傘がない
窓越しに大きな灰色の雲が、じっとりと、動いているのが見える。
ゆっくりだが、それは確実にこちらへ近づいている。
須藤はイスから立ち上がると、鍵のかかっていないドアへ足を向け、開けた。
傘を持って。
浅倉香奈は今日も電車に揺られていた。
八時三十八分発、登り電車はすし詰め状態で、五十代だろうか、隣のサラリーマンの息が香奈の耳先に触れた。
しかし意外にも香奈はそれを不快だとも思わなかった。
ただ、そのサラリーマンに同情したというか、そうではない。
そういうものなのだ、満員電車というのは。
そういうものなのだ、働くというのは。
香奈の斜め前の女子高生がサラリーマンを睨みつけているのが見える。
何かそのサラリーマンが女子高生に悪さをしているとか、そういうわけではないし、ましてや痴漢でもない。
女子高生はただ、不快なのだ。深く考えていない。
目の前の汗にまみれたおじさんが、ただただ不快なのだ。
香奈もついこの前まではそうだった。深く物事を考えない。
今は、分かる。そのサラリーマンも、働くために、生きるためにこの電車に揺られている。
サラリーマンがふと体勢を変えてこちらを見た。
そこから目を逸らすように香奈は窓を見る。
薄暗い雲が遠くに見えた。
次第に香奈の職場も近づいている。
次の駅を電子音声が読み上げ、香奈はドアに向かうために人混みをかきわけ始めた。
香奈は丁度十ケ月前の今日、新社会人になり、駅に近いビルで働いている。
都会のビルと言っても、高層ビルではなく二階建ての大人しい建物だ。
香奈はビルに入ると、エレベーターで最上階へ向かう。
エレベーターのドアが開くとまたすぐに自動ドアが眼前に現れる。
いつものように社員証を自動ドアの右壁にとめてあるカードリーダーにかざす。
ビッと音が鳴って出勤完了の文字がモニターに点滅した。
「おはようございまーす。」
挨拶をしながら自分の席に向かう。
オフィスの広さはせいぜい小さなスーパーマーケットぐらいで、三十人ほどの社員が働いている。
『おはようございます』と言って、『おはようございます』と返してくる人はなかなかいない。
「うい」とか、「はーい」とか、「おつかれ」とか、「おはよう」とか。
要は、声をだして反応すればいいのだ。
自分の存在をしらしめるというか、コミュニケーションがとれればいい。
香奈の席はやはり窓側で、外が良く見える。
ふと空を見ると仄暗い雲がゆっくりと近づいてくるのが見えた。
雨。今日降るって言ってたっけな。ニュースよく見てないや。
嫌だなあ。
「浅倉さん」
「浅倉さん」
はいはい。ん?
「は、はい。なんでしょうか」
窓から目線を戻すと課長がスッとこちらを見ていた。
課長は白石といって、30代のわりに妙に落ち着いていた。
怒ったところ見たことないな。だからこそ面倒くさそうだけど。
「それ、見てくれたかな」
それ?それって。
ふと机に目をやると何かの書類が煩雑に置かれていた。
ああ、これね。
「すいません、まだ読んでいなくて」
「そうか」
外をボーっと眺めていたことをどやされるかと思いきや、帰ってきた言葉はその三文字だった。
「それさ、今日の会議で使うから、印刷頼むよ。前教えたとおりにね。」
「わかりました」
じゃ、と言って課長は席に戻っていった。
今日の会議って何時からだっけな。
もっぱら新人の役目は雑用でお茶をくんだり、書類を用意するだけなのだけど。
会議の内容はほとんど理解できなくて、なんとなく聞いたふりをしている。
いつか分かるようになる。と思う。
楽観しながら手帳を開くと『定例会議・十一時から』の文字。
「お腹空きそう」
誰にも聞こえないようにつぶやくと、香奈はコピー機へ足を運んだ。
あれ、コピー機ってどう使うんだっけ。
この際はっきり言おう。私はやる気がない。
そもそも就職活動を始めたのも、『みんなしてるから』とか、『親に迷惑が』とか、『生きていくためには』とか、そんな理由ばかりだ。
それでも、この会社は自分なりに入りたいと思って入った。合格の電話が来たときはそれは喜んだ。
けれど、けれどね。
