2:「21:00」☆
すずの通う高校では、ある噂がまことしやかに囁かれていた。
八月の満月の日、深夜零時の学校。秘密の鍵を持った生徒の前に、不思議な光を放つ扉が現れる。
扉を抜けると、そこは異世界。異世界に辿り着いた生徒には「ギフト」と呼ばれる特殊能力が与えられ、その世界で使うことができるようになるという。
どんな「ギフト」がもらえるのかは分からない。でも、異世界で過ごすのにとても役立つ能力なのは間違いないらしい。
元の世界に帰るには、あらかじめ決まっている「任務」を達成するだけで良い。
その「任務」もそこまで難しいものではないので、気楽に異世界を楽しむことができる。
――とまあ、こんな噂が。
大多数の生徒は、そんなこと現実にあるわけないでしょ、と鼻で笑う。すずも初めてその噂を聞いた時は、素直に信じることはできなかった。
けれど、その夢みたいな話はずっと、心の片隅に引っ掛かっていた。
異世界ってどんなところなんだろう?
魔法とかあるのかな。
妖精や精霊とかいたりして。その子たちと、友達になれるかな。
恐いモンスターが出てきても、「ギフト」という特殊能力を使えば簡単にやっつけることができるんだろうな。
そしたらきっと、その世界の人たちにすごく感謝されて……。
でも、そんな妄想はすぐに砕け散る。
「え、七つしかないの? その、異世界の扉を開く秘密の鍵って」
「うん、そうらしいよ。三年に一度、選ばれた七人の生徒しか行けないんだって」
すずは情報通の友達にそう教えられて、がっくりと肩を落とした。
この高校には六百人ほどの生徒がいる。異世界への鍵を手に入れられる確率は相当低いみたいだ。
そんなの、スマホゲームの最高レアのカードを引くくらい難しいよね。
すずはくじ運とか全くない方だから、もう絶望的だ。
――そんな風に思っていたからこそ。
その女子生徒に声をかけられた時に、過剰に反応してしまったのだと思う。
あれは、今から二ヶ月ほど前。梅雨のじめじめした天気にうんざりしていた日のこと。
肩にかかるくらいの髪を低めの位置で二つに結った女子生徒が、すずに話し掛けてきた。制服の胸元に結んだリボンの色が青だったので、三年生の先輩だということが分かる。彼女は意志の強そうな綺麗な瞳を持つ、美人さんだった。
「はじめまして。突然だけど、あなたは異世界に興味ある?」
なぜ見知らぬ三年生にそんなことを聞かれるのか、すずには全く分からなかった。放課後、ひとりでぼんやりと教室に残っていたから話しかけやすかったのかもしれない。
「ああ、急にこんなこと聞かれても困るよね。ごめんね、実は私、異世界へ行くための鍵を持っているんだけど……それを使ってくれる人を、今探しているところなの」
「異世界……鍵……? え、本当に、そんなのあるんですか……?」
「あれ、興味ある? やった! じゃあ、一緒に来て!」
その美人の先輩は、どうやら噂の鍵を管理している人らしい。校舎の端にある小さな物置部屋まですずを導き、奥の方から古ぼけた箱を取り出してくる。
箱の中には、それぞれ違う色の石がはめ込まれた鍵が五つ入っていた。
黄、赤、青、緑、橙の五色。その鍵たちが雑に放り込まれている。
それを見て、すずは首を傾げた。鍵は七つあるという噂なのに、なんで五つ?
