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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

鬼の花嫁

「──助けてナオヤ! おにが、鬼が来るわ!」


 あたかも巨大な岩山のごとく運河の水面からそびえ立つ、高い塔の最上階の牢獄のような部屋の中央の天蓋付きのベッドの中で、うら若き女性の悲鳴が響き渡っている。


 しとねの上に蜘蛛の巣のように広がっている、つややかなる黒絹の髪の毛。

 哀願の熱をおびながら潤んでいる、黒曜石の瞳。

「姉さん、しっかりするんだ。この僕がついているじゃないか!」

「……ナオヤ。お願い、早く()()をちょうだい! ──もう、我慢できない。急がないと、あの鬼が来るわ!」

 すがりついてきた指の力は鋭く、僕の二の腕には血が滲みだしていた。

「大丈夫だよ。姉さんはこれまで通り、万事僕にまかせておけばいいんだ。何せそのためにこそ、帝都指折りのじゅつの皆さんにおいでいただいているんだしね。きっとどんな鬼でも、大人しく尻尾を丸めて退散してくれるよ」

「──ああ、ナオヤ。私にはもはや、あなただけが頼りよ!」

 そう言いざますべてをゆだねるように僕の懐へと飛び込んでくる、華奢なる肢体。


 ……姉さん。


 そして僕はおもむろに、目の前の振り袖の帯を解き放っていった。




  一、オニノ『ノロイ』。



「──誰だ! いったいこれは、誰の仕業なんだ⁉」


 河口近くの幅広い運河の中にそびえ立つ、白亜の巨城の大広間中に鳴り響く男の声。それは間違いなくこの神聖皇国『旭光ひのもと』随一とも謳われている、じゅつのものであった。

 あたかも神主を思わせる白装束に、腰にいたしゃくどうしょくの細身の太刀。しかしそのいかにも『霊能力者』や『陰陽師』を彷彿とさせる装いは、むしろうさん臭さを蔓延させていた。


「誰って、決まっているでしょう?」


 ざわめくその場を制するような、冷ややかなる年若き声。もはや怒りに我を忘れている鬼術師は、当然のようにその声の主へと食ってかかる。

「決まっているですと? ではあなたは何か御存じなのですか、御曹司!」

 昨年二十歳(はたち)を超えたばかりの若輩の身とはいえ、帝都(とう)きょうが誇る広大なる運河地区次期領主に向かっての礼の失した言いように内心ため息をつきつつも、『御曹司』と呼ばれし男──つまり僕『飯塚いいづかナオヤ』は、むしろ穏やかな微笑みを浮かべたままで答えを返した。

「帝都きっての鬼術師と誉れ高きあなたが、今さら何を申されているのです。先刻御承知ではないですか、すべてはあの『おに』どもの仕業ですよ。何せそのためにこそ、鬼退治の専門家プロフェッショナルである皆さんをお呼びしているのですからね」

 ……まったく。高い依頼料を支払って数十名もの腕利きの鬼術師をこの城に御招待して、連日連夜豪勢な食事を振る舞ってさしあげているのは、別に伊達や酔狂ではないのだぞ。

「鬼の仕業ですって? じゃあ、死体はいったいどこへ消えたんだ⁉」

「さあ。何せ鬼なのですから、食べてしまったんじゃないんですか?」

「食べたって、骨まで一本も残さずにか? いやそれにしたって、現場には血痕ぐらいは残っていたのではないのかね⁉」

「あれ? 何ですか、現場とか血痕て? もしかしたら被害に遭われた鬼術師の方は、鬼にそのまま攫われていってしまったのかもしれないではないですか。それなのにやけに、この城内で殺されていることが前提であるかのような口ぶりですよね」

「うぐっ。あ、いや。私はあくまでも、可能性の一つとして──」

 己のうかつな『失言』に、慌てふためていて取りつくろうとする男。

 まあ、無理もないか。


 何せ自分がこの『鬼退治』にかこつけて商売敵の鬼術師連中を始末していっていたつもりが、そのすべてが『行方不明』扱いにされて死体が消え去ってしまっているのだからね。


 それに僕のこのいかにも『素朴な』疑問の言葉に居心地の悪い思いをしているのは、何もこの男だけではないのだ。おそらくは広間中にひしめいている様々ないでたちをした大勢の鬼術師たち全員が、その胸のうちにひやりとした物を感じていることだろう。

 ──ふっ。しょせんは『同じ穴の貉』か。まさにこの『茶番劇』に似つかわしいことだ。

「とにかく、何といっても相手はあの『鬼』なのです。しかもきゃつらは不敵にも前運河地区領主令嬢──つまりは、我が姉上をおのが『花嫁』にせんと狙っているというのですから、けして手をこまねいているわけには参りません。もはや鬼術師である皆様だけが頼りなのです。──まあそうは申しましても、まだこの『鬼退治』は始まったばかりであり、行方不明になられた方も別に鬼の餌食になったわけではなく、何か一身上の御都合で『自主退場』なされたのかもしれないのですし、そんなにいきり立たずに当分の間は御ゆるりと、この運河領自慢の『スノウ・ホワイト』暮らしを十分に御堪能なさってくださいな」

 その言葉に応じるように、いきなり十数名ものメイドたちが広間へとやってきて、一同に午後のお茶と焼き菓子を配り始めた。

 年のころは十代後半から二十代始めぐらいか。透き通るような色白の肌にほっそりとした華奢な肢体。この古びた運河の城の雰囲気にぴったりなネオゴシック風の黒を基調としたエプロンドレス。ヘッドドレスの下で揺れているおかっぱ頭に可愛らしい小作りの顔の中で輝いている妙に勝ち気そうな茶色の瞳。しかも全員が全員どことなく没個性的であたかも人形のように似通って見える、妖しげなムードをも醸し出していた。

 この運河領主居城『本城スノウ・ホワイト』とそれを取り巻く『七支塔セブン・リトルズ』のすべての家事を一手に引き受けている、万能使用人(サーヴァント)飯塚いいづかメイド隊』の皆さんの御登場である。

 あの厄介きわまるお客人たちも彼女らにまかせておけば大丈夫であろうと、僕がその場をあとにしようとした、まさにその刹那──


「待ちたまえ、ナオヤ君」


 突然背後から突きつけられる、いかにも落ち着き払った三十絡みの男の声。

 振り向けばそこにたたずんでいたのは、清廉なる黒衣をまとった一人の僧侶であった。

 それは僕ら姉弟の母方の叔父にして、帝都の守護を司る『せいレーンきょうだん』運河地区主席司祭(ディーン)の『わたなべワタリ』であった。

「これはこれは叔父上。ごらんになりましたか、あの鬼術師の慌てよう。ふふふ。まさか彼も本当に、鬼が出るとは思わなかったのでしょう。もはや平安時代から千年も経とうというのに、『鬼の嫁取り』などとおとぎ話でもあるまいしと、気軽に依頼を受けてみれば、すでに『行方不明』の鬼術師が十名にものぼる有様。とんだ見込み違いってところですかね」

「……ナオヤ君、君はいったい何を企んでいるんだ? それよりも一度でいいから、姉君──ナオミさんに会わせてはくれないか。何度も言うがこれは『鬼の呪い』などではないんだ。我が教団にさえ任せてもらえば、必ず解決してみせると言っているではないか」

「やれやれ、こちらこそ再三申しているではありませんか。姉に会うことができるのは、今回の『遊戯ゲーム』の優勝者──つまりは、『鬼退治』を成し遂げられた方だけですと。むしろ叔父上には期待しているのですよ。何せ聖レーン教団こそは、まさしく平安の昔のみなもと四天王に端を発する、鬼退治の本家本元であらせられるのですからね」

「この現代社会で今さら鬼退治だなんて、そんな馬鹿なまねをしてどうする気なんだ⁉」

「どうするって? もちろん、下々の者に知らしめてやるのですよ。もはやいにしえの『平安へいあんぞく』などは恐れるに足らぬと。今や我が飯塚家を始めとする、『しんぞく』の時代だとね」

「……ナオヤ君」

 もはや話は終わったとばかりに踵を返し、今度こそ大広間をあとにしていく。

 ふと振り返れば眼鏡の奥で冷たく煌めいている、『青灰色ブルー・グレー』の瞳。


 そう。聖レーン教団きっての、真の『おにごろ』である証しの。


 それはあたかも、僕の何もかもを見透かしているようでもあった。


 ──だから僕はこの叔父のことが、昔から大の苦手だったのである。




  二、オニノ『糧食イケニエ』。



 ──僕の姉上はある日突然、鬼に呪われてしまったのだった。


 どうしてこんなことになってしまったのかは、いまだにわからないでいる。


 姉さんがこの上もなく、見目麗しかったからなのか。

 この飯塚いいづか家がはるかいにしえに、『平安へいあんぞく』と何らかの係わり合いがあったからなのか。

 二年前に亡くなった前運河領主夫妻──つまり僕らの両親が、何か鬼族と面倒を起こしてしまったからなのか。


 そのどれもが理由になりそうでいて、そのすべてが決め手を欠いていた。


 だからいくら考え続けたところで、けして答えを得ることなぞできなかったのである。

 今言えることはただ一つ。あのおぞましき『外道オニ』が姉の身と心のすべてを欲し、我が物にしようとしているということだけであった。


 そう。あたかも、『おのれの花嫁』にするがごとく。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


 ──神聖皇国、『旭光ひのもと』。


 この国は我々人間に交じって鬼などの人外の者も数多く共存している、まさに現代の『とぎの国』であった。


 皇統年代記によれば、我が国は神の御子である初代(みかど)と、その御身を異能なる力で護り支えてきた十名の『おに』と呼ばれる勇士によって、建立されたと伝えられている。

 その姿形は我々人間とほとんど変わらぬものの、人にはない超常なる力と高度な知能を持つ鬼は、味方にすればこれほど心強い者もおらず、以来彼らは千六百年以上にもわたって帝の御側衆『平安へいあんぞく』として、その御代を支え続けてきたのだ。

 彼ら純血の上級鬼族は約千年前の平安時代の終焉と共に、人間側の新興武装勢力『げん』との権力闘争に敗れ社会の表舞台からことごとく姿を消してしまったのであるが、当時すでに鬼族の絶大なる権力に群がっていた人間の貴族『へい』との間で混血が行われており、その血統はこの国の支配階級の家系に脈々と受け継がれていった。

 さらに広く市井においては依然下級の鬼たちが人々に紛れて密かに生き続けており、いにしえから受け継がれてきた『鬼の秘術』を使うことによって、人々の心の中に巣くう『悪意』を増幅させ、知らず知らずに悪の道に走らせて様々な猟奇事件を起こさせていた。