夕暮れ。オフィスから自分の仕事を終えた人々が帰る中、香奈はスマートフォンの画面の中で笑う、数年前の自分を見ながら思った。
世の中には決して手に入らないものがたくさん、ある。
それは、例えば永遠の命とか、空を自由に飛べる能力とか。
香奈が心から欲しているものもそれだった。
どうしようもないと思いながらも、今日もまた、この渦に溺れていく。
田中先輩、中川教授、円香、教室の窓、空調の効かない研究室、ユニットバスのぼろいアパート、愛想の無いコンビニの店員。
みんな、元気だろうか。
みんな、どこへ行ってしまったのだろうか。
私は、今どこにいるんだろうか。
「浅倉さーん」
同期の金木の声だ。
なんとなく分かった。
「はーい。戸締りはしときますので。」
「よろしくーじゃあ、また明日ね」
また明日。
そっか。また明日来なきゃいけないのか。
エレベーターがポン、と鳴って香奈はまた一人きりになった。
帰るか。
のそのそと立ち上がるとエレベーターに向かう。
まだ少し仕事が残っているが、まあ、明日でも構わないだろう。
毎日、誤魔化しながら生きている。
エレベーターがポンと鳴った。
朝に見上げた雲は比べ物にならないくらいに大きく空を覆っていた。
早く帰らなきゃ。
敷地外へ踏み出すと、その瞬間、数億もの雨粒が地表を濡らした。
「えー」
マジか。
とっさにカバンをまさぐるが、
傘がない。
香奈の心にズン、と重たいものがのしかかった。
無論、傘がないという状況のみでそうなっているのでは、ない。
でも、何かが香奈の心を、気持ちを限界まで濡らした。
「はあ」
こんな時田中先輩ならなんて声をかけてくれるだろうこんな時菊池教授なら迎えに来てくれるだろうか前もこんな時があってあの時はサークルのみんなと笑いながら濡れたっけそういえばその日はみんなで銭湯にいってアイス食べたっけ美味しかったなあ
美味しかったなあ。
今は。
今は。
明日が、見えない。
「どうぞ」
「え」
突然香奈の頭上に何かが覆いかぶさって薄い影を作った。
傘、だった。
そこには傘を持った青年がいた。
誰。
「どなたですか」
「私は傘を貸し出しているものです。まあ、アルバイトなんですけどね。傘、いかがですか?」
ああ、そういうね。
都会って恐ろしいなあ
結構です。
言おうとした。
「いくらですか」
気づけばそう口走っていた。
「1000円です」
青年はニコッと笑った。
どこかホッとする笑みだった。
千円か。安くはないな。
「案外、しますね」
「あなたのための傘ですからね」
「なんじゃそりゃ」
「さあ、では傘を持って。自分の手で。料金は返す時でいいですよ」
「はい」
青年から傘を受け取った。薄暗い茶色でお世辞にも奇麗とは言えない傘だ。
「家は、どちらで」
赤の他人に教えられるか。
「あー、とりあえず最寄りの駅まで。駅からはすぐなんで、そこでお支払いしますよ」
「分かりました。では、行きましょう」
青年はバッグから自分の傘を取り出すと広げ、こちらを見た。
「お名前、なんていうんですか」
「僕は須藤っていいます。ほら、あそこ。のX大学に通っているんですよ」
「へえー」
二人は日も落ちて薄暗い路地の水たまりを避けながら進む。
須藤が斜め右方向の電線にかぶった茶色いキャンパスを指さす。
私もそこの卒業生なんですよと言おうとしたが、やめた。
自ら傷をえぐる理由もない。
「あの、傘を貸してるアルバイトって本当?」
本題に入ろう。少し歩いて冷静になったところだ。
この状況は異様といえば異様なのだから。
はい、と須藤はのんきな声で答える。
「とはいっても、それだけやってるわけではないですよ。もちろん」
ほら、と須藤はチラシを香奈に渡した。
「あー、逆に今時かも。こういうの」
要は、傘を貸すのに加えて広告をしているというわけだ。
じゃあ、待てよ。
「普通、広告渡されるなら無料でいいんじゃない、これも」
香奈が傘を指さした。
「そうなんですけど、まだこの商いは試験段階で、この広告も僕のオーナーがやってるカフェのチラシなんですよ」