けれど、人見知りをするすずは疑問を口にすることなく飲み込んだ。
なんとなく流れでこの先輩に引っ張られてきてしまったけど、心を開いたわけではない。よく知らない人に話し掛けるのなんて、緊張するから絶対できなかった。
キラキラ光る鍵には、それぞれ石と同じ色のプレートがつけられている。『生き残れ』『大恋愛せよ』『笑顔を取り戻せ』『世界を救え』『頂点に立て』。プレートにはそんな言葉たちが並んでいた。
「鍵を使ってくれる人がなかなか見つからなくて、困ってたの。みんな異世界とか全然信じてないんだもの。……でも、良かった。あなたは信じてくれそう」
美人の先輩はにこりと笑って、すずの手を握ってきた。
雨の音が耳に響く。濡れたアスファルトの匂いが鼻を突く。
もう、断れる雰囲気ではなくなっていた。
――こうして、すずの異世界行きは意外にあっさりと決まってしまったのだ。
そして、異世界への扉が現れるという八月の満月の日。校舎の端の物置部屋に、異世界へ旅立つメンバーが集められた。
鍵を管理している美人の先輩が、ひとりにひとつずつ鍵を渡していく。
すずに渡されたのは、黄色の鍵だった。
「さて、少し説明をするね。鍵についているプレート、これが『任務』。そこに書いてある内容を達成できれば、今いるこの世界に帰ってこられるよ。『ギフト』については、人や世界によって変わるから今は分からない。つまり、異世界に着いてからじゃないとどんな能力になるかは分からないってことなんだけど……必ず何か使えるはずだから、いろいろ試してみてね」
すずはうんうんと頷きながら、先輩の説明を聞いていた。けれど、プレートに書かれている『生き残れ』という任務に気付くと青ざめた。
これって、命の危険があるような世界に飛ばされるってこと?
そんなの、嫌!
思わず鍵を返してしまいたくなったけれど、嫌なことを嫌とはっきり言えない性格のすずだ。
結局そのまま、黄色の鍵で異世界に送られることになってしまった。
「黄色は音楽室、赤色は特別教室、青色は階段の踊り場、緑色は体育館、橙色は美術室に扉が現れるよ。深夜零時には各自、指定場所に行ってね。あと、何か質問はある?」
鍵を渡された生徒のうち、一番おしゃれな感じの女子が手を上げた。
「鍵は七つあるって聞いたんですけど。あと二つは?」
「ひとつは私が持ってるよ。ほら、この紫の鍵ね。あともうひとつは虹色の鍵だって言われているんだけど、それは行方不明なの」
美人の先輩が持っている紫色の鍵には『みんなを導け』というプレートがついていた。
すずはちょっとだけ、その鍵と交換してもらいたくなった。『生き残れ』よりも、格段に良い任務に思える。
まあ、そんなことを言い出す勇気はない。すずは黄色の鍵を握り、とぼとぼと音楽室に向かった。
そして、深夜零時。
異世界への扉なんて現れない方が良いのにと思うすずの目の前に、あの不思議な光が生まれた――。
*
「すずちゃん? どうしたの、ぼーっとして」
「あ、いえ。何でもないです」
サクが振り返り、すずの顔を心配そうに窺ってくる。
すずは慌てて首を振り、曖昧に笑ってみせた。
廊下にはサクとすずだけだ。他に誰もいない、しんとした夜の廊下は少し恐い。
もしサクが隣にいてくれなかったら、きっとすずは一歩も前に進めなかっただろう。
「えっと、あの、サク先輩」
「ん? 何?」
「一緒にいてくれて、ありがとうございます」
異世界に来て、初めて出逢ったのがサクで良かった。臆病者のすずを責めたりすることなく、優しく導いてくれる。本当に、ありがたいことだと思った。
人見知りをするすずが精一杯の勇気を出して言ったお礼の言葉を、サクはほんのりと頬を染めながら受け取ってくれる。
「いや、うん。俺の方こそ……なんか、ありがとう」
「ふふっ」
すずは笑いながら、サクと繋いでいるのと反対側の手のひらに意識を向ける。
その手の中には黄色の鍵があった。
この鍵をそっとスカートのポケットに突っ込む。
今はまだ、『生き残れ』という任務のことは忘れていたかった。
それからすぐ後のこと。
サクとすずはみんながいる教室に辿り着いた。




