第5章: 怒れる母。
私たちの正面、車椅子に座っていたのはフェイトの母だった。
白い紙の上に落ちた黒い染みのように、彼女はその莫大な魔力で私たちの視界を覆い尽くしていた。
その瞬間、慌てたリチャードが叫んだ。
「――彼女から離れろ!!」
彼女の侍女はわずかに肩を震わせてから答えた。
「――動揺されていましたし、ルアー様から監視するよう言われておりますので、このままお連れします……」
だが、彼女が後ずさった瞬間、魔法の効果が発動し、フェイトの母は彼女を敵と認識した。
メイドは床に倒れ、涙を浮かべながら叫んだ。
「どうしたの……? 私、死ぬの!? いや……いや、死にたくない!」
私は攻撃するつもりはなかった。
だが、イェル部隊の面々は合図を待たなかった。
部隊の暗殺者が、彼女に向かって毒の杭を放った。
殺すつもりではない、ただ眠らせるだけだと分かっていた……彼女が怖がる前に――
パキン
「――えっ!?」
私は思わず声を上げた。
一瞬、剣がその投射物に衝突したように見えた。
実際、毒の杭は地面に転がっていた。
だが何より……彼女の手が激しく震えていた。
同時に、天井から瓦礫が落ちてくるのが見えた。
顔を上げた瞬間、疑念は確信へと変わる。
異様な剣が、天井に突き刺さっていた。
刃は刀に似ているが、異様に分厚く、鍔も同様だった。
柄はシミターを思わせる形状をしている。
「どうやって……」
「……ふふ」
彼女はそう笑い、フェイトに向かって手を伸ばした。
彼女は車椅子からさえ転げ落ちた。
その時、私は理解した。
こんな状況で彼を生かし続けた、その覚悟と意志の強さを。
私たちの前で、彼女はすべての意志を一つの最後の攻撃へと集中させていた――
我が子を守るために。
「……見事だ」
私は目を逸らすことができなかった。
立ち上がった。
私は彼女の敵ではない。なりたくもない。
むしろ、この女性の覚悟に敬意を表したかった。
“尊敬”という言葉でさえ、生温いほどの想いだった。
立ち上がった彼女と視線が交わる。
私はその視線を受け止め、リチャードの方へ向き直った。
一歩進むごとに、彼女の魔力はさらに強まる。
軽率な行動をするな、という警告のように。
フェイトのそばに着くと、私は膝を強く床についた。
少年は安らかに眠っていた。おそらく睡眠魔法の影響だろう。
私はリチャードを見て言った。
「……この子を、母親のもとへ返そう」
怒りの魔術師リチャードは、何も言わずに少年を手放した。
私は彼を抱き上げた――その瞬間、重さが三倍になった。
まるで自分の体ほどもある岩を十個乗せられたかのように、押し潰される。
「――甘く見るな……っ、うおおおお!!」
私は歯を食いしばり、全身の筋肉を限界まで使って立ち上がった。
立った頃には、体の感覚がほとんど残っていなかった。
それでも、少年の母へと歩み寄る。
かつて彼らを救った日のことを思い出す。
あの時も、私の体は同じくらい無残な状態だった。
どうやら私は、何一つ学ばないらしい。
彼女の前で膝をつき、
私たちを照らす日蝕の光の下、私は子どもを差し出した。
彼女はフェイトの服に手を置いた。
――もう二度と、離さない。
そう語っているかのように。
その決意……私はただ、称えることしかできなかった。
「私はあなたの敵じゃない。だから……お願い、魔法を解いて」
一瞬で、すべてが止まった。
日蝕は消え、昼の光はゆっくりと黄昏へと移ろう。
けれど私は悟っていた。
――やってしまった、と。
体中から血が流れ、
そして、いつものように……私は意識を失った。
気を失う直前、
女性の声が、静かに囁いた。
「……ありがとう」
*
**
私は、まだ子どもだった頃のことを思い出していた。
麦畑を吹き抜ける風があまりにも強く、その勢いに息が詰まりそうになるほどだった時代。
それでも、私の目の前で母は、まるで魔法のような手際で麦の芽を刈り取っていた。
当時、私たち“異形”は、今ほど世界から忌避されてはいなかった。
必ずしも人間の姿をしている必要もなかったのだ。
二週間という濃密な時間をかけ、子どもから大人まで八人が集まり、