 そのため源氏を中心として人間側に『鬼を狩る者』たちが組織されていき、以来千年もの間この国では秘密裏に、人間と鬼との壮絶な戦いがくり返されていったのだ。


 いつしか彼ら『おにごろ』の系統は大きく二つに分かれていき、かつての鬼の王『いばらどう』を退治したとも伝えられるみなもと四天王に端を発するげん最大の本流は、明治の御一新以降すべての武家政権が衰退したあとは『せいレーンきょうだん』という宗教団体と化し、その異能の力を駆使し歴代の政権を裏舞台から操り続ける一方で、源氏以外の庶民においても生まれながらに異能の力を持った者たちが独自に『じゅつ』を名乗り始め、現代に至るまで鬼退治を生業なりわいとする無数の『賞金稼ぎ』を生みだしていった。

 そのような現状に対して、我が飯塚家はあくまでも御一新後に新たに制度化された『しんぞく』の一門なのであり、鬼だの鬼術師だのといったものは『いにしえのおとぎ話的存在』という認識しか持ち合わせていなかったのも、至極当然のことであろう。


 だからこそ、僕の姉上が突然『鬼の呪い』を受けたことがわかったときには、我が家にかかわる者のすべてが、いまだかつてないほどの恐慌へと陥ったのだ。


 もちろん血を分けた実の弟であり、両親亡きあとは実質上栄えある運河地区領主を司るこの僕が、身内に振りかかったこのような理不尽な不幸を手をこまねいて見ているわけにはいかず、時を置かずして数名の腕利きの鬼術師に『鬼退治』を依頼したのだが、存外に鬼の力が強大だったようであり、幾人かの使用人を巻き添えにして彼らのすべてが『行方不明』となってしまう有様であった。

 業を煮やした僕はもはやなりふりかまわず飯塚家の富と権力にものを言わせ、帝都の誇る高名なる鬼術師のほぼ全員を、この運河領主の居城へと招き寄せることにしたのだ。


 ──帝都(とう)きょう運河地区領主居城、『スノウ・ホワイト』。


 幅広い河口近くの運河の中にそびえ立つ、本城と七つの支塔『セブン・リトルズ』からなる優美で豪奢な白亜の城構えは、あたかも白鳥が翼を広げ今にも大空へと飛び立たんとしているかのようにも見えた。

 そして今やここは、前運河領主令嬢である姉の命運と帝都中の鬼術師たちの名誉をかけた、盛大なる『鬼退治大会』の舞台と化してしまっていた。


 しかし依頼主の僕の思惑をあっさりと裏切るように、事態は早くも思わぬ方向へと推移していったのだ。


 功名心にはやる鬼術師の誰もがこれを好機ととらえ、隙あらば商売敵を亡き者にせんと城内で密かに暗闘を始め、そしてそれを鬼の仕業になすりつけようとしていったのである。

 どうも数十名もの鬼術師たちが寝泊まりしている『一の塔(ファースト・リトル)』から『六の塔(シックスス・リトル)』が、本城とだけでなく支塔同士も円環状に連結していたことが災いしたようで、もはや城主である僕や使用人の住む本城と姉を隔離している『七の塔(セブンス・リトル)』を除いて、城内はいわば『完全密室クローズド・サークルサバイバルゲーム』とでも呼ぶべき様相を呈していた。

 しかもこの『ゲーム』の敗者の死体はなぜだかすべて忽然と消え失せてしまい、確実に自分が仕留めた相手が『行方不明』扱いにされることが更に彼らの疑心暗鬼を高じさせ、本来の『鬼退治』もそっちのけで『サバゲー』ムードだけが盛り上がっていった。

 プロとはいっても、やはりこれが『零細個人営業』の限界なのか。こんなことならば最初から半ば公的組織である、聖レーン教団に頼ればよかったようなものなのだが、かつての武家政権の末裔どもの力を借りることなど、新貴族としての矜持プライドが許さなかったのだ。


 それに何といってもあそこには、僕の最も苦手とする御仁がおられることだし。


 しかしまさしく彼こそが、教団におけるこの運河地区の統括責任者たる主席司祭ディーンなのである。このようにすでに大々的に『鬼退治』を催しておいて、しかも狙われているのは彼自身の姪っ子であり、重ねて鬼術師や使用人に多数の被害者を出しているとなれば静観しておられるはずもなく、ここにこうして満を持しての御登場とあいなったわけなのである。

 しかたないので愛すべき叔父上殿には僕と同じく本城にてお過ごしいただくことにしたのだが、再三再四要求を受けている姉との面会は頑としてお断りし続けていた。

 最大の理由は『鬼の呪い』を受けて以来彼女が日中ずっとベッドに臥せっているからであるが、たとえそうでなくとも誰も姉の居場所へとたどり着くことなぞできないであろう。


 なぜなら今彼女のいる『七の塔(セブンス・リトル)』は、本城の最上階にある城主の私室としか連絡しておらず、つまり僕以外は何人なんぴとたりとて行き来することなど不可能であったのだから。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「──我が姫君、またいつもの遊技ゲームを始めましたゆえ、何かとお騒がせいたすかとも思いますが、どうかお気になされぬように」


 そう言いながら僕は、少女の銀糸の前髪を優しくかき上げ、額へとそっと接吻を与えた。


七つの支塔(セブン・リトルズ)』の中で一つだけ他のどの支塔ともつながってはおらず、運河の中からぽつんと屹立している孤高きわまる石造りの尖塔。

 かつては牢城として使われていたとも言われる、『七の塔(セブンス・リトル)』。現在この最上階にある広大な部屋の中に囚われているのは、歳のころ十一、二歳ほどの幼くも美しき虜囚であった。

 あたかも月の雫を紡いでできたみたいな長い銀白ぎんはくしょくの髪の毛に包み込まれた、いまだ性的に未分化で華奢なる白磁の肢体。人形そのものの端整な小顔の中で輝いているのは、人にはあらざる縦虹彩の黄金きん色の瞳。そしてその身にまとっているのは、新しさと伝統が入り混じった可憐なるゴシック調の漆黒のドレスであった。


 ──そう。まさしくいにしえの『平安へいあんぞく』の姿、そのままに。


 しかし、かつてはひと睨みで人の魂すら奪いとったとも言われる『玉桂の瞳(ルナティック・アイズ)』は、今はただ生気のないガラス玉のように虚空を見つめ続け、彼女自身も部屋の中央を占める大きな天蓋付きのベッドの上にぽつんと座り込んで、僕のなすがままに任せるばかりであった。

 腰ほどまで伸びているわずかにウエーブのかかったつややかな銀髪が、まるで宝物を扱うかのように細やかな手つきで丁寧にくしけずられていく。

 髪の手入れのあとに当然のように始まる、その他の細々(こまごま)とした身だしなみの世話。少女の足もとにひざまずきあたかも忠実なる下僕のように、一本一本の指の爪を時間をかけて丁寧に切っていく、誇り高き運河城のあるじ

 更には、耳かき、肌の手入れ、マニキュアやペディキュア等々と、姫君の『メンテナンス』は微に入り細に入り続いていったのだが、そのすべてがまるでガラス細工の人形を扱うかのように、細心の気配りに満ちていた。

 だがそれでも少女からは、何の応えも返って来ることはなかった。


 あたかも魂なぞ持たない、作り物の人形のごとく。


「では姫君。次は食事を御一緒する前に、入浴タイムと参りますか」

 何の下心もなくあくまでも純粋なる御奉仕精神で、僕がそう申し出た、まさにその刹那。


「──あらあら、それでは順序が逆なのではありませんか?」

「というか、御入浴のほうはとっくに、我々の手で済ませておりますので」

「だからこそ旦那様には、湯上がり後のお世話をお任せしたのではありませんか」


「……おまえたち」

 突然背後から鳴り響いてきたかしましい声に振り向けば、そこには好奇に満ちた茶色の瞳が幾対も、いたずらっぽく煌めいていた。

 二階分は優にある高い天井に古めかしくも豪奢な数々の家具や調度品という、まさにおとぎ話に出てくる『お姫様の居室』そのものの広大なる部屋の中で、僕が持ち込んできた姫君への()()()()()()贈り物である、色とりどりの可憐なドレスをクローゼットにしまい込んだり、ぬいぐるみや着せ替え人形を棚に飾ったり、四季折々の珍しい生花を花瓶に生けたりと、目まぐるしく働き回っている、十数名のエプロンドレス姿のうら若き女性たち。


 間違いなくそれは、この運河城の誇る天下無敵の使用人サーヴァント軍団、『飯塚いいづかメイド隊』であった。


 ……そうだった。今ここには彼女たちも、ちゃんと存在していたのである。つい姫君への『御奉仕』に熱中してしまって、すっかり忘れ去っていた。

 いやでも、こういった場合シーンにおいては、二人っきりにしてくれるものじゃないのか?

「──まったく。おまえたちときたらいつも、僕の最大の楽しみを横取りするのだな」

「おやおや、これぞ俗にいう、『貴族の趣味は変態行為の隠れみの』ですかあ?」

「統計によれば大陸系は同性愛者ホモセクシャルが多く、島国系は小児嗜好ペドフィリアが多いとも申しますからねえ」

「いくら超特権階級の新貴族だからって、何をやっても許される時代ではないんですよう」

「『この少女は実際上の人間ではないのだから、何をしてもいいのだ』なんて詭弁も、これからは通用いたしませんからねえ」

 ちっ。なんとも世知辛い世の中になったものだ。

「わかったわかった。だったらせめて晩餐の刻限までは、我々だけにしてはくれないか。し残した『メンテナンス』も少しはあるし……な、何だ、その疑わしげな目つきは⁉ まさか栄えある次期運河領主のこの僕が人払いをしておきながら、こそこそと年端もいかない少女に非道な行いをするとでも言いたいのか? し、失敬な! せいぜい今日持ち込んできたドレスがちゃんと似合っているか、着せ替えをしてみるくらいなもので──」

「……いえいえ、それだけでも十分『厳重注意イエローカード』ものですよう」

「まあ、そうは申しましても、我々のほうもお食事の準備に取りかからねばなりませんし」

「ここは、旦那様の御理性を信頼することにいたしますか」

「せいぜい信じておりますぞ、『栄えある次期運河領主』様」

「では、我らはこの辺で」

「「「失礼いたしまするう」」」

 何だか失礼な言葉を口々に捨てぜりふのように残して部屋をあとにしていく、かしましきメイドたち。

 ……今一つあるじに対する尊敬の念が乏しいように感じるのは、僕の人徳が足りないからなのだろうか?

