プロローグ
氷と霧に覆われた厳しい世界を舞台に、絶望・人間性・宿命が交錯する物語──それが『Fate no Kioku』である。物語は、誰も近づこうとしない禁断の領域 「霧の大地」 の近く、雪に閉ざされた王国ミライで幕を開ける。そこに暮らしているのは、戦争と学院勤務の過去に傷つき、今では忘れ去られた男 ラプラス。彼は孤独と失望の中で静かに余生を送っていた。
いつもの朝と同じように、目を覚ました俺は思った ―― 今日もまた、何の変哲もない一日になるのだろう、と。
年老いた足を冷たい木の床に下ろすと、床近くの窓から入り込む風が肌を刺した。
— 今年も冬は厳しいな……
ミライ王国に住む者なら、誰もがそう感じるだろう。
俺は、この地で残されたわずかな人生をどう過ごすことになるのか、すでに悟っていた。
ため息をつきながら、黒い模様の入った灰色のチュニックを身に着ける。凍えるほど冷たかった。
靴下を履き、ブーツに足を通す。
右へ顔を向け、鏡に映る自分の姿を見つめた。
しわの刻まれた、老いた顔。
「はは……もうすぐ五十か……」
白髪混じりの髪と髭。
翡翠色の瞳は、まだ眠気を帯びていた。
手袋をはめた手を伸ばし、鏡の脇に丁寧に置かれていた赤いマフラーを取る。
木の扉を押し開けると、湿気を帯びた暗い廊下が広がっていた。
「くそ……そろそろ蝋燭を買い足さないとな」
朝の光が、かすかに廊下へ差し込む。
「寒っ……」
肩をすくめながら、居間へと向かった。
ほとんど使われることのない三つの部屋を通り過ぎるたび、床板が俺の体重で軋む音を立てる。
居間に入ると、右手にある暖炉はすっかり冷え切っていた。
手をこすり合わせながら近づくと、かすかに残った熾火が見えた。
それを頼りに薪を足し、ふいごで空気を送り込む。
やがて火が戻り、俺はその前でしばし手を温めた。
ふと振り返ると、ソファの向こう、簡素なテーブルの上に一通の手紙が置かれているのが目に入った。
飾り気のない部屋だった。
引っ越してきて、まだそれほど経っていない。
壁に掛けられた古い杖以外、目立つものは何もない。
そんな場所に、ぽつんと置かれた手紙は妙に存在感を放っていた。
近づいて手に取る。
宛名は、確かに俺だった。
封筒の右下には、こう書かれている。
―「For Laplace」
裏返すと、すでに一度開封されていることに気づいた。
「……あぁ、そういうことか」
昨夜、あの忌々しい酒瓶を空けた理由が、ようやく腑に落ちた。
中には、支援金を受け取ることは不可能だという通知が入っていた。
俺が手続きをろくに済ませないまま、急いで去ったせいだという。
「……二十年も一緒に働いたってのに、薄情な連中だ」
窓の外に目を向ける。
視界いっぱいに広がる湖は、完全に凍りついていた。
――ああ、これはまずい。
本当に、俺は詰んでいた。
乾燥肉を一切れ口に放り込みながら、頭を掻く。
これが、最後の肉になるかもしれない。
左手の扉を開くと、白銀の世界が広がった。
高台に建てられたこの家からは、煙が霧の中へ溶けていくのが見えた。
この家は、“霧の大地”と呼ばれる禁忌の領域の入口に近い。
その先に何があるのか、誰も知らない。
生きて戻った者は、熟練者か、命知らずの狂人だけだった。
地元の人間たちは、それを金儲けの道具にしていた。
俺は、それをひどく不道徳だと思っていたが――
生きるためには、俺も同じことを考えるべきなのかもしれない。
そんなことを考えながら、岩を削って作られた通路へと歩き出した。
周囲を気にすることなく進んでいた、その時。
—- -聞き慣れない音が、響いた。
本来なら珍しくもない音。
だが、この場所では異様だった。
不気味なほどに。
赤子の泣き声。
俺は反射的に、腰に差した剣の柄へ手を伸ばし、走り出した。
角を曲がった先で、俺はそれを見た。
「……ドラウマ・ファンガリだと……くそっ!」
二メートルはあろうかという、人型の魔物。
本来は霧の大地に棲む存在だ。
だが、泣き声に引き寄せられたのだろう。
その足元には、赤子と、その母親らしき女がいた。
助けなければ、死ぬ。
だが――俺に勝ち目はあるのか?