私たちは共同体として、一つの目的のために働いていた――
最も厳しい冬を迎える準備のために。
私はふと顔を上げた。
霧深き大地の空は、いつものように鈍い灰色に覆われていた。
この季節になると、突然の雨が叩きつけることがある。
だが、寒さはさほどでもない。
むしろ、屋外で作業するには理想的な気温だった。
「ラプラス、あなた。手伝ってくれる?」
母が声をかけてきた。
あの頃、私は主に母と二人で暮らしていた。
父は学園で働いていたのだ。
「うん!!」
私は両手を口元に添え、声を大きくしようとして返事をした。
母のもとへ駆け出した、その時――
遠くに、一つの人影が目に留まった。
銅製のトランクを携え、修道女の服を身にまとった女性。
彼女は複数の子どもを連れ、こちらへ歩いてきていた。
私は五歳だった。
彼女と一緒にいる子どもたちは、皆私より年上だ。
それに、私は元々、他人と関わるのが好きではなかった。
視線を逸らし、再び母のもとへ向かう。
すると、母がもう一度、私を呼んだ。
「ラプラス!!」
「今行くよ。」
背後では、その修道女が私を見つめ、わずかに目を細めていた。
畑に入ると、母が差し出した鎌を受け取った。
手にしたその瞬間――
身をかがめる間もなく、女性の声が私たちを呼び止めた。
「――ユキ!」
その頃、まだ人間だった母は顔を上げた。
呼びかけた相手の姿を認めると、表情がぱっと明るくなる。
彼女は手を拭い、転ばぬように裾を軽く持ち上げながら、声の主のもとへ向かった。
私は鎌を手に振り返り、
小高い丘の上に立つ修道女と子どもたちの姿を目にした。
修道女は畑に群がる鼠を追い払おうとしており、
やがてそれを成し遂げた後、母と話し始めた。
――次の瞬間。
理由も分からぬまま、母が地面に崩れ落ちた。
修道女はすぐにしゃがみ込み、母の肩に手を置いた。
私は慌てて駆け寄る。
二人のそばに辿り着き、私も膝をつき、
母に大丈夫かと声をかけた。
畑にいた他の人々は、作業を止め、
沈黙のまま私たちを見守っていた。
「この子が、あなたの息子?」
修道女が尋ねた。
「はい。私たちの、たった一人の息子です。」
彼女は私へ向き直り、ためらうことなく告げた。
「伝えなければならないことがあります。」
「……はい。」
「あなたのお父様のことです。
先月、亡くなりました。」
私は口をわずかに開き、そして閉じた。
正直に言えば、父のことをほとんど知らなかった。
それでも、その知らせは胸を強く締めつけた。
腹の奥が捻れるように痛み、
母と同じように、やがて涙が溢れ出した。
母は私にしがみつき、
私は倒れないよう、自分の服を強く握りしめていた。
その夜、修道女は私たちの家に泊まった。
そして――
その日こそが、私がクリークと出会った日でもあった。
*
**
私は重たげに目を開いた。
胃のあたりに、ずしりとした重みを感じる。
体を起こそうとして、驚いた。フェイトが私の腹の上で眠っていたのだ。
私たちは、見覚えのない部屋にいた。
白い大理石でできた壁には、数多くの収集絵画が飾られている。
警戒すべきか迷ったが、フェイトの母がそこにいた――車椅子に座って。
おそらく私の体質のせいだろう、隠蔽の魔法はすでに解けていた。
「……おはよう」
どう声をかければいいのか分からず、つい素っ気なく言ってしまった。
彼女は視線を扉の方へ向けた。
扉が開き、翼を持つ女性が入ってくる。
彼女は、フェイトが私の上にいるのを見て、呆れたように言った。
「まったく、この悪戯っ子。
また彼の上で何をしているの?」
フェイトは勢いよく顔を上げ、私が目を覚ましたことに気づいた。
「おじいちゃん、起きたんだ! ねえねえ、聞いて、聞いて!」
私は微笑み、彼の頭に手を置いて、そっと胸元へ引き寄せた。
フェイトはすぐに身を寄せてきた。
……温かい。
いつの間にか、忘れていた温もりだった。
部屋に入ってきたルアーは、私のベッドのそばの椅子に腰を下ろした。
「体調はいかがですか?」
不思議なほど落ち着いた声で、彼女は尋ねた。
「ええ。まったく問題ありません。
むしろ、それが怖いくらいです。どれほど眠っていたんですか?」
