8 ただの自己満足
人に見られることを意識して練習するのはいい勉強だと、昔、父に言われた。
ルチアは離れた位置に腰かけたヴァンツァに見えるよう、赤い道化師人形を巧みに操った。本番の演目で使う人形とは違うが、練習は出来る。
ルチアはエドから人形を受け取る自信があるが、クルトが念のために劇団で持っている人形を倉庫に保管しているのだ。エドから人形を受け取れなかった場合は、そちらを使うことになるので、練習は他の人形で行わなければならない。
ランゲル劇団なら、同じ種類の人形をいくつもそろえることも出来るかもしれない。しかし、あいにく、ゼレンカ劇団にはそんな余裕はないので、仕方ない。
「――――ッ」
リュントの弦を弾いた瞬間、指先に鋭い痛みが走り、ルチアは顔を歪めた。
練習のしすぎで擦り切れていた指の皮が破れたのだ。裂けるように割れた肌の間から紅い血が滲んでいた。ルチアはじわじわと浮き出る血を舐めて、指先をくわえる。
「どうした」
ヴァンツァが怪訝そうに近づいてくる。彼はルチアが怪我をしているのを見ると、ほんの少し表情を変えた。
「練習のしすぎだ。少し休め」
ヴァンツァは短く言うと、高そうな絹のハンカチをルチアに押しつけてきた。
心配されている?
ルチアはハンカチとヴァンツァを見比べて、少しだけ間を置く。
「あんた、意外とイイ人なの? さっきも看板直してくれたし」
「意外とはなんだ」
「そのままの意味だけど。でも、ありがとう」
ルチアはパッと笑みを浮かべて、ヴァンツァからハンカチを受け取った。その明るい声を聞いて、ヴァンツァが少しやり難そうに視線を逸らす。
「ほどほどにするんだな」
「このくらい、大丈夫よ。もう祭典まで時間ないし、舐めておけば平気」
ルチアには余裕がない。
エドを認めさせ、祭典でも評価を得なければならない。そのためには、練習するしかなかった。今のままではダメなのだから、舞台を磨かなければならないではないか。
焦りのようなものまで感じて、ここ最近、ルチアは取り憑かれたように練習し続けた。
本当はわかっている。
自分は天才などではない。
口では当然のように言っていても、心の中では、ずっと自信がなかった。その点、努力と練習はルチアを裏切らない。上達を感じるたびに、自信を与えてくれるような気がする。
ルチアの肩には劇団もかかっているのだ。父がいなくなった劇団を支えているのはルチアと言ってもいい。自分が自信を失くしてしまっては、この先、続いていかない。
人形劇は楽しいが、それだけ重い。
「休むことと怠惰は違うと思うがな」
まるで、見透かしたようにヴァンツァがつぶやく。
夜のように深く、黒曜石のように鋭い瞳がルチアを見下ろす。
気を抜けば、吸い込まれてしまいそうな視線だ。ルチアはその黒に魅入られて、思わず息を呑む。黙っていれば、本当に綺麗な顔立ちだ。長い睫毛の一本一本まで美しく、ずっと観察していても飽きない。
しかし、程なくして、橋の上から声がすることに気づく。見上げると、クルトが息を切らせて走っていた。
「どうしたの、クルト?」
ルチアはヴァンツァから視線を外し、橋の下へと駆けてくるクルトに歩み寄る。
『ルチア、大変じゃ!』
橋の下へ降りようと、カシュパーレクが跳ねてくる。遅れて、クルトも土手を降りた。
クルトは血相を欠いた様子でルチアの前まで走ると、肩で息をする。
「なにかあったの?」
ルチアが問うと、クルトは蒼い顔でルチアを見上げる。
『大変じゃ、ルチア。人形が……人形が……!』
「え?」
カシュパーレクから発せられる言葉を聞いて、ルチアは眉を寄せる。すると、クルトが抱きかかえていた人形をルチアに見せた。
手足がもげ、刃物のようなもので無残に切り裂かれた人形。頭には亀裂が走り、至る所に痛々しく切り刻まれた跡が残っていた。全身に塗料を被り、元は何の人形だったのかもわからない有様だ。
「なに、これ……」
呆然とするルチアの隣で、ヴァンツァも険しい顔をしていた。
壊された人形は、祭典の予備に保管してあったものだ。
先日はルチアが襲われ、今日は人形が壊された。確実にルチアの邪魔をしようとしている者がいる。
そのことを知らしめられて、絶句するよりほかなかった。
こんな形で人形劇を穢すなんて、許せない。腹の底から言い知れない怒りがこみ上げ、ルチアは奥歯を噛み、拳を握った。勝負なら、正々堂々とすればいいのに、姑息だ。
それと同時に、追い詰められたことも自覚する。
予備の人形がなくなってしまった。今から修理に出しても間に合わないだろう。
なんとしてでも、エドの人形を受け取らなければならない。
† † † † † † †
人形劇は、全てを忘れさせてくれる。
