第24章 : ルネッサンス。
独身のまま生きていくことは、きっと僕の運命なのだと思っていた。
だから僕は、誰にも看取られることなく、ただ神だけが裁くことのできる孤独な死を迎える、その最初の証人になるのだろうと思っていた。
けれど、そんな僕に、のちにこの狂気じみた殺戮のすべてを引き起こすきっかけとなる人物を巡り合わせたのだから、神というのもずいぶんと意地の悪いものだ。
12年前。
僕が彼女の腰に手を回すと、彼女の口から漏れる吐息が容赦なく僕の耳を打った。
そして最後に一際大きな声を上げたあと、彼女は息を切らしながら後ろへ倒れ込んだ。
「ねえ、あなた。私の肌、気に入った?」
「ごめん、引っかいちゃった?」
「ううん、違うわ」
彼女は起き上がり、背中を僕に見せた。
むき出しになったその背中には、いくつもの文字が刻まれていた。
「いつか、その背中に何が書かれているのか教えてくれよ」
「そうね……。いつか、私自身がそれを知るに値すると思える日が来たらね」
彼女は僕のほうへ振り返ると、そっと口づけをした。
「もう一回、する?」
「悪いけど、そろそろ君は職場に行かないといけない時間だと思うよ」
彼女は目覚まし時計に目をやり、ため息をついた。
「そうね。そろそろ行かなくちゃ」
彼女は眼鏡を手に取り、美しい緑色の瞳で僕を見つめた。
その笑顔には、小さなほくろが愛らしく添えられていた。
「お昼に会いに来て。前からずっと話していた、あのカフェを教えてあげる」
「『ルネサンス』?」
彼女が下着を身につけると、それを見た僕の身体は、再び勝手に反応してしまった。
「実を言うと……もう少し待って、二回戦にするっていうのもありなんじゃないかな?」
僕は、答えなんてとっくに分かっている子どものように、間の抜けた笑顔を彼女に向けた。
「あなたって本当に好きね。ねえ、私の愛しい旦那様。お願いだから、職場へ行く前にちゃんと美容院に寄ってきてちょうだい」
「はい」
この家で働いているのは、妻だけだった。
なぜかって?
僕が本物のろくでなしだからだ。
一つの仕事を四か月以上続けることすらできなかった。それも、最低限の努力しかしていなかったせいだ。
僕はもともと人付き合いが得意なほうではなかった。だから、決まった仕事を続けるというのは、僕にとってかなり難しいことだった。
それでも、少しでも家にお金を入れるために、僕は子ども向けの物語を書いていた。
「図書館に行って、最後に書いた本を置いてくるの?」
「うん」
彼女は靴を履き、長い黒髪を整えた。
「じゃあ、お昼に戻ってくるわね」
「うん。診療所の患者さんたちには気をつけて」
「ええ」
彼女は扉を閉めると、僕を再び一人きりにした。
だが、この孤独は、もう重苦しいものでも、嫌なものでもなかった。
むしろ、心を落ち着かせ、物思いにふけることのできる時間だった。
一日の中で、自分の好きなことに集中できるのは、この時間だけだった。
僕は振り返り、自分の仕事部屋へ入った。
そこら中に原稿が散らばっていて、僕は一人きりで自分の問題と向き合っていた。
机の前に座り、昨日書いた文章を読み返す。
僕は一人で、海辺を歩いていた。
見えるのは僕以外には誰もいない。
そして、波が激しく砂浜を打ちつけていた。
僕の足取りは静かに、僕の進む先を決めていた。
そして、少しずつ疲労が感じられるようになっていた。
いったい、どれくらい歩いたのだろう?
僕には分からなかった。
その理由さえ、僕には理解できなかった。
どうして君は、あんなにも突然、僕の前からいなくなってしまったんだ?