「二日です。
治療をしたのはキール。
縞模様の髪をした、あの小さな女の子です。」
記憶を辿り、あの気の抜けた服装を思い出す。
「ああ……覚えています。
とても見事な治療でした。」
「実を言うと……
あの日、あなたは確かに一度、死んでいます。
彼女は、禁術を使わざるを得ませんでした。」
私は視線を上げた。
「……それはつまり、
私は化け物になった、ということですか?」
そう言って彼女を見ると、
ルアーは突然頬を膨らませ、首を左右に振った。
「いいえ。まったく違います。
完全な誤解です。」
「……えっ!?」
私は思わず声を上げた。
通常、この種の術の代償は、
少なくとも魂を失うことが多い。
「……信じられない。」
彼らの部隊は、ある意味で全員が“怪物”だった。
だからこそ、あの巨大な嵐に囲まれているのだろう。
どの国家にも、干渉させないために。
もし彼らが戦争に参加し、どこかの陣営についたなら……
クリークがいたとしても、
私たちに彼らを止めることなど、考えることすらできなかっただろう。
――いや、もしかすると……
私は顔を上げ、フェイトの母を見た。
フェイトは彼女のもとへ駆け寄り、腕の中に飛び込む。
彼女は、あの衝突の時よりも、どこか生き生きとして見えた。
彼女は一瞬こちらを見て、視線が交わると、すぐに逸らした。
私は少し驚いたが、深く考えないことにした。
「――サー・ラプラス。」
「……サー?」
「お尋ねしたいことがあります。
もし不躾でしたら、どうかお許しください。」
私は彼女を見つめ、軽く頷いた。
「ありがとうございます。
あなたと、魔女クリークとの関係について――
そして、どのようにして彼女と知り合ったのかを、お聞きしたいのです。」
「……」
正直に言えば、
私は何も話すべきではなかった。
だが、あれほどの出来事の後だ。
リチャードとクリークは、すでに話をしているはずだ。
特にフェイトのことについては……
きっと、すべて整理されている。
「ああ……そうですね。」
「――!!」
「私が子どもの頃、
まだ霧の大地で暮らしていました。
ある夏の日、クリークが私たちの村にやって来て――
母と私に、父が亡くなったことを告げたのです。」
*
**
夏の嵐が建物の外で唸りを上げていた。
風が窓ガラスを叩きつける中、母は夕食の支度をしていた。
テーブルの上には、すでに開けられた一本のワインボトル。
三本の頼りない蝋燭に照らされた室内は、
父の死という知らせに押し潰され、重く張り詰めた空気に満ちていた。
私たちはまだ、本題に踏み込んでいなかった。
――父の死、そして、その先に待つものについて。
「クリーク……正直に答えて」
「私が、あなたに嘘をついたことがある?」
母は、首を横に振った。
「……ラプラスに影響はあるの?」
「甚大よ。あなたにもね。
明日の朝一番で、荷物をまとめて、私について来てもらうわ」
その言葉に、私は顔を上げた。
私を見つめ続ける修道女――クリーク。
そして、動きを止めたままの母。
「……戦争が、始まったの?」
「……」
「クリーク?」
彼女は額に手を当てた。
「……どうにか避けようとした。でも、ミライが完全に正気を失ったの。
全部を混同して……大混乱の中で、一本の剣を投げた。それが――」
そこで言葉を切った。
母はエプロンで手を拭き、
そっとクリークの肩に手を置いた。
「それ以上はいいわ。
この子の記憶は、まだ幼すぎるもの」
母は、どんな時でも優しかった。
すべてが崩れかけていても、あの微笑みだけは変わらなかった。
「ユキ……ごめんなさい。
必ず仇は取るわ。
あのクソ蛇女に、私の砲身の味を教えてやる!」
……けれど。
彼女がどれほど怒っているかは、誰の目にも明らかだった。
「……ええ。
ぜひ、苦しませてあげて」
母は、変わらぬ笑顔でそう答えた。
私たちは全員、テーブルを囲んで腰を下ろした。
母が鍋を置く。
そして、取り分けようとした――その瞬間。
外が、燃え盛るような光に包まれた。
クリークが跳ね起きる。
「もう来た!?」
「……軍が、もう?」
母が問い返す。
「急いで服を用意して!