「に、しても高いけどね」
「すみません…」
須藤は、はははと苦笑いした。
何秒か、何分か、経っただろうか。
人通りのない路地には二人の靴が雨を踏みしめる音と、降ってきた雨粒が傘と、地面にぶつかる音だけが響いた。
不思議とこの間に不快感はない。
ただ、また思い出させてしまう。
「ねえ、大学楽しい?」
楽しいんだろうなって思いながら聞いた。
人はしばしば、答えが解っているのに人に質問することがある。
それはきっと、自分を肯定してほしいんだろうなと思う。確認作業だ。
「うーん、別に。ほとんど興味ないんですよね。大学」
以外にも答えは陰鬱なトーンだった。
「そうなんだ」
なんで?と聞く気にはならない。
私は、さ
「私は、さ。楽しかったんだ。すごく」
香奈の心をせき止めていた何かが崩壊した。
さっき会ったばかりの青年に、裸の心をぶつけようとしている自分が、いた。
「きらきらしてた。毎日、友達と講義を受けて、たまーにさぼったり、アルバイト一日でやめたり、自由だった」
須藤は相槌を打たなかったが、真剣な目で見据えた。
「ちょっとしたことで憂鬱になったり、喧嘩したり。友達とか、彼氏とか。でも、それも含めて楽しかった。輝いてた」
だんだんと駅が見えてきた。
「大学2年生の終わりに、先輩が『来年就職だ』って言った時も、さ。思わなかった。実感が無かった。永遠に大学生でいられるって、もちろん思わなかったけど、さ」
二人の歩速は自然に遅くなった。それは香奈の心に対する優しさだ。
「そこからアッという間。ほんとに、あっという間。先輩が卒業したと思ったら、就職活動。それも夢中で駆け抜けて、気づいたら、今」
ついに二人の歩みは止まった。
交差点の奥にはいつもの、いつのまにか見慣れてしまった駅があった。
「今、私は空っぽ」
あればいいのに、タイムマシーン。
「タイムマシーンを待ってるの。突然、変だよね。ごめん。私の今のこの日常は、タイムマシーンが作られるまでの、消化試合」
誰にもこの悩みを言えなかった。久方振りに会った先輩も、友達も、みんな『今』を見てた。今を楽しんでたんだ。私の知らない友達、私の知らない思い出、私の知らないお店、私の知らない…
私だけが、取り残された。そう、思ってしまう。次第に連絡は途絶えた。私の物語は卒業式の記念写真で幕を閉じた。今のこの現実は、蛇足だ。めでたしめでたし。
「雨、止みませんね」
ふいに須藤が言った。
香奈は雨と涙でぐしゃぐしゃになった顔を須藤に向ける。
「うん」
「雨が降った時、どうしますか」
香奈は手にギュッと力を入れた。
傘。
「あなたは持ってるじゃないですか。傘」
ありがとうって思った。せき止められない思いを、安っぽい奇麗ごとで流さなかった。その厳しさと優しさに。
はなっから解けない式に、答えはない。不可能なことは不可能なのだ。
だとしたら、苦しむことが答えだ。
時に雨が降ったら、傘をさして、耐えればいい。
そうすればいつか…
香奈はふいに空を見上げた。混沌とした、鈍色の雲が見えた。
雨は、まだ止まない。
どれだけの水分を蓄えているんだろうか。
どれだけ降れば、満足するの?
どれだけ長い時間を誤魔化せば、止むのか。
天の気分か。私はどうしようもない。天気を変えることは。
それでも。
また、手に力が入る。
「その傘、気に入ってくれたようで、なによりです」
須藤が言う。
香奈は思わず微笑んだ。
「…うん」
「残念ですが、そろそろ返してもらいますよ。その子を」
駅の入り口に差し掛かって、須藤が言った。
「そうね。じゃあ、お金」
財布から千円を取り出して須藤に差し出した。
「ありがとうございます」
須藤は迷いなく受け取ると、ペコリとお辞儀した。
「最後に聞いていいかな」
「はい」
「あなたも、誰かに傘をさしてもらったの?」
そうなんでしょ。
「はい」
須藤はそうとだけ言うと、駅の出口へ、人をかき分けて、まだ雨が降る街へ消えていった。
「はあ…」
香奈は一言だけため息をつくと、少し微笑み、足を改札口へと向けた。
後で傘を二本買おう。
そう思いながら、前を向いた。