人形に魂を移し、操っている間はなにも考えずに済んだ。
自分はただの「ルチア・ゼレンカ」という一人の人形遣いになれるのだ。
幼い時分、父テュヒョ・ゼレンカがまだランゲル劇団の舞台に上がっていた頃は、「花型人形遣いの娘」という看板がついてまわった。父の顔に泥を塗らない才能と努力が要求され、それが達成出来たとしても、「当たり前だ」と言って、誰も賞賛などしてくれない。
父が引退してからは、とても悔しい思いをした。
あんなに父を賞賛し、応援してくれた人々はすぐに別の人形遣いに興味を移してしまう。
人形遣いなど、みんなそうだ。流行りが過ぎれば、誰からも相手にされなくなる。小さな劇団など、来てくれるお客はまばらだった。
人はどうして、こんな残酷に態度を変えてしまうのだろう。ルチアは子供心に、世間の理不尽が許せなかった。
しかし、それでも人形遣いになることを止められなかった。
人形を操っている間はなにも考えなくていい。ただ舞台を楽しむことが出来る。自分の力で客を魅了し、笑うことが出来た。
父が死んで、初めて主役として舞台に立ったときの喜びは今でも忘れられない。
最初は、やはり「テュヒョ・ゼレンカの娘」という評判がついてまわった。一度は父を忘れていたくせに、白々しい。そんなことさえ感じた。
けれども、ルチアは敢えて父が使ったリュントを手に舞台に上がった。
そして、父の名ではなく、自分の力で人気を勝ち取ってみせたのだ。
今では、彼女のことを誰も「ゼレンカの娘」とは言わない。人形遣い「ルチア・ゼレンカ」として認め、舞台を見てくれる。
父を越えたとは思っていない。
けれども、ルチアは今、父とは違う人形遣いとして舞台に立っている。そして、大好きな人形を披露することが出来た。それだけで、充分満足だ。
あとは父が残した劇団を少しでも立派にして、一流の称号を手に入れるだけだ。
それが、ルチアに人形の楽しさを教え、人形遣いとして生きる道を示してくれた父への恩返しであり、最高の供養だと思った。
「祭典で披露するのは、『魔法使いの息子』よ。わたしなりにアレンジしてあるから、元の話とは少し違うんだけどね」
自慢げに語って歩くと、少し後ろでヴァンツァが眉を寄せた。
「『魔法使いの息子』? 悲劇か。だが、人形劇の定石は喜劇のはずだ」
「そう。だから、敢えての悲劇よ。それだけでも、目立つと思わない?」
人形劇は虐げられてきた王国の歴史と共に在る。
そのため、暗い世の中でも笑い飛ばす楽しさと、皮肉的な風刺が好まれる傾向にあった。更に、祭典のような大きな舞台では明るく華やかな喜劇の方がよく映える。悲劇は高度な表現力と演出が要求される反面、客の需要も少ないのが現状だ。
けれども、逆に言えば、高い技術を惜しみなく披露出来る題材でもある。客の心をつかめば、一気に引きずり込むことだって可能だ。
それに、ルチアが扱うリュントは古風な十五本式である。多彩な音色は軽妙な喜劇でも映えるが、悲劇の哀愁を表現するのに最も適していた。
「仮面をつけた黒の道化師。魔法使いの息子として生まれて忌み嫌われる現実と、愛する娘を陰から支え続ける切ない想い……ルチア・ゼレンカの舞台は華やかさだけが売りじゃないってことを見せつけるの。どう? 決まれば最高の舞台になると思わない?」
ルチアの売りは一度に複数の人形を操る華やかな舞台だ。しかし、敢えてそうせず、逆の趣向から斬り込む舞台を作りあげる。これが今回の狙いだった。
そう言って笑うと、ヴァンツァが複雑な表情を浮かべていた。
「お気に召さないかしら?」
ルチアが首を傾げると、ヴァンツァは視線を逸らせて口を開く。
「……上手くいけば、面白いんじゃないか?」
「本当? みんな、無難に喜劇でもいいって言うから、心配だったのよね」
「上手くいけば、な」
念を押すように強調されて、ルチアは唇を尖らせる。
「お前にエドが人形を渡すとは思えない」
付け足すように言われ、ルチアは表情を曇らせた。
エドに仕事を依頼して、今日で三週間。店が開く日だ。ルチアは人形を確認したくて、エドの店へ向かっていた。
今日も公演が長引いて、夕暮れどきになってしまった。王都を流れる大河が橙と銀に煌めく光を照り返し、茜色に染まっている。見上げると、藍色が迫る空に宵の明星が金の瞬きを放っていた。
「人形を渡すかどうかなんて、エドが決めることよ。あんたには関係ないわ」
そうは言ったものの、自信がないのも確かだった。
主役として舞台に立つようになって半年、こんなに心細いと思ったのは初めてだ。ルチアなりに特訓をしても、なにが悪いのかよくわからない。技術的な問題は、ほとんどないはずだ。それはルチアが一番自信を持って言える。
だったら、なにが悪いのか――?
