21:「5:30」
サクは語る。
九月某日、十六時頃。
まだまだ暑く、湿っぽい熱気が肌にまとわりつく――そんなある日の放課後のこと。
「ああ、最悪だな」
机の上の小テストにため息をつく。サクは英語が苦手だ。どうやっても単語を覚えられないし、文法だって何のことやら分からない。
五文型、動名詞、分詞、関係代名詞、仮定法。何だそれ、という言葉の羅列に頭が痛くなる。
受験生の夏休み、それなりに勉強してきたはずなのに。
「英語なんて勉強する意味あるか? 日本人なんだから、日本語ができれば良いだろ」
まあ、大学に入ればたとえ理系であっても英語が必要になると聞いたことはあるのだけど。
なんでも英語の論文を読んだり、英語で論文を書いたりするらしい。
最近はそれもコピペを疑われないように、他の論文の文章を真似るのは厳禁だという。
だから、英語力は必須なのだと。
本当に、うんざりする。
気分転換に、とサクは旧校舎へと向かった。あそこは割と涼しくて、穴場だ。
立ち入り禁止であるがゆえに、人もいないし居心地が良い。
ロープをまたいで、旧校舎の中に入る。ひんやりとした風が頬を撫でていった。
古臭い木の床には、あちこち穴がある。窓ガラスには汚れがこびりついていて、外の風景は曇って見えた。埃っぽい廊下を軽い足取りで進み、二階へと上がる。
ギッギッという、木がきしむ音が耳を打った。天井には雨漏りの跡だろうか、薄く黒ずんだ模様が浮き出ている。
「あー、暑い」
二階の一番奥にある空き部屋に入り込み、そこに置いてある木箱の上に座る。
家に帰ったら、また母親に怒られるに違いない。どうしてこんな成績なの、もっと勉強しなさい、と。
ああ、帰りたくない。
校庭からは運動部の騒がしい声が聞こえてくる。こんなに暑いのに、ご苦労なことだ。
サクはその声に耳を澄ませながら、目を閉じた。
旧校舎の奥は、聖域だ。現実から離れ、真っ白な気持ちになれる。
――その時。
グラグラと体を揺さぶられる感覚に、はっと目を見開いた。体の中心がすっと冷えていくような気がして、思わず身を強張らせる。
地震か? でも、まあこれくらいの揺れは、よくあることだ。
大丈夫、すぐにおさまる。
けれど、すぐ上で何かが折れるような音がした。
ぱらぱらと粉のようなものが落ちてきて、頬に当たる。かと思うと、ぐらりと視界が揺れた。
壁が、天井が、落ちてくる。
「嘘、だろ」
心臓の音がうるさい。
そして、世界は、暗転する。
*
「――で、気付いたら、この夜の校舎に閉じ込められていたんだ」
サクが青ざめた顔で、音楽室を見回す。すずはサクの手を両手で包み、黙ってその話を聞いていた。
「みかの話と合わせて考えると、たぶん、ななみやゼンたちも俺と同じように、旧校舎の下敷きになったんだろうね。すずちゃん以外、きっと、みんな」
サクは乾いた唇を噛み、何かを堪えるように目を閉じる。
「ここは恐らく生と死の狭間なんだ。あの透明な人影は、俺たちを死後の世界へ連れて行くためにいるんじゃないかな。ななみも、ゼンも、つばきも、コウも、みかも……そして、俺も。助からないんだ、もう」
「そんな! そんな、こと……」
「すずちゃん、気付いてた? この世界、匂いがないんだよ」
すずの心臓が、嫌な音を立てた。
言われてみれば、この世界に来てから何の匂いも嗅いでいない気がする。
図書室では、古い本の独特の匂いがあっても良さそうだったのに。
調理実習室にも、調理をする場所特有の匂いが存在するはずだった。
美術室はあんなに絵の具があったのに、何の匂いもしなかった。
ずっと気になっていた、「足りない何か」。
それは、「匂い」だったのか。
違和感の正体が、今、はっきりと分かった。
ぞくり、と背筋が凍る。
「それに、今、この音楽室の窓は、旧校舎の闇のせいで真っ暗に塞がれてる。電気もつかないし、月明かりの光さえ遮断されているはずなのに……何もかも、普通に見える。おかしいよね?」
学校の外に出られなかったり、人が砂のように消えたり。
あからさまにおかしいところを目の当たりにしてきたのに、今更、変かもしれないけれど。
恐い。この世界の全てが、恐い。
体が、震える。
生と死の狭間。死後の世界。
「あ……」
音楽室の隅に、ゆらり、と透明な人影が現れた。サクとすず、ふたりの方へと近付いてくる。
「駄目……来ないで……」
すずはサクにしがみつき、透明な人影を見上げる。透明な人影はすずの声なんて聞こえていないようだ。ゆっくりとサクに手を伸ばしてくる。
透明な手を払おうとするけれど、すずはやっぱりその手に触れられない。擦り抜けて、何の抵抗もなく終わる。
サクはただじっと透明な人影を見つめて、静かにその時を待っていた。
「サク先輩、逃げましょう! 捕まったら駄目! 消えたら嫌!」
「――すずちゃん」
サクが怯えるすずを抱き締めた。
匂いもしないし、見えるものだっておかしい。この世界の何もかもが嘘っぱちで、本当のものなんてひとつもないのかもしれない。
でも、ひとつだけ、信じたいものがある。
それは、温もり。サクが抱き締めてくれている、この温もりだ。
「すずちゃん、生きて」
すずの耳元で、サクが囁いた。
透明な手が、サクを掴む。サクの腕を、足を絡めとっていく。
すずの目の前で、透明な人影がサクを襲う。
死後の世界へ、引き摺りこむつもりなのか。
「くっ……」
サクの肩に、じわりと赤い染みが広がる。続いて、腹に、背中に、頭に。
次から次へと、赤が広がっていく。
サクが痛みに顔を歪ませ、絶叫する。
倒れそうになるサクの体を、すずはなんとか支えた。
ずしりとした重みをしっかりと受け止め、ひとまず床の上に座りこむ。
それから。
すずは手のひらをかざし、すぐさま黄色い光を呼び出した。