逃げるべきか。
そうすれば、生き延びられる。
だが、それでいいのか。
俺は岩陰から飛び出した。
剣を抜き放ち、叫びながら魔物へ突進する。
「……ちくしょうが!!」
――ここから先は、もう引き返せなかった。
岩陰から一気に飛び出し、同時に剣を鞘から引き抜いた。
その剣は質素な造りだったが、不思議と俺自身をよく表していた。
俺は叫び声を上げながら魔物へ突進し、背後を取る。だが、すでに気づかれていた。
魔物は赤子を手放し、地面へと落とすと、四つん這いになって俺へと襲いかかってきた。
俺は身を翻し、その脚を斬り落とす。
「よし……貫いたぞ」
そう呟きながら、刃を見た。
――だが、それが致命的な油断だった。
次の瞬間、俺は掴まれ、岩壁へと投げ飛ばされた。
空中で体を捻り、何とか壁に受け身を取ったものの、地面に転がり落ちる。
そのとき悟った。
――脚が、折れている。
正直、恐怖を感じた。
逃げ出したい衝動にも駆られた。
だが、それは過去の自分を否定することになる。
俺は立ち上がり、魔物と向き合った。
目に宿ったのは、もはや迷いのない覚悟。
もう逃げない。
――マッカの時のようには、ならない。
「俺はラプラスだ……!
たとえ命を捧げようとも、赤子一人くらい救ってみせる!」
剣を構え、切っ先を天へ向ける。
眉間は裂け、唇は噛み切れ、脚は完全に限界だった。
それでも構わなかった。
俺は、すべてを賭けるつもりだった。
「うおおおおおおッ!!」
全身の力を振り絞り、突進してくる魔物へ渾身の一撃を叩き込む。
刃は斜めに走り、肩口から腹部まで一気に切り裂いた。
あまりの威力に、空気が震えた。
ドラウマ・ファンガリは、真っ二つになって地面へ崩れ落ちた。
息が、うまく吸えない。
肋骨が悲鳴を上げ、体が限界を超えたことを訴えてくる。
――この歳で、やることじゃないな。
俺は鞘を拾い、剣を納めると、それを杖代わりにして歩き出した。
毛布に包まれ、顔だけを覗かせている赤子のもとへ。
だが、そこで俺は立ち止まった。
迷い――いや、恐怖。
赤子ではない。
問題は、その母親だった。
彼女は明らかに、この大陸の人間ではなかった。
その服装は、ここで見慣れたものとはまるで違う。
どこから来たのか――いや、答えは薄々わかっていた。
俺は空を見上げ、濃い霧を見つめる。
――霧の大地の向こう側。
あそこには、こんな世界があるのかもしれない。
彼女の右目は白い包帯で覆われており、傷が古いものであることを物語っていた。
さらに恐ろしかったのは左腕。
剣で断たれたように切断され、脚もまた、両方とも脛の途中で斬り落とされていた。
血はまだ流れている。
――つい先ほどの傷だ。
だが、彼女の周囲以外には、血の跡は一切なかった。
一体、誰が……?
誰が、この女性にここまでの仕打ちを?
