百合幽霊にご用心
【登場人物】
九重知春:高校二年生。性格はざっくばらんで怖い物知らず。
綿引ほたる:知春のクラスメイト。清楚で少し内気。霊感はない。
伽玖莉:着物姿の少女の幽霊。女の子同士の睦み合いが好き。
その声は深淵よりも暗き闇のなかで何処から響いてきたのだろうか。
――あぁ憎い。恨めしい。
少女は一文字一文字に憎悪を込め怨嗟を重ねひたすらに言葉を紡いでいく。
世界を呪うように。自らを慰めるように。
しかし世界は何も変わらず、自らの心の澱が消えることもない。それを知っているからこそ少女は今宵も哭き唄う。
ふと少女は唄を止めた。そのまま闇の向こうを睥睨する。
「……雰囲気ヤバくない?」
「お? もしかしてビビってる?」
「び、ビビってないし! マサの方こそさっきからきょろきょろしてんじゃん!」
「ばっ、ちげぇよ! これは武者震いってんだよ!」
迷い込んだ獲物は二体。先に待ち受ける脅威に気付かず歩を進める。
少女の睥睨した瞳が紅く揺らめいた。
ふつふつと湧き上がる感情にその表情が歪んでいく。
――あぁ憎い。恨めしい。
怨嗟の声が再び闇に木霊したとき、すでに少女の姿はそこになかった。
しばししてあたりに耳を劈く悲鳴が轟いた。半狂乱な叫声はまるでこの世ならざる何かを視てしまったかのようだ。
慌ただしく遠ざかる足音が完全に聞こえなくなったとき、少女は暗中へと舞い戻ってきた。
その表情はいまだ晴れることを知らない。
少女は今夜もまた独り、静寂の闇の中で世界を呪い続ける。
いつか願いが叶うそのときまで。
◆
『みんなで肝試しに行こうって話が出たんだけど、九重さんもどうかな?』
夏休みの某日。仲のいい友人に誘われてあたしは郊外の森の中へとやってきていた。
時刻は夜の十時を過ぎた頃。熱帯夜というやつか、真夏の夜は気温が高く少し歩いただけでも汗が額や首から垂れてくる。
今この場にいるのはあたしを含めて四人。スマホのライトで前方を照らしながら森の小路を進んでいく。心霊スポットとして有名らしく、人が定期的に往来するおかげで歩きやすくなっている。そんなにたくさんの人が来ているのかと思うと心霊スポットが途端にアトラクションのように感じてしまうのはあたしだけだろうか。
鳥や動物らしき物音が聞こえるたびにきゃあきゃあ騒いでいたクラスメイトが前方を指さした。
「あ、あったあった、アレがそうなんだって」
そこにはボロボロになった屋敷が建っていた。屋敷を取り囲んでいた塀は半分以上崩れ、門扉も地面に倒れている。庭には草木が生い茂りかなり長い間放置されていたことが窺える。
「ここで女の子の幽霊を見たっていう報告が何件もされてて、本物じゃないかって言われてるのよ」
「この前も肝試しに来たカップルが逃げ帰ってきたとかなんとか」
したり顔で話す二人の言葉を聞いて、あたしの隣にいた綿引ほたるさんが震え声で尋ねてきた。
「……ほ、ほんとにいるのかなぁ」
「さぁ? 幽霊の正体見たり枯尾花って言うし何かと見間違えただけかもよ」
「九重さんってもしかしてこういうの強い?」
「強いっていうかあたし幽霊信じてないから。むしろこういうとこだと潜んでいる人とか野生動物の方が怖い」
幽霊に襲われて死んだ人よりも人間や動物に襲われて死んだ人の方が圧倒的に多い。その事実だけであたしには幽霊を信じる気にはなれなかった。
「じ、じゃあ九重さんが先頭ってことでいい?」
屋敷の玄関に着いた二人が急にあたしを振り返って言った。
「別にいいけど、幽霊見つけたいなら一番前の方がいいんじゃないの?」
聞き返すと二人が顔を見合わせる。
「そ、それは……」
「思った以上に中が暗くて……」
どうやらここにきて怖くなってしまったとらしい。
あけっぱなしの玄関から中を覗き見る。月明かりすら入ってきていないそこは闇よりも深い暗黒で、ともすれば飲み込まれてしまいそうにも感じられる。
ばかばかしい。夜は夜で闇は闇だ。暗い場所なんて家の押し入れにもあるじゃないか。そこに何かがいたら怖いと思うから脳が勝手に何かがいるかもしれないと思い込んでしまうだけ。
あたしは一度息を吐いてから先頭に躍り出た。
「じゃあ中に入るよ」
少し広めの玄関に足を踏み入れる。入った途端空気が変わったような気がした。気温は高いはずなのに肌に触れる風はどこか涼しいような……。ないない。変な妄想を振り払いあたしは先に進んだ。
「所々床に穴があいてるみたいだから気を付けてね」
ライトで先を照らしながら後方に呼びかける。現実問題幽霊よりも倒壊の方が数倍恐ろしい。
四人で一塊になって部屋を順々に巡っていく。広間、客間、土間の台所、私室や寝所として使っていたと思しき部屋等々。年月の経過に加えて人が出入りしたせいか家具類は破損したり散らばったりしていた。
「この家、かなり昔のみたいだけどいつくらいに建ったんだろ」
あたしがぽつりと漏らした言葉に後ろの一人が反応した。
「ネットでは江戸時代の後期じゃないかって言われてるっぽい。その後ここを解体する話が何度も出たんだけど幽霊のせいで中止になってきたんだって」
「そんな幽霊ごときで大袈裟な。さっさと壊しちゃえばいいのに」
「な、な、なんてことを……! 女の子の霊に祟られるよ!?」
「祟りなんてものがあるなら是非見てみたい――ん?」
通路の奥の方で何かが見えた。
「……着物?」
赤い着物のようなものを着た何かが奥の部屋に入っていった。
「ど、どうしたの九重さん急に着物とか言い出して?」
「いやなんか向こうの方で着物を着た人が見えたから」
「――――」
あたし以外の三人が息を飲んだ。
「じゃあ本当にいたのか見に行こっか」
特に何も思わず提案するとそれぞれが多様な反応を返してきた。
「べ、べべべ別にむむ無理してみみ見に行く必要なくなくなくない?」
声が震え過ぎてよく分からなかったり。
「おばけなんてないさおばけなんてうそさ~」
急に歌い出したり。
「………………!」
あたしの腕を握って全力で首を横に振っていたり。これは綿引さんだが。
「幽霊が目当てなのに幽霊見に行かなくてどうすんの? 上野動物園に行ってパンダ見ないのとおんなじくらい意味わかんないんだけど」
「ゆ、幽霊とパンダを一緒にしないで!」
「あたしが見たのがパンダの幽霊かもしんないじゃん」
「みまちがえたのさ~」
「まぁパンダが着物を着るかは知んないけど」
「………………!?」