「──ああ。そうだ、旦那様」

「な、何だ、まだ何か用なのか?」

 あたかもこちらの心を読み取ったかのように、最後尾のメイドがおもむろに振り返った。

 そして両端を吊り上げ笑み歪んだ花片のごとき薄紅色の唇がこぼし落としたのは、本日最大の痛切なる警句であった。


「それにしてもまさか『鬼退治』の主催者の旦那様が、当の『鬼』をこんなところに囲っているなんて、たとえ帝都の誇るじゅつの皆様であろうとも、考えも及ないことでしょうね」


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


 僕がこの鬼──いや、少女と最初に出会ったのは、ほんの半年前の満月の夜であった。


 大きなベッドの中央で、その華奢な矮躯には似合うはずもない大人用のドレスの中に埋もれるようにしてうずくまっていた、幼き異形の者。

 困惑と脅えとに揺れている、縦虹彩の黄金きん色の瞳。言葉を忘れたかのようにただ震えるばかりの、鮮血のごとき深紅の唇。

 その様を見ていたら、とても恐れたり逃げ出したりすることなどできなくなり、僕は思わず彼女のほうへと手を差し伸べてしまい──


「××さん!」


 気がつけば、すっかり部屋中が闇色に染まっていた。

「……自分の叫び声で目を覚ますとはな。まったく、今さら幼子でもあるまいし」

 ふと見上げれば、『七の塔(セブンス・リトル)』ならではの天井いっぱいに設けられている天窓のガラス越しに、あの夜と同じ望月が煌々と輝いていた。

 そしてその光は容赦なく、壁際の窓枠に肘をもたれて座り込んでいる僕のだらしない姿と、テーブルいっぱいに並べ立てられたワイン瓶を照らし出していた。

 どうやら食事が済んだあとで、一足先にベッドに入った少女のいとけなき寝顔を肴に酒杯を重ねていて、ついそのまま眠り込んでしまっていたようであった。

「やれやれ。この有様じゃ、メイドたちと余計な約束などする必要もなかったな」

 そうつぶやきながら室内を見回すまでもなく、もはやあのかしましき女性たちの姿はただの一人も見えはしなかった。

 だからというわけでもないのだが、僕はおもむろに立ち上がり部屋の中央のベッドへ歩み寄り、天蓋の中へと覗き込んだ。


「……………………………………………………………………………………あれ?」


 しかしそのとき月明かりに照らし出されていたのは、純白のシーツの皺ばかりであった。

 思わず振り返れば部屋の出口の重厚な扉が、この真夜中に開けっぱなしになっていた。

 その先にある空中回廊は、唯一『本城スノウ・ホワイト』最上階の城主ぼくの私室へと続いており、更にその屋上にあるのは──。


「ふふふ、困ったものだ。またいつもの夜の御散策──いや、『狩り(ハント)』に出かけられたか」


 そうひとりごちると僕は踵を返し、出口へと向かって歩いていった。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「──うふふふふふふ。あはははははは」


 煌々と降りそそぐ月明かりに照らされ草花の色もはっきりと見て取れる花園の真ん中で、まるで自分自身が一つの白き花びらにでもなったかのように、軽やかに舞い踊っている少女。


 あたかも昼間の人形のごとき姿が嘘だったみたいに、朗らかなる笑い声をあげながら。


 運河領本城『スノウ・ホワイト』の屋上に設けられている、広大なる空中庭園。

 予想通りに彼女は今夜もここを、真夜中の散策の場所に選んだようであった。


「うふふふふふふ。あはははははは」


 運河を渡る生暖かい潮風に乗って響き渡る、快活そのものの少女の笑声。

 薄いシルクサテンのネグリジェのみを身につけて花々の中を跳ねまわるその様は、まるで月の妖精が戯れ遊んでいるようにも見えるほど幻想的な光景であった。

 僕は『七の塔(セブンス・リトル)』から全力疾走で駆けつけてきたことによる疲労感もすっかり忘れ去り、庭園を囲む生け垣の狭間よりただ呆然と少女のほうを見つめ続けていた。


「──おのれっ、やはり鬼がいたのか⁉」


 ふいに斜め後ろから突きつけられる、野太い声。

 思わず振り向けば庭園の入口で仁王立ちしている、一人の男の姿があった。

 あたかも神主を思わせる白装束に、腰にいたしゃくどうしょくの細身の太刀。紛う方なくそれは帝都随一のじゅつとも謳われている、さかぴんちょう氏の御登場であった。

「おまえだな、おまえが俺が殺した鬼術師どもの死体を隠していたんだな⁉ くくくくく。やっと見つけたぞ。ここでおまえを殺してしまえば『鬼退治』を成し遂げると共に、すべての事件をおまえになすりつけることさえもできる。そうなれば帝都一の鬼術師の誉れも、運河領主御令嬢へのお目通りも、何もかもがこの俺だけのものになるのだ!」

 訳のわからないことをぶつぶつとつぶやきながら腰の刀を抜き放ち、少女のほうへと歩み寄っていく鬼術師。まさにそれは浅ましき欲望にまみれた、醜き人間の姿であった。

 しかし少女はそれに気づきながらも、舞いをやめいつもの無表情へと戻り、ただその場に立ちつくしていた。

 いやちがう。彼女はもはや何の感情も持たない人形なぞではなく、その瞳は何か得体のしれない『渇望』のようなものをたたえながら、ぎらぎらと輝きだしていたのだ。


 ──人にはあらざる縦虹彩の、黄金きん色の瞳。


 それを見て気後れした男が立ち止まったとたん、少女はさらに意外な行動に出た。

 あたかも白い花びらを散らしていくかのように、次々と脱ぎ捨てられていく衣服。

 天空より降りそそぐぎんはくしょくの月明かりに照らし出されたのは、華奢だけど均整のとれたいにしえの唐天竺の天女像のごとき肢体。ほっそりと伸びた四肢とまだまだ薄い胸。そしてそれらをからめ捕るように包み込んでいるつややかな銀糸の髪の毛。


『奇跡の美の結晶』が、そこにいた。


 そして少女はおもむろにその場にしゃがみ込みまるで男のことを誘うように、いまだか細き両脚を大きく開け広げたのである。

「うぐぉわああああああああああああああ!」

 たまりかねたように雄叫びを上げて自慢の太刀を放り投げ、少女へと飛びかかっていく男。

 まさしく男の節くれ立った指先が少女の可憐な頬に触れんとしたその刹那、むせ返るほどの『オンナの匂い』があたり一面に立ちこめていった。


おにフェロモン』──一度それに囚われた者はもはや逃れることのできない、禁断の香り。


 そのとたん男は何かにとり憑かれたような目つきとなって、少女のうなじへと顔をうずめていく。

 まさに、その瞬間であった。


「ぐぎゃあっ⁉」


 突然乾いた破裂音が鳴り響くと共に、無様な悲鳴をあげ右耳を押さえつけながら少女から飛び退いていく男。そしてたちまち鮮血に染まっていく、白装束。

「だ、誰だ! いきなり何てことを──げえっ。あ、あんたは⁉」

 振り向きざま驚愕に見開かれる、鬼術師の瞳。


 ──この運河領本城のあるじの右手に握られている、硝煙たなびくピストルを目の当たりにして。


 予想だにできなかった事態に我を忘れ、ただ流血を続ける己の耳たぶを押さえつけるばかりの男の許へと、僕は悠然と歩み寄っていった。

「困りますね、戸坂さん。いくら『鬼退治』のためとはいえ、いきなり幼い少女に襲いかかるような人倫にもとる倒錯的変態行為は、厳に慎んでもらいたいものですな」

「お、御曹司? 何で主催者であるあんたが、『鬼退治』の邪魔なんかをするんだ⁉」

「ふふふ。主催者だろうが何だろうが、まさか自分の『家族』の危機を見過ごしにはできないでしょう?」

「はあ? その鬼が、しんぞくであるあんたの、家族だと⁉」

「あれ、ご存じありませんでしたか? 我々新貴族の家系には、いにしえ平安へいあんぞくの血が流れていることを」

「な、何だってえ⁉ それじゃ、その娘は──いや、そもそも、この『鬼退治』は⁉」

 混乱のあまり、もはやただわめき続けるばかりの男。

 己へと迫り来る、魔性の者にも気づかずに。


「ところで、いいんですか? 人喰いである鬼の目の前で、そんなにも血を流れるままにしておいて」


「え? ──うわあっ!」

 まるで僕の言葉を合図とするかのように、少女があたかも牙のような鋭いけんをむき出しにして、鬼術師の喉笛へと喰らいついていった。

「ぎゃああああああああああああああ!」

 激しく血しぶきと咆哮をあげながら、暴れ狂う男の身体。だがその小さき襲撃者の貪欲なる唇は獲物を放すことなく、無駄なあがきはすぐに鎮まっていく。


 やがて鳴り響いてくる、何かボロ布のようなものを無理やりすり潰したり引きちぎったりするかのような、不快きわまる音。


 次々と手づかみであるいは鋭い犬歯によって、男の身体が無造作に解体ばらされていく。

 そして少女のいまだ幼く中性的で華奢な肢体は返り血と肉片とによって、またたく間に深紅へと染め上げられてしまった。

 しかし僕はまるで魂を握られたかのように、彼女の姿から目を離すことができなくなってしまっていた。


 ──なぜなら、その少女は、美しかったから。


 たしかに人の屍肉を喰らうその姿は、まさに浅ましき悪鬼そのものではあったが、陶器のように白く穢れなき素肌や絹糸のごときつやめく長い銀髪は、血だまりの中にあってなお妖しい色香を深めていき、人形みたいに端整な顔の中ではあたかも宝玉そのものの黄金きん色の双眸が、血汁を浴びるほどに生き生きと煌めきを増していった。


 まさしくそれは、この上もなく禍々しくもありながら真に純粋な者だけが持ちうる、至高の清麗さすらをも醸しだしていたのだ。


 するとふいにそのとき、少女が立ち上がった。

 血肉まみれの裸身のすべてを、さらけ出すようにして。

 まさにその瞬間。とても信じられないようなおぞましくも神秘的な光景が、僕の目の前で展開されていく。


 ──美しい月明かりのもと。少女のいまだ性的に未分化な中性的で幼い肢体がなまめかしく丸みをおび始め、腰はくびれ乳房はふくらみ、更には銀白ぎんはくしょくの髪の毛と人にはあらざる縦虹彩の黄金きん色の瞳が、極普通の黒色へと変わっていった。


