「ひとつ目の不安」—長井とカオリ—
昨夜、律が会社まで迎えに来てくれた。
あの優しい声、安堵するような笑み——そのどれもが蘭の胸をあたためていた。
そう思いながら会社の自動ドアをくぐったその瞬間。
「吉野さん、ちょっと」
背後から低く響く声。
部長の長井だ。
「今日は得意先に行く。君も一緒に来てくれ」
「……私、ですか?」
なんで私なの?…
「さあ 車に乗って…」
黒い車のドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
長井は妙に機嫌が良さそうで、運転しながら何度も蘭の様子を見てくる。
「吉野さん、最近よく頑張ってるね」
「ありがとうございます……」
(なんか見てる……距離が近い)
車内に充満する、人工的な芳香剤の匂いが気持ち悪い。
なんで、こんな事になってるんだろう…
***
同じころ、別の場所では——
カオリは、カフェの窓越しに見た“律の笑顔”が頭から離れなかった。
携帯を取り出し、連絡先一覧を開く。
まだ残っている「律」の名前。
呼び出し音が鳴り始める。
トゥルルル——
トゥルルル——
(出て……律)
***
得意先での商談は淡々と終わった。
だが、その帰り際——
(え……これ、完全にアウトじゃない?
セクハラ……どうしよう…どう逃げたら……)
“律に相談”という考えが頭をよぎる。
社内に戻ると、ヒソヒソとした視線が蘭に刺さった。
(やだ……もう噂されてる……
これ、今日のことが広まったら、ここにいられなくなる……)
スマホを取り出した瞬間——
画面に光った名前。
(……律……)
まるで心のSOSに応えるようなタイミングだった。
「蘭、大丈夫か?」
「律……どうしよう…?」
「やっぱり…胸騒ぎがして……ノイズを感じたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、蘭の目に涙が溢れた。
律に事情を話すうちに、耳を締めつけるようなノイズが少しずつ薄れていく。
「わかった。蘭、早退できるか?迎えに行く」
「で、でも……律、仕事が——」
「そんなの後だ。いいから、待ってろ!」
言い切る声が、迷いをすべて吹き飛ばした。
蘭は課長に体調不良を告げ、早退の許可をもらった。
その頃、律の心は静かに怒りで満ちていた。
昨夜の残業の件が胸に引っかかっていたが、やはり——
蘭に手を出そうとしている。
(許さない)
律は急いで蘭の元へ向かった。
会社前に車が止まり、律は降りるなり、蘭をきゅっと抱き寄せた。
迷いも遠慮もない腕の強さだった。
「……蘭。大丈夫か。」
耳元で低く落ち着いた声が響き、蘭の震えがすっと引いていく。
張りつめていた心の糸がぶちっと切れたみたいに、蘭は気づけば涙をこぼしていた。
律はその涙に気づくと、迷わず蘭の背中をさする。
「今日はひとりにさせられない。うちに来い。」
「でも……迷惑じゃ……」
「迷惑なわけないだろ。行くぞ。」
その“迷いのない手”に連れられて、蘭は律の家へ向かった。
[エントランス前]
「〜律〜」と名前を呼んだのは、カオリだった…
「………カオリ………」
彼女は微笑んだ。
その笑みは、再会を喜ぶというより“勝ち誇った”色をしている。
「よかった……帰ってきた。電話、切られちゃったから。
待ってたの。話したいこと、たくさんあるし。」
蘭の存在に気づくと、カオリの視線がゆっくりと蘭に落ちていく。
挑発するように、見下ろすように。
「……その子、誰?」
律は蘭の肩を守るように前へ出ると、はっきりと言った。
「……お前何してんだ、
さっき言ったろ、お前とはもう終わったって。
俺は、今は——彼女と付き合ってる。」
そう言って、蘭の腕をそっと引き寄せる。
カオリの表情が一瞬だけ固まった。
次の瞬間、薄く笑って皮肉を吐く。
「へえ〜……この子が“彼女”?
そういうタイプが好みだったとはね。
悪趣味じゃない?」
蘭の胸がぎゅっと締まる。
でも、律の手の温度とともに、波長が強くなった気がした。
カオリはふっと視線を逸らし、背を向ける。
「まあ、いいわ。とりあえず今日は帰ってあげる。
でも——話したいこと、まだ山ほどあるから。
その時は、ちゃんと聞いてもらうからね。律。」
振り返りもせず、ハイヒールの音が夜の道に消えていく。
蘭は思わず律の袖を掴んだ。
律は小さく息をつき、蘭の手を包み込む。




