じやんぷ!
いつもの時刻、登城の合図の大太鼓の音が城下町、武家屋敷周辺に鳴り響いた。ここは海に近い山間の小藩。皆より早く藩校に到着する為、駆け足で、父上や母上や、妹に朝の挨拶もそこそこに出発した。
門をくぐると土間を上がったところには、衝立があり、そこには孔子の『一寸光陰不可輕』と、大きな墨の字で書かれてあり、奥に行き右奥が座学をする部屋である教場、左が武道場となっている。教場にはすでに何人かは論語の素読を始めている者もいて、遅れまいとすぐ荷解きをして、論語を素読した。
「子曰しのたまわくく、人の己おのれを知らざるを患うれえず、人を知らざるを患うれうるなり」書見台の前で正座をして、論語を読んでいる。教授は僕たちの前で正座をして目をつぶって、僕たちの素読を聞いている、右手には竹籤でできた、細い差し棒を握っている、少しでも、詰まってしまうと、カッと目を見開き、間違った者、詰まった者を的確にその差し棒でその者の書見台を打擲する、眼を瞑っているのに、なぜわかるのか、ぼくたちは、その方が不思議でならなかった。僕たちは毎朝、素読後、午後から剣術などの武芸一般を学ぶのが一日の決まり事であった、道場には あらかじめ、上級生が強面にすでに準備をしていて、これもまた、毎日足腰が立たないたない位、また、地稽古を汗で、床がベタベタになる位、しごかれた。夕方の大太鼓が鳴る頃には、みなへとへとで帰ってからもすぐへたばってしまっていた、大体こんな流れだった。
また、おれの親友の妹君が、時々昼餉のお弁当を、運んでくる、藩校には基本女人禁制であるが、あるものは、下男や、姉上や、母君、などが、用事などで、入ってくるのは黙認されている。ある学友の姉上などは、その美貌から、時折昼餉などをもってくるときは、全員、朝からそわそわして、心ここに在らずといった感じで、藩校の学友たちは色めき立っている。そんな日は教授から、竹籤で打擲される人間が、倍増するくらいだ。
推しがいるようで、だれだれの妹君がきたとか、だれだれの姉君が来たとか。年長者のもなると、許嫁が来ることもあった。その時は藩校がひっくり返る位騒がしかった。
親友の妹君も負けるに劣らず今小町と謳われるくらいで、たまたま、親友が、教授に呼び出されている時に、その今小町が、来て、不在の親友の代わりにお弁当の昼餉を言付かった。その時の、美しさと、いい、可憐さと言ったら。いかん、いかん、男子たるもの、女子にうつつを抜かしていては、大成できぬ。
教授がある日、世界地図なる物を、見せてくれた、大きな島がある、が、日ノ本はどこにあるかと問われた。たぶん、地図の真ん中にある真ん中のねじ曲がった大根の様な形をしたところを指すと、大笑いして、違う違う、そこじゃない、我々の住む日ノ本はここじゃ、と言って、指したところを見て信じられなかった。小さい、他の国に比べると、さやえんどうの様な小ささで、そんな馬鹿なと、信じられなかった。真顔になった教授は、こんな小さい国が海の向こうからやってきた、国と渡り合おうとすれば、どうすればいい?そして、続けて、異国の言葉、エゲレス語でJUMPという言葉がある、「じゃんぷ」我々の言葉で飛び跳ねる、という意味じゃ、しかもまだ、他の意味もある、障害物などを飛び越える、行動を勢いよく始めるという意味もある、と。
帰り際、親友と話をしながらかえっていた、海を指さし、この海の向こうには、メリケンや、エゲレスというデカい国があるのか、行ってみたい、と言うと。お前は、行って何をするんだ、と親友。うーんと考え込んでしまった俺は、とにかく行ってみたいと、答えにならない答えを大声で言ったものだから、二人して、なんだかおかしくなって、肩を組んで、笑っていた。