山へ逃げるわ!」
一瞬で、母は衣服を掴み、
壁に掛けられていた剣を外した。
――私が一度も、そこから動くのを見たことのない剣。
「……錆びてなきゃいいけど」
私たちは扉へ向かい、外へ飛び出した。
遠くでは、炎が村を喰らい尽くしていた。
だが、私たちはすでに森の奥、斜面を下った先にいた。
追ってくるのは、避けられない。
選択肢も、ほとんど残されていなかった。
霧の地へ向かうか、
山へ入るか――だが、それは再び村を横切ることを意味する。
「……クソッ!!」
クリークは拳を握り締め、
掌から血が滴り落ちた。
「選択肢はない。
霧の地へ向かうしかないわ」
「賛成よ。
学園へ行くにも、その方が近いわね」
母が続けた。
私は、そっと母の服を引いた。
「……ねえ、ママ。
どうして、この人たちは村を襲うの?」
燃え盛る炎の中で、
母の視線が、まっすぐ私を捉えた。
彼女は私を強く抱きしめてから、答えた。
「……あなたに危害を加えようとする人たちがいるの。
でもね、ママの目的はただ一つ。
あなたを、絶対に守ること」
「……信じてくれる?」
「……うん」
その時、クリークが私たちの前に立った。
「悪いけど、家族団らんはここまで。
――お客さんよ」
重武装した兵士たちの一団が、こちらへ進んでくる。
私たちは横一列に並び、迫り来るものを見据えた。
……四十人近い兵が、一直線に突っ込んでくる。
クリークは笑った。
彼女にとって、それは復讐の時。
――不思議なことに、母にとっても同じだった。
母は一歩前に出て、剣を抜いた。
刃は、今なお完璧な状態。
まるで昔のまま、彼女の手に馴染んでいた。
「……昔みたいに、いく?」
母は微笑み、拳を差し出す。
クリークも笑い、拳を打ち合わせた。
「投降しろ!
そこの異常体を引き渡せ!」
守備隊長と思しき、巨体の男が怒鳴った。
母は前に出て、全身で叫び返した。
「――誰が渡すか!
私の子を渡すくらいなら、死んだ方がマシよ! クソジジイ!!」
「生意気な女め!
行け、野郎ども!!」
クリークが吹き出し、母の方を見た。
「いい啖呵じゃない」
「……まだ、鈍ってなかったわね」
最初の一団の兵士たちが、母へと襲いかかった。
だが彼女は、まるで舞姫のように、降り注ぐ攻撃を信じられないほど軽やかにかわしていく。
「うわああっ!」
最初の男が叫んだ。
「うるさい。舌を噛むわよ」
鋭い一閃。
彼の首は切り落とされ、転がって仲間たちの足元で止まった。
兵士たちは凍りついたようにそれを見つめる。
さすがに怯んだようだが――それでも、止まらなかった。
その時、背後から声が響いた。
「伏せて!」
母は即座に身を低くした。
彼女に斬りかかろうとしていた兵士の頭が、一瞬で弾け飛ぶ。
クリークの持つ、ライフリングの入った二連装の銃口から、まだ煙が立ち上っていた。
「反撃の時間よ」
彼女が銃を再装填する間に、
一人の兵士が彼女へ飛びかかる――悪くない判断だ。
だが、装填が終わると同時に、
彼女は銃を持ち上げ、その銃口を男の口へ突っ込んだ。
「――笑いなさい」
バンッ!
