第1話 限界と封印、それから誤算
限界というのは、ゴム紐のようなものだ。
引っ張られれば伸びるし、ある程度までは耐えられる。だが、一度伸び切ってしまえば弾力を失い、さらに力を加えれば──プツン、と切れる。
俺、安倍零祇の精神は、まさにその切れる寸前のゴム紐だった。
場所は日本の山間部、携帯の電波も怪しいド田舎にある祖母の家。
縁側に腰を下ろし、焦点の合わない目で庭を眺める。
視界には豊かな新緑や風に揺れる木々が入り込んでいるはずだが、今の俺の脳がそれらを認識することはない。
思考を占拠しているのは、コンクリートに囲まれた街の閉塞感と、耳の奥にこびりついて離れない上司の怒声だ。
『おい安倍ェ! この企画書、なんだこのゴミは!』
『お前みたいな能無し、雇ってやってるだけ感謝しろよ』
『嫌なら辞めろ。ただし、業界にいられなくしてやるがな』
それは鈍い頭痛と共に、何度も、何度もリフレインする。
首を締め付ける安物のネクタイは、まるで外すことの許されない首輪のようだった。
不意に、呼吸の仕方を忘れたような感覚に陥り、俺は浅い息を吐き出した。
ブラック企業。
その言葉すら生ぬるい、漆黒の環境だった。連日のサービス残業、休日出勤は当たり前。上司からの人格否定とパワハラは日常茶飯事。睡眠時間は削られ、食事はコンビニのおにぎりを流し込むだけ。
それでも、生きるためには働かなければならないと、歯を食いしばって耐えてきた。
だが、通勤電車で吐き気を催し、気づけば俺は会社と逆方向の新幹線に乗っていた。逃避だ。無計画で無責任な、大人のすることではない逃亡劇。
そうして辿り着いたのが、数年前から空き家となっている亡くなった祖母の家だったわけだが──。
到着早々、俺は逃げ込んだ罪悪感をごまかすように立ち上がり、仏間の奥へと向かった。埃を被った仏壇に手を合わせる。
脳裏に浮かぶのは、優しかった亡き祖母の顔だ。そういえば生前、祖母から胡散臭い家系図を見せられたことがある。なんでも、ウチのご先祖様は陰陽師として万人の役に立った立派な人物だったらしい。
「すみません、末代がこんなので」
先祖代々の位牌に、俺は自嘲気味に謝罪の言葉をかけた。立派な先祖に比べて、末裔の俺は会社から逃げ出した負け犬だ。合わせる顔がないとはこのことだろう。
ふと、子供の頃の記憶が蘇る。祖母から厳しく言い聞かせられていた場所があるのだ。仏壇のさらに奥、隠し扉の向こうにある床下収納だ。
『いいかい零祇。あそこにある桐箱だけは、絶対に開けてはならないよ。あれには、ご先祖様が封じた恐ろしいモノが入っているんだからね』
当時はただの迷信だと思っていた。だが、今の俺には、その「禁忌」が妙に魅力的に映った。
俺は隠し扉を開け、埃っぽい床下から、古びた桐箱を引きずり出す。蓋を開ける。中には、禍々しいオーラを放つ一本の巻物が鎮座していた。
恐る恐る手に取ると、雷が落ちたかのような衝撃と共に、情報の濁流が脳内に流れ込んでくる。
(……我、ここに百の妖を封ず。此れなるは災厄の具現。この封印、解き放たずば、空は闇に覆われ、地は裂け、人の世は終焉を迎えるであろう……)
それは、偉大なる先祖が積み上げた血と汗の結晶だった。生涯をかけた陰陽術の奥義。命を削って封印した、百の大妖怪の真名。
いらない。受け取りたくない。
俺は心底拒絶したが、意思とは無関係に継承の儀は執行される。まるで焼けた鉄を流し込まれるように、膨大な情報が脳内へ強制的にインストールされていく。
ブブブブブブブ……。
その時、ポケットの中で、スマホが不吉な振動を繰り返した。画面を見なくてもわかる。部長だ。
無視すればいい。電源を切ればいい。わかっているのに、長年染み付いた社畜の条件反射が、震える指で通話ボタンを押させてしまった。
『あ、もしもし……』
『おいコラ安倍ェェェッ!! 貴様、今どこにいる! 無断欠勤だぞ、あぁ!?』
耳をつんざくような怒声。鼓膜が痛い。
『す、すみません、体調が……』
『甘えんな! 這ってでも出てこい! 今抱えてる案件どうすんだ! 損害賠償請求すんぞ! この役立たずの穀潰しが! テメェの代わりなんざ掃いて捨てるほどいるんだよ! 今すぐ戻って俺の靴でも舐めて詫びろ!!』
プツン。
音が、した。俺の中で、何かが決定的に切れる音。
「……あー」
俺の口から漏れたのは、ひどく間の抜けた声だった。恐怖も、焦燥も、申し訳なさも、一瞬で消え失せた。後に残ったのは、底のない虚無と、奇妙なほど透き通った諦観。
そうか。俺の代わりは、いくらでもいるのか。なら、俺がいなくても世界は回る。いや、こんなクソみたいな世界、回らなくなっても誰も困らないんじゃないか?
