは私の役目です!」
「あら、抜け駆けは感心しませんわね。私が丁寧に洗って差し上げますわ」
……前言撤回。
俺の心休まる時間は、当分訪れそうにない。