四人で問答をすること数分、とりあえずその部屋の前だけ通って玄関に戻ろうという話になった。
軋む廊下を進みながら後方でクラスメイトたちの話す声が聞こえてくる。
「私なにかあったときの為に塩を持ってきたんだ……」
「それって食卓塩だよね。幽霊相手だったら天日塩の方がいいんじゃない?」
「はぁ? 現代の塩の大半は濾過した海水を真空蒸発缶で煮詰めて作ってるんだから天日塩の方がナンセンスでしょ!」
「太陽の光を浴びることで塩に太陽エネルギーが溜まって聖なる力を生み出すんだから天日塩の方が正義に決まってるじゃん!」
謎の塩談義。というか盛り塩は知っているが直接塩を幽霊にかけて効くんだろうか。
ふと握られたままのあたし腕に力が込められた。見ると綿引さんが不安そうな顔であたしに視線を向けていた。その視線に応えるように笑う。
「大丈夫だって。幽霊なんかいやしないんだから。ぱっと見て『やっぱり見間違えたんだ』で笑って終わり」
「……うん」
綿引さんがこくりと頷いた。あたしの言葉で表情に少し明るさが戻ったようでなによりだ。
くだんの部屋の前に到着した。襖が開いていたので中には入らずにあたしたちは顔を縦に四つ並べて部屋の様子を窺う。
ライトに照らされたその部屋は他の部屋と比べると小綺麗だった。家具や調度品がほとんどなかったからかもしれない。ただし、なによりも一番目立つものが部屋の奥に置かれてあった。
仏壇。
もともとは金色に輝いていたであろうそれは今は薄黒く汚れてしまっていた。中央には仏像と位牌のようなものが置かれてある。
「…………」
誰かが生唾を飲み込む音が聞こえてきた。
「……まぁ幽霊いないっぽいし、帰ろっか」
あたしがそう言ったとき。
――待っておった。
幼い女の子の声が聞こえた。いや違う。聞こえた気がした。だってその声はどう考えても耳から聞こえてきたものではない。距離も方角もまったく分からない声がただ頭の中に響いたのだ。
「今の声……」
「私も聞こえた……」
「誰も喋ってないよね?」
「……うん」
あたしたちは顔を見合わせた。まさかほんとに。そう思いはするが誰も何も言わない。口にしてしまえば存在を認めてしまうから。
そのとき仏壇の前に少女が立っているのに気が付いた。赤い着物におかっぱ頭の可愛らしい女の子。着物には精緻な花の模様が入れられていて見るからに高級品だと分かる。
あたしはほっと息を吐いた。なんだ。やっぱり人がいたんじゃないか。きっとここに肝試しにきた人を脅かしていたんだろう。遊びなのか何かの番組の企画なのかは知らないが、タネさえ分かってしまえば怖くもなんともない。
「そんなとこでどうしたの?」
あたしは部屋に入って女の子に話しかけた。もしかしたら近くに住んでいる子が迷い込んだのかもしれないと思ったから。
その途端、あたしの背後にいた三人が小さく悲鳴をあげた。綿引さんがくいっとあたしの背中を引く。
「こ、九重さん、だ、誰に話しかけてるの?」
「あそこにいる女の子にだけど。ほら、さっき言った赤い着物きてる」
「ど、どこにいるの?」
「そこにいるじゃん。仏壇の前」
「……誰もいない、よ?」
「…………え」
きゃあああああ、とあたし以外の三人が大声で叫び、走りだした。綿引さんがあたしの腕を力いっぱい引くのであたしも走らざるを得なかった。
慌ただしく駆けながら背後を振り返るともうそこに女の子の姿はなかった。
――お主に決めた。
そのときまた声が聞こえた気がしたが、走る喧噪に紛れて霧散していった。
それからあたしたちは一目散に逃げ帰った。帰り道はおかしなことはまったく起こらなかったが三人から散々『嘘じゃないよね』と確認をとられたあげくに食卓塩を頭から掛けられてしまった。清めの効果があるならあやかりたい気分だったのでそれはそれでいいんだけど。
家に帰ったのは日付が変わる少し前だった。起きて待っていてくれたお母さんと幽霊見たよなんて軽口を叩き、お風呂に入って就寝した。
結局あのとき見た女の子が何だったのかは分からなかったけど、幽霊だろうと幻だろうとあたしには関係ないこと。きっともう二度と会うことはないのだから。
でも本当に幽霊なんだったら、少しくらい話をしてみたかったな――。
《話がしたいのなら存分にしてやってもよいぞ》
「…………?」
ベッドに仰向けのまま目を開けた。瞬間、心臓が止まるかと思った。
「――――」
目と鼻の先におかっぱの女の子がいた。その赤い着物は間違いなくあの廃れた屋敷で見た女の子のものと同じ。
そして視線を動かしたときもう一つ気付いてしまった。この女の子の下半身があたしの胸に埋まっている。
《どうした? 驚くのも無理はないが――》
「っ!!」
反射的に手が出た。顔の前を飛ぶ蚊を叩き落とす勢いで腕を振るう。
しかしあたしの手は女の子の体を擦り抜けてしまった。
《いきなりな挨拶ではないか。近頃の女子は声を発するより先に手が――》
聞こえる声を無視してもう一度腕を振るう。
《じゃからそれを止めよと――》
まだ振るう。
《いいから妾の話を――》
まだまだ振るう。
《ま――》
両腕をがむしゃらに振るう。空気を細かく撹拌すれば霧散するかもしれない。
女の子の顔の辺りを重点的に狙ってばたばたと手や腕を動かすことしばし。
《いい加減にせんか! 妾のことを蝿のように扱いおって! そのようなことで消えるわけがなかろう》
あたしの腕に対して、しっし、と袖で払う女の子を見てとりあえず、今いるここが現実かどうかを確かめる為にベッドから起き上がった。
部屋の電気を付けて完全に目が覚めたあたしはベッドの上で女の子と向かい合って座っていた。先程まであたしの胸から生えていたはずだが今は全身外に出てきている。
「あ、あの……」
《非常識とは思わぬか。初めてまみえた麗しき妾に対して暴力を振るおうなど、恥を知るがよい》
「はぁ、すみません」
ぷりぷりと怒る幽霊少女に形だけ謝る。けれど常識を逸脱しているという点で言えば目の前の少女の方が勝っていると思う。
「……非常識って幽霊に言われてもねぇ」
《聞こえておるぞ!》
声を荒げる少女。ただあたしの中ではすでにこの少女に対して恐怖や警戒心などは抱いていなかった。彼女が悪霊で人に仇なす存在だとするならとっくにあたしが何かされているはずだ。
「で、なんであの屋敷にいたはずなのにあたしの家にいるの?」
《む……随分落ち着いておるが妾が怖くないのか?》