大人たちは、その日から、今までの空気が違っていた。藩校に登校しても、師範は何も言わないが、その空気はまったく違っていた。
江戸の方で、黒船に乗って、ペルリという異人がメリケン国という、海の向こうの遠い国から、ここ日ノ本に開国というものを迫ってきて、国中が、国難中の国難、元寇以来の国難であると、大人たちは上を下への大騒ぎとなっていた。この日ノ本がどうなってしまうのか、毎晩、兄上や父上。昨晩は叔父上がわざわざ隣の支藩からお越しになって、遅くまで、喧々諤々と遅くまで話し合っていた。奥の部屋で一緒に寝ていた、妹は、泣きそうなひとみで、不安を口にしていた、握った手が震えていた。ぼくは、大丈夫、ぼくが守ってやるとギュッと握り返すと安心した様子で、スヤスヤ眠った。でも僕が、一番怖がっていたのかも知れない。
江戸の方と聞いていたが、詳しくは、浦賀に四隻の黒船がきて、また一年後に来ると予告し国に帰ったという。この日ノ本はどうなるのか、社会がどうあれその日もぼくたちは、変わらず学友と学問をや武芸を修練してきた、何も変わらない日々がこれからも続くと信じていた。親友の彼もそう思っていた。藩校が休みのときは山に川に遊びに行った、あの時の僕たちの未来は多少の不安はあったが、武士として、父上や、兄上の様に立派な武士になる、なっているだろうと漠然とそんな未来を想像していた。
ある日いつもの様に素読をしていると、後ろから、背中をつつく者がいて、振り返ると、学友が、こんなうわさ話を皆にしだした、本当は海の向こうからペルリと言う異国の物がメリケンという国から大砲を撃って攻めてきた、と。それを聞いて素読をしている者も、今しがた、教場に入ってきたものも、みなそいつの周りに集まって来て、聞いたことがある、俺は、昨晩父上から、おれは、兄上から。いや、俺は、重臣の叔父上から、父上と兄上が詳しく話しているのをきいた、いや、おれは、隣の藩の偉い方からきいただとか、急にその場は、一気に熱くなった、それは、まるで、戦に行く前の異常な熱気に絆されていた。
それは、熱を帯びることで、不安を消そうとするように、誤魔化すように、今までの日常が、得体の知れない何かに搔き消されてしまう不安を誤魔化すように。
いつものように、親友の妹君が昼餉を持ってきた時、俺の分もと、渡してくれた。その時、彼女は、あの、大丈夫でしょうか、父や、他の大人たちは、この国の存亡の危機だ、とか、毎晩大勢で、議論というか、話し合いをしていて、とても不安で、と懇願するような瞳で、誰かに、安心出来る答えを求めるように、そんな、震える声で。
不安で、しょうがないのだ、かくゆう俺も、不安でしょうがないのだ、俺たちの想像を超える位自分達がどうなってしまうのか。何もわからないから。僕は、漠然とおもった。守れるだろうか、この人たちを。母上、妹。そして、この美しい人を。
ある日親友がなかなか登校してこないので、 おかしいと思っていたら、一人の学友が飛び込んできた、親友の一家が閉門となったと、そんな!とさけびながら、藩校を飛び出した。親友の家まで走って向かった。門には、竹でできた、柵が、はりめぐらされ、何人も入れないようになっていた、門の前には、役人が一人、槍を持って立っていた、その役人は、俺を見咎めると、ここは立ち入り禁止だから離れろ、と声を荒げて、言ってきた。ここは、俺の親友の家ですと、外から大声で、名前を呼んだ。すると、その役人は、駆け寄って来て、俺の襟首をつかみ張り飛ばした、張り飛ばされた俺は、口の中が血の味で一杯になった、地面を見るとポタポタ赤いものが点々と落ちていた、鼻血だ。役人は、何ごとも無かったように元の位置に戻っていた。
