木苺の飴
舞踏会当日の夕方になっても、あたしは何の準備も出来ていなかった。
勿論、バードック家に金の無心なんて不可能だったし、一応は貴族の身分になっている自分のことを周りにどうやって説明したら良いか分からなくて、奨学生用の貸衣装も借りられなかった。タリカは心配そうにしていたけど、自身の準備に忙しそうで相談出来なかった。
部屋に一人残って、扉の前でうずくまる。
激しい動悸が襲ってきて、包帯を巻いた脚を強く握り締めた。今からあたしは舞踏会の約束をすっぽかす最低最悪の女になるんだ。アイツは一人で待ちぼうけ、楽しそうなみんなを見てるだけ!
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
何も分かんない。あたしは頭が悪いから。
誰に助けを求めりゃ良かった?
だって今まで、誰もそんなこと教えてくれなかった!
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どれくらい経っただろう。数時間か、それとも数分か。
コンコン、という音が聞こえた。扉じゃない。窓だ。よろめくように近づくと、見慣れた顔がそこにあった。
「アグリース」
窓を押し開けて、喉を震わせて謝る。
「ごめん、あたし、ドレスがなくて、それで」
「こっちこそごめん。想像力が足りなかった」
この部屋は女子寮の一階で、外は芝生の生えた空き地だった。アグリースは慌てたように後ろを見ると、声を潜めてあたしに言った。
「まずい、見回りの人だ!」
女子寮付近に男子生徒がいるのが見つかると、こっ酷く怒られる。
それでそのまま窓枠に登り、転がるようにアグリースは中に入り込んだ。二人で窓際の壁に張り付いて、見回りが通り過ぎるのを待つ。
あたしは壁とアグリースに挟まれる形で尻餅をついていた。
ひとまず危機は去り、揃って安堵の息をつく。あたしは何だか気が抜けて、アグリースを見上げて軽口を叩く。
「これであんたも不良だな」
「それはどうも」
アグリースはあたしを覆うように壁に手をついたまま、何か考えているようだった。あたしは黙って待っていた。彼はそれから目を閉じて、ゆっくりゆっくり喋り出した。
「…………初めて君と会ったとき、飴をあげただろ」
「ああ」
「いきなり全部噛み砕いたのには驚いたし、君が何を言ったのかは分からなかったけど……心底美味しそうに笑った顔が目に焼き付いたんだ。一目惚れだったんだよ」
遠くで鐘の音が鳴った。舞踏会が始まったのだ。
「もう一度あの笑顔を見せて欲しくて、色々誘ってみたけど、君は応えてくれなかった。でも、話しかける度に一瞬だけ、嬉しそうな顔をするのが好きだった」
目を開けて、二人の視線を交わらせる。
「たまたま見かけた、あの空き地で一人で踊っている君は綺麗だった。もっと近くで見たいと思ったから、君を舞踏会に誘ったよ」
ごめんね、と言いながらアグリースはあたしを軽く抱き締めた。あたしはそれをされるがままになっていた。本当に、この感触は悪くないなと思った。
そっと腕を回して抱き締め返すと、アグリースのふわふわした髪の毛に手が触れる。泣く子をあやす母親みたいに、あたしたちはしばらくこの温かさを分け合っていた。
「君はどうしたら笑顔になってくれる? 君の好きなものを教えてよ」
「…………忘れちまったよ」
「じゃあ一緒に思い出そうよ。ご両親は?」
「嫌い。あたしを一人ぼっちにしやがった」
「シャロッターズの紅茶は?」
「匂いが気取ってて嫌いだ。飲んだことねえけどな」
「カレッジの先生」
「どっちでもない。特にミセス・ベゼルボードは嫌いじゃない」
「…………ボクのことは」
「嫌いじゃない」
「それは好きってこと?」
「さあね」
「木苺の飴は好きでしょ?」
「あれは美味かった」
「まだ持ってる。君にあげるよ」
アグリースは身体を離して、ポケットをゴソゴソ探って紙に包んだ飴を取り出した。
「今度は噛み砕いちゃ駄目だよ」
あたしは、いたずらっぽく笑って言った。
「そんなら、飴の食い方ってやつを教えてくれよ」
アグリースは一瞬目を見開いてから、薄く微笑んで、器用に片手で包みを開くと飴を一粒、舌先に乗せた。
「こうするのさ」
そうしてあたしたちは、また顔を近づけて──初めてのキスは甘ったるい木苺の味だった。
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暗くて静かな部屋の中で、アグリースはあたしに言った。
「君の言葉はボクには時々難しくて、きっとボクの言葉も君には難しいことがある」
「そうだな」
「だからこれからゆっくり教えてよ。ボクも君にたくさん教えるからさ」
「ああ、それがいい」
「ボクが君の騎士になるよ」
この人が地獄に堕ちるなら、一緒に行くのも悪くはない。
あたしはそう思って、目を閉じた。
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