轟音と共に、男の頭が吹き飛び、
無残な音を立てて後方へ倒れた。
だが、敵の数は、見る間に増えていく。
母は状況の中でも冷静さを失わず、
兵士たちが我に返る前に振り返り、私をクリークの腕の中へ押し込んだ。
「聞いて。私が足止めする。
あなたたちは森に隠れなさい。すぐ追いつくから」
「ユキ……あなた、分かってるでしょ。
私は“それ”を使えるわ」
修道女が低く言った。
しかし、母は首を横に振った。
「……もう使わないって約束したでしょう。
せめて、私が死んでからにして。
あなたが壊れていく姿なんて、見たくない」
遠くで、隊長が兵士たちを怒鳴りつけていた。
何をしている、と。
「行きなさい。必ず追いつくわ」
彼女は、笑ってそう言った。
「……分かった」
クリークは小さく頷き、
私の腕を掴んで強引に引きずった。
でも、私は――
母が一人であの化け物たちと戦うなんて、受け入れられなかった。
「ママ!!」
「愛してるわ……私の狼」
彼女は最後に一度だけ振り返った。
確かな覚悟を宿した、あの穏やかな笑顔のまま。
私は、クリークに引かれながら、その場を離れていった。
――彼女の最後の記憶は、
これから自分が何を受けるのかを、すべて理解した上での、
あの静止した眼差しだ。
十分に距離を取った頃、
私たちは息が上がり、足を止めざるを得なくなった。
クリークは木にもたれかかり、荒く息を吐いた。
「……本気で、煙草やめなきゃね」
私は黙ったまま、それを聞き、
来た道の方へと振り返った。
「……どこへ行く気?」
「ママを……助ける」
「それだけの力が、あなたにあると思う?」
「……」
私は沈黙したまま、その場に立ち尽くした。
母を死なせるわけにはいかない。
失いたくない。
私には、彼女しかいなかった。
「……大丈夫」
一歩、前に出る。
その瞬間、クリークが飛びかかり、私の腕を掴んだ。
「やめなさい。
あなたはまだ、弱すぎる。
悔しいでしょうけど……それが現実よ」
私は俯き、打ちひしがれた。
「……じゃあ、あなたが何とかしてよ。
全員殺せるくらい、強いんでしょ?」
「……できない」
舌打ちして、私は勢いよく振り返った。
「どういう意味だよ、“できない”って!?」
彼女の視線が、深い沈黙へと沈んでいくのを見て、
私は言葉を失った。
「……あなたの両親に、約束したの。
生きている間は、あの力を使わないって」
「……じゃあ、僕が行く」
「やめて!!」
彼女は私に飛びつき、
確実な死へ向かおうとする私を、必死に押さえつけた。
私は歯を食いしばり、
そっと、彼女の腕に手を置いた。
「……失うわけには、いかない……。
せめて、君の力のほんの一欠片でもあれば……
そうすれば……そうすれば……」
声が、途中で途切れた。
言葉にならず、涙が溢れ落ちる。
燃え上がる炎が、森の頂を赤く染めていた。
その光景を、私はただ呆然と見つめていた。
あの夜、私は知った。
――生きるということが、どれほど過酷なのかを。
そして、誰にも口にはしなかったが……
私はきっと、後悔していたのだ。
力を持たなかった、自分自身を。
ルアーは、何も言わずに私を見つめていた。
一方、フェイトは母親のほうを見ている。
まだ幼すぎて、理解できないのだろう。
だが、彼女は違った。
視線を逸らすことはなかった。
「……その後、あなたのお母様はどうなったのですか?」
「……うーん。詳しいことまでは分からない。
ただ、クリークの話では――
彼女が戦場に辿り着いた時、敵は全員、死んでいたそうだ」
私は、言葉を切った。
「……母も、だ。
剣を地面に突き立てたまま、立っていたそうだ」
「……すごい……」
その反応に、思わず微笑んでしまった。
母の話を、誰かにするのは久しぶりだった。
すると、どこからか柔らかな旋律が耳に蘇る。
彼女のことを語ると、昔の記憶が目を覚ます。
よく晴れた日には、
母はいつも同じ旋律を口ずさんでいた。
――だが、それ以上言葉を続ける前に。
生気に満ち溢れた男が、扉を叩き壊す勢いで飛び込んできた。
「やあやあ、諸君! ご機嫌いかがかな!」
そう叫びながら現れたのは、ミールだった。
私は驚いて目を見開いた。
完全に、不意を突かれた。
何より面白かったのは、フェイトが即座に母親の背後に隠れたことだ。
「元気そうじゃないか、年寄り!」
「……“年寄り”だと?」
私は咳払いしつつ答えた。
「至って元気だよ」
「そりゃ結構!