 そしてその場に現れたのは二十代半ばほどの、見目麗しき一人の『女性』であったのだ。

 僕はもはや言葉もなく、ただ目の前の光景を凝視し続けていた。


「──旦那様。あとの『お掃除』は我々のほうでいたしますので、お早くお嬢様のもとへとお行きなさってくださいませ」


 突然の声に振り返れば、いつしか背後にはあの可憐なる『飯塚いいづかメイド隊』総勢二十余名が、庭園を取り囲むように立ちつくしていた。

 ──なぜだか各々の手に、ナイフやフォークや包丁などの、料理道具を携えながら。

 僕はその言葉に促されるようにゆっくりと、『女性』のもとへと歩み寄っていく。


「ああ、ナオヤ!」


 待ちかねたように僕の懐へと飛び込んでくる、血肉まみれの華奢なる肢体。

 背中へと回される両腕。しなだれかかってくる白磁の肢体。迫りくる黒曜石の瞳。

 ──そして押しつけられる、朱色に染まった唇。

「うぐっ!」


 差し込まれ、僕の口腔なかをのたくっていく生暖かい舌。──人間ひとの血と肉とを、存分に味合わせながら。


 まさしくその刹那。またしても『あの匂い』が、わき立っていった。

 一度とりつかれてしまえば、男だろうが女だろうが大人だろうが子供だろうが二度とは逃れることなぞできはしない、鬼族の血を引きし者だけが持つ、忌まわしき『鬼フェロモン』。


「……ナオミ、姉さん」


 そのとき僕の唇からこぼれ落ちたのは今まさに目の前にいる、最愛のひとの名前であった。




  三、オニノ『慟哭ナキゴエ』。



「──報告しまーす。本日の行方不明者は、『一の塔(ファースト・リトル)』に御宿泊のさかぴんちょう様ですう!」


 翌日の朝食はもはや毎度おなじみになった、メイド隊の『重大発表』から始まった。


「先ほどお食事の御用意ができたおりに、お泊まりの『磯鷺いそさぎの間』へとおうかがいしたのですが、すでにもぬけの殻でしてえ」

「それなのにお客様のお荷物等は一切、そのままの状態で残っているのですう」

「現在ボートの数も足りておりますので、運河をお渡りになった形跡もないわけでしてえ」

「もちろん、城内一通りの探索やお部屋の実況見分等は、すでに済んでおりますう」

「引き続き捜索を続行いたしますので、皆様も御協力よろしくお願いいたしまするう」

 可愛らしい舌っ足らずの口調で、次々に台詞をリレーしていく十数名のメイドたち。

 リズミカルで微笑ましいのだが言っている内容のほうはかなり深刻であり、当然のごとく衝撃を受けたじゅつたちは口々に騒ぎ立て始める。

「──行方不明って、あの『旭光ひのもと鬼術師界のピンチョン』とまで呼ばれた、戸坂氏が⁉」

「こ、今度は、いったい誰の仕業なんだ⁉」

「私ではありませんぞ!」

「もちろん私でも」

「じゃあ、いったい誰が⁉」

「本当に貴殿の仕業ではないのかね? 何せ帝都二番手の鬼術師としては、戸坂殿はまさに目の上のたんこぶであられたろうしな」

「ふん。貴殿こそ手柄を横取りされたとかで、彼のことを恨んでいたそうではないか」

「何だと、言いがかりも甚だしい。この無礼者が!」

「それは、こちらの台詞だ!」

 もはや普段の取り澄ました仮面なぞかなぐり捨てて、本性をむき出しにつかみかからん勢いで口角泡を飛ばし合う鬼術師たち。

 まあ、無理もなかろう。密かに水面下で小競り合いをしていたつもりが、ここに来ていきなり『一番手』の鬼術師が『行方不明』になってしまったのだからな。

「おやおや。いったいどうなされたのです、皆さん。これはあくまでも『鬼』の仕業なんでしょう? なのにまるで仲間割れでもなされているように言い争いなどを始められて。困りますなあ、事ここに至っては鬼術師である皆さんだけが頼りだというのに」

 突然その場を制するように口を挟んだ僕の皮肉げな言葉に、思わず口を閉ざす鬼術師たち。

 ようやく我を忘れて本音をだだ漏れにしていたことに、気がついたようである。

「──まあまあ、皆様。まずは落ち着きなさってくださいませ」

「そうでございますわ。あくまでも現状は、『行方不明』にすぎないのですよう」

「まだ殺人事件とか『鬼の仕業』とかとは、決まったわけではないのですう」

「その謎を解き明かすのも、『探偵役』である皆様のお役目ではないですかあ」

「とは申しましても、もしこれが『ミステリィ小説』なら、まだ序の口でございましょう」

「何せ最初の死体が確実に『発見』されてからが、本番なのですからねえ」

「それまではどうかお仲間内で無粋な諍いなどなさらずに、お気を安らかに御ゆるりとお過ごしくださいませ」

「我々メイド隊も誠心誠意、皆様に御奉仕いたします所存ゆえに」

 鬼術師たちを文字通り矢継ぎ早になだめすかし終えるやその言を証明するように、客人一人一人に張り付いて朝食の給仕をし始めるメイドたち。

 うら若き乙女たちに手取り足取りお世話をされることによって、さっきまでの険悪なムードなぞ完全に忘れ去り、顔をにやけさせながら食事を開始する鬼術師たち。

 ……うむ。これは特別サービスということで依頼料からさっ引いても、誰も文句は言ってこないであろう。

 こうして僕が万能使用人たちの機知に富んだ行動を見て、将来の『メイド喫茶チェーン店構想』を思い描きながらその場をあとにしようとした、まさにその刹那。


「──待ちたまえ、ナオヤ君」


 突然背後から突きつけられる、こちらももはや聞き飽きた感もある、三十絡みの男の声。

 振り向けばもちろんそこにたたずんでいたのは、僕ら姉弟の実の叔父にして『せいレーンきょうだん』運河地区主席司祭(ディーン)の、わたなべワタリその人であった。


 ──相も変わらず眼鏡の奥で『青灰色ブルー・グレー』の瞳を、冷たく煌めかせながら。


「ナオヤ君、君はいったい何を企んでいるんだ⁉」

「何って、ご存じの通りの『鬼退治』ですけど?」

「戯れ言はいい加減にしたまえ。そんなことよりも一刻も早く、ナオミさんに会わせてはくれないか。これはそもそも『鬼の仕業』なぞではないんだ。原因については教団のほうですでにすべてを把握済みだから、我々にまかせてくれれば──」

「それで姉を教団の研究所に一生閉じ込めて、『実験動物』として飼い殺しにでもなさるおつもりですか? 冗談じゃない。たとえ相手が鬼であろうが教団であろうが、けして姉さんを渡したりするものですか。この僕が必ず守り通して見せます!」

「……『実験動物』って。ナオヤ君、君まさか」

 僕の思わぬ言葉に、さっと顔色を変える叔父上殿。

 彼はようやく、気がついたのである。


 すでに叔父が現在姉がおかれている『状況』をほぼ正確に知り得ているということを、実は僕のほうでもしっかりと把握していたことを。


「だから散々申しているではないですか、姉に会いたいのなら『鬼退治』をやり遂げてくださいと。それこそ教団の『主席司祭ディーン』様だったらお手の物でしょう? まあもっとも、『その鬼』のことを、本当に退治できるものならばね」

「……ナオヤ君」


 もはや話は終わったとばかりに踵を返し、今度こそ僕は朝餉の場をあとにしていく。


 そして向かうのは最愛なる『その鬼』が待っている、『七の塔(セブンス・リトル)』であった。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「──ああ、ナオヤ。お願い、早く()()をちょうだい! もう、我慢できない。急がないと、あの鬼が来るわ!」


七の塔(セブンス・リトル)』へとたどり着いてみれば部屋の中央のベッドの上で、僕の姉さんが血肉まみれになりながら、人の屍体を貪り喰らっていた。


 しとねの上に蜘蛛の巣のように広がっている、つややかなる黒絹の髪の毛。哀願の熱をおびながら潤んでいる、黒曜石の瞳。華奢なれどおうとつの豊かな、すでに熟した白磁の肢体。

 それは人の屍肉を食べたときだけ一時的に戻ることのできる、姉本来の姿であった。

「足りない、足りないわ。これっぽっちの人肉じゃ、私の中で荒れ狂う『鬼』を抑えつけることなんてできないの! ああ、ナオヤ。あなたの『体液』を──鬼族の血を引く者だけに伝わる『聖なる精気スピリット』を、今すぐに私の胎内なかに注ぎ込んでえ‼」

 あらぬことを口走りながらまるで大型の肉食獣のごとき敏捷なる様で、いきなり僕へと飛びかかりベッドへと押し倒す姉君様。


 ──ほんの目と鼻の先で煌めいているのは、あたかも獲物を狙い定める爬虫類そのままの、人にはあらざる縦虹彩の黄金きん色の瞳。


 もはやこれ以上言葉はいらぬとばかりに深紅の唇を押し付けてくると同時に、僕の口腔内のすべての体液を舐め取るようにのたうっていく熱き舌。


 ……姉さん。


 そして息を殺して事態の推移を見守っていたメイドたちが部屋を出ていく気配と共に、実の姉の白魚のような指先が、僕の身体の中心の『強ばり』へと伸びてきた。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「……う……ううっ……私……私また……『鬼』になって……しまったのね」

 天井までも届きそうな高い天蓋の中で切れ切れに聞こえてくる、女のすすり泣き。


 それは冷蔵保存していたじゅつたちの屍肉と、弟の『精気スピリット』──つまり体液という体液を喰らい込むことで、やっと我を取り戻した、姉の鮮血のごとき深紅の唇から漏れでていた。


 そう。一時的とはいえ姉さんが本来の二十代半ばの身体を取り戻せるのは、何も夜の間だけとは限らないのだ。

 要は人間の血肉を摂取することによって、身のうちで荒れ狂う『鬼の渇望』さえ満たさせればいいのである。

 幸い『七の塔(セブンス・リトル)』の誇る大保冷庫には、潤沢なる『食材』が備蓄されていた。

 何せ鬼術師の皆さんが『鬼退治』にかこつけて、日夜勝手に同士討ちをなさってくださっているので、我々としてはあとでこっそりと『敗者』の御遺体を回収しにいくだけでよかったのだ。

 もちろん真面目に『鬼退治』に取り組んでくださっている奇特な方に対しては、昨夜のようにこちらから返り討ちにして差し上げるまでである。

 そういう訳で単に本来の身体を取り戻すのはいつでもできるのだが、ただ人の屍肉を食べただけではむしろ身のうちの『鬼の渇望』を活性化させてしまうだけなのであり、まさしく生粋の鬼であるかのごとく、ひたすら人肉を欲するようになってしまった。