死ぬというのは悲しいことだ……。
だから、せめて君がもう少しだけ、生きることにしがみつく勇気を持ってくれていたなら……。
僕は一人で歩かずに済んだのに。
終。
「……ちょっと唐突すぎるな」
そう呟きながら、僕はほかのページにも目を通した。
けれど、どうやらここで昨日は筆を止めていたらしい。
子ども向けの本ではないものを書くのは久しぶりだったから、いつもより時間がかかってしまった……。
だけど、これで――。
今日は、完成だ!!!
「アァァァ……」
僕は木製の椅子に深くもたれかかり、天井を見上げた。
今、何時だろう?
これは、僕がよく自分自身に問いかける疑問だった。
執筆に集中すると、時間の感覚をすぐに忘れてしまう。
結婚した今でさえ、なかなか直せない悪い癖だった……。
窓の向こうでは、雪が静かに降り続いているのが見えた。
「……そろそろ時間か」
僕は立ち上がり、黒いロングコートを手に取った。
扉を開けてもなお降り続ける雪を見て、僕は小さく笑った。
「冬なんて、大嫌いだ……」
オラリオンは美しい街だった。
しかし、その気候は厳しい。
もちろん、ミライほどではない。
それでも、一年の半分近くは雪が降り、冬から春へと移り変わる時期も非常にはっきりしていた。
僕は人で賑わう路地を歩き、妻が働いている診療所へ向かう道を進んだ。
診療所は通りの角にあるため、家からそう遠くはない。
やがて目的地へたどり着くと、僕は立地の良さそうな建物を目にした。
扉を押して中へ入る。
すると、すでに患者たちの咳き込む声が聞こえてきた。
そのとき、低い声が建物の中に響き渡った。
僕は階段を上り、二階へ向かった。
そして、二つ目の扉を開ける。
中はまるで墓地のような、どこか陰鬱な空気に包まれていた。
僕は受付へ近づき、受付係に声をかけた。
「グイーレ、元気か?」
「元気よ。あなたは? 今日はそんなに混んでないわよ」
「それが聞きたいなら、やめておいたほうがいい。どうやら、何かの疫病が広がっているらしい……。しかも、感染するのは異常者だけだって話だ。君なら、どういう意味か分かるだろ?」
「ははっ。ああ。彼女があまり巻き込まれていないといいんだけどな」
「そればかりは……保証できないな」
僕がため息をついた、そのときだった。
廊下の奥から、声が響いてきた。
「グイーレ?」
僕が振り返ると、そこには妻が立っていた。
いつもは綺麗に整えられている黒髪が、今は完全に乱れている。
「どうした?」
「手伝いに来て!!」
彼女は明らかに取り乱した様子で叫んだ。
僕は受付係をちらりと見る。
すると彼女は、黙って頭を動かし、行くように促した。
僕は急いで妻のいる診察室へ駆け込んだ。
床には血が広がっていた。
かなり年配の男が喉を押さえながら咳き込み、そのたびに血を床へ吐き出している。
「ちょっと……ベッドへ!」
僕は男の身体を支えた。
だが、男はもう一度血を吐き出すと、突然、完全に力を失った。
「……え?」
男は死んでいた。
僕はその身体をそっと床へ横たえ、それから立ち上がった。
自分の両手を見つめる。
恐怖で、身体が震えた。
いったい、何が起こったんだ?
なぜ、この人は死んだ?
