第1章: Beyond
ヘンリの家に住むようになって、もう二週間が経っていた。だが相変わらず歩くことはできず、折れた脚が地獄のような痛みを与え続けていた。せめてもの救いは、ようやく固定具を外してもいいと言われたことくらいだ。
ソファに腰掛け、腕の中でフェイトを抱きながら、俺はうとうとし始めていた。暖かい赤ん坊を抱いていれば眠くもなる。眠りの女神キミに身を委ねようとした――その瞬間、ヘンリが勢いよく部屋に飛び込んできた。
「ラプラス、生きてるか!」
「うわああ!!」
思わず跳ね起き、フェイトまで起こしてしまう。
「おっと、寝てたのか…悪かったな。ちょっと来い」
怪訝に思いながらも、俺はヘンリを見て問いかけた。
「今日、何かあったか?」
「あるさ。セドリックが来る。診療が早く終わったらしくて、もうすぐ着くはずだ」
セドリック――この村、ブハの警備隊長。軍で鍛えられ、大戦を生き抜いた男。規律の塊。そして何より……俺のことが大嫌いな男だ。
コン、コン。
俺が車椅子に座ろうとした矢先、玄関を叩く音が響いた。ヘンリが扉へ向かう。計画は単純だった。バリはまだ意識の戻らぬ女性の監視と、もしもの時の抑止役。俺とヘンリは、村と軍に殺されないために交渉する。それだけだ。……簡単ではないが、不可能でもない。
やがてセドリックが居間に入ってくる。背の高い男だ。黒髪に年齢を感じる白髪が混じる。俺を見るなり、顔つきが鋭くなる。しかし次の瞬間、俺の腕の中のフェイトに気づき、鼻で笑った。
「いつからガキを抱えるようになったんだ、ラプラス」
「まさに、その話だ」ヘンリが補足する。
「子供、だと?」
俺とヘンリは視線を交わす。そして作戦開始。ヘンリがセドリックをソファの近くに座らせ、扉を閉める。セドリックは何かを警戒している。視線はヘンリをかすめ、手は常に武器の近く。
「手短にしろ。家には妻と息子二人を残してる」
「悪いな、時間を取らせて」俺は真っ直ぐ見つめた。
「話せ」
フェイトの布を少しだけめくり、俺は話し始めた。
「二週間前、家の近くを歩いていた時、赤ん坊の悲鳴が聞こえた。駆けつけると、霧の大地から出てきたドラウマ=ファンガリがいた」
「霧の外に……?」セドリックの顔が険しくなる。
「ああ。俺は戦って……そして今の有様だ」
「ボロボロだな」
「その通りだ。だが問題は“なぜ出てきたか”じゃない。“何に惹かれたか”だ」
「赤ん坊か」
少し黙り、俺は息を吐く。
「それだけじゃない。母親も一緒だった。だがその状態を見れば、真っ先の標的が彼女だったのは明らかだ」
俺は赤ん坊を包む布を完全に外した。セドリックの目が見開かれ、即座に立ち上がり剣を抜く。
「村の中に“異常”を匿ってたのか! 俺たちを殺す気か!?」
「落ち着け、セドリック」ヘンリが低く言う。
「お前まで承認してるのか!? 本気でこれを許す気か!?」
ヘンリの眼光が鋭くなる。
「落ち着けと言ってる。ここは俺の家だ。従え」
その声に、セドリックはしぶしぶ剣を納める。フェイトが泣き出す。俺はあやし続け、ヘンリが差し出したコーヒーをセドリックが無言で受け取る。少し落ち着いたところで、俺は口を開いた。
「見ての通り、この子は“異常”だ」
「母親は?」
「確証はない。しかし父親の血だろう。少なくとも、遺伝的なものだ」
「お前と同じだな……“魔術師”さんよ」
村に来た日のあの蔑む目――同じものを向けられる。だが俺は静かに微笑んだ。
「そうだ。だが見ての通り、異常が必ずしも危険とは限らない」
「忘れるな。大戦は“異常”が引き金だった」
「ああ。そして学院が収めた」
「その“偉大なるクリーク”の作った謎の組織な。どこにあるのかすら不明の」
「そして、そのクリークが戦争を終わらせ、各国と条約を結んだ。ミライが城に籠もって震えていた間にな」
「……チッ」