 ──そして実は何と、この忌まわしき『禁断症状』の悪循環マイナス・ループを抑えつけることができるのは、他ならぬこの僕の『聖なる精気スピリット』を摂取することだけであったのだ。


 最初に姉さんが『おに』していわゆるトランス状態となったとき、もはや前後の見境もなくその場にいた実の弟にも襲いかかってきたのであるが、なぜだか僕の血をほんのわずか口にしただけで、彼女の興奮状態がみるみる収まっていったのである。

 こんなことはこれまで犠牲にしてきた鬼術師や使用人を喰らったときにはなかったので、どうやら僕が姉同様にいにしえの『平安へいあんぞく』の血を引いていることが原因かと思われた。

 そこで昨夜や先刻のように、姉さんが『鬼の渇望』を抑えることができず人肉を喰らったときには、そのあとで必ず僕の体液──『精気スピリット』をも欲するようになってしまったのだ。


「……私、私、このまま本当に『鬼』になってしまうしかないの⁉」

 今やベッドの上でうつ伏せとなり、うめくように嗚咽を漏らし始めているひと


 ──その裸身を、人の血肉と弟の白濁液まみれにしたままで。


「大丈夫、僕がついているじゃないか。姉さんは何も思い煩う必要なんかはないんだ。姉さんの『罪』は、すべてこの僕が引き受けてあげるから。たとえこのまま人の血肉を喰らい続けて鬼になろうが悪魔になろうが、いつまでも側にいてあげるよ!」

 まさしく魂を振り絞るような、渾身の告白。

 だがもはや、何の応えも返って来なかった。


 かわりに聞こえてきたのは、消え入るようなか細き寝息だけである。


 ふと見やればいつしかそこに横たわっていたのは、あたかも月の雫を紡いでできたみたいな長いぎんはくしょくの髪の毛に包み込まれた、いまだ性的に未分化で華奢なる白磁の肢体と、人にはあらざる縦虹彩の黄金きん色の瞳を瞼に閉じ込めた、人形そのものの端整な小顔だった。

 僕はおもむろにベッドに歩み寄り、天蓋の中へと覗き込む。


 規則正しく上下する薄い胸と、天使のごとく健やかなる寝顔。


「……ふふふ。皮肉なものだ。渇望が完全に満ち足りていにしえの純血の鬼族そのものの姿へとなり果てたときのほうが、あたかも純真無垢な赤児のような有様になってしまうなんて」

 しかしだからこそ僕は今このとき、幼いころからあこがれ続けてきた姉さんを、ついに自分だけのものにすることが叶ったのである。


 ──そうだ。もはや人の血肉なしでは生きてはいけず、実の親子兄弟であっても平気で求め合う鬼になってしまったからこそ、僕はこうして最愛の姉を独り占めにできたのだ。


 間違いなく僕は今、心の底から幸せであった。


 たとえそれが、愛するひとの不幸の上に成り立つものであったとしても。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


 それからあとの数日間は、極普通の穏やかなる日々が続いていった。


 朝な夕なの食事の席では、叔父やじゅつたちとのたわいもない対話で時を過ごし。

 昼間は『七の塔(セブンス・リトル)』で、少女人形状態となっている姉さんへの『御奉仕メンテナンス』に精を出し。

 夜は散歩がてらに『本城スノウ・ホワイト』の空中庭園で、罠にかかった鬼術師を貴重なる食材に加え。

 そしてそのあとで大人の身体となった姉さんと、実の姉弟で愛を交わし合って。

 ──これらのくり返しのうちに、ただひたすら過ぎていくばかりの日々。

 そう。つつがなき『日常』。


 ……日常?


 これが本当に、『つつがなき日常』や『極普通の穏やかなる日々』と呼べるのだろうか。

 そういえば、いったいいつからこの城は、こんなふうになってしまったんだっけ。

 姉さんが、『あのような状態』になってから?

 それとも、二年前に両親が亡くなってから?

 僕がこの、『鬼退治大会』を始めてから?

 ……思い出せない……。


 何か──何か、大切なことを忘れている気がするのに。


「──いえいえ。何も思い出す必要なんて、ないではありませんか」

「そうですよう。すべては、我らメイド隊に任せておけばよろしいのです」

「それこそがこの城のあるじとしての、昔からの習わしなのですし」

 気がつけば僕は自室の中で、周囲をぐるりと十名ほどのメイドたちに取り囲まれていた。


 カーテンを閉めきった薄暗がりの中で、妖しく煌めいている幾対もの茶色の瞳。


「……ああ。そうだ、そうだったね。僕にはおまえたちメイド隊がいたのだった」

 ──昔からの習わし? この城には昔から、こんなに大勢のメイドなんかがいたっけ。

 しかしふと浮かんだ僕の疑問を打ち消すように、更に幻惑的に笑み歪む花片のごとき唇。

「さあ、そんなことよりも旦那様は一刻も早く、お嬢様のところへとお行きなさいませ」

「あなた様はこれまで通り、姉君のお世話だけにお心配りしてくださればよろしいのです」


 ……そうだ。何を余計なことを考えたりしていたのだろう。


 今の僕にはただ、最愛の姉さんさえいればいいのだから。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「……おまえたち、こんなところで何をやっているんだ?」


七の塔(セブンス・リトル)』へと到着してみればなぜだか姉さんの部屋の入口の前には、十数名ものメイドたちが所在なさげに立ちつくしていた。

 加えて『本城スノウ・ホワイト』からも僕に付き従う形でやはり十名ほどのメイドたちが同道しており、もはやこの狭い通路で、『飯塚いいづかメイド隊』総勢二十余名全員集合のていをなしていたのだ。


「──ちょっと待て。それでは今現在、姉さんの世話は誰がやっているのだ?」

「あの、それがあ、『例の物』をお食事中にお嬢様が、少しの間全員席を外してくれって」

「何だか思いつめた御様子で、有無を言わさぬ感じでしたのでえ」

「我々もお言葉に従うしか、いたしかたなかったのですう」

「なっ⁉ ──このたわけ者どもめが!」

「あ、旦那様⁉」


 我を忘れメイドたちを突き飛ばすようにして部屋へと飛び込めば、中央のベッドの上はすでに血の海となっていた。


 その縁に寄りかかるように仰向けに倒れ込んでいる、華奢なる肢体。

 しとねの上に蜘蛛の巣のように広がっている、つややかなる黒絹の髪の毛。

 しかし黒曜石の瞳のほうは、瞼できつく閉じ込められてしまっていた。


 しかも細身ながらもおうとつの豊かな身体を包み込む白いシフォンのワンピースは、その半分近くを深紅に染め上げられており、そして彼女の右手には『お嬢様専用の肉料理』を切り分けるための、鋭いナイフが握りしめられていた。


「……何ということを」

 僕は矢も盾もたまらずにベッドへと走り寄り、血まみれの肢体を抱き上げた。

 左腕の手首に走っている、深く鋭い傷口。

「姉さん、しっかりするんだ。姉さん!」

「……お願い、このまま死なせて」

 瞳を固く閉ざしたままで、深紅の唇だけがか細い声をこぼし落としてきた。

「何を馬鹿のことを言っているんだ! ……ああ、こんなにも血を流してしまって。『おに』の進んだ者にとっては、何よりも命取りなんだぞ!」


「──旦那様、これを」


 いつの間に忍び寄っていたのか、メイドの一人が何か棒状のものを差し出してきた。

 ──保冷室で新鮮チルド保存されていた、名も知らぬ哀れな生け贄の『右腕』。

 それは今このとき、何よりも必要な物であった。

「さあ、姉さん、これを食べるんだ! そうすれば、鬼の再生能力を増幅できるから!」

「いやっ、やめてっ! 私を死なせて! もうこんな鬼のような有様のままで、生き続けたくはないの!」

 僕の顔や腕に爪をたて、必死にあらがい続ける女。


 それでも無理やりに屍肉を頬ばらせているうちに、ようやく『効果』が現れ始めた。


「熱い! 身体が熱い! ああ、お願いナオヤ、あれをちょうだい! ──あなたの体液の中の『精気スピリット』を!」

 充満していくオンナの匂い。──それは禁忌なる魔性の香り、『おにフェロモン』。

 もはや拒む理由も気概もなくなった僕は、実の姉の肢体へと覆いかぶさっていく。


「姉さんのためにならこれからだって、他人の屍肉だろうが僕の『精気スピリット』だろうがいくらでも与えてあげる。──そう。あなたを僕だけの、『花嫁オニ』とするためになら!」


 その言葉に応じるように黄金の瞳をきらめかせながら、弟の身体を抱き寄せる最愛のひと

 僕はすぐに夢心地へと包み込まれ、すべての思考を閉ざしてしまった。


 だからそのとき、気づかなかったのである。


 ──メイドたちが僕らのほうを、ほくそ笑みながら見守っていたことを。


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


「ナオヤ君! これはいったいどういうことなんだ⁉」


 その黒衣の『主席司祭ディーン』様は、いきなり運河領城主の私室に飛び込みざま、怒鳴りつけるようにそう言った。


「……どういうことって。むしろそれはこちらの台詞なんですが、叔父上?」

「この期に及んでとぼけるんじゃない! ナオミさんのことに決まっているだろう! 彼女が自殺をはかったというのは、本当のことなのか⁉」

「おや?」

 叔父の口から飛びだしてきた『予想外の言葉』に、僕は執務机を取り囲むようにたたずんでいるメイドたちのほうへと、ちらりと視線を走らした。


 まるで仮面でも着けているように寸分たがわぬ笑みを浮かべて沈黙を守っている、十数名の可憐なる乙女たち。


「そのような物騒なお話、いったいどちらでお聞き及びになられたのでしょう?」

「そんなことはどうだっていい! だから私は何度も言っていたのだ。そういうことならば、もはや身内としても黙ってはおられぬ。即刻ナオミさんを引き渡したまえ! 彼女の身柄はこれ以降我が教団で、丁重に保護させていただく!」

 机に手をつき、挑むように身を乗り出してくるせいレーン僧。

 眼鏡の奥で冷たく煌めいている、『青灰色ブルー・グレー』の瞳。


 ──そう。せいレーンきょうだんきっての、真の『おにごろ』である証しの。


「……話になりませんな」

 そう言いざま席を立ち、窓のほうへと身をひるがえす。

「ナオヤ君!」

「叔父上、あなたまでもこの運河領の相続権を狙っている父方の親戚連中みたいに、僕から姉さんを奪う気なのですか? 僕たち二人のことはもう放っておいてください。先日も申しましたが、姉さんのことはこの僕がきちんと守ってみせますよ」