ところでルアー、お前もいたのか?」
その軽薄さに、ルアーの苛立ちは明らかだった。
顔を上げ、鋭い視線を彼に突き刺す。
「最初からよ。
それより……まさか訓練をサボってるんじゃないでしょうね?」
「ん? 違う違う。
フェイトを探してるんだ。
ここにいなかった?」
あまりにも気楽な口調で、
ルアーの皮肉など、まるで効いていない様子だった。
彼は部屋を見回す。
その間、フェイトは母の車椅子の後ろに隠れていた。
……が、不運にも、尻尾がはみ出ていた。
「ああ、見つけた。
さあ来い。リチャード様がお待ちだ」
「待ちなさい」
フェイトを連れて行こうとした彼を、ルアーが止めた。
「フェイトを連れて行く理由は、訓練よね?」
そして、こちらを振り返る。
「説明しますね、サー・ラプラス」
「……“サー”?」
「リチャード様は、若きフェイトを大変気に入られました。
お二人ともドラゴンですから。
それで、彼が訓練を引き受けたのです」
私は、フェイトが上着の襟を掴まれ、
遠慮なく引きずられていく様子を見送った。
そして、ルアーへ視線を戻す。
「……少し早すぎないか?
まだ子どもだろう」
「どうぞ、ご一緒に。
ご自身の目で判断なさってください」
私は頭部を人間の姿へと戻し、立ち上がった。
フェイトの母へ目を向けると、
彼女は壁のほうへ視線を逸らしていた。
ルアーは、口元を翼で隠す。
「……その前に、
お召し物を整えられた方がよろしいかと」
彼女の頬は、わずかに赤みを帯びていた。
視線を落とすと、
私は何も身につけていなかった。
――体の一部に巻かれた包帯を除いては。
私は落ち着いたまま向きを変え、
ズボンを取り、それを穿いた。
二人の女性の視線を受けながら。
若ければ、気まずかったかもしれない。
だが、私たちは皆、
そういう段階はとっくに過ぎていた。
帽子を被り直す。
それが、私が“服を着た”という何よりの証拠だ。
私は、フェイトの母の背後に立つルアーへ向き直った。
「準備はよろしいですか?」
私は、黙って頷いた。
彼女は私の前を歩き、
私たちは宮殿の暗い回廊へと足を踏み入れた。
壁一面には、
私の知らない時代――
大戦よりも遥か昔の歴史を刻んだ彫刻が施されていた。
その一つの前で、私は足を止め、壁を見上げた。
二人の人物が向かい合っている。
左の人物は、宝冠と荘厳な衣を纏っていた。
そして、向かい側――
私は、即座にそれを認識した。
我が女神、ローレンス。
中央には、
槍の形をした光が浮かんでいる。
少し先で、ルアーが立ち止まり、振り返った。
「神々の戦争の時代です。
そしてこの時、異形の学園が創設されました」
「……」
創設の事実は、すでに知っていた。
それでも、胸の奥がざわつく。
クリークの話では、
学園の長――
その座にいる者は、創設以来、変わっていないという。
つまり……
今、私の目の前にいる存在だ。
ルアーは、
深く刻まれた私の皺を見て、ため息をついた。
「サー・ラプラス。
あまり考えすぎない方がよろしいですよ。
皺が増えます」
「……ああ。
その通りだな」
私も息を吐き、
分析するのをやめ、
ただ純粋に芸術の美しさを味わうことにした。
やがて、
ルアーが大きな木製の扉を押し開けた。
中には、広いバルコニーが広がっていた。
左手には、花咲く庭園へと続く階段。
そして、城を取り囲む嵐が、一望できる。
私たちはバルコニーへ進み、
激しい衝撃音の方へ目を向けた。
私は肘を手すりに置き、
フェイトとミールの戦いを見下ろした。
庭園の奥。
鉄製の椅子に腰掛けているのは、リチャードだった。
以前と変わらぬ、圧倒的な存在感。
彼は顔を上げ、私を見るなり、表情を険しくした。
「……いつまで眺めているつもりだ?