鼻血だらけの俺を見て藩校のみんなは、急に飛び出したから、何があったのか、とか、心配で声を掛けてくれた。そうしていると教授から声がかかり、部屋に来るようにと。部屋に入ると、親友の親は、幕府の方針と違った考え方を広めようとしていた、ある程度、ここの御殿様は、寛大で、新しい事や、人材登用などは自由にやらせてくれる。だが、領民や、藩に不利益なことや、害が及ぼすよなことがあると、話は別。徹底的に排除する。心配そうな、顔をするな、彼の親御さんは、殿の右腕と称されるほどの人物と聞いている、早々に解かれるだろう。
そう安心していた矢先だった、親友の父上は、江戸送りとなり、詳しく吟味されるといううことだ、当然お家取り潰し。残された家族、母君や、妹君は母方の実家に。親友は、嫡男ということもあり、島流しとなった。叫んだ、俺は叫んだ、こんな理不尽なことが、ある物か、また、藩校を飛び出そうとする俺を、教授は腕を掴み、どうするつもりじゃと、引止め言った。
俺は、御殿様に掛け合って、せめて、親友の島流しだけはゆるしてもらい、妹君は、俺が娶ったら、ここに居続けられる。と、訴えた。おおよそ子供が考える最大限の方法だとこの時は、そう思っていた。教授は、頭を冷やせ、と言い俺を殴り倒した。天井をにらみながら、殴り倒されたまま、大声で、泣いた、当然そんなことをすれば、どうなるか、俺だけでなく家族が咎を受ける羽目になる。それはわかっていた。どうすることもできないその悔しさ、が後からあとから涙を押し出してきた。傍に教授はドカッと座り、力を付けよ、お前さんが、ものを言えるのは、お前が、その者と同等か、それ以上になってからだ。それ以下では、誰も聞いてはくれん。だから、力をつけ、強く成れ、腕っぷしだけではない、頭だ、これからは頭と、人間力だ。そう言うと、一枚の手紙を見せてくれた。和紙で、包れたそれを広げると。長崎で伝習所という学校ができるので、優秀な人材を派遣するようにと。要約すればそんなことが、書いてあった。その手紙を教授は指し示し、この伝習所派遣にお前の名を推挙しておいた、親友や、大切な人を守るのは、お前さんだ、そしてこの藩、いや、この日ノ本を救うのは、お前さん達だ。その気概で、行ってこい。
その後は、瞬く間に日々は過ぎていき、出立の日となった。藩校の前では学友が見送ってくれることになり、門の前には、教授や、しごかれてきた、上級生、上級生に一泡吹かせようと、道場閉じ込め事件や、お弁当全部食べつくし事件、思い出すだけでもいっぱいある、そして、時に遅刻を咎め殴り合いの喧嘩や、弱いものいじめを止めさせるため決闘したり、武芸の試合で、卑怯な振る舞いに憤り、相手の組を叩きのめしたり。教授にちょっとした悪戯をやってきた。悪友たちの面々。ここにはいない親友。そして、その妹君。二人なら、きっと居てくれただろうと、思い出と共に、重ね合わせた。
遠く小さく藩校と共にみんなが見えなくなるまで、手を振り、大声を張り上げた。そして遠く空に地面とその点が、溶け込んだのを確認すると。前を向き、歩き出した、その歩を進める、だんだん駆け足となって、全速力で走りだした。上がる息、苦しくなる息の中。こう思った、伝習所であらゆるものを納め、必ず、ここに帰ってくる、それまでは、しばしの別れ。この国、いや、身近な人を、守るため、自分のような、ちっぽけな人間が、出来ることは、知れている。知れているが、【飛ぼう!】教授に教得てもらったじゃんぷ!だ。 了
この物語に目を通していただき誠にありがとうございます。本来、これ以上少し長い物語ですが、短編というかショートとしてまとめてみました。時代考証的に厳しい所がございましても、目をつぶっていただけましたら幸いです。