身体の鼓動がどんどん速くなっていくのを感じていると、妻が僕の顔を両手で包み込んだ。
「落ち着いて。私の声に集中して。吸って……吐いて」
「ア……フゥゥ……」
少しずつ呼吸が整っていき、僕はようやく冷静さを取り戻した。
そして、周囲を見渡す。
「死亡時刻……11時43分……」
僕が立ち上がると、妻は遺体に白い布をかけていた。
そのまま彼女は入口へ向かい、残っていた患者たちにここから出るよう告げた。
診療所を閉めることも同時に伝える。
すると、待合室から一斉に不満の声が上がった。
そこへ受付係がやってきた。
「うわ……!」
「アルマ、ほかの診療所にも連絡して」
「何て伝えればいいの?」
「異常者を襲う疫病が発生したって。……それから、彼らに備えるように伝えて。じきに一斉検挙が始まる」
その言葉を聞いた瞬間、僕は理解した。
彼女は本気だった。
その顔には、強い罪悪感が浮かんでいた。
「……大丈夫か?」
僕が尋ねる。
「え? ああ……うん、大丈夫。遺体安置所に連絡しましょう。その間、少し外の空気を吸ってくるわ」
「うん、分かった。行ってきて。あとは僕がやっておくよ」
それ以上何も言わず、彼女は立ち上がると、着替えるためにその場を後にした。
僕は、あの老人の血で汚れた両手を洗っていた。
何度も何度も擦った。
それでも、さっき起こったことが、どうしても現実のものだとは思えなかった。
すべてが、まるで現実ではないようだった。
「大丈夫?」
今度は彼女が僕に尋ねてきた。
「ん? ああ……手についた血がなかなか落ちなくて」
「そうね。血が少し固まってるみたい。ほら」
彼女は僕の後ろに立つと、僕の手を擦り始めた。
すると、すぐに血が流れ落ち、排水口へと消えていった。
けれど、それ以上に気になったのは、僕の手を通して伝わってくる彼女の震えだった。
彼女の手は、かすかに震えていた。
洗い終えると、彼女は突然こちらを向き、革のコートを手に取った。
「行く?」
「すぐ行く」
彼女は僕へ手を差し出した。
外へ出た瞬間、凍えるような空気が肺へ流れ込み、僕は思わず咳き込んだ。
湿った空気に、診療所に漂っていた鉄のような臭いが混じっている。
そのせいで、澄んだ空気の味さえ忘れてしまいそうだった。
「……ごめん」
僕は妻のほうを振り返った。
彼女の髪が、目元を覆っていた。
「謝らなくていい。起こったことは自然なことなの。だから、絶対に自分を責めないで!」
「最初は、軽い咳から始まる……。それから症状が悪化して、患者は血を吐き始める。そして、二日もしないうちに死んでしまう……」
僕は足元を見つめ、それから目を見開いた。
「僕は、この疫病の進行段階を観察するために、あの人を利用したんだ。僕のせいで、君の手まで血で汚してしまった」
僕は足を止めた。
彼女はそのまま数歩歩いてから、僕のほうへ振り返った。
「ねえ……あなたなら、私は分かって――」
「馬鹿!」
彼女の言葉を遮るように、僕は叫んだ。
「怪我をしていたかもしれないんだぞ! それどころか、感染していた可能性だってある! 僕は君を失いたくない! ましてや、他の人を助けるために英雄ごっこをして、君が死ぬなんて絶対に嫌だ! 少しは僕のことを考えてくれ! それに、周りにいる人たちのことも!」
僕は彼女の首に腕を回していた。
波打つ黒髪が、僕の腕からこぼれ落ちていく。
眼鏡のフレーム越しに見える彼女の瞳には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
「……ごめん」
「分かってる。私も……自分で気づけなかったから」
◇ ◇ ◇
「コホッ……コホッ! うぇ……」
彼女の手に、血が付いた。
彼女は顔を上げ、浴室の鏡を見つめた。
その顔には、深い隈が浮かんでいた。
「……自分のことくらい、自分で面倒を見なきゃね……」
彼女は手を洗い、それから僕のいるリビングへ戻ってきた。
「大丈夫?」
僕が尋ねる。
「うん。……行きましょうか?」