「最初は驚いたけど今は別に。こうやって話が出来る時点でネズミやカラスより数倍マシ」
全ての生き物と意思を交わせられるなら人が無意味に他の生き物を恐れたりすることはないと思ってる。同じ人間でも一番障害となるのが言語なのだから。
《妾を畜生と比べられるのは些か不愉快じゃが……まぁよい。妾がここにおる理由は、お主に取り憑かせてもらったからじゃ》
「とりつ……え、マジで?」
幽霊に取り憑かれたと聞いてもまったく自覚はないが、幽霊本人から宣言されるのは若干気味が悪い。
《まじじゃ。というのも、お主から並々ならぬトイチハイチの気配を感じてな》
「トイチハイチ? なにその利子みたいなやつ」
《女同士の睦み合いのことじゃが》
「女同士の……恋愛ってこと?」
《うむ》
「いや意味わかんないんだけど……。別にあたしは女の子が好きな訳じゃないし、それであんたがあたしに取り憑く理由もわかんないし」
《妾はな、トイチハイチが好きなんじゃ》
「はぁ」
《村の中で密かに慕っていた女子もおった。しかし武家に嫁がされた妾にはそれは決して許されることではなかったのじゃ》
「はぁ」
《嫁がされたことに関しては恨んではおらぬ。そういうものであると知っておったし、あのお方も妾のことを大切にしてくれた。ただ嫁いですぐに流行り病で倒れてしまっての。子も成せぬまま、本懐も遂げられぬままでは死ぬに死にきれず、床に伏せたままこの世を恨み憎み続けておったら――いつの間にやら幽霊になってしもうたんじゃ》
「…………」
割とヘビーな人生を歩んでらっしゃったようで何も言えない。
《まぁ妾自身が幽霊だと気付いたのはしばらく後になってからなんじゃが、それからも色々あってな。僧侶にイタコに陰陽師にと様々な者どもが妾を祓いにきよったわ。いやぁあれはなかなかに大変じゃった》
どことなく楽しそうに話す様子は昔のやんちゃしてた頃の武勇伝を語る人みたいだ。
「それはその、つらかったんだね……」
《そしてあるとき妾は思ったのじゃ。何故妾だけこのような目に合わなければならぬのか。何故妾以外の者は思い人と生涯を共に過ごしておるのか。そもそも妾の前で男女で睦み合うとはどういう了見じゃやるのなら女子同士にすべきであろうそうだ仲の良い男女などいなくなってしまえ》
「ん?」
ちょっと今最後らへんがおかしくなかったか。
「あの、いなくなってしまえ、とは」
《仲睦まじい男女を見ると腹が立つであろう? だから妾が脅かしてやったのよ。蜘蛛の子を散らすように逃げていく様を眺めるのはなかなかに愉快であったぞ》
くつくつと嫌らしい表情で笑う少女。そんなリア充爆発しろみたいな精神で幽霊に脅かされてはたまったもんじゃない。
《その結果あの屋敷から人が消え、しばらくの間は妾ひとりで過ごしておったのじゃが、少し前にあの屋敷でまぐわおうとしておった不届きな奴らがおってな。本気で追い払ってやったらそれ以来闖入者が増えて困っておったんじゃ》
幽霊騒動の原因がひどすぎる。いやまぁあんな廃墟で事に及ぼうとする方もする方だが。
《そこに現れたのがお主らだった》
あぁ本題は何故この子があたしに取り憑いたか、だっけ。なんかもうお腹いっぱいな感があるけど。
《お主を見たときに妾に天啓が走ったのじゃ。こやつなら妾の本懐を遂げさせてくれる、と》
「……確認だけどその本懐っていうのは」
《女同士の恋愛の成就じゃな》
「さっきも言ったんだけど、あたしにそのケはないから」
《じゃがお主を慕う女子が側におったではないか》
「……え?」
《お主にひっついておった女子、あれはお主に惚れておるぞ》
ひっついていた、ということは綿引さんだろうか。綿引さんがあたしに惚れてる? そんなバカな。
《他の者には分からずとも妾には分かる》
自信満々なその物言いには不思議な説得力があった。
「……仮に綿引さんがあたしのことを好きだとして具体的にどうして欲しいの? 言っとくけど無理矢理付き合えって言われてもイヤだからね」
《案ずるな。心配せずともそのようなことはさせぬ。自らの気持ちと反することをさせられるつらさは良く存じておる。じゃからお主はあの女子と睦み合い、戯れ合ってくれるだけでよい》
「綿引さんと仲良くしろってこと?」
《うむ。そして恐らく妾がそれに満足したときにこそ、現世の未練を断ち切って成仏できると思うのじゃ。土地に縛られておった妾がお主に取り憑けたことがその証左。頼む。後生であるから妾の願いを叶えてはもらえぬだろうか》
「…………」
少女の真摯な眼差しを受けて反論の言葉を飲み込んだ。
本当にしたかった恋も出来ずに嫁がされ病に倒れた少女。人々を脅かしてきた理由はどうあれずっとあの場所にひとりでいたのかと思うと正直胸が締め付けられる。
もしあたしが綿引さんと仲良くすることでこの子を救えるのなら――。
「わかった。どこまで期待に添えられるかは分からないけどあんたの願い、叶えてあげる」
《まことか! 恩に着るぞ!》
目を輝かせたその表情は怖い幽霊ではなくただの小さな女の子のものだった。
「あ、そういえば名前はなんていうの? ずっとあんたじゃなんだしね」
《伽玖莉じゃ。姓はもはや意味がないので伽玖莉と呼ぶがよい》
「伽玖莉、ね。うん。あたしは九重知春。知春って呼んで」
《相わかった。知春、これからよろしく頼むぞ》
「こっちこそよろしく、伽玖莉。ちゃんと成仏してもらえるよう頑張ってみるよ」
互いに手を出して握手の真似をする。相変わらず触れることは出来ないが、それでも心の距離は近くなれたんじゃないだろうか。
幽霊なんて信じてなかったあたしが幽霊の為に頑張ることになるとは。
伽玖莉みたいに言うのなら、この世の縁というのはとかく奇妙なものである、かな。
《綿引ほたるとやらに逢いにゆくぞ》
翌日、起きたばかりで目をしばたたかせていたあたしに伽玖莉が言った。あたしの胸から顔だけ出しているので不気味極まりない。
「……昨日の今日でもう会うの?」
《愛しい人には日を空けずに逢いたいと思うものじゃ》
「あたしの愛しい人じゃないんだけど」
《綿引ほたるにとっては知春が愛しい人であろう? であれば相手は毎日でも逢いたいと願っておるはずじゃ》
「……まぁ連絡はしてみるけど」
ラインで綿引さんにメッセージを送る。文面はどうしよう。無難に遊びに行こうでいいか。
「ん? そういや伽玖莉、なんで綿引さんのフルネーム知ってるの? あたし教えたっけ」