「いいかい、これは教団の『専門家プロフェッショナル』として断言する。ナオミさんの現在の状態は『鬼の呪い』なんかじゃないんだ、人の手で十分元に戻すことができるのだ。それなのに君のようにただなすがままに任せているだけでは、どんどんと『おに』が進んでいくばかりであり、今に手遅れになってしまうんだぞ!」

「手遅れだろうが何だろうが、これ以上余計な口出しをなされるおつもりなら、叔父上といえども容赦はいたしませんよ。次期運河領主としての権限で、教団上層部に話をつけさせていただきます。それがお嫌なら、即刻この城を引き払われることをお勧めいたしますが」

「……わかった、もういい! 私は私で勝手にやらせてもらおう!」

 そう怒鳴りざま踵を返し激しい音をたてながら扉を開け放ち、足早に立ち去っていく叔父上様。

「やれやれ。お節介もこれだけしつこいと、もはや嫌がらせレベルだよな」


「──いいんですか、旦那様」


「うん、何がだい?」

 いつの間にか身を寄せてきていたメイドが、続けざまに耳打ちをする。

「あの方、密かに鬼術師の皆様とも何人も繋ぎを取られているみたいで、何やらお企みの御様子なのですけど」

「ほう、それはそれは」

 つまり今し方の派手なパフォーマンスは、ブラフの可能性もあるわけか。

「……あの、旦那様。本当にこのまま、放っておいてもよろしいのですか?」

「別にいいんじゃないの。この城の中で何を行おうが、どうせたかが知れているし。何せすべてはこちらの手のひらの上なのだからね。まあ、お手並み拝見と参りますか」

「さすがは旦那様」

「頼もしゅうございまする」

「我々メイド隊も、どこまでもついて参りますぞ」


「ははははは。頼りにしているぞ。──ところでどうして叔父上は、姉上の『自殺未遂』のことを知っていたのだろうね。誰か親切な方でもいて、教えて差し上げたのかな」


 一瞬で沈黙に支配される、城主の私室。まさに仮面のごとく凍りつく、十数名分の笑顔。

 ……やはり僕の読みは、正しかったようである。

「さ、さあ。そういえば、不思議でございますわね」

「さすがは教団きっての『主席司祭ディーン』様、千里眼でもお持ちなのでは」

「ほう。それでは我々のほうも、十分に気をつけねばならないな」

「ほんに、ほんに」

「あはははは」

「おほほほほ」

「うふふふふ」

 白々(しらじら)しい笑い声を高らかにあげていく、黒々としたメイド服に身を包む乙女たち。

 ふん、まあいい。こいつらこそ何を企んでいるかは知らないが、場合によっては叔父や鬼術師共々葬り去ればいいだけの話だ。


 ──姉さんと僕だけの、二人きりの世界。


 それを邪魔立てする者は、何人なんぴとたりとて赦すわけにはいかないのだから。




  終章、オニノ『居場所スミカ』。



「──どうやらあの司祭様がおっしゃっていたことは、本当だったようですな」


 そのとき不意に聞こえてきた嫌味なまでにおっとりとした紳士口調の男の声に、少女の舞いの足取り(ステップ)はつまずくように止まってしまった。


 天空から煌々と月明りが降りそそいでいる、夜半すぎの『本城スノウ・ホワイト』の広大なる空中庭園。

 いつものように昼間の人形みたいな仮面を脱ぎ捨て少女が無邪気に舞い踊っていたなかに唐突に現れたのは、一見すると平凡な勤め人風の背広姿ではあるものの、まさしくさか氏亡きあと暫定的に『帝都随一』の称号を得ることになった、元『二番手』のじゅつであった。

「まさか本当にこんな夜中に鬼とはいえ、外見上幼い女の子がひとりで遊んでおられるとはねえ。まるで自分から襲ってくださいって、言ってるようなものではないですか」

 その醜い欲望を隠そうともせず、どんどんと少女の許へと歩み寄っていく男。

 しかし少女のほうも逃げたり騒いだりするどころか、むしろ妖艶な笑みを浮かべ続けていた。

 男の腕が少女の華奢な両肩に触れんとしたまさにそのとき、むせ返るほどの『オンナの匂い』があたり一面に立ちこめていく。


おにフェロモン』──一度それに囚われた者はもはや逃れることのできない、禁断の香り。


 そのとたん男は何かにとり憑かれたような目つきとなって、少女の胸元へと顔をうずめていった。

 その隙を待っていたかのように少女が首っ玉へとかじりつき、あたかも牙のような鋭いけんをむき出しにする。

 それを見て取り僕がいつものように懐からピストルを取り出そうとした、その刹那──


「おおっと、そこまでです」


 突然ひやりとした感触と共に背後から突きつけられてくる、新たなる男の声。

 思わず目線だけを斜め後方へと送れば、そこには先日元『二番手』の男と舌戦を繰り広げていた鬼術師が、武骨な山伏の法衣を身に着けてたたずんでいた。

 ──手にした小刀を、僕の喉元へと突きつけながら。

「そちらのお嬢さんもこれ以上何かやると、あなたの大切な弟さんの首筋に、真っ赤な蝶ネクタイを結びつけてしまうことになりますよ」

 月明かりでもわかるほど顔色を変え、背広男から身を離していく少女。

「くくくくく。聞き分けがおよろしいようで。御褒美に我々がこれからたっぷりと、かわいがってさしあげますからねえ」

「姉さん、逃げろ! 逃げるんだ!」

「うるさいですよ、この坊ちゃんしんぞくが!」

「──ぐがっ!」

 奪いとったピストルで僕の肩口を殴りつけるや、続けざまに背広男へと勝ち誇るように指示を出す山伏。

「ようし元『二番手』さん、そのまま続きをどうぞ。弟さんが見ているほうがお姉様におかれても、さぞやお燃えになっていただけることでしょう」

「いやでも、このって一応は『鬼』──つまりは、『人喰い』なんでしょう?」

「大丈夫ですって。こっちには人質がいるのです。何だったら耳の一つも切り落として差し上げるまでですよ」

「そ、そうですかあ? じゃあ、終わったら交代しましょうぞ」

「せいぜい早めにお願いしますよ。何せ順番はつまっているのですからね」

 その言葉を合図とするように、四方八方の茂みから姿を現す男たち。

 それは各々(おのおの)珍妙な衣装に身を包んだ、すでに『戦闘態勢(モード)』へと入っている鬼術師たちの姿であった。

 くそう、まさかこの城内にいる鬼術師全員が、すでにグルになっていたというのか⁉

 もはや邪魔する者もいなくなり、再び悠々と少女へと覆いかぶさっていく背広男。

 次々にはぎ取られていく、衣服や下着。

 けれども少女はすでにすべてをあきらめたかのように表情を失い、ただ男のなすがままに任せるばかりであった。

 そして男自身ももどかしげに下半身の衣服を脱ぎ捨てて、すでに十分に怒張した己の分身をむき出しにする。

 ゲス野郎が。何であんなにまで興奮して、自分のおとこの欲望をそそり立てることができるのだ。

 もちろん『鬼フェロモン』の効果もあるだろうが、そこにいるのはまだ何も受け容れられないはずの、毛も生えそろっていないほんの子供なんだぞ!

 しかしその男はもはやただの獣のように、少女の肢体を無理やりに押し開いていった。

「──ぐっ、さすがにきついですな……」

 あまりの激痛に耐えかねてか、少女がバタバタと脚を振り上げて抵抗を試みる。

「くそっ、おとなしくしなさい! 落ち着いて狙いも定まらないではないですか!」

 業を煮やしてまさに窒息させる勢いで、少女の首根っこを押さえ込む背広男。

「姉さん⁉ くそっ、やめろ! やめてくれ──‼」

「おやおや、何をてこずっているのです。鬼術師界『暫定一位』の称号が泣きますよ」

 余裕綽々に高みの見物を続けている山伏。だが僕はけしてその隙を見逃さなかった。

「──いてっ。何をするのです⁉」

 山伏の手首に噛みつき拘束を解くやいなや、姉さんのほうへと駆け出していく。

 そして交尾に夢中になっている雄犬みたいに事態をまったく把握してなかった背広男へと、渾身の体当たりをぶちかました。

「ぐわっ! な、何てことを。せっかくもうちょっとだったのに!」

 無様に尻餅をつきながらもすぐさま怒りに任せて、僕の左腕へと小刀を斬りつける男。

「うぐっ!」

「いいぞ、元『二番手』さん。そのままぶっ殺しておしまいなさい! 新貴族のお坊ちゃんがふざけやがって。我々をまんまとだまして、鬼のエサにしようとしていたなんて」


 しかし、彼らは気づいていなかったのである。現在この庭園内にいる『鬼』は、目の前の幼い少女だけではなかったことを。


 僕の身体に馬乗りになりまさに殺しかねない勢いで、拳を頭部へと打ち込んでくる男。

「ふはははは。このサラリーマン鬼術師必殺の『通勤ラッシュパンチ』で、このままあの世へ送って差し上げましょう──ひぎっ⁉」

 けれどもそのとき宙にちぎり飛ばされたのは、背広男自身の首であった。

「な、何だ? いったい何が起こったのだ⁉」

 目の前の事態の急変に錯乱する山伏の前へと、ゆっくりと歩み寄ってくる可憐なる乙女。

 無造作にその華奢な右腕を振り上げると、まるで刃物のように伸びきった白濁色の爪から、こびりついていた背広男の肉片が飛び散っていった。


「こんばんは、お客様。お夜食はいかがですか? ──あなたのお仲間の、血肉入りの」


 ヘッドドレスの下で揺れているおかっぱ頭に、可愛らしい小作りの顔の中で輝いている勝ち気そうな茶色の瞳。透き通るような色白のほっそりとした肢体を包み込む、ネオゴシック風の黒を基調としたエプロンドレス。