「待ってたよ」
僕は立ち上がり、彼女の手を取った。
僕たちは二人で、首都の路地を歩いた。
ここでは、冷たい空気が孤独へと続く道を作っていた。
けれど、二人で歩けば、その道も少しずつ温かくなっていくような気がした。
「じゃあ、君がいつも話してるあのカフェって、異常者が経営してるの?」
「うん……。だからこそ、あなたを連れて行きたいの」
僕たちは首都の大広場へとやって来た。
そこでは大勢の人々が集まり、一人の男の話に耳を傾けていた。
男は腕を高く掲げ、紙を一枚握りしめている。
「神は我々に、この疫病をお与えになった! 悪しき者どもを追い払うためにな! あの忌々しい異常者どもが、ついに最後の審判の標的となったのだ! 全能なるアガラモンの栄光あれ! 異常者に死を!」
僕と妻は足を止め、男の吐き出す忌まわしい言葉を聞いていた。
「なんて差別主義者たち……」
彼女は小さく舌打ちをした。
「行こう。ここにいる必要はないよ……」
けれど、妻はそう思っていなかった。
彼女は男を睨みつけるように見つめた。
背筋を伸ばし、今にも怒鳴り声を上げそうなほどだった。
そして、その言葉を糾弾しようとした――その瞬間。
乾いた銃声が響いた。
壇上に立っていた男が、倒れた。
群衆は一斉に散り、男だけが自らの血の海に取り残された。
視界の端に、修道女らしき女性が路地へ入っていくのが見えた気がした。
僕は妻を見る。
彼女は倒れた男へ近づき、その目を真っ直ぐに見つめると――男の顔へ唾を吐きかけた。
僕はその後ろに立ったままだった。
あんなにも激しい彼女を見るのは、初めてだった。
普段の彼女は、とても穏やかな人なのに。
「地獄で焼かれればいい! このクソ野郎!」
彼女はそれだけ言うと、僕を振り返ることもなく、その場を立ち去った。
僕は完全に状況についていけなくなっていた。
彼女が怒るのは理解できる。
それでも……まさか、ここまでの反応をするなんて。
僕たちは何も言わずに歩き続けた。
彼女は完全に口を閉ざしていた。
「コホッ……コホッ!」
「ねえ……」
「何?!」
「……」
彼女は立ち止まり、それからため息をつくと、再び咳き込んだ。
「コホッ、コホッ……ごめん。ちょっと神経質になってるみたい」
「気にするなよ。でも、何かあったなら、僕に話してくれていいから」
「分かってる。ありがとう……。でも残念だけど、あなたが何かを変えられるとは、とても思えないわ」
「いや、でも二人で方法を探せば――」
「やめて!!」
彼女は悲鳴のような声を上げた。
「お願いだから、もう何も言わないで……お願い」
「いったい、どうしたんだよ?!」
「何でもないわ」
僕は彼女に追いつこうと手を伸ばした。
けれど、その手は届かなかった。
「ついてこないで」
そう言い残して、彼女は僕を一人残した。
さっきまで温かく感じていた路地が、突然ひどく寒くなった。
彼女は咳き込みながら、冷たい街の中を歩き続けていた。
僕は数分間、その場に立ち尽くした。
そして、僕もまた街の通りを歩き始めた。
すると、偶然にも僕は、あの有名なカフェを見つけた。
『ルネサンス』。
その瞬間、妻の姿が見えたような気がして、僕は店の中へ入った。
店内の暖かな空気が、冷え切った僕の頬を包み込んだ。
すると、真っ白な髪とルビー色の瞳を持つ女性が僕を出迎えた。
「お客様、お一人ですか?」
「ん? ああ……はい」
彼女に案内され、僕はテーブル席へ腰を下ろした。
しばらくすると、先ほどの女性がメニューを持って戻ってきた。
メニューを眺めていると、ふと、何気ないことに気づいた。
この女性……どこかで見たことがある。
さっき広場で見かけた女性と、どこか似ているのだ。
「すみません……一つ、聞いてもいいですか?」
「もちろんです」
「どうして、修道女のような格好をしているんですか?」
女性はほんの少しだけ眉をひそめた。
目の前にいる僕にも、それが分かる程度の変化だった。
……筋肉の動きによるものだろうか。
「何のことでしょうか、お客様?」
