夜の帳
駄文ですが、お気に召せば幸いです。
風が少し冷たく感じるようになったある晩、一人の女が薄暗い路地を急ぎ歩く。
目的地はきっと、会いたくてたまらない人なのだろう。
その足取りは軽く、纏う雰囲気はとても喜色に満ちている。
そんな人とすれ違って、今、女が駆けてきた方向へ歩みを進める私は、
きっと泥を被ったような顔をしているのだろう。
すれ違う人々は、少し怪訝な表情で私を見ている気がする。
それもそうだ。私は今さっき、最愛と思っていた人に別れを告げられたのだから。
その上、生きるために仕様がなく勤めている所からの不本意な呼び出しを受けて、
つい数時間前までいた場所へ戻る途中なのだから。
人生最悪の日、なんてものがあるのならば、きっと今までの人生では今日がその日であろう。
そう思いながら、人々の流れを逆流していく。
一歩一歩、なんとか体を前に進めるために足を出していくのだ。
通り沿いのビルの明かりさえ、もうほとんど消えている。
きっと、今ついている明かりの下では、私のような顔をした人間がいるのだろう。
そう信じたい。
そうでなければ、今この場所で不幸なのは私だけになってしまう気がする。
きっとそんなことはないのだけれど。
職場へ着くと、私の部署のフロアだけに燦々と明かりがついていた。
そこにいるのは私の上司である、冴えない四十過ぎのオジサンだけだ。
「きっと来てくれると信じてたよ。」
そんな言葉を言いながら、ひどい顔をしたその男は何枚かに綴られたとても楽しそうな書類を見せてくれた。
苦情処理書
あぁ、そういうことか。
きっと、私の応対でクレームが入ったのだろう。
早急に対応しなければ、私の職種では致命的な問題になることもある。
そう思いながら、定型文で書かれているであろう、その書類に目を通した。
その苦情は、苦情といえば苦情なのだが、私を呼び出す理由が見えなかった。
書いてある言葉は、事務的だ、笑顔がない、挨拶さえまともにできないのか、などとなっているが、
これは苦情というより、嫌がらせだ。
私たちが扱うものの性質上、あまり顧客に対して親身になったり、笑顔を見せることはない。
挨拶に関して言えば、お辞儀の角度が気に食わないなどと書いてある。
こんなものは、普段なら何もなかったかのようにシュレッダーに食べさせるものであった。
そして何より、この苦情の宛先はつい先日赴任してきた私の上司の上司、部長へ宛てたものである。
私たちが対応するような案件ではない。
でも、このオジサンが私を呼んだということは、ここに書いてある以上の何かがあるのだろう。
「察しが良い君のことならわかると思うけど、これ、ここが問題なんだよね。」
そういってオジサンが見せてきた箇所には、“苦情を入れてきたのは部長の愛人”の文字があった。
こんなものどうしろと。と、思いながらその先を読むと、“部長の愛人は専務の奥様です”の文字が。
私は今日一番の笑い声をあげた。とても下品な笑い声を。
詳しく話を聞くと、この苦情、社長秘書こと社長の奥様がにやにやしながら持ってきたらしい。
そういえば、件の部長は花形部署から左遷されてきたとの噂があった。
専務に、二人の関係が明るみになったのだろう。
そうして、私怨で左遷されたのだろう。
想像するしかできないのが少し口惜しい気もするが、きっと部長は愛人と上手く別れることが出来なかったのだろう。
私は上司であるこのオジサンが何をしようとしているのか、見当もつかなかったので訊ねた。
「実は、君に今からここへいって、これを置いてきてほしい。」
そういったオジサンは、大変申し訳なさそうな顔をしながら私へ伝えた。
何故いまの私にそんな色恋の話をするのだろう。
先ほどの失恋は、まだ私の心を傷つけているのだが、その中で更に他人様の色恋に耳を傾ける必要があるのかと。
そして、今でなければならないことなのかと。
正直お断りしたい話である。今日は尚更。
それでも、私が行く必要があるというのも理解した。
仕方なく、今日最後になるであろう仕事を引き受ける。
仕事の内容はごく簡単なものだから、別に構わないのだが、心の傷をこれ以上広げるのは御免だ。
現場につき、私は受付を済ませ、中へ入る。
そこは、普段であれば極楽であろう場所。
その中にいる専務の奥様へ、簡単な手紙を渡すだけだ。
しかも、荷物に紛れさせるだけという簡単なお仕事。
先に仕事を済ませてしまおう。
目標の、高そうな鞄は簡単に見つかった。
その中に、預かった手紙を忍ばせる。
さて、終わった。
せっかくだから、私もこれから極楽を味わうとしよう。
ここはとある大きな浴場である。
一通り体をきれいにし、熱い湯につかり、呆ける。
呆けているはずなのに、少し前の出来事が頭を駆け巡り、気づいた時には涙が頬を伝っていた。
自分でも気づかないうちに流れ出たそれは、周囲の目を引くのに十分だったようで、
育ちのよさそうなご婦人が声を掛けてきた。
「何かつらいことでもあったのかしら。話くらいなら聞きますよ?」
優しさでそういってくれているのが解るほどやさしい声だった。
私は、何でもないです。と、伝えつつ、いたたまれなくなりその場を後にした。
話、聞いてもらったほうがよかったかな。
そう思いながら、人通りもまばらになった通りを歩く。
上司へは、仕事が済んだことを一報した。
返信は、おつかれさま。の一言だけだ。
きっと、家で落ち着いた時間を過ごしているのであろう。
あんなオジサンでも、家ではお父さんをしているのかもしれない。
街灯に虫が群がっている。
私もあの虫と同じなのかもしれない。
明るい場所へ向かっていくだけ。
光が見えたから、そこに進んでいくだけ。
あの人が眩しかったから、そこに居たかっただけ。
きっと、あの人は明日もいつもと同じように、太陽のような笑顔で回りを引き付けるのだろう。
私はきっと、あの虫のように明日も新しい光を探して彷徨うのだろう。
そんな私の些細な感情も、きっと夜の帳が隠してくれる。
私の涙も、汚い心も。
家に着き、ドアを開けた先は相変わらず真っ暗だった。
それもそうだ。この部屋に私以外の誰かが居たことなんてないのだから。
電気をつけ、いつものように着替えを済ませてソファへ腰かける。
そうして、今日別れを告げられた人との今までのやりとりを見直す。
いつから私は、あの人の一番ではなくなったのか。いつからあの人の気持ちが私から離れてしまったのか。
それを理解したかった。理解できなければきっと、納得できないと思ってしまった。傷を抉ることになろうとも。
そんな気持ちになりながらも、淡々と読み返し、時間だけが過ぎていく。
私はふと願った。今日は、この帳が上がらなければいいのにと。
全てを隠してくれる、この夜の帳が。
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