舌打ち。すまん、セドリック。だがこの子は守らなければならない。俺は己の名誉にかけて誓った。
「母親を見せろ。それで判断する。認めるか、否か。それでいいな?」
「ああ」
俺たちは立ち上がり、俺は車椅子に乗せられる。三人で部屋に向かい扉を開けた瞬間、動きが止まる。バリが包丁をこちらへ突きつけていた。
「その人に触るな。母親として、絶対に傷つけさせない」
ヘンリは柔らかく微笑み、彼女の手を包み込むようにしてそっと刃を下ろす。不安と恐怖が、彼女を張り詰めさせていたのだろう。セドリックは苦笑し、一歩前へ進んだ。
「――あれが本人か」
セドリックが低く呟く。
彼女は肩まで白い毛布を掛けられていた。ヘンリが静かにそれを外した瞬間、セドリックの顔色がみるみるうちに変わっていく。
「クソッ……完全に虐殺じゃねぇか…」
「俺にできる限りの手は尽くした……だが、あまりにも綺麗に切断されすぎていて、正直恐怖を覚えたよ」
「……これは怪物の仕業じゃないのか?」
俺に視線が向けられる。
俺は首を振った。
「俺があいつを倒した時には、すでに彼女の手足はなかった。ただ岩壁にもたれかかっていただけだ。現場は俺も隅々まで確認したし、ヘンリも後で見に行った。だが血の跡はどこにもなかった。あったのはドラウマ=ファンガリの死体だけだ」
「……確認する」
ヘンリが静かに頷く。
「クソッ…クソッ……!」
「だが、さらに驚くべきことがある」
「どういう意味だ?」
俺は夫婦を見た。二人は黙って頷き、続きを促してくる。
「この子は、生後まだ二週間なんだ」
「……じゃあ……追われている最中に出産したってことか」
セドリックは彼女を見つめる。
深く眠り続け、何の感情も浮かべない安らかな顔。
しかし、その姿は同時に強さを物語っていた。
やがて彼は小さく息を吐き、言葉を絞り出す。
「……判断を改める必要があるな」
「本当か!」思わず声が出た。
「村での受け入れを認める。ただし、村の内部には住まわせない。お前の家で暮らせ。そしてもう一つだ」
「なんだ?」
「その“ガキ”を、あの狂人に預けろ。将来暴れないよう、最強に鍛えておく必要がある」
「心配するな。すでに手紙は送ってある」
「……そうか。それでいい」
そう言ってセドリックはそれ以上何も言わず、扉を閉めた。
外を見ると、相変わらず雪が静かに降り続けていた。
その頃、世界の反対側――
熱帯の気候に包まれたヌ大森林、その中心に位置するジョッサの谷に、一人の女が立っていた。
手には重厚な銅製のトランク。だが、この土地で最も場違いだったのは、その姿――修道服だった。
彼女は断崖の上に立ち、周囲に広がる景色を見渡す。
山々は巨大で、その頂は平らに広がり緑で覆われている。
眼下には巨大なキャバルリー河が流れ、濃い緑に囲まれながら堂々と輝いていた。
ジョッサの谷――別名「精霊の谷」。
豊かな森と、ここヌでしか見られない特別な種族。
さらに マイタ と呼ばれる、春先の二か月だけピンクと青の毛花を纏う特別な樹木が、この場所の美しさをさらに引き立てていた。
彼女は振り返り、崖の上の小さな平地を見る。
そこには大きなリュックを背負い、泥だらけのサロペットを着た少女が座っていた。
「先生、本当にここで合ってるんですか!?」
「弱音を吐くなミミ。もうかなり遅れているのだぞ。ジョッサの子供たちと週末までに戻る約束をしていたのを忘れたのか」
「努力はしてますけどぉ……!」
シスターが額を押さえ溜息をついた、その時――
森の葉の隙間から何かが見えた。
「……ビンゴ」
彼女は一瞬で崖を飛び降り、岩から岩へ跳躍し、たった数回で谷へと降りていく。そして巨大な樹木の枝に着地すると、そのまま地面へ。
着地と同時に、森の静寂を裂く鋭い叫びが響く。
枝が折れ、一つの影が落ちてきた。
彼女はひょいと横へ避け、その直後――
ドン!