「すみません。人違いだったみたいです」
「お気になさらず。よくあることですから」
嘘だ。
こんなに純粋な白い髪をした人なんて、今まで一人しか見たことがない。
まあ、いいか。
「じゃあ、コーヒーを一杯お願いします」
「かしこまりました!」
彼女がその場を離れた、そのときだった。
カフェの扉が開く音が聞こえた。
僕は振り返る。
そこには、妻が立っていた。
背筋を伸ばしているものの、その目の下には薄っすらと隈が浮かんでいた。
彼女は僕に気づくと、そのままこちらへ歩いてきた。
「さっきはごめんなさい」
「気にするなよ。僕も気にしないことにするから」
「ありがとう。最近、あまりよく眠れてなくて……ちょっと神経質になってるみたい」
彼女は僕に向かって、ほんの少しだけ微笑んだ。
すると、先ほどの店員が戻ってきた。
そして、僕の隣にいる妻を見て目を丸くする。
「えっ!? お二人、お知り合いなんですか?」
「ルシア! うん、そうよ。この人、私の夫なの」
「おおっ!!! 兵士かと思いましたよ! じゃあ、新しいコーヒーを持ってきますね」
「ふふっ……」
妻が小さく笑った。
「待て……」
僕は先ほどのコーヒーを見つめた。
「……あの人、このコーヒーに何を入れたんだ?」
彼女は戻ってくると、僕たちの前にコーヒーを置き、それから背筋を伸ばして立った。
「それで、あの治療薬……進んでる?」
「思ったほど早くは……。何かが足りない気がするの」
「パンドラも苛立ち始めてる。早く解決策を見つけないと、彼らが来て隔離措置を始めるかもしれない。それに……」
「それ以上言わないで……分かってる」
「待って。まさか……。アーク、あなたって本当にそういうところが――」
彼女はそれ以上何も言わず、厨房へ戻っていった。
その間、僕はコーヒーを飲んでいた。
僕は妻のほうへ振り返り、もっと詳しい話を聞こうとした。
「ああ、そういえば、あなたは知らなかったわね。この人はルシア・クリーク。アカデミーの責任者よ。私たちを助けるために、解毒薬の研究をしているの」
「じゃあ、この店はパンドラの拠点みたいなものなのか?」
「そう考えてもらっていいわ」
「なるほど。そういうことか」
僕たちはコーヒーを飲み終えると、席を立った。
しかし、その瞬間、妻が再び咳き込み始めた。
いつもよりも、明らかに激しい咳だった。
すると、ルシアが慌てて駆けつけてきた。
そして、床に広がった血溜まりに気づく。
妻は恐怖に顔を歪め、自分の両手を見つめた。
僕が呆然と見つめる中、妻は血を吐いた。
そして――そのまま床へ崩れ落ちた。
◇ ◇ ◇
目を覚ましたとき、彼女は家にいた。
そして、僕は彼女の枕元に座っていた。
彼女はゆっくりと目を開き、僕の顔を見つめる。
僕の表情は暗かった。
「……今日は何日?」
「昨日と同じだよ……。そうじゃなかったら、驚いてるところだ」
「いつ話すつもりだったの?」
「どうして? 話したところで、何か変わったのか?」
「……」
「君は医者で、研究者なんだろ?」
僕は彼女を見つめた。
「違う……。僕はただの作家だ」
「あなたは、私の夫でもあるでしょう」
彼女は舌打ちをし、窓のほうへ顔を向けた。
「ん……こんな真っ白な景色の中で死ぬのも、悪くないかもね」
「……本当に、自分勝手だな」
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい。最後くらい、一緒に過ごせたらよかったのに。子どもだって……コホッ、コホッ……うっ!」
「もう話すな。疲れてしまうぞ」
「ううん……言わなきゃいけないの。私の罪を……ちゃんと伝えないと……」
彼女は天井へ向かって手を伸ばした。
「……あの子に、最初の名前をつけてあげたかったな……」
僕は立ち上がり、その部屋を出た。
外では、風が雪の中を吹き抜けていた。
僕は一人だった。
冷たい空気だけが、僕のそばにあった。
僕は歩いた。
……どこへ?
分からない。
……どうして?