それとも、挨拶の一つもせずに帰る気か?」
私は、思わず肩を跳ねさせた。
まさか、彼の方から話しかけてくるとは。
「す、すみません……
二人がどう動くのか、見ていました」
正直に言えば、彼の腕前はひどいものだった。
剣を腕いっぱいに伸ばして構え、
まだ細く頼りない四肢では、まともに扱えていない。
だが、ミールにとっては些細なことだった。
彼は力を抑えつつも、
一撃ごとに確実に受け止めなければならない強さで打ち込んでくる。
――なるほど。
フェイトが訓練を嫌がる理由が、ようやく分かった。
これは、幼い彼にはあまりにも過酷だ。
それでも……
「もう一度だ!」
「いやあ、たいした根性だな、坊主!」
ミールは構えながら、そう声をかけた。
フェイトは剣を持ち上げようとする。
それも、大人用の剣だ。
だが――意外にも、彼はそれを正面に構えることができた。
「その調子だ」
ミールは誇らしげに笑った。
一方、私はリチャードのそばへと歩み寄った。
彼は、使い魔の一体に椅子を持って来るよう指示する。
「……いや、必要ない。
もう少し、立っていたい」
「そうか。なら構わん」
その時、遠くに小さな影が目に入った。
私は目を細め、一人の少女と、
獅子を携えた武装の男の姿を捉える。
「……子ども?」
リチャードも顔を上げ、彼女に気づいた。
「ピィ!?
どうしてここにいる?」
振り返ると、
その少女がこちらへ歩いてくるのが見えた。
フェイトは彼女を見つけるなり、
剣を放り出して駆け出した。
あまりにも突然の行動に、ミールは唖然と立ち尽くす。
「ピィ!!
やあ! 元気?」
フェイトは尻尾を振りながら声をかけた。
少女は、少し恥ずかしそうに、小さな声で答える。
「……こんにちは、フェイト」
私はリチャードを見て、説明を求めた。
彼は小さく息を吐く。
「……私の孫だ。
両親は、病で亡くなっている」
フェイトと笑い合う彼女の髪が、風に舞う。
その瞬間、私ははっきりと見た。
――二つの耳。
彼女は、人間ではない。
「……エルフとの混血か」
「……ああ、その通りだ。
ここか、学園以外では、
彼女の居場所はない」
彼は少し言葉を切り、続けた。
「当時は、
この巨大な嵐を張っていなかったが――」
「……彼女のために、張ったのですね」
リチャードは再び、孫娘へと視線を向けた。
「その通りだ。
彼女の両親に、約束した。
この子には、穏やかな人生を与えると」
私は、
新しい友だちと無邪気に笑うフェイトを見つめていた。
そこへ、フェイトの母が合流する。
ピィは彼女の膝によじ登り、
フェイトは車椅子の肘掛けに腰を下ろした。
少女の髪を撫で終えるまで、
じっと待ちながら。
「……家族を守るのは、
私たちの義務だ」
「……まったく、その通りだ」