周囲を見回し、失われた手足を探した。
だが、何もない。
まるで――彼女だけが、ここに突然現れたかのようだった。
俺は彼女を見つめた。
大きく見開かれたその瞳が、まっすぐ俺を捉えている。
迷いのない、あまりにも生きた目。
それが、少し怖かった。
一歩下がり、息を吐く。
鼓動が落ち着き、決断する。
――アンリのところへ連れて行こう。
近づいてわかった。
彼女は、驚くほど美しかった。
思わず息を呑むほどに。
俺は彼女を抱き上げた。
アンリの家へ向かおうとした、その時――
彼女は赤子へと手を伸ばした。
俺は歯を食いしばる。
二人とも運べるか……たぶん。
だが、歩き出した直後、彼女の口からかすれた声が漏れた。
「……フェ……フェイト……」
舌打ちする。
もう、見捨てることはできなかった。
俺は引き返し、赤子の前で膝をつく。
脚は激痛を訴え、肋骨のせいで息もままならない。
それでも何とか赤子を抱き上げ、彼女の胸元へと乗せた。
再び歩き出す。
雪原の中へ。
この格好で歩くには、あまりにも過酷だった。
ズボンはすぐに濡れ、道のりは地獄のように感じられる。
やがて、遠くに家々が見えた。
村人たちがこちらに気づき、農夫たちが駆け寄ってくる。
――ここまで来れば、もう少しだ。
「ラプラスさん! 大丈夫ですか!? その女性は一体……?」
「すぐにアンリのところへ連れて行くんだ!」
男は衝撃を受けたようにベレー帽を脱いだ。
俺は必死に息を整え、ようやく声が出せるようになると叫んだ。
「何をしている!?」
「は、はい! すぐに! 荷車を持ってきます!」
男が戻ってくると、彼は女性を抱え上げ、白いドラッコの背に乗せた。
俺には赤子が託され、こうして俺たちは村で唯一の医者のもとへと急いだ。
家の前に着くなり、扉が勢いよく開いた。
「おい! 誰の許可で俺の敷地に――」
「アンリ、助けてくれ!」
俺は馬車の前から降りながら叫んだ。
アンリは後部へ回り、その光景を目にした瞬間、息を呑んだ。
「聖剣の女神に誓って……この女は一体誰だ!?」
「話はあとだ。今はとにかく命を救ってくれ!」
「……チッ、くそ……ベリィ!」
彼の妻が家から飛び出してきた。
引き締まった体躯に、淡い金色の髪――他の女たちが嫉妬するほどの美しさだった。
彼女は馬車の後方を見て、女性の状態を確認する。
「アンリ……」
「ああ、分かってる。すぐに手術台へ運べ」
ベリィは走って家の中へ戻った。
俺は雪に覆われた庭へと視線を向けた。
その瞬間、張り詰めていた緊張と疲労が一気に押し寄せる。
視界が揺らぎ、意識が遠のいていくのを感じた。
そのとき――
「ラプラス!!」
俺は目を閉じ、赤子を抱いたまま地面へと崩れ落ちた。
*
* *
俺は昔から、自分の体の声を聞くことができなかった。
いつも無茶をする性分だった。
異常学の教授として学院に勤めていた頃も、夜通し研究に没頭し続けた。
結婚してからも、心の余裕を失い、唯一愛した妻を顧みることはなかった。
――ああ……想像してみてほしい。
二十年近く異常学の教授として働きながら、評価されることもなく、何一つ成し遂げられず、
最後には、その学院から完全に切り捨てられる。
結局のところ、俺は大戦の最中に死ぬべきだったのかもしれない。
なぜクリークが俺を救ったのか――今でも分からない。
やがて、俺は目を覚ました。
痛みが一気に戻ってくる。
だがそれ以上に、体を包み込む温もりを感じた。
身を起こそうとし、なんとか成功する。
気づけば、俺は彼らの家のソファに横たえられていた。
上半身は裸で、包帯だらけ。そのいくつかには血の跡が滲んでいる。
折れた脚には、しっかりと添え木が当てられていた。
「目が覚めたか?」
「アンリ!? どれくらい眠っていた?」
「二時間半だ」
頭に触れると、鋭い痛みが走る。
「……赤子と、母親は?」
「それについてだが……お前が俺の家に連れてきた“もの”について、話をしないといけない」
俺は苛立ち混じりに頭を掻き、続けた。
「何を言うにしても、その前に聞いてくれ。
俺はあいつらについて、何も知らない。
家へ続く岩の回廊で見つけただけだ」
「……やはりな」
「どういう意味だ?」
「ベリィだ」
俺が扉の方を見ると、彼の妻が赤子を抱き、優しくあやしながら入ってきた。
「どこから来たのか、だいたい見当がついた」
そう言って、彼は赤子をこちらへ寄こすよう合図した。
受け取った瞬間、俺は背中に違和感を覚えた。
驚いて、緑色の布をそっとめくる。
――手が、震えた。
目を細め、そして勢いよく顔を上げる。
「待――」