《いやな、取り憑いている間なら思考や記憶が読めることに気付いてな。一晩で色々と見させてもらった》
「――――」
思考や記憶が読まれる。それはつまり、人に言えない恥ずかしいことまでも知られてしまうということで。
《安心せい。お主が最後にいつ寝小便をしたかなど妾は露ほども興味はない》
「あ、そ、そう。出来ればそういうことも言わないで欲しいなぁ、なんて」
《そんなことよりこの時代は女同士の睦み合いを百合と言うそうじゃな。うむ。百合の花は妾も好きじゃ。是非とも知春とほたるの百合の花を咲かせておくれ》
その表現はいかがわしいものを感じるんだけど……。
《無論そのつもりで言っておる。いっそほたるを手籠めにしてはどうじゃろう。自室に侍らすというのもよいと思うが》
「誰がするか!」
くっ、思考が読まれるんじゃ考え事ひとつ出来やしない。触れないから体から引っこ抜くことも出来ないし。
伽玖莉があたしのスマホを指した。
《知春、ほたるからラインの返信が来ておるぞ。はよう開いて見せてくれ》
なんだこの江戸後期幽霊。知識の吸収力スポンジか。
「はいはい……えっと、オッケーだってさ」
《おお、これが動くスタンプとやらか。可愛らしい生き物が踊っておるぞ》
「……あたしも持ってるから好きなの選んでいいよ。綿引さんに送ってあげる」
《まことか!? うーむ、たくさんあって迷うのう……》
真剣に画面を見ながら悩む伽玖莉にあたしの頬が緩んだ。こういう仕草や反応は本当に小さな子供のようで可愛らしい。
《幽霊になった年月を入れるなら妾の方が年上じゃがな》
「見た目はおこさまのくせに何言ってんの」
伽玖莉の頭をぽんと叩こうとして空振ってしまった。仕方ないので手を左右に動かして撫でているポーズだけとる。それに気付いた伽玖莉がむずがゆそうに口を尖らせていたのがまた可愛かった。
「ごめん綿引さん、お待たせ」
「あ、九重さん。私も今来たところだから」
「今日も暑いねー」
「うん。ほどよく雲ってくれた方が遊びやすいのにね」
お昼過ぎに駅前で待ち合わせをしていた綿引さんと合流をする。遅刻しそうになったのは伽玖莉が服装に関して文句を言ってきたからだった。
《着物を一着も持っておらなんだ知春が悪い》
(一般家庭は普通持ってないっての。てか暑くて着れないし)
怪しまれないように心の中で伽玖莉と会話しながら綿引さんと向き合う。さらさらとしたセミロングの黒髪。白のフリル付きのシャツにギンガムチェックのミモレ丈スカート。つば広の帽子を被っていることもあいまって清楚なお嬢様然としている。
(……本当に綿引さんあたしのこと好きなの?)
《無論じゃ。なに、すぐに分かる》
今回のデート、と言っていいか分からないけど綿引さんとの遊びは伽玖莉が主導で行うことになった。幽霊にデートをプランニングされるなんてあたしくらいのものじゃないだろうか。
「九重さん、最初はどこに行くの?」
行きたいところなんてあるわけない。とりあえず遊ぶのが第一目標であり仲良くするのが最終目標なのだ。
《まずはそうじゃな……茶屋で少し涼むとしようか》
(茶屋……喫茶店でいい?)
《うむ》
指示が出たので綿引さんに聞いてみる。
「じゃあえっと、とりあえず近くの喫茶店で涼む感じでどうかな?」
「いいよ。私もちょうど喉が乾いてたところだし」
連れだって歩き始めた所で伽玖莉司令から追加が入る。
《ほれ、手を握らぬか》
(は? いやいや無理無理。絶対変に思われるって)
《変に思うものか。意中の相手に触れられたときの乙女の機微も分からぬとは……はぁ》
(あぁはいはい、握りゃあいいんでしょ握りゃあ)
並んで歩く綿引さんの手に狙いを定め、ぱしっと掴んだ。
「――え?」
当然意外そうな顔で見てくる綿引さん。あ、言い訳を考えてなかった。
「えっとほら、人も多いしぶつかって転んだり車道に出たりすると危ないから」
「あ……うん……ありがと、う」
めちゃめちゃ顔赤らめてる。これは本当の本当にそうなのだろうか。
「わ、私の手……汗かくかも……」
恥じらいつつ胸にもう一方の手を当てて俯き加減に目を逸らす仕草は不覚にも可愛いと思ってしまった。
《あぁ――愛い! 愛い!》
わぁ伽玖莉がめっちゃ喜んでる。まぁそれが目的だからいいんだけど。
《こら知春! はようそんなことないと言ってやらぬか! 柔らかくて気持ちの良い最高の手であると!》
(気持ち良いは余計でしょ……)
あたしは小さく咳払いをしてから綿引さんに言う。
「全然そんなことないよ。むしろあたしの方が汗っかきだから綿引さんが困るかも」
「こ、困ったりしない! あ、汗どんどんかいて大丈夫だよ!」
フォローだと分かっているけど、どんどん汗かいていいと言われるのは女の子として悲しい。
《これは汗をかくようなことを一緒にしたいという暗喩じゃな》
(それはない)
少し歩いて比較的空いている喫茶店を見つけた。じゃあここにしよっかと中に入ろうとしたとき、伽玖莉が待ったをかけた。
《入る前にほたるの襟元を直してやるのじゃ》
(襟元? 別に変になってないけど)
《なってなくていいから直すフリをしろと言っておる》
(意味わかんないんだけど……)
分からないままに綿引さんの襟元に手を伸ばす。
「ちょっと襟がよれてるから直すね」
「あ、わ、り、がと……」
首をすくめて硬直する様子は小動物っぽい。
《うむ。愛い》
結局よく分からなかったが伽玖莉は満足しているようだ。
改めて喫茶店の中に入り、空いていた席に腰を落ち着かせた。店内は涼しく生き返るような心地がする。
お冷やを持ってきてくれた店員に飲み物を注文して一息つく。そこで綿引さんがあたしの方をじっと見ているのに気が付いた。
「綿引さん、どうかした?」
「え、あ、えっと、今日の九重さんいつもと雰囲気が違うなって……」
そうだね。あたしもそう思う。
曖昧に笑うあたしに綿引さんが心配そうな視線を向けた。
「昨日あの屋敷から帰って、なにかあった?」
「え?」
「幽霊を見たのが九重さんだけだったから、本当に呪われたりしてないか心配だったんだけど……」
大正解! と言いたいところだったが伽玖莉のことは人に話さないことにした。主にあたしの頭がおかしくなったのかと思われない為に。
《不気味がられても困るしの。どうせほたるに妾は見えぬのじゃから。――ところでふと思ったんじゃが、お主らはどうして苗字で呼び合っておるのじゃ? 親しいのならば名前で呼び合うべきじゃろう》
(それ今言う?)
