レッテル願望
チクチクと肌触りの悪いクール素材のブランケットがずり落ちて、朝の爽やかさが残る日差しがチリチリと頸を刺す。既に何度鳴ったか分からないスヌーズ中のスマホは大きい文字で6:30を示していた。
先月の怪我でベッドの住人になったばかりの私は、学校と部活で居ない時間の自室はこんなに明るかったのを知らなくて、居心地が悪かったのを覚えている。
既に昼間と変わらない明るさの部屋へ違和感を持たなくなって何日経っただろうか。ブランケットから透ける軟い光が心地良くて、親の出勤まで待てば顔を合わせなくて良い事に喜んで、寝坊が当たり前になっていた。
知ってはいけなかった罪の甘さに堕落して、ストイックだった筈の自制心はとっくの昔に無い。知る前に戻る事なんて、きっと永遠にない。赤ん坊返りにしては邪で、絶望したにしてはみっともなく縋り付いたままの稚拙な感情の扱い方を知らないから。
両親からしたら車椅子から降ろされて杖の使い方を覚えた私より、生まれたばかりの孫の方が手が掛かる。まだ満足に歩けなくても、放って置かれるのは気が楽なのに、姉に抱かれる目が開いたばかりの姪に嫉妬する自分が許せなかった。
でも、どうしようもなく、安心している自分がいた。親から目を掛けて貰えない位の『落ち零れ』である事に、悲しい位に安心してしまったんだ。
こうやって一人で療養という名の引き籠りをする事を、怠ける事を甘受する自分を下に見て安心している。背伸びしないで、寧ろ胎児の様に背中を丸めたままでいたいと思う自分は情けない癖に。
枕元の宮棚から包帯を掴み、指が半分沈むまで力を込める。そのまま瞼の裏でベッドの上の物を全て薙ぎ払う様に投げ飛ばす幻覚を見たが、現実の己は何一つ動かないでシーツに顔を埋めるだけだ。
投げ飛ばさなかったのは窓から外に出てしまう等の理性が働いたからじゃない。投げ飛ばした包帯を取りに行けてしまった所為で『自力で歩く』事が出来る証明をしたくなかったからだ。
息でシーツが湿り息苦しい。顔を横に倒すと、その捩れは体に伝わり、ボスッと可愛げのない音を立ててマットレスが沈む。先月まではヘアアイロンをかけてサラサラと心地が良かった、艶のある髪だった筈のそれが鬱陶しくて、空いていた左手で掻きむしれば、寝癖で縛っていた跡が浮かぶソレから落ちたフケと抜け毛が枕を汚す。
嫌悪していた感覚を覚えているのに、慣れ切った自分がいる事に気付いて自分の世界から追い出す様に枕を薙ぎ払ってベッドの下に落とした。
あと少しで夏休みは終わる。『歩けない』で居られるのはあと少し。それでもまだ、体が衰えた事実も、二年生の中で唯一レギュラー争いの範疇に入っていない事実も、認めたくない。私は自分の弱さを認められる程強くないから、もう暫くだけ『怪我人』のレッテルを下さい。
両親がもう出勤していて良かった。どんなに唸っても、怒鳴っても、怪我で弱ってる可哀想な娘で居られる。だって、『怪我人』のレッテルでぐるぐる巻きなのは痛々しいでしょう?
食べ残しのウィンナーの匂いで空腹を自覚した己を鼻で笑って体を起こす。蒸れで肌が荒れた膝を隠す様に包帯を巻き、二重三重に巻いて真っ白になった膝を撫でると、滑らかで、柔らかくて、慈悲深いまでに優しい布が、無慈悲に私のレッテルを突き付ける。
私を見られない様に貼られていている紙札が何枚も貼り重ねられた張り子の仮面に頬が当たる。その頬が引き上げた緞帳の隙間風が誰の陰口を運んだのか、きっと分かる事は無い。
妹気分の抜けない叔母か、甘やかされた末っ子か、それとも自分の力量が分かっていない怪我人か、はたまた落ちこぼれる理由が欲しい臆病者か。
すぐに閉められた舞台の裏で誰かの足音がするが、補強板を打ち付ける様に顔に爪を食い込ませてベッドの上で縮こまれば、分厚い緞帳で影一つ見えない。
体を起こし続ける気力が無くて、枕の分だけ空いたスペースにズルリと雪崩れ込む。五分前と同じ体制になって、スッカリ目が覚めた太陽の視線が火炙りにするかの様に私の顔を焼くけれど、焼き殺されたのは私の涙だけだった。
日焼け止めを塗っても汗で意味を無くしていた亜麻色の肌は、僅かに色が抜けて健康的な肌色になっていて、日傘にした所で眩しさは消えない。
何もかもが苛立って、でも苛立ちが燃え続ける程の熱も無くて、それでも空腹を感じる自分を怒鳴り付けたくて、でも、でも、でも。
スポットライトから舞台袖に逃げる様に寝返りを打つと、シーツがずり落ちて、床に落ちた。物語でよくある舞台で転落した女優の様に死んでいたなら、どんなにマシだったか。
ゴキリと一瞬の痛みの後、自分が払い落とした枕に体が沈むと、姪と同じフローラルな柔軟剤の匂いがして、背伸びでしかないアロマのレモンの匂いがして、さっきまで私を監視していた太陽の匂いがして、何の痛みか分からない涙の匂いがした。
今日初めて流れた涙は頬を縦断して、仮面のヒビの様に枝別れしていく。仮面のヒビを直す紙札が足りない。