「止める。誰にも報告していない。
それに俺は、赤子を殺すほど狂ってはいない……たとえ、異常体だとしてもな」
俺の腕の中にいる赤子には、
黒と青が混じった鱗に覆われた尾があり、
頭の上には、小さな黒い角が二本生えていた。
――見覚えがある。
教授クリークの記録で見たことがある異常。
この種族は、確か……
「……ドラゴン、か」
俺はアンリを見る。
彼は静かに、こう言った。
「俺も同じ結論だ。
――奴らは、霧の大地の向こうから来たんだ」
「――彼らは、霧の大地の向こう側から来たんだと思う」
「無理だ――待て。何がきっかけでそう思った?」
アンリは軽く腕を動かし、横になっているよう合図した。
だが不注意にも、俺は身を起こしてしまっていた。
「彼らの服装は、まったく見覚えがない。それに……母親の治療をしているとき、驚くべきことに気づいた」
「驚くべきこと?」
「口で説明するより、見せたほうが早い。待っていろ、車椅子を持ってくる」
彼は背を向け、診療室から椅子を運んできた。
木製の車椅子――間違いなく、老人の腰を三動作で破壊できそうな代物だ。
「……千の神々よ。これは本気で早く治らないといけないな」
「自業自得だ」
「……」
俺は昔から厄介事を引き寄せる性分だった。
こんな椅子に座る羽目になるのも、これが初めてではない。
アンリは俺を押し、彼女がいる部屋へと向かった。
その途中、彼は淡々と説明した。手術は成功したが、大量出血のせいで状態はかなり危険だったらしい。
*ため息*
部屋の前で止まり、アンリが横を通って扉を開ける。
暖炉の火が静かに揺れ、薪の爆ぜる音が心地よく響いていた。
椅子の軋む音とともに、俺たちはベッドへと近づく。
「で? 何がそんなに異常なんだ? 戦争の生き残りか?」
「戦争の生き残り……それは違うと思う」
そう言って、彼はシーツを外した。
――その瞬間、冗談かと思った。
まるで動く要塞。
彼女はただの生存者ではない。明らかに、歴戦の戦士だった。
それでいて、その体躯にもかかわらず、輪郭はまるで舞台女優のように美しかった。
「……なるほど。お前が警戒する理由が分かった」
「霧の大地の向こうに何があるのか、俺は知りたくもない。
軍と関わって散々な目に遭ってきた。もう二度と、あんな厄介事に巻き込まれたくないんだ。分かるな?」
彼女の衣服はズタズタだったが、布地の質は明らかに高級品だった。
庶民のものではない。――おそらく、貴族。
窓の外を見ると、雪はまだ降り続いていた。
俺は赤子へと視線を移し、尋ねた。
「赤ん坊の年齢は分かるか?」
「……正直、気に入らない答えになるぞ」
「言え」
「生後、二日も経っていない」
「……は?」
俺は目を見開いた。
「つまり、追われながら出産したということだ」
その精神力と覚悟に、ただただ圧倒された。
あれほどの体格の女性なら、どこかで名が知られていてもおかしくない。
「……本当に、色々なものを背負ってきた人なのね」
そう言いながら、ベリィが部屋へ入ってきた。
その通りだった。
「尊敬」という言葉ですら、彼女を表すには足りない。
この戦いを、ここで終わらせるわけにはいかなかった。
「……お前も感じているんだろ、アンリ」
「……ああ。言いたいことは分かる」
彼は頭をかきむしり、唸った。
「本当は、全部セドリックに報告するつもりだった。
だが……考えを変えた。軍に知らせないよう、俺も説得に回る」
「それで?」
「それから――」
アンリは女性を見つめ、静かに言った。
「お前が引き取れ。
お前の家族に何があったか、俺は知っている。
今が、過去を乗り越える時だ。後悔を棚に上げて、もう一度、光を見ろ」
「……」
俺は黙り込んだ。
たとえ彼女を家に連れて帰ったとしても、
大人二人と赤子一人を養うほどの金はない。
「ラプラス?」
「あ……悪い、考え事をしていた。引き取るのは構わない。
ただ、生活を支えられるかが不安でな」
「資金援助を頼める相手はいないの?」とアンリの妻が言った。
俺は顎に手を当て、髭を撫でた。
一人、思い浮かぶ人物がいる。
だが――頼むとなれば、説明が必要だ。
議論になって、言い争いになって……ああ、クソ!
頭を乱暴に掻いた。心底、面倒だった。
そのとき、部屋の奥から赤子の小さな声が聞こえた。
「そういえば、この子、名前はあるの?」とベリィが尋ねた。
俺は、彼女が最後に口にした言葉を思い出す。
「……フェイトだ。名前はフェイト」
自分でも驚くほど、迷いのない声だった。
「……そう」
ベリィは少し驚いたように微笑んだ。
「この世界へようこそ、フェイト」