《いつ言おうが妾の勝手じゃ。ほれ、ほたる、と名前で呼んでやるがよい。恋人になってから名前呼びに変わる瞬間が大変に愛いことを妾は知っておるぞ》
なんの知識だ、と思ったけどあたしの知識だった。まぁ言わんとしていることは分かるんだけど。
いい加減黙りすぎて綿引さんが怪訝な表情であたしを見ている。いかんいかん。早く答えないと。
「そ、そんなことないよ、ほたる。幽霊も呪いもあるわけないじゃん」
「――――」
綿引さん、いやほたるが目を見開き口を手で押さえた。
お待たせしました、とちょうどよく頼んでいた飲み物が運ばれてきたのでこれ幸いとストローをさし口をつける。ヨーグルトスムージーは甘くて冷たくて美味しいなぁ。
「――やっぱりおかしい。九重さんどうしちゃったの? なにかと入れ替わったりしてない、よね?」
「あははそんなSFじゃあるまいし。本物本物。ほたるのクラスメイトの九重知春だよー」
《ほたるにも知春と呼ぶように言うのじゃ》
あたしの笑顔が引きつった。
「ほ、ほたるもさ、あたしのこと知春って呼んでよ。肝試しに一緒に行くくらい仲良くなったんだからさ」
途端にほたるの顔がぼっと火が出そうなくらい赤くなった。あたしは心の中で『綿引さん、もっとあやしんで! いきなりおかしいでしょ!? もっとあたしをあやしんで!』と叫んだ。
《えぇいうるさい! 今いい所なんじゃから黙るがよい!》
「……知春」
ぽつりと、小さな呟きが聞こえた。ほたるに目を向ける。ほたるはその言葉を慈しむようにゆっくりと再度呟いた。
「知春」
《あぁぁぁ愛いぃ! 愛いぃぃぃ!!》
(あんたもうっさい! 愛い愛い愛い愛い、愛いbotかっ!)
いやまぁ確かに今のは可愛かったけれど。
《じゃろう? ようやくほたるの良さが分かったか》
(誰目線よ)
《妾目線じゃ》
(はいはい)
おっとまた伽玖莉との会話に集中してしまった。今度訝しまれたらさすがにまずい、とほたるの方を窺って思わず微笑んだ。
あたしと同じくヨーグルトスムージーを飲むほたる。その頬が抑え切れずにぴくぴくと震えているのに気付いたから。
喫茶店を出た後は適当にショップやゲームセンターを回った。そろそろ歩き疲れたかなと思い始めたころ、伽玖莉が提案した。
《人の目から逃れられて二人きりになれて大きな物音を出しても平気な所へ行こうではないか》
(………………カラオケね)
《うむ。おや知春、なにやら別の場所を想像し――》
「ほたる! カラオケ行こっか! 涼しいしゆっくり出来るし!」
「あ、うん」
近くのカラオケ屋を何軒か見て回り、19時までフリータイムをやっているところにした。
案内された部屋は四人入ればぎゅうぎゅうになるくらいの小さい部屋だった。そのせいでほたるとの距離もすごく近い。
《これ、そういうときはほたるのすぐ隣に座らぬか。初なねんねじゃあるまいて》
(初なねんねで悪かったわね。あんたの方がよっぽどその言葉が似合ってるけど)
《問答をしている暇などない。はようせい、はよう》
(へーへー……)
あたしは荷物をソファーの端に寄せてからほたるの隣に移動した。
「ほたるはカラオケよく来るの?」
「ひっ、は、あ、あんまり……」
一目で分かるくらい動揺するほたるに気付かないフリをして話し続ける。
「まぁあたしもそこまで頻繁に来るわけじゃないんだけど。歌ヘタでも許してね」
「そ、そ、それは私の方も、だから……」
《別に歌わずにここで乳繰り合ってもらっても一向に構わぬぞ》
「だ――」
誰が乳繰り合うか、と声に出そうになって慌ててごまかす。
「だ、誰だって最初から歌がうまいわけじゃないし、カラオケなんて楽しんだもん勝ちだからお互い気にせず歌お」
「……うん」
《肩くらい抱かぬか》
(ちょっと黙ってて)
《何故じゃ!? このような狭い部屋で隣に可愛い女子がおって何もせぬとは失礼じゃろう!》
(うんその理論は捕まるやつだからやめようね)
《ならばあれじゃ。デュエット曲を選んでマイクを取るときに二人して同じマイクに手を伸ばしてぶつかり、あっ……と頬を染めるとかいうやつ》
(ここにきてベッタベタじゃん……マイク二本あるしそれぞれの目の前に置いてるんだから無理でしょ)
《なんじゃつまらん。ならもうなんか適当に体くっつけてじゃれ合っておるがよい》
(指示が適当すぎる)
最初のドリンクが届いてからほたると交互にマイクを取った。歌がヘタだなんだと心配してたが普通にうまい。時折あたしの方を見ては恥ずかしそうに歌っているけど。
(伽玖莉は知ってる歌ないの? あー、あたしの記憶から知ったやつはナシで)
《うーむ、妾の時代の歌はこの時代のものとまったく違うからのう。手鞠歌なら母様が小さい頃教えてくれたのを覚えておるんじゃが》
(さすがにそれは入ってないわ)
《……母様、か。ふふ、今となっては全てが懐かしい》
これだけの年月が経とうとも手鞠歌を覚えているということは、お母さんのことを本当に好きだったのだろう。それを思うと居たたまれない気持ちになる。
あまり感傷的になっても伽玖莉を悲しませるだけだ。今はほたるの歌に集中しよう。
《知春》
(……なに?)