少女が頭から地面に突っ込んだ。
「いったぁぁ……」
「待て、額が切れている。動くな」
シスターは少女の背中のバッグを開け、消毒液と包帯を取り出す。
「ほら」
「ありがとうございます、先生……」
ついでに、彼女は煙草の箱を取り出す。
「結局、私たちは何を探しに――」
少女の言葉が止まる。
一枚のピンク色の花弁が視界を横切り、少女は顔を上げた。
そこには――
巨大な虎の頭。
牙が露わに伸び、苔と花に覆われた石像の泉に、その影が映っている。
「……それだ。私たちの目的。正確には“生きている翡翠の虎”だがな。
あの神霊の神殿を守護していたと言われている」
「村を見下ろしてるあの像の……ですか?」
「その通りだ」
その時――
鋭い鳥の鳴き声が空を切った。
「……シグル!? ここに!? あり得ん。大陸違いのはずだろうに……」
赤と蒼の羽を持つ神鳥が舞い降り、シスターの腕に止まる。
「――手紙か。それにこの鳥……はは、ついにラプラスを無視するのをやめたか」
「ま、まさか奥様!?」
彼女が封書を掴み、上部を破いた瞬間――
鳥は青い光の粒となって消えた。
「え!? 奥様、鳥が!!」
「役目を果たしたからだ。術が解けただけだ」
「じゅ、術っ!?」
「静かにしろミミ。今は読む」
視線が紙の上を猛スピードで走る。
そして――
「……ついに!! ついにこの世界に来たのね!!」
「え、え……何がですか!?」
「予定変更だ、ミミ。目的地をミライにする」
「はぁああ!? あそこまでは徒歩で 五年 かかるんですよ!?」
「三年だ」
「砂漠はもう嫌です!!」
シスターは大きくため息をつく。
「……じゃあ五年でいい」
「いや意味分かんないですから!? あ、手紙貸してください!」
ミミが奪い取り、読み始める。
*
* *
『親愛なるクリークへ
私たちが別れた時、あまり良い関係ではなかったことは分かっている。
そして、それについて謝るつもりもない。』
「……はいストップ」
「ラプラスね」
『それでも手助けを頼みたい。少し前、私は一人の赤ん坊を死の淵から救った。
だが新生児の扱いなど全く分からん。だから金を貸してほしい。
戦争であんたは十分儲けただろうし、赤ん坊一人分くらい屁でもないはずだ。
それより重要なのは、その子の名前だ。
どうやってそんな禁術を使ったかは知らん。
本当にそれが実現したのかも断言できない。
だが二人しかいなかった――子供と母親だけだ。
三人目はいない。
私が保護したその子の名は フェイト だ。
また会えることを楽しみにしている。
敬具
ラプラス』
*
* *
「……この男、一発殴っていい?」
「同感です。で、フェイトって――誰?」
「私の夫だ」
タバコに火をつけ、クマの浮いた目で煙を吐きながら言う。
ミミの顔が真っ赤になる。
「は、はああ!? ご結婚されてたんですか!? 生まれてからずっと独身だと思ってました!!」
「今でも独身だ。現時点ではな。
この手紙が届いたのが二週間前なら……
彼はまだ“生後一か月にも満たない”ってことになる」
「…………? ちょっと意味分かんないんですけど!?
まさか赤ちゃん趣味とかじゃ――」
「違うっ!!! そういうんじゃない!! ああもうややこしい!
未来で……まあいい! その時分かる!! もう黙れ!!」
銅のシガーケースにタバコをしまい、彼女は歩き出す。
「要するに、奥様はロリ……じゃなくて赤ちゃん好きってことですね」
「ぶち殺すぞ」