俺はスマホを庭の池に向かって放り投げた。ポチャン、という軽い水音と共に、現代社会との繋がりが沈んでいく。
「よし、人類滅ぼそう」
思考は驚くほどスムーズだった。手にしている巻物には封印の札が貼られているが、そんなものはビリビリと破り捨てた。すると、まるで意志を持っているかのように、勝手に巻物が展開する。
書かれているのは、ミミズがのたうち回ったような達筆な漢字。現代人には読めるはずのない文字の羅列だ。しかし、俺には全てがわかった。
ビンゴだ。これを解放すれば、大妖怪が全て出てきて世界が終わる。
会社に行かなくて済む。上司の顔を見なくて済む。明日への恐怖も、将来への絶望も、奨学金返済も、老後の不安も、全部チャラにできる。まあ、なんて素晴らしい解決策。
「天の戒めは堕ち、地の縛りは解かれた」
「我、禁忌を犯す者なり。──全ての封は灰燼と帰せ」
俺は巻物を掲げ、脳内に浮かんだ言葉を朗々と宣言した。詠唱の作法など知らない。ただ、全身全霊の『世界なんてどうでもいい』という想いを込めた。
「出てこい、百の大妖怪たち。もう全部、全部、無茶苦茶にしてくれ」
「急急如律令。──解!」
瞬間。世界が反転した。
ドォォォォォォォォン!!
爆音と共に、庭から黒い奔流が噴き上がる。昼天の太陽は瞬く間にどす黒き雲に覆われ、世界は深夜のような闇に沈む。気温が急激に下がる。肌を刺すような重圧。
闇の中から、異形の影が次々と実体化していく。天を衝くほど巨大な翼を持つ大天狗。二つの顔と四本の腕を持つ鬼神、両面宿儺。妖艶な紫煙を纏う九尾の狐。巨大な蜘蛛、雪女、大きなガイコツ、百の異形の群れが、ばあちゃんちの庭──いや、上空を含めた一帯を埋め尽くした。
「オオオオオオッ!」
「解き放たれた! 千年の檻が破られたぞ!」
「美味そうな匂いがする。久しぶりの現世だ! ヒヒヒヒ!」
妖怪たちの歓喜の咆哮が、大気を震わせる。
いいぞ。その調子だ。まずは手始めに東京のオフィス街を更地にしてくれ。特に千代田区にある弊社のビルを重点的に頼む。
そう願った、まさにその時だった。
──キュイイイイイイイイイン!!
妖怪たちの咆哮を掻き消すように、頭上から甲高い機械音が降り注いだ。見上げれば、黒雲を裂いて、無数の幾何学的な飛行物体が出現している。
円盤型、葉巻型、三角錐型。SF映画でしか見たことのないような大艦隊が、空を埋め尽くしていた。
『地球人ニ告グ。我ラハ銀河帝国第七艦隊隷下、第三威力偵察隊デアル』
空全体に響き渡る、無機質な合成音声。
『コノ星ハ帝国ノ管理下ニ置カレル。タダチニ降伏セヨ。サモナクバ──』
そこで音声が途切れた。直後、不快な警告音が鳴り響く。
『──ピピッ。直下ニ高エネルギー反応ヲ検知。先住民ガ、生物兵器ヲ起動シタ模様』
……は?
俺は口を開けたまま固まった。生物兵器? もしかして、今俺が解き放った妖怪たちのことか?
