8:「23:00」
サクの腕の中は温かくて、すごく安心できた。冷たく固くなってしまったすずの心を、とろとろと溶かしていってくれる。
涙がようやく止まり、まどろむような心地になってきた。
「――落ち着いた?」
サクがすずの顔を覗き込んできた。すずはこくりと頷く。サクの指がそっとすずの目元に触れ、涙を拭ってくれた。
優しいその手つきに、どきんと心臓が飛び跳ねる。
「あ、あの、サク先輩」
「ん?」
「は、恥ずかしい、です……」
下を向いて絞り出すようにそう言うと、サクのくすくすと笑う声が降ってきた。
「本当に可愛いよね、すずちゃんは。……ほら、こっちを向いて?」
「む、無理、です……」
火照った頬を隠すように、両手で顔全体を覆う。会ったばかりの人の前で、こんな風に泣いてしまったというだけでも恥ずかしいのに。
優しく抱き締めてもらった上に、涙まで拭われた。しかも、蕩けるような甘い視線も向けられているような気がする。
こんなの、元の世界ではひっくり返ったって起こらない事態だ。
さすが、異世界。
「うう、な、なんでサク先輩は私なんかに、こんなに優しくしてくれるんですか……」
眉を下げ上目遣いで問うと、サクの頬がほんのりと赤く染まった。サクは照れ臭そうに微笑むと、少し視線を逸らして言う。
「優しくするのは当たり前だよ。だって……すずちゃんは俺のために、ここに来てくれたんでしょ?」
「……へ?」
何のことかさっぱり分からなくて、すずはきょとんとした。サクは視線を外したまま、少し早口で続ける。
「いや、だってさ! すずちゃんみたいな可愛い子が、俺にすがって泣いてくれるとか普通ありえないし! だ、抱き締めても嫌がられないとか、奇跡だし! これはもう、俺のために用意されたヒロインだって思うだろ!」
サクの顔がどんどん赤くなっていく。釣られて、すずの頬も熱くなってしまう。
可愛いって! ヒロインって!
すずのことを高く評価しすぎな気がする。
真っ赤になって黙ってしまったサクとすず。そんな二人に呆れたような声が掛けられた。
「おふたりさん。甘酸っぱい空気はそこまでにしてくれる?」
半眼のみかが、そこにいた。
「まあ、サクが騒ぐのも分かるけどね。だって、すずちゃんってサクの理想そのものだもん」
「理想、ですか……?」
首を傾げるすずに、みかはにやりと笑ってみせた。
「サクはほら、あまり背が高い方じゃないでしょ。顔だって悪くはないけど、童顔の可愛い系だし。だから、サクはずっと言ってたのよ。自分より背が低くて、自分より幼い顔立ちで、小動物みたいに可愛い女の子が理想なんだって」
「ちょっと、みか! 勝手に暴露するなよ!」
サクが慌ててみかの口を塞ごうとした。でも、みかはひらりとそれを躱す。
背が高めで長い脚を持つみかは、さらさらのショートボブの髪を揺らし、華麗に舞っているように見えた。
「私とコウを呼びに来た時に、『理想の女の子を見つけた!』ってサクが言ったの。小動物系で、控えめで、甘えてきてくれそうな可愛い子。本当にそんな子いるのかと思ったけど、すずちゃんを見たら私も納得しちゃったのよね」
小動物系、といわれたのは初めてだ。
自分ではずっと自分のことをただの臆病なチビだと思ってきたので、なんだかくすぐったいような気持ちになる。
サクとみかの攻防戦がしばらく続き、なんとなく落ち着いた雰囲気になってきた頃。
ずっと大人しく黙り込んでいたポニーテール少女つばきが、口を開いた。
「みんな、窓の外を見て。――あの怪しい人影、また少し増えてない?」
「え、嘘……」
みかがサクをからかうのを止め、窓に駆け寄る。恐る恐る外を見て、そして固まった。
すずもみかの隣に立って、その視線の先を追う。
月明かりに照らされた校庭。そこに、ゆらりゆらりと透明な人影が佇んでいる。
二十人くらいはいるだろうか。確かに、増えているようだ。
「あれって校舎の中にまでは入ってこないよね? 大丈夫だよね?」
つばきが震える声で言い、窓から離れた。そして、廊下側の方へと移動し、扉を少し開ける。
つばきはごくりと喉を鳴らした後、恐々と廊下を覗き――はっと息を呑んだ。青ざめた顔で扉を素早く閉める。
「どうしよう、あの人影、廊下にもいるんだけど」
今にも泣きだしそうな顔をするつばきに、みんな何と返したら良いのか分からなくて黙り込む。
透明な人影がもし、この教室に入ってきたら。
なすすべもなく捕まってしまう気がする。見つからないように身を隠しながら、逃げた方が良いのかもしれない。
「どうする?」
小声で、でも鋭くサクが問う。みんな顔を見合わせて、微妙な顔をするしかない。
教室を照らす明かりが、ちかちかと瞬いた。
「……あのさ」
教室の隅に突っ立っていたゼンが、眼鏡の位置を直しながら提案する。
「このままこの教室にいるだけじゃ、何も解決しないと思います。何か、この状況を打破する方法を調べてみるべきじゃないですか?」
「調べるって、どうやって?」
「図書室に確か自由に使えるパソコンがありましたよね。スマホは圏外なのか繋がらないけど、パソコンならネットに繋げるかも。それが駄目でも、何か参考になる本とかあるかもしれないし」
サクとゼン、ふたりの男子生徒が真剣な声色で話し合う。二人ともじっとしているのが性に合わないらしく、有効な策を求めて動きたいと考えているようだった。
ひとまず図書室まで行ってみるかと、話がまとまりかけた時。
「――嫌よ、私は」
「つばき?」
拒否の姿勢を見せるつばきに、ゼンが眉を顰めた。つばきはいやいやと首を振る。
「廊下にも人影がいるって言ったでしょ? 見つかったらどうするのよ! ゼンのせいでみんな消されるかもしれないじゃない!」
「……じゃあ、つばきはここにいれば? 無理に一緒に来いとは言わないよ」
「ちょ、ちょっとゼン、何言って……」
ゼンの腕を取ろうと、つばきが手を伸ばした。けれど、ゼンはその手を払い、呆れたような視線をつばきに送る。
「つばき、お前さ。いつも偉そうにしているくせに、こういう時本当に駄目だよな。俺、お前のそういうとこ、好きじゃない」
吐き捨てるような一言を残し、ゼンが踵を返す。そのまま教室の扉を開け、廊下の様子を窺う。
人影はどこかに行ってしまっていたらしく、ゼンはほっとした表情を浮かべた。その後、慎重な足取りでゆっくりと教室を出て行く。
サクが慌ててゼンを追う。さすがにひとりで行かせるのは危ないと思ったのだろう。
すずもなんだかじっとしていられなくて、サクのすぐ後ろに続いた。
ちらりと教室を振り返ると、そっぽを向いたつばきとひらひらと手を振るみかが見えた。
みかたちは行く気がないらしい。
ここからは、別行動だ。