予備の人形は壊されてしまった。エドから人形を受け取れなければ、演目を変えるしかない。だが、そんなことで間に合わせの舞台を披露しても、それは恥ではないか。
追い詰められている。急きたてる焦りを必死に隠そうと、ルチアは視線を下げた。
「お前は、なんのために人形遣いをやっているんだ?」
「なんのためって……人形劇が楽しいからよ。あんたと違って、わたしは人形が好きなの。だから、舞台に立ってる」
なんの迷いもなく、はっきりと言い放つ。
ルチアにとって、それ以上の理由はない。人形劇が楽しくて仕方がない。そして、自分にその楽しさを与えてくれた父への恩返しとして劇団を立派にしたい。
それが全てだ。それ以上の理由もないし、それ以下の理由もない。
しかし、ルチアの言葉を聞いてヴァンツァはあからさまに表情を曇らせた。
「だから、お前の舞台はくだらないんだ」
「え?」
吐き出すような言葉に、ルチアは青空色の眼を瞬かせた。ヴァンツァは嫌悪さえ浮かぶ目つきでルチアを睨むと、こう続ける。
「テュヒョ・ゼレンカの娘が聞いて呆れる」
久しぶりに他人の口から父の名を聞いて、ルチアは面食らう。
決して褒められているわけではないと理解して、腹の底から熱いものが込み上げてきた。
「わたしは、ルチア・ゼレンカよ。父とは違う!」
「ああ、そうだな。全く違う。あの人は、お前みたいにくだらない舞台を見せたりしなかった」
「くだらない、くだらないって、いったいなにがくだらないって言うのよ!」
ルチアは思わず、ヴァンツァにつかみかかろうと両手を伸ばす。だが、ヴァンツァはルチアの細腕など軽く身体をひるがえして避けてしまう。
「お前の舞台は自己満足だ。ただ褒めてもらいたいだけなら、客の前に立つ意味なんてない。客はお前の自己満足なんて求めてない……今に飽きて、お前の舞台なんて誰も見なくなる。お前が今、評価されているのは技術だけだ。歳若い小娘が高い技巧で魅せる人形劇を見物したい、それだけだ」
そんなことないわ! 勝手なこと言わないでよ!
ルチアはそう叫ぼうと、敵意を視線に乗せた。
けれども、不思議と言葉が出ない。ヴァンツァに言い返すことが出来なかった。
世間の心は残酷に移ろう。
父が引退したときに、それは痛いほど実感していた。
ルチアだって例外ではない。
飽きられれば、世間は容赦なくルチアなど忘れてしまう。それがいつになるかわからないが、いつかはヴァンツァの言う通りになってしまう。
大好きな人形劇が出来れば、それでいい。そのために父が残した劇団を失うわけにはいかないし、ルチアは舞台に立ち続けなくてはならない。
自己満足。
ルチアの人形劇は、ただの自己満足なのだろうか……?
だから、くだらない……?
ヴァンツァになにも言い返せない自分が悔しい。心のどこかで、彼の言葉を肯定している気がして、もどかしかった。けれども、なにが原因なのかはっきりと自分ではわからない。そんな想いを呑みこんで、ルチアはギュッと唇を噛みしめる。
耐えられずに視線を逸らすと、前方から馬車が通り過ぎるのが見えた。
光沢を放つ漆黒の車体に刻まれた獅子と薔薇の紋章には見覚えがある。先日、クルトがロジェンヴァリ公の紋章だと教えてくれた。ミランの支援者。王族に名を連ねる人物だ、これから王城へ向かうのだろう。ぼんやりと、そんなことを考えた。