アグリース・ボルドヴァル
「今学期はどの講義に出るの? 語学は何にした?」
「何だって良いだろ、あんたには関係ねーよ」
いつの間にか横に並んで歩かれていた。
足を早めて置いていこうとするが、しぶとく追いついて矢継ぎ早に話しかけてくる。
「じゃあ今日の一時限目はどこ? ボクは神学を取ったんだけど……」
(うげ、被った……)
アグリース・ボルドヴァル。
この国の内務大臣の息子で、成績優秀、いつも友人に囲まれていて、絵に描いたようなエリートの生徒。明るい栗色のふわふわとした巻き毛に、青い瞳がよく映えてる。何もかもがあたしと正反対。
そんな、まるで違う世界の人間の癖して、コイツはあたしを気にかける。意図が分からない。理解できないものは怖い。
同情のつもりか、見世物を楽しんでいるのか、どちらでも鬱陶しいことこの上ない。
「あのなアグリース、女とお喋りがしてえなら他のもっと気の利いたやつを探しな」
「君だって毎回ちゃんと返事をしてくれるじゃないか」
「ああ、そう。じゃ、今度から無視だ無視」
あたしがそう吐き捨てるように言うと、アグリースは肩を竦めて笑った。
「それ、もう三回は言ってるよね?」
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神学を担当する講師のミセス・ベゼルボードは、旦那が偉い貴族だか何だかで随分と礼節とやらに厳しい。
だけど、何が駄目で、どこを直せばいいのか全部口に出してくれるから、あたしはそんなに嫌いじゃなかった。周りの奴らは煩がってたけど。
彼女は今日も教壇に立って、針金みたいに背筋を伸ばして、発音正しくこの国の信仰について話している。
「つまり、慈悲深き女神は人のみならず、植物や動物、果ては魔獣にも恩寵を与えるということです。彼女は清廉な魂のみを天上の楽園へ迎えますから、我々は、最低限生存する以外の目的で殺生をしてはならないのです」
難しい言葉が多くて半分も分からない。それでも、何となく耳を傾けて教科書を眺めていた。どんなに貧しい人間でも、いや、貧しい人間こそ、この国では女神様に縋る。あたしも、女神様だけは何だか信じなきゃいけないような気がしていた。
ミセス・ベゼルボードが話し終えると、前の方でアグリースが手を上げた。
「何でしょう、ボルドヴァル」
「騎士は土地と民を守る為に剣を抜き、魔獣を殺しています。それは清廉な行為ではないのですか?」
ミセス・ベゼルボードは少し黙り込んだ。それから口を開くと、こう言った。
「ええ。騎士は人の喜びのために自ら罪を背負うものでなくてはなりません。それにいつかはその刃を人に向ける日も来るでしょう」
何だそりゃ、と内心で呟く。
褒められたいって思うことすら、女神様は罪だって言うんだろうか。
あたしの父さんも、地獄にいるってことなんだろうか。
「かつて悪辣な戦乱の末にこの地を治めた女王は、これを『贖い』だと言いました。地獄へ行くと覚悟して尚、民の為に尽くせる者以外は不要である、と。我々は二百年これを続けてきたのです」
ウェールツディットの貴族の男は全員が騎士だ。そのうち地獄はウェールツディットの人間だけで満員になるだろう。