それすら、分からなかった。
僕は悲しかった。
怒っていた。
叫びたかった。
でも、いったい誰に?
この苦しみを和らげてくれる者なんて、いるのだろうか?
僕は顔を上げた。
周囲の建物は、汚れ一つない真っ白な色に染まっていた。
けれど、その純白の中で、一つの黒い影が僕の前に立っていた。
「悲しいのか?」
「……うん」
「怒りたいか?」
「うん……」
「そのための理由が欲しいか?」
「うん……」
「そうか。なら、俺についてこい」
僕は、その真っ白な世界の中を黒い染みのような影について歩いた。
やがて、僕たちは僕の家へとたどり着いた。
影は階段を上り、僕の部屋へ入っていく。
そこには――妻が眠っていた。
僕は彼女へ近づいた。
けれど、彼女の肺からは、もう一度たりとも空気が吐き出されていなかった。
黒い影が僕の後ろへ回り、両手を僕の肩に置いた。
「こいつらが、彼女を殺したんだ。お前が憎むべきなのは、こいつらだ。復讐したいのなら、俺がその力を与えてやる。ただし――俺に忠実でいろ。決して裏切るな」
「あ……ああ……あああああああああああっ!!」
「そうだ! 怒れ! その怒りを叫べ!!」
その瞬間、ルシアが部屋へ入ってきた。
彼女の目に映ったのは、妻の身体を抱きかかえ、力なく垂れた身体を腕に抱えながら、天を仰いで彼女の死を叫ぶ僕の姿だった。
黒い影は僕の身体を腕で包み込み、僕を慰めた。
ルシアは両手を組んだ。
「神はあなたを祝福されたのです、我が兄弟よ」
黒い影の中に――白い笑みが浮かんだ。
◆ ◆ ◆
僕は、廃墟となった倉庫へ足を踏み入れた。
ここは、異常者を売買する者たちのアジトだった。
僕は、妻が愛用していたナイフを手に歩いていた。
やがて、一人の男が目に入った。
かなり痩せた男だった。
「ん? お前、何者だ?」
「……」
僕は一気に距離を詰め、その男の喉へナイフを突き刺した。
手を離すと、男は激しく床へ倒れ込んだ。
その音を聞きつけ、ほかの者たちが一斉に駆けつけてくる。
僕は――その全員を殺した。
そして、彼らが「受付」と呼んでいた部屋へ向かった。
その部屋の中で、僕の目の前には一人の男がいた。
男は、一人の異常者を力ずくで襲っていた。
男は振り返り、僕の存在に気づいた。
彼は立ち上がり、慌てながらなんとかズボンを履き直そうとした。
一方、僕は薄暗闇の中で、まっすぐ立ったまま動かなかった。
見えているのは、僕が被っている羊のマスクだけだった。
僕はナイフの刃をコンテナに擦りつけた。
男は恐怖に駆られ、逃げようとした。
しかし、僕は背後からその首を掴んだ。
男はすぐに呼吸が苦しくなった。
「や……やめろ」
「神はすべての罪をお許しになる……」
僕は男の口を塞ぎ、叫び声を上げられないようにしながら、背中へナイフを突き刺した。
そして、その身体を床へ投げ捨てた。
すると、かなり太った男が立ち上がり、僕のほうを振り返った。
僕のマスクの口が開き、その奥から歯が姿を現した。
「お、お前は……化け物だ」
僕は、こう唱えた。
「我が神よ。私はあなたを深く傷つけてしまったことを、心より悔いています。あなたは限りなく善なるお方であり、限りなく愛すべきお方。そして、罪をお嫌いになるお方だからです。私は、あなたの聖なる恵みの助けを得て、二度とあなたを傷つけず、悔い改めることを固く決意します」
男は数秒間、黙り込んだ。
そして僕は、小さく呟いた。
「Desiderium」
そうして、男を殺した。
著者あとがき - 章に関連する楽曲:Queens of the Stone Age「Mosquito Song」