 ──間違いなくそれは、我が運河領主城の誇る万能使用人(サーヴァント)、『飯塚いいづかメイド隊』の皆さんであった。

「困りますわあ、お客様」

「この城内での家人に対する乱暴狼藉は、御法度なのですよう」

「これはきついお仕置きが、必要でございますわねえ」

 気がつけば鬼術師たちの周囲はすでに、うら若き乙女たちの群に取り囲まれていた。


 闇に煌めく、幾十対もの茶色の瞳──否、いつしかそれは、人にはあらざる縦虹彩の黄金きん色へと変わっていたのだ。


 まさか……まさか……あのメイドたちまでもが、『鬼』であったとでもいうのか⁉

「く、来るな、こっちに来るんじゃない!」

 もはや破れかぶれとなって、闇雲に小刀を振り回していく山伏。

 それに対してさもうるさそうに、軽く右手を返す『鬼』。

「うぎゃあああああああああああ!」

 小刀をにぎったままの男の手首が、花園の上を転々と跳ね飛んでいく。

 もはや草むらにうずくまり泣きわめくばかりの男の脇腹へと、容赦なく深々と突き立てられる白濁色の爪。

「──ぐふっ!」

 激しく血しぶきをあげながら、悶絶していく山伏。

 まるで『しょひつじ』を見るように、ただ冷めた目で見下ろすばかりのメイド。

 そしてあたかもその『血抜き作業』の終わりを待ちかねたように、おもむろに男の屍体へとかがみ込んでいく。

 哀れな生け贄の血肉が飛び散り不快きわまる咀嚼音が鳴り響いていく中、庭園のあちこちでも鬼術師たちが無様な絶叫をあげ始めていた。

「うわあっ!」

「ひいいっ!」

「いやだ、助けてくれ!」

「死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない」

「──ぐぎゃあああああああああ!」

 苦し紛れのインチキ鬼術やなけなしの体術を駆使して、必死に抵抗を試みる男たち。

 しかしその程度では、あたかもハイエナやリカオンのごとく統率のとれた集団攻撃を仕掛けてくる乙女たちの相手にはならず、無駄なあがきはすぐに鎮まっていく。

 そして鳴り響き始める、ぬかるみをいたずらに踏みつけたりボロ布を無理やりすり潰したり引きちぎったりするかのような、耳障りな音。


 ──今や物言わぬ肉塊へと群がっている、まさに『地獄の餓鬼』そのものの女たち。


 その人懐っこい笑顔も、おかっぱ頭のヘッドドレスも、ゴシック調のエプロンドレスも、すべてがすでに男たちの血肉によって、くれない一色に染め上げられていた。

 もはや僕はただ呆然と、目の前の『聖餐』の光景を凝視し続けるしかなかった。


 やがて不快な音がやむと同時に、群の中から一人の女が立ち上がっていった。


 腰元までゆるやかに波うち落ちる長い黒髪。豊満なる胸にくびれた腰。端整な顔の中の血肉まみれの真っ赤な唇。──そして、月明かりにきらめく黒曜石の瞳。

「……姉さん」

 なすすべもなく立ちつくす僕へと向かって、ゆっくりと歩み寄ってくる最愛のひと

 目と鼻の先に迫るや否や僕の左腕を取り、ついさっきつけられたばかりの小刀の傷口へと向かって、鮮血に濡れた深紅の唇を押し付けてくる。

 あたかも赤児が母親の乳房にむしゃぶりつくようにして、一心不乱に弟の傷口からにじみ出てくる血液を舐め始める姉。

 そう。僕の体液の中にあるすべての『精気スピリット』を、ただひたすら貪りつくすようにして。

 いつしか辺り中に立ちこめていく、濃厚で淫靡なるオンナの匂い──『鬼フェロモン』。

 僕はもはや何も考えられなくなり、目の前の『女』の求めるがままに、その華奢な肢体へと覆いかぶさろうと──


「きゃああっ」

「いやんっ」

「おたすけえ!」


 突然黄色い悲鳴をあげて騒ぎだす、『鬼メイド』たち。

 思わず振り返れば、そこにいたのは、


「──やあ、この場合は『待ちたまえ、ナオヤ君!』とでも言うのが、お約束なのかな?」


 ふざけるようにおのが『決め台詞』をもてあそぶ、やけに落ち着き払った三十絡みの男の声。

 帝都の守護を司るせいレーンきょうだんの、清廉なる漆黒の僧服。

 ──そして眼鏡の奥で冷たく煌めいている、『青灰色ブルー・グレー』の瞳。

 間違いなくそれは、僕ら姉弟の母方の叔父にしてこの運河地区主席司祭(ディーン)の、わたなべワタリその人であった。


「……叔父上……それは……その刀は……まさか」

「うん、これかい?」

 いかにも何気なく右手に携えていた大人の背丈ほどもある太刀を、片腕だけでさも軽々と振り上げる細身の聖職者。


 あたかも千年分の獲物の血肉がそのまま凝り固まってできたかのような、鈍く月明かりをはじくすべてが黒一色に塗りつぶされた、禍々しき刀身。


「……まさか……まさか……『おにり』⁉」

 僕のうめくようなつぶやきに対し、みなもと四天王の末裔である男はその証しの青灰色ブルー・グレーの瞳を煌めかせながら、厳かに言い放つ。


「そう。これぞかつて平安時代の終わりに、我が祖先渡辺(わたなべの)つなが『鬼の王』いばらどうの成敗に使用した鬼殺しのつるぎである、名匠安綱(やすつな)の手による『ひげきり』──通称『鬼斬り』なのだ」


   ☀     ◑     ☀     ◑     ☀     ◑


 ……かつて鬼の王すら倒した、『鬼殺しのつるぎ』までも持ち出してくるなんて。

 まさか叔父上はその太刀で、鬼を──姉さんを、本気で殺してしまうつもりなのか⁉


 みなもと四天王の中にあって先祖代々『おにごろ』を司ってきた、わたなべ家の末裔としての使命を果たすために。


「……さてと、まずは『小鬼』さんたちのほうから、片づけることにいたしますかな」

「「「ひいっ!」」」

 庭園の周囲を取り囲んでいるメイドたちの群を見渡すように、ぐるりとこうべを巡らす鬼殺師。

 ただそれだけですくみ上がる、先ほどまでは無敵そのものだった乙女軍団。

「──せいやっ!」

「きゃあああっ」

「あれえっ」

「ひええええっ」

 叔父がおにりを自分の周囲に大きく一振りしただけで、彼を中心に強烈なつむじ風が巻き起こり、またたく間に庭園全体に吹き荒れていった。


 そしてそれに巻き込まれるやいなや、二十数名ものメイドたちが一瞬にして、まさしく煙のように消え失せてしまったのである。


「──しょ、消滅した⁉ 鬼斬りには本当に、そんなにも強大なる力があったのですか⁉」

「ふふふ、まさか。彼女たちは咄嗟に逃げおおせただけだよ。自分たちの本来の世界──『かい』にね」

「『鬼界』、ですって⁉」

「そうだ。我が人間界と隣り合わせの次元の狭間に、人知れず存在する無数の『異相空間パラレルワールド』。その一つが異能の力を持つ人外の者たちの生まれ故郷であり、かつて人間側の新興武装勢力『げん』に敗れた純血のぞくたちが逃げ込んだ『鬼界』なのだ。つまりあくまでも彼女たちメイド隊は、この鬼斬りの脅威を恐れて一時的に緊急避難をしているだけで、その気になればいつでもこちらの世界へと戻ってこれるのだから、けして油断はできないのだよ」

「いや、逃げおおせたと聞いてこちらとしては、油断するというよりもむしろちょっぴり安心しているくらいなんですけど。それはともかく、彼女たちが『純血の鬼族』とはいったいどういうことなんですか? 姉さんみたいに『おに』現象の現れた人間ですらかなり希少な存在だというのに。しかも僕はこの城で、長年彼女たちと一緒に暮らしてきたんですよ⁉」


「──本当に、そうなのかな?」


「え?」

「長年て、それはいったい何年前からなのだ? 彼女たちの年恰好からして、君が生まれてからずっと一緒だったという訳ではないだろう?」

「……そういえば」

 あれ? おかしいぞ。どうしても思い出せないんだけど、いったい彼女たちは、いつからこの城にいたんだっけ。

「やれやれ、もはやそこまで幻惑されていたのか。──いいかい、彼女たちはけしてこの城に元々いた使用人なんかではないのだ。実は半年前にナオミさんに『鬼の呪い』がかけられたと噂されて以来、実際にも『神隠し事件』等が頻発したために、本来の使用人やお父上の御親族の方々は鬼の襲来を恐れてみんな逃げ出してしまい、その結果この城は君たち姉弟だけになってしまっていたんだよ。それで事の次第を聞き及んだ私は教団の修道士たちを臨時のお手伝いとして連れて来ようと思い立ち、まずは君たちに承認を得るために事前にこの城へと訪れたのだが、何とこれまで見かけたこともないメイドさんたちが、すでに数十名も働いているではないか。しかも念のため教団の『鬼殺師』としての目で見定めてみれば、彼女たちは力弱きとはいえ間違いなく、『純血の鬼』だということも見て取れたしね」

「いやでも、そもそも何で二十名もの鬼が、この城に入り込んだりする必要があるのです? 『鬼化』現象が現れた人間には、純血の鬼を惹きつける力でもあるというのですか⁉」

 もしかしたら僕はこのとき、絶対にしてはならない質問をしてしまったのかも知れない。

 叔父の唇がこれまでにない苦悶を浮かべながら、決定的な宣告を下していく。


「彼女たち『純血の鬼』をこの城へと呼び込んでいたのは、ナオヤ君、君自身なんだよ」


「な、何ですってえ⁉」

「そう。君の心が──姉君に対する歪んだ愛情こそが、多数の力弱き生粋の小鬼たちを惹きつけていたんだ。だからこそ私はいち早く彼女らの正体に気づいてはいたものの、手が出せないでいたのだよ。もちろんこの鬼斬りを使えば、手っ取り早く退治することもできただろう。しかし君がくらき欲望にとらわれている限り──そして、そのために姉君を『鬼もどき』の状態のままとどまらせようとしている限り、どんどんと新たなる『鬼』を呼び込み続けるだけなのだ。それゆえに彼女たちの本性をあばき一網打尽にするためには、先刻のように鬼術師の人たちを『かませ犬』として犠牲にする必要すらあったわけなのだよ」

「な、何が歪んだ愛情ですか? 僕のどこが、くらき欲望なんかにとらわれているというんだ⁉ あなたのほうこそ何の罪もない鬼術師の人たちを、ああもあっさりと使い捨ての道具のように扱っているではないですか!」

「ふふふふふ。元々姉君の糧食エサとして彼らをこの城に引き込んだ、当の君には言われたくないのだがね。──では君に、とっておきの秘密を教えてやろう。元々我々教団の鬼殺師も、市井の鬼術師も、更にはあくまで目標ターゲットであるはずの鬼どもすらも、実は『同じ穴の狢』にすぎないのだよ。つまり『鬼を狩り続ける者』はいつしか自分自身も鬼そのもののとなり、今度は『狩られる者』となってしまうのだ。何せ我々は『鬼を狩る』ためになら、善良な人たちを巻き添えにすることなんて気にも留めないし、もし仮に実の親兄弟が『鬼』だとわかったとしても、平気で狩ることをためらったりはしないのだ。彼らだってそうだったじゃないか。姉君が『鬼化』しているとわかったとたん、外見上は幼い少女の姿をしているというのにあんな非道を平気で行おうとするなんて。すなわち私がこの話を持ちかけた際に彼らが頷いた時点で、すでに遠慮なく犠牲にすることを心に決めていたのだよ」


 ──親兄弟が『鬼』だったとしても、平気で狩るって? やはり叔父上は、姉さんのことを本気で狩るつもりなのか⁉


 そんなことはけして許すものか。姉さんはこの僕だけのものなのだ。たとえ姉さんが鬼だろうが蛇だろうが、その身も心も──魂でさえも、一つ残らず守り通して見せてやる!

