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木槿視点(5)

 芙美花は魔法のない世界からやってきたので、すぐには“新米魔女”から“新米”の称号は取れない。とは言え、筋がいいのか魔法を使いこなすのにはそう時間がかからないだろうと木槿が思うほどの上達ぶりだった。


 地上一階、地下一階の屋敷はふたりだけで暮らすにはじゅうぶんすぎるほどに広い。魔法が扱えなければあっという間に廃屋敷のごとくなってしまうということは、木槿にも芙美花にも想像はついた。芙美花がメキメキと魔法の腕を上げたのは、そういう事情もあった。


 片面が光るタブレットを手に芙美花は魔法を使う。タブレットは「自転車の補助輪のようなもの」らしい。かつて芙美花を映していたタブレットが、今は彼女の手の中にあるのだと思うと、木槿は少し不思議な気持ちになった。


 生身の芙美花がすぐそばにいるという感覚に慣れるのは、大変だった。のびのびとした手足を動かして、屋敷のあちこちを動き回る芙美花がひとつ屋根の下――とは言ってもその屋根は非常に巨大だが――にいるのだと思うと、木槿はどうしてもむずがゆい喜びを覚えてしまう。


 正直に言って、一ヶ月が経ってもまだ木槿は芙美花の存在感に慣れていなかった。タブレット越しですら木槿は芙美花に触れたことがなかった。


 けれども今は違う。転びそうになった芙美花をとっさに支えたときに、木槿は芙美花がこの世界に存在していることに、間抜けにも改めておどろいた。


 触ろうと思えば、木槿は芙美花にいくらでも触れるわけである。もちろん木槿は芙美花の執事。そのように不用意な行為に及ぶことは現実にはないが、やろうと思えばできるのだと思うと、木槿は落ち着かない気持ちになってしまう。いつが魔が差してしまわないかと心配するほどに。


 困ったことはたくさんあった。


 芙美花が木槿への好意を隠そうとしないこと。そしてその好意の表現方法が思ったよりもストレートなこと。


 同じ世界に存在し、同じ空気を吸っているという状況。その状況がもたらす芙美花の情報量は、木槿には多すぎる。


 タブレット越しでも芙美花の、木槿への好意の情は感じられた。その情を木槿はまだ冷静に捉えることができていた。しかしタブレットという壁がなくなり、生身の芙美花と直接顔を合わせて言葉を交わすと、冷静さを保つのはあまりにも大変だった。


 芙美花の好意の情が肌に直接伝わってくるような、そんな感覚。ときに直接的な言葉で、ときに間接的な言葉で、ときにその場の空気で、芙美花は雄弁に木槿に好意を抱いていることを伝えてくる。


 軽いめまいを覚え、参ってしまいそうになる。――いや、正確には、舞い上がってしまいそうになる。


 しかし好意の情が伝わってくるからと言って、芙美花が木槿と同じ気持ちであるかはわからない。そして木槿はその真実をたしかめる気はなかった。


 木槿は執事だ。芙美花を補佐するのが仕事である。木槿は今の己の気持ちが、おおよそ使用人がその主人に対して抱いていい感情ではないということをよく理解していた。


 だが芙美花は、イマイチそのことを理解しきれていない。主人と使用人とのあいだにある、海溝よりも深い隔たりを理解していない。だから、木槿はときどき困ってしまう。



 屋敷から見下ろせる街を歩いてみたいと珍しくねだってきた芙美花から、一瞬でも目を離したことを木槿は後悔した。木槿があれこれ細々としたものを買い込んでいるあいだに、芙美花に声をかける男が現れたのだ。


 男は、でっぷりと体に脂肪を蓄えた腹に手をやり、細い目で熱烈に芙美花を見ていた。しっかりと洗練された身なりから、男の地位がいくらか推し量れる。そしてその自信のほども。


 木槿は急に不安になった。芙美花が男に目を奪われることを嫌だと感じ――そしてそんな出過ぎた感情を抱く己への嫌悪が止まらなかった。


 男は一方的に芙美花に話しかけている。木槿は芙美花の執事であるから、彼女が困っていればどんな目で見られようと助けなければならない。木槿は一度つばを呑み込んで、腹を括った。


「芙美花様」


「御主人様」と呼ばなかったのは、木槿の中にあるちっぽけなプライドがそうさせた。ぽっと出のお前より芙美花のことを知っているのだと、浅ましくも主張したくなってしまったのだ。


 木槿が芙美花に近づくと、男は一瞬ぎょっとしたような目をしたあと、怒りの炎を燃やした様子だった。


 しかし男がなにかを言うより早く、芙美花が木槿の腕を取った。今度は、木槿がぎょっと目を丸くする番だった。


「あ、わたし恋人いるんで! 行こっ、ムーさん」


 そう言うや足早に店から出て行く芙美花のスピードに合わせ、木槿も脚を動かす。うしろで男がなにか怒鳴っていたが、芙美花はまったく気にした様子もなく木槿と共に街の雑踏へとまぎれる。そしてそのまま街の中心部にある広場へ向かって、そこでようやく芙美花は木槿から手を離した。


 木槿は名残惜しいと思いながら、芙美花に謝罪する。


「申し訳御座いません御主人様。目を離すべきではなかったですね……」

「謝らないで。わたしが『ついて行きたい』って言ったんだし。――それよりも」


 芙美花が木槿を見上げる。上目遣いになるといつもよりあどけない顔に見えて、木槿は心臓をドキリと跳ねさせる。芙美花の顔は、あまりにも無防備すぎた。


「ねえ、今日からは『御主人様』じゃなくて『芙美花』って呼んでよ」

「そ、それは……」

「イヤ? 馴れ馴れしい?」

「そういうわけでは御座いませんが……」

「『芙美花様』……じゃダメ? ごめんね。執事と主人の関係とか、まだよくわかってないから、なんかすごくダメならあきらめる……」


 木槿は「ずるい」と思った。芙美花が困った顔をしていたら、全身全霊をもって助けたくなってしまう。それは木槿が彼女の執事だからというだけの理由ではないことを、木槿はよくよく理解していた。執事だからではない。芙美花が相手だから。だから木槿は彼女の願いをでき得る限り叶えたくなってしまう。


「……わかりました。……ふ……芙美花、様」


 木槿がただ芙美花の名を呼んだだけで、彼女は花がほころぶように微笑んだ。


「ありがとう、ムーさん」


 ……たまったものではない。なんて破壊力だと木槿は心の中で大いにうめいた。しかし木槿の目の前にいる芙美花は、そんなことなどまったく気がつかない様子でにこにこと上機嫌に微笑んでいるのだった。

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