「ゆっくりでいいんだ」
「……私でいいのかな」
昨日、水城に言われた言葉が、蘭の胸の奥でずっと引っかかって
“付き合おうか”
まるで日常の延長線上のように、静かで、淡々とした声。
決して甘い雰囲気でも、押しつけがましくもない。
だからこそ、蘭は余計にわからなくなっていた。
私は…何か返した?
ううん、ただ頷いただけだ。
好きって言葉も言ってない。
水城さんは、それで本当にいいの?
頭の中では “嫌われたくない” がぐるぐると回っていた。
彼の声を聴くだけで救われていた日々。
その声に惹かれていたのは確か。でもそれは——憧れみたいなもので。
現実の恋人として、どう接したらいいのかわからない。
——そのとき、画面が一瞬明るくなった。
「水城 律」 着信
蘭は驚いて、スマホを落としそうになって、
慌ててスワイプして耳に当てた。
「もしもし」
「おつかれ。今から出て来れる?」
「あ、うん、大丈夫だけど…」
「じゃあ、待ってる」
「……わかった」
***
店の扉を開けると、
バーカウンターの端に座る水城がいた。
「おまたせ…」
水城は振り返り、
「ごめんな。急に呼び出して」
「大丈夫だよ。なにかあった?」
(あ、今日の声はなんだか低い…真剣な雰囲気)
水城はグラスを指先で転がしながら、
ゆっくりと口を開いた。
「ちゃんと言ってなかったな。
蘭のことだから——理由がわからないままだと、
“音”に振り回されてるんじゃないかと思って」
「えっ……どうして……」
(見透かされてる…?)
「俺のこと話さないとなと思ってさ」
「蘭があのとき話してくれただろ。
“他人には伝わらないと思っていた、小さな雑音や匂い”。
——正直、俺…震えたんだよ」
蘭は一瞬、息を飲んだ。
「……震えた?」
水城の声が、少しだけ弾む。
「ああ。
同じ感覚の持ち主が、こんな近くにいたんだって。
嬉しかった。
蘭を——掴まえたい、って思った」
「私と…同じ? 嘘でしょ…」
水城のトーンが、どこか軽やかになっているのを感じた。
「俺たち、波長が——合ったんだと思う。
ゆっくりでいい。
お互いのペースで、波長を合わせていけばいい。
蘭の音は、俺にとって心地いいんだ」
その言葉は、静かに、深く胸に落ちてきた。
「……水城さん……」
蘭は、胸の奥から張っていた緊張がゆるんだのか、
視界がじわりと滲んだ。
泣くつもりなんてなかったのに、安心した瞬間に、
勝手に涙がこぼれた。
それを見た水城が、蘭の頭を優しく撫でた。
「なあ……“律”でいいよ」
ふっと、名前が夜の空気に溶けた。
その一言に、また蘭の胸がきゅっと熱くなる。
距離が一気に、でも優しく、近づいた気がした。