 ……でも、いったいどうすればいいのだろう。

 相手は何といっても、聖レーン教団きっての『鬼殺師』なのだ。あの鬼斬りを一振りするだけで、どんな鬼でもたやすく葬り去ることができるのである。


 まさにそのとき、あれこれと逡巡し続けている僕を尻目に、何と当の姉さんが思いも寄らない行動に出たのであった。


 まるで我が身を差し出すように、鬼斬りの漆黒の刀身の前へと飛び出す華奢なる肢体。

「──お願いです叔父上様、どうぞその刀で私をお切り捨てください。もうこんな『鬼もどき』のままで、畜生道を生きていくのはご免です!」

「ね、姉さん、何を⁉」

 しかしその最愛のひとは、僕が慌てふためいている様を一顧だにすることもなく、あたかも土下座するかのごとく地にひれ伏したまま、実の叔父である鬼殺師に対して懇願し続ける。


「後生ですから、私をこの地獄の日々からお救いください。私はもはや生きていくためだけに、弟の慰み者になるのは嫌なんです!」


 な、何だって⁉


 ──ネエサン、アナタハ、ボクノ(アイ)ヲ、ソンナフウニ、トラエテイタノカ?


「……ナオミさん」

 そうつぶやきざま、ゆっくりと姉のほうへと歩み始める鬼殺師。

「やめろ、やめてくれ──!」

 思わぬ事態の展開に混乱をきわめ、ただその場で叫び続けるばかりの運河城のあるじ

 けれどもその聖レーン僧は、更に意外な行動に出たのだ。

 あと少しで姉へと届こうとしたところで、ふいに手にしていた鬼斬りを放り出す叔父。

 そして片膝をつき己の姪のほうへと屈みこみ、その血肉にまみれた両頬に優しく指をからませ引き寄せる。


「いいえ、ナオミさん。あなたの現在の有様は、けして『鬼の呪い』などではないのです。実はこれは、『おにぎょう症候群シンドローム』というれっきとした病気なのですよ」


「……な、何ですって⁉」

「『おにぎょう症候群シンドローム』──それは『レベル39』とも呼ばれる、ここ十年ばかり我が国を密かに騒がせ続けている話題の奇病であり、何と発症した際にはたとえ大人であっても十一、二歳くらいの身体へと退化しそのまま成長を止め、更には髪の毛は白髪もどきのぎんはくしょくに、両の瞳は爬虫類のごとき縦虹彩の黄金きん色へと変わり果ててしまうのです。その特異なる容姿といい、あたかも不老不死であるかのような異様な体質への変化といい、加えて人形そのものの有様といい、まさにかつて千年前までこの神聖皇国『旭光ひのもと』を支配していた、異能の力を誇る人外の一族『平安へいあんぞく』たちを思い起こさせて、すでに『国家指定難病・重度ウエイトレベル39』と名付けられていたこの疾病のことを、いつしか人々は『おにぎょう症候群シンドローム』とも呼ぶようになったのです。中でも上流階級の子女に多く見られるこの奇病は、たしかに『鬼の血の先祖返り』である可能性も否定できません。かつての純血の鬼族たちは人間側の新興勢力である『げん』との抗争に敗れすべて追放されてしまいましたが、当時すでに鬼族の絶大なる権力に群がっていた人間たちとの混血が進んでおり、その血統はこの飯塚いいづか家のような新貴族を始めとする特権階級の家系に脈々と受け継がれてきているのであり、時には隔世遺伝的に『鬼の血の濃い』子供が授かるのも十分あり得ることでしょう」

「で、では、私が人肉や弟の『精気スピリット』を摂取することで、少女の身体と元々の大人の姿との間を、くり返し変わり続けているのは……」

「ええ、それはけして何かの呪いとかあなた自身が鬼へと変わりつつあるわけではなく、いわばあなたの身のうちの隔世遺伝的な『鬼の精気スピリット』の作用によるものなのです。わかりやすく言えばホルモンのバランスが崩れているようなものであり、我が教団の療養所のような『鬼に関する疾病』の専門機関において、余分な『精気スピリット』を抑制させる処置などを施すことによって、ほとんど元通りの普通の身体へと戻ることも可能なのです」

「……私、私、治るの? 本当に普通の人間に戻ることができるの⁉」

「はい、あとはただあなた御自身が、療養所に入ることを決断なされるだけでいいのです」

「私行くわ! 教団へでもどこへでも! この身体を治してくれるのならば!」

 もはや何のためらいもなく、すがりつかんばかりにおのが叔父の両手を取る姉。

 まさしくそれは僕にとっては、悪夢そのものの光景であった。

「ま、待ってくれ! このまま僕を残して行かないでくれ! 愛しているんだ、姉さん!」

 しかしそのときこちらを振り向いた最愛のひとの瞳は、まるで氷のように凍てついていた。


「愛しているですって⁉ 何がよ、この嘘つき! あなたはただ思いのままに自分のことだけを受け容れてくれる、『お人形』が欲しかっただけじゃない! むしろ本物の鬼はあなたのほうよ! 実の姉に人肉を喰わせ続けて、無理やり自分のものにして、交わり続けて!」


 僕が鬼だって? あなたは結局弟のことを、そんな人外ヒトデナシとしか思っていなかったのか⁉

 ──あんなにも色々と慈しみ、何よりも大切にしてきたというのに。

「さあ、参りましょう。叔父上様」

 あまりのことに茫然自失となって立ちつくすばかりの弟を見限って、姉が叔父を促すようにして共に立ち去り始める。

 ……行ってしまう。姉さんが──この僕の、最愛のひとが。


「──いいのですか、このままお嬢様を、他の男に奪われたりして」


 ふと気がつけば僕の周りには、先刻『鬼界』とやらに逃げ込んでいたはずのメイドたちが、いつしか再びその姿を現していた。

「……おまえたち」

「もしもお嬢様のおっしゃるように旦那様が『鬼』であられるのなら、むしろ構わないではありませんか。──これまで通り、御自分の『欲望』のままに行動なされても」

「そうですそうです。あんな不埒な僧侶ボウズごときに、横取りされることはないのです」

「いったい他の誰が『鬼化』し続けていた姉君を、心から愛することなぞできたでしょう」

「お嬢様のすべてを受けとめることができるのは、この世で旦那様ただ一人なのです」

「さあ、今こそ自らの手であなた自身の物語セカイを、真にあるべき姿へと創り直すのです!」


 ……そうだ。こんな間違った結末ラストシーンは、けして許してはならないのだ。


「──姉さんはこの僕だけのものだ。たとえ誰であろうが渡しはしない!」

 もはや後先考えることもなく、渾身の叫びをあげながら放りっぱなしだった鬼斬りを拾い上げ、立ち去ろうとしていた叔父の背中へと斬りつける。

「うぐっ!」

「きゃあああああっ! 叔父上様⁉」

 背中を押さえながら片膝をつき、その場にしゃがみ込む黒衣の僧侶。

 それでもさすがは、聖レーンきっての鬼殺師。たしかに手応えはあったものの咄嗟に間合いを取られたようで、深手を負わせるまでにはいかなかったようである。

「いくら新貴族とはいえ、教団の主席司祭ディーン様を傷つけてしまうなんて。しかも相手は実の叔父上様なのよ⁉ ……狂っている。ナオヤ、あなたは狂っているわ!」

「そうだよ。僕はあなたのことを愛するがゆえに、とっくに狂ってしまっていたんだ。だから僕から姉さんを奪おうとする者は、神だろうが鬼だろうがけして赦しはしないのさ!」

「な、何を馬鹿なことを! もう知らない! あなたのことなんて知るものですか! せっかく私を助けてくれようとした叔父上様を、こんな目に遭わせるなんて。──叔父上様、叔父上様、大丈夫ですか⁉ しっかりなさってください!」

「……うう……な、ナオミさん、私は大丈夫だから、これ以上ナオヤ君を、興奮させてはいけない……」

「叔父上様!」

 いかにも気遣わしそうに、傷を負った背中へと目を走らせる姉君。


 ──溢れ続けている、深紅の鮮血。


 ごくりと鳴ったのは、誰の喉だったのだろうか。

 気がつけば、いつしか彼女の瞳は、人にはあらざる縦虹彩の黄金きん色へと変わっていた。

「ほらみろ。姉さんは結局、人の血肉に飢えた浅ましき鬼じゃないか」

「ち、ちがう! ちがうわ!」

「じゃあ、もっと大量の血を見ても、果たして我慢できるかな?」

 そう言いざま抱き合う二人の前で、ゆっくりと禍々しき漆黒の刀身を振り上げていく。

「ナオヤ、やめて──!」


 しかしその切っ先が向かったのは黒衣の僧侶でも愛する女性でもなく、この運河城のあるじ自身の喉笛だったのである。


「──ぐふっ! ……これでいい……これで……僕の本当の……願いが……叶うんだ……」

「な、ナオヤ君、何てことを⁉ そんなにも一度に大量の血液を見せて『鬼の渇望』を急激に高めてしまえば、もう君の『精気スピリット』の鎮静効果など効かなくなってしまうのだぞ!」

 その言を証明するかのようにすべての表情を失い、唐突に立ち上がる血肉まみれの肢体。

「……ぐるるるるるるるる」

「あ、よせ! ナオミさん、いけない!」

 もはや鬼そのものとなった女は叔父の必死の留め立ての言葉に耳を貸すこともなく、あたかも肉食獣のごとき敏捷さで弟の身体を押し倒し、喉元へと鋭いけんを近づけてきた。


 ……ああ、姉さん。


 激痛に苛まれながら消えゆく意識の中で、そのとき僕は恍惚なる絶頂感エクスタシーに包まれていた。

 これでやっと僕は、最愛なるひとと、本当に一つになれるのだ。


 なぜならこれから僕は姉さんの血と肉となって、永遠に一緒にいられるのだから──。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かったです。 [一言] 各章の鬼はもしかして、姉じゃなくて主人公やメイド達ですか?
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