《今ならほたるの太ももに触れられると思わぬか》
(心配して損した)
《心配などいらぬ。そんなことより太ももじゃ。絶対ほたるは嫌がらぬぞ》
(あー、うん、それも捕まるやつだからね)
《えぇい、つべこべ言わずにやればよいのじゃ!》
そのときあたしの左手が勝手に動いた。
(な――)
もしかしなくても伽玖莉が動かしているのだろう。というかあたしの体の行動権持ってたんだ。そりゃそうか取り憑いてるんだもんね。
伽玖莉の力(?)は存外強く、抗うことも出来ないままあたしの左手がほたるの太ももの上に乗っかった。
ほたるがその感触に気付き自身の太ももを見下ろす。
「――っ」
歌詞がとんだ。
けれどあたしの左手はまだ動くのをやめない。さわさわもみもみとほたるの太ももを弄ぶ。
「ぁ――ゃ――」
《反応が愛いのう愛いのう!》
でたな愛いbot。
《知春はほたるに歌を続けるように言うのじゃ》
「……ほたる、歌、続けて」
ほたるは何も言わないままモニターの方に視線を戻し、健気に歌い始めた。あたしの手がほたるの太ももを撫で回すたびに歌詞がくぐもった声へと変わる。伽玖莉の言う通りだがまったく嫌がる素振りもないし抵抗しようともしない。
(というかこういうの何かの企画でありそう)
何のとは言わないが。
《平静を保とうとするのにその顔が恥辱に打ち震えるのが最高に愛いと思わぬか?》
(最高にゲスいね)
《まったく、まだ良さが分からぬとは感性が乏し過ぎるのではないか》
(感性が尖り過ぎるよりマシでしょ)
《口減らずな娘め。もう少し恥じらいや慎みがあった方が可愛げが出るぞ》
(一般的な羞恥心は持ってるんで)
伽玖莉がため息だけついて黙り込んだ。あたしだって伽玖莉と口げんかをする気はないけどさすがに友人の太ももを弄ぶのはどうかと思うのだ。それも好意に付け込んでなどと最低が過ぎる。伽玖莉にもあたしたちが持つ常識や人としての矜持を教えていってあげないと――。
(ん? 手の感触が変わった。やけにすべすべしてて柔らか――)
急いで左手を確かめるといつの間にかあたしの左手がほたるのスカートの下に潜り込み直接太ももを触っていた。
ほたるはすでに歌うのをやめてあたしの責め苦に吐息を漏らしている。
「こんのド変態がぁぁぁぁっ!!」
叫びながらあたしは右手で左腕を掴み思いっきり右方向に体ごと跳んだ。
全体重を掛けた抵抗にさすがの左手も耐え切れず、太ももを掴みそこなってスカートから出てきた。
ほたるから離れた位置でぜぇはぁと荒い呼吸を繰り返しながら尋ねる。
「……ほたる、大丈夫?」
「だ、大丈夫だけど、知春の方が大丈夫?」
もっともな心配だ。
「あたしも大丈夫。ちょっと左手のやつが悪さしたみたいでゴメンね」
「……左手に何か寄生されてないよね?」
「あはは、んなわけないでしょ。ほら左手はこの通り、普通の手でしょ」
ぐっぱぐっぱと開いて見せながら胸中で嘆息する。
(おいこら変態幽霊。なにか言え)
《――ちっ》
(舌打ち!? 育ちの良さそうな言葉遣いはどこいった!?)
そのあとはまぁ多少のあれやこれやはあったものの大きな問題もなく無事カラオケを終えた。
そしてしきりに駅の反対方向へ誘おうとする伽玖莉を無視してほたるとは解散した。
《つまらん》
(うっさい。補導されるわ)
家に帰って晩ごはんを食べ、お風呂に入り、寝間着に着替えてようやく長い一日が終わろうとしている。
ベッドの上でドライヤーで髪を乾かしているときほたるからラインが届いた。
『今日はすっごく楽しかった! それで明日なんだけど、もし知春が良かったら私の家で一緒に夏休みの宿題やらない、かな?』
《これはもう完全に堕ちたのう。一丁前に女の字面をしておる》
「その言い方やめなさい。……で、行くって返事していいの?」
《当然じゃ。自室で二人きりとは願ったり叶ったり》
「今日みたいに変なことしようとしたらほたるに全部バラして救急車呼んでもらうからね」
《はぁ嫌だ嫌だ、妾に協力するとか言っておきながら結局それか。しょせん妾なんて若くして死んだ哀れで惨めな救われぬ魂なんじゃ……》
「なんと言おうがああいうのは絶対許さないから」
《それが疑問なんじゃが、何に怒っておる?》
「何ってあんな無理矢理触るような真似――」
《無理矢理? ほたるは嫌がっておったのか?》
「それは……」
《嫌がることを無理矢理しようとするのが仁義に反しておるのは分かる。じゃが相手が望んでいることをしてあげるのは本当に駄目なことなのか?》
「…………」
一応の理屈が通っているのであたしは口を噤んでしまった。ほたるがあたしに触って欲しいと思っていたのなら、それを邪魔しようとするあたしの方が悪者なのではないか。
「……いや、違う。嫌がってるのはほたるじゃなくてあたしだ。あたしが嫌がってるから無理矢理しないでってことなんだ」
《それを言われてしまうと詮方ない。次からは知春の了承を得てからすることにしよう》
「やけにあっさり引いて――ってそういやあたしが嫌がってたのは知っててその上でアレやってたよね!?」
《はて、そうじゃったか?》
「とぼけんじゃないよこの老成言語少女!」
《それよりもほたるから返信かえってきとるぞ》
「はぁ……もう疲れた。あぁはい、お昼過ぎにほたるの家だって。住所は……ここね」
送られた住所から地図を開く。
《ほたるの住家はここからどのくらいかかるんじゃ?》
「んー、家からなら電車込みで三十分くらいじゃない?」
《とすれば徒歩で行こうとするとかなりかかるのう》
「そりゃあねぇ。え、徒歩で行きたいとか言わないでよ」
《いやなに、夜這いに行くのにどうしようかのと思ってな》
「……あたしが嫌がることはしないって言ったよね」
《意識がなければノーカン》
「このまま救急科に駆け込んでもいいんだけど……?」
《冗談じゃ冗談。おちゃめなジョークではないか》