『抵抗スル意志アリト見ナス。──見セシメダ。マズハ其処カラ消滅サセル』
おい待て、話を聞け。俺はちょこっと世界を滅ぼそうとしただけだ。お前らに喧嘩を売ったわけじゃない。
だが、そんな言い訳が通じる相手ではなかった。宇宙艦隊から、雨のようなレーザー光線が一斉に発射されたのだ。標的は無差別ではない。ピンポイントで、ばあちゃんちの庭だ。
「……あ、死んだ」
俺がそう思うより早く、眼前の景色が動いた。
「おのれェェェッ! 痴れ者がァアアアッ!」
激昂した大天狗が、俺の前に立ちはだかる。彼が手にした巨大な葉団扇を一閃すると、物理法則を無視した暴風が発生した。それは見えない壁となり、降り注ぐ高出力レーザーをすべて弾き返したのだ。
「なっ……!?」
驚く俺をよそに、大天狗は振り返り、地面に膝をついた。
「申し訳ありませぬ、我が主よ! 目覚めの瞬間に、このような無粋な鉄屑どもの妨害が入るとは! ですがご安心を、この大天狗、命に代えても主をお守りいたします!」
主? 俺のことか。まあ、封印を解いたのは俺だが。
「集え、同胞! 主の元へ!」
両面宿儺が声を上げると、百鬼夜行の全戦力が俺を守る壁の如く周囲に結集した。彼らは一様に、空の侵略者へ向けて凄まじい殺気を放っている。
「主に刃を向けた不届き者には死を!」
「我が君の土地を穢すとは許しがたい!」
妖怪たちは完全に「主君を守る忠義の軍団」という顔をしていた。
待て待て、話が違う。俺は世界を滅ぼすために君たちを呼んだのだ。正義の味方ごっこをするつもりはない。それに、俺を守る必要なんてない。俺はもう、何もかもどうでもいいんだから。
「……守るな」
俺は低い声で言った。それは、投げやりな拒絶だった。だが、俺の言葉を聞いた妖怪たちは、ピタリと動きを止めた。
「守るな、と……?」
大天狗が目を見開く。
「そうだ。何も守らなくていい。滅ぼせ」
俺は吐き捨てるように言った。俺の意図はこうだ。「俺なんて守ってる暇があったら、あの宇宙船ごと世界を滅ぼしてくれ。ついでに弊社も破壊してきてくれ」。
しかし、妖怪たちの受け取り方は違ったようだった。彼らの瞳に、狂信的な光が宿る。
「おお……なんと……!」
大天狗が震える声で感嘆した。
「『命を惜しむな、名を惜しめ』と仰るか! 保身のための防御など捨て、その身が砕け散ろうとも百鬼夜行の武威を示せとのご下命! これぞ覇者の器!」
「は?」
「行くぞ! 野郎共!!」
両面宿儺が四本の腕を振り上げ、雷鳴のような声で叫ぶ。
「主は防御を望まぬ! 我らに求められたのは圧倒的な蹂躙のみ! あの空に浮かぶ鉄屑を、
一片残らず消し去れェェェッ!!」
『ウオオオオオオオオオッ!!』
百の怪異が、爆発的な加速で空へと駆け上がっていく。
それはまさに、悪夢のパレードだった。科学文明の粋を集めた銀河帝国の艦隊に対し、理屈の通じないオカルトパワーが襲いかかる。
エネルギーシールド? ぬらりひょんが「無効」と言えば消えた。
超硬度装甲? カマイタチの刃が豆腐のように切り裂いた。
誘導ミサイル? 雪女の吐息で一瞬にして氷像となり、落下した。
空で次々と爆発の花火が上がる。
圧倒的じゃないか、我が軍は。
人類では手も足も出ないであろう宇宙侵略軍が、スクラップの山へと変わっていく。
俺は縁側にへたり込んだまま、その光景をぼんやりと眺めていた。
「徒花と散ろうとも、その武名を刻め! 守りは不要! 敵を滅ぼせェェェッ!!」
ある者は音速を超えて東京方面へ、ある者は影に溶け込んで大阪へ、またある者は雷となって北海道へ。
ズガガガガガガッ!!
ドォォォォォォン!!
日本各地の空で、次々と爆発の花火が上がる。東の空も、西の空も、侵略者の艦隊が次々と火球に変わっていく。
『み、見てください! 信じられません! 日本各地の上空で、謎の黒い軍団が侵略者を撃退していきます!』
ニュースキャスターが、興奮で声を裏返しながら叫ぶ。
『あれは……妖怪でしょうか!? 彼らが、一斉に日本中を駆け巡り、私たち人類を守ってくれているのです!』
……どうしてこうなった。俺はただ、会社に行きたくなくて、世界をリセットしたかっただけなのに。
数時間もしないうちに、上空での戦闘が終わり、妖怪たちが戻ってきた。マッハで日本中を掃除してきた彼らは、血とオイルに塗れた姿で、誇らしげに俺の前に整列し、一斉に平伏する。
「主よ! 日本全土の敵、掃討完了しましたぞ!」
「さあ、次はどこを攻めますか! ご命令を!」
キラキラした目で俺を見上げる百の大妖怪たち。俺は深く、深くため息をついた。
「……もう贅沢は言わない」
俺は虚空に向かって呟いた。
「三日でいい。とにかく三日でいいから、休みをくれませんか……」
こうして。少し休みたかっただけの限界社畜が、なぜか百鬼夜行の盟主として人類を救う羽目になる物語が幕を開けたのだった。
最後までお読みいただきありがとうございます!
本作は全20話で完結いたします。すでに4月2日の最終回まで予約投稿済みです。
少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
下の「☆」での評価や、ブックマーク登録をいただけると執筆の励みになります!
よろしくお願いします。