わざとらしく笑う伽玖莉。
こいつは本当に江戸時代の幽霊なのかと疑問になってきた。
結局眠るとき、手首とベッドの支柱を紐で繋いでから眠ることにした。
「いらっしゃい知春」
ほたるに迎えられて部屋に上がり込む。綺麗に整理整頓された部屋はまさしくほたるの性格を表しているようだった。
《案外昨日急いで片付けたのやも知れぬぞ。好いた人を部屋に招く為に準備をするほたるの姿を想像すると愛いとは思わぬか?》
(そーですね)
戯れ言を適当に受け流しながらカバンから問題集を取り出した。座卓に向かい合うように座ってからそれぞれ宿題を始める。
昨夜釘を刺しておいたお陰か伽玖莉はそこまで過激なことはしなかった。せいぜいが消しゴムをほたるの方に転がして取ってもらうレベルの小さなこと。
ただ、ほたるは見て分かるくらい緊張していた。
頬はうっすら紅潮しているし、言葉もぎこちないところがあったり、たまにシャーペンを止めてあたしの方を窺っていたりした。
《それだけ意識しておるんじゃろ》
(まぁ、だろうね)
こっちとしては自然体でいてくれた方が気が楽なんだけど。しかも過剰なまでに気を遣ってくれる。
「部屋の温度暑くない? クーラー寒すぎない?」「喉は乾いてない? お腹は? お菓子もあるよ?」「座ってて足痛くなってない? 痛かったら椅子使ってね」
いやもうお母さんかと。
聞かれるたびに「大丈夫。なにかあったら言うから」と答えてもほたるは不安そうにあたしの顔を見ていた。
そういえば、とあたしは何の気もなしに話しかけた。
「ほたるのお母さんは今日いるの?」
ただの世間話。問題を解きながら話す日常会話。そのはずだった。
「……今日、お父さんもお母さんも家にいないの」
「――――」
《――――》
こ、これは……。
《愛いぃぃぃぃぃいい!!》
どこぞの吸血鬼みたいな叫び声をあげるな。しかし――。
(まさか今日うちに誰もいないのを生で聞く日がこようとは)
《最高じゃな》
(ノーコメントで)
《そんなこと言っても知春の脳が一瞬真っ白になったのは知っておるぞ。ほれほれ、正直に言ってみい。くらっときたんじゃろう?》
答えたくない。けど答えなくても伽玖莉には気付かれてしまっている。あぁそうだ。確かにさっきのセリフは正直くるものがあった。
だってほたるが消え入りそうな声で恥ずかしそうにしながら、それでも勇気を出して呟いた言葉があれなのだ。そこに尊さを感じない人間などいるだろうか。いやいない。
(……伽玖莉に思考が毒されてきた気がする)
《毒と言うより劇薬じゃがな》
(自分で言うんだそれ)
《そんなことよりほたるに気の利いた一言でも返してやらぬか。待ちぼうけておるぞ》
(気の利いた一言ってなに?)
《『ってことは何してもいいってことだよね子猫ちゃん』とか》
(言い回しが古い! いや伽玖莉からすれば新しいのか。どっちにせよダサいし寒い)
《なら自分で考えればよいではないかつーん》
(拗ねないでよ)
やれやれと小さく息を吐いてからほたるに向き直る。
(ん?)
ほたるの顔はいまやゆで蛸もかくやというくらいに真っ赤になっていた。視線はあたしから外したまま両手をぶるぶると振り始めた。
「あ、ち、ち、ちがく、て、そう、そういう意味じゃ、な、なくて、た、ただ、い、い、いないって、いう、ここ、こと、だけ――」
ほたるがバグった。
あぁいや、あたしが黙り込んだままだったからあたしがどう解釈したかを悟って必死に取り繕おうとしているのだろう。
《まことに愛いのう》
(愛いというかもう可哀想)
ここまで取り乱すほたるを初めて見たし、その理由があたしへの好意なことを考えると可愛いのは可愛いんだけど。
「の、の、のみもの、と、取ってくるねっっ!!」
ほたるが空のコップを持って勢いよく立ち上がり、ドアの方へと駆け出した。それを目で追うあたし。ほたるの腕を掴むあたしの右手。
(……は?)
右手はあたしの意思と関係なくほたるの腕を強く引っ張った。ほたるも予測していなかったからだろう。バランスを失ったほたるの体があたしの方へと倒れ込んできた。
(コップ――)
放り出されたコップがスローモーションで弧を描き落ちていく。床にぶつかる直前、それをあたしの左手がキャッチした。これもあたしの意思で動かしたものではない。
「あ、ご、ごめんなさい!」
仰向けに倒れたあたしに乗っかったほたるが赤面した顔を押さえたまま謝った。
むしろ謝るべきはあたしの方なのだがそこまでは気付かないらしい。それよりも。
(あったか……やわらか……めっちゃいい匂い)
これがあたしと同じ女の子なのだろうか。ちょっと感動すら覚える。心臓がトクンと高鳴った気がして焦る。
(やっぱり伽玖莉の影響かな……あ、ちょっと伽玖莉! 聞いてる!?)
だが伽玖莉は何も答えない。その代わりにあたしの両腕が勝手に動きだした。
コップを置いた左手はほたるの背中へ、右手はほたるの頭の上へ。たどり着いたらそこを優しく撫で始めた。
状況を理解する前にあたしの口が勝手に開いた。
「照れることはないぞ。ほたるの気持ちは妾も気付いておる。そして妾も同じ気持ちじゃ。だから、のう。可愛い面をあげてはくれぬか?」
(こ――)
声が出ない。手も動かせない。あたしの体の主導権は完全に奪われていた。
「…………」
ほたるが顔を上げた。瞳はうるみ、吐息は艶を帯び、顔から首に至るまで真っ赤になっている。
それは完璧なまでに恋する女の子の顔だった。
「おいで」
伽玖莉があたしの声で言った。それに誘われるようにほたるはあたしに顔を近づけ、そして唇を重ねた。
(う――わ――)
まず伝わってきたのはその熱さ。唇も吐息も間近に迫った顔も全てが熱い。唇が少し固いと感じたのは乾燥していたからというよりも緊張のせいだろう。しかしキスはそれだけで終わらない。
(ふぇぇ、舌、舌――!?)
あたしの舌が意思を持ったかのようにほたるの口内へと侵入した。絡み合う舌と舌。唇が触れ合うだけとは比にならぬ情報量があたしを襲う。唾液がねばねばがぬるぬるが、奇妙な悦楽となってあたしの脳を揺さぶる。心臓が痛いくらいに脈動している。いや待ってさすがに痛すぎる。
止まぬ心臓の鼓動に命の危険を感じたとき。
《あ、すまぬ。妾の高鳴りがプラスされておったわ。接吻も出来て満足したし知春に返してやろう》
(は?)
瞬間あたしの体が全てあたしのもとに返ってきた。ということはあたしが手を動かしたら動かしただけ、舌を動かせば動かしただけそれに応じた刺激が返ってくるということで。先程以上の生々しい感触に目の前がちかちかとする。
《――よかった》
(あたしは良くないんだけど!)
キスをやめようにもほたるがやめてくれずに胸中で叫んだ。
《……なんだか意識が遠くなってきたのう。そろそろお別れかもしれぬ》
(はぁ!? やりたい放題やって投げっぱなしぃ!?)
《あとは若いお二人に任せるとしよう》
(お見合いか! は、え? 本当にいなくなるの?)
《うむ。じゃが妾は安心した。接吻をして尚、知春に嫌がる気持ちがひとつもなかったことに》
(それはその、驚いて嫌がる暇がなかったっていうか……)
《ほたると二人で末長く幸せに暮らすがよい。女は愛するより愛される方が幸せになれるという。ならば大丈夫じゃ》
(え、いやあのあたしもほたるも女だからその理論成り立たな――)
《ありがとう、知春。まことに愛い二日間であった――》
(人の話を聞けぇぇぇぇ!!)
ふと体が軽くなった気がした。同時に寂寥感のようなものが心の内側を吹き抜けていく。
あれだけうるさくて何度も邪魔だと思っていたのに、いなくなるとこんなに寂しくなるなんて。
けれど今あたしの目の前には伽玖莉が残してくれたものがある。それを大切にすることが彼女への一番の供養になるかもしれない。
いまだあたしの唇から離れてくれないほたるの頭をぽんと優しく叩いた。
《おはよう知春》
「…………」
起きぬけに見慣れたおかっぱの少女と目を合わせ、あたしは深く嘆息した。スマホを取って検索窓に打ち込む。
「えっと、日本、除霊、一番……」
《待て待て待て! 知春だって妾が帰ってきて嬉しいじゃろう?》
「いやもうお別れは済ませたんで」
《妾は知っておるぞ。昨日妾と別れたあと寂しがっておったのを》
「今は寂しがってないですはい」
《またまたそんなこと言って~このこの~》
赤い着物の袖を揺らしてあたしをつつく伽玖莉。もう何から突っ込めばいいのやら。
「で、何で戻ってきたの?」
《それがのう、昨日あぁこれ成仏するなと確かに思ったんじゃが、ただ意識失ってただけじゃったみたい》
「は?」
《愛い過ぎて気絶したんじゃな、うん》
「は?」
《いやぁめでたしめでたしじゃ~》
「めでたいのは伽玖莉の頭では」
《そんなことより! なんじゃなんじゃ、昨日のあれからほたると寝所を共にしておらぬではないか! あれだけお膳立てしておいて接吻止まりとは情けない!》
「うっさい! ついでに言っとくとあんたのこと全部ほたるに話してやったからな!」
《話さぬという約束じゃったろう!》
「へっへ~ん、夜這いのこと話したときのほたるのドン引きの顔見せてやりたいね。っていうか見ろ! ほらあたしの記憶を見ろ!」
《やめい! 妾に触れるでない! 知春の心臓無理矢理動かしてオーバーヒートさせるぞ!》
「ガチ呪いはマジでやめて」
なにはともあれ、この百合幽霊との生活はまだ続きそうだ。
嫌だ、なんてのが口だけなことを伽玖莉も分かっているはずだ。それでもこうやって話に乗ってくれるのはこの子なりの優しさなのかもしれない。
ならもうちょっとだけ、この子を愛いと言わせてあげますか。
お互いが笑ってお別れをするそのときまで。
〈おまけ ほたる VS 伽玖莉〉
「ほたる、もう少しこちらに寄らぬか」
「……すご、ほんとに別人なんだね」
「体は同じじゃ。ほれ、接吻、はよう接吻しよ」
「なんか複雑な気分」
「あのとき妾の言葉に乗ってきたくせに今更ではないか」
「それを言われると弱いなぁ……ん」
「ん、はぁ……んぁ、んっぷ……はぁ、やはり接吻はよい」
「……キスの仕方全然違うね」
「お、どちらの接吻がよかったか? ん? 正直に言うてみぃ?」
「それは……」
「ちょっと伽玖莉! 下卑たこと聞くんじゃない! もう体貸してあげないよ!」
「知春は心が狭いのう。もっと包容力がないと相手はついて来ぬぞ」
「うっさい!」
「してほたる。では答えずともよいからもし妾の接吻の方がよかったと思うのならほたるから妾に舌を入れておくれ」
「あ、あの――んんむ」
「――ん、む、ぁ――くす、なるほどそうかそうか。ところでほたる、体が同じということは当然知春にも伝わっているということなのじゃが」
「――――!」
「くっくっく、あぁ愛い、まことに愛いのう」
「最っ低……」
「知春も拗ねるでない。心配せずとも妾が接吻の仕方を教えてやる。体が覚えるまでたっぷりとな」
そう言ってその少女は生き生きと笑った。
終
読んでいただきありがとうございます。
展開的には伽玖莉と出会うまでは端折る方がテンポがよく読みやすいと思ったんですが、練習も兼ねて書くことにしました。
その結果導入はめっちゃ長くなるしその間百合は無いしヒロイン抜きで楽しそうだしでジャンル何なんだって感じで……本当すみません。
補足
『トイチハイチ』の語源は『上下』の漢字をバラしたものらしいです。
文献引用ではなくネットで調べたものなので用法等間違っていたらすみません。