23 月夜のあれこれ
王城の薔薇園を飾るのは、満月を控えた上弦の月。
水盤を満たして流れる噴水の波紋に月が蒼く、寂しげに浮かんでいた。
祭典は明日だ。
もう間に合わない。新しい人形を用意する時間も、新しい演目を用意する時間もなかった。
午前中に行われる予選は、いつも通りにこなせばいい。
けれども、本選は違う。より人目を引き、優れた舞台が求められるのだ。
直前まで人形が手に入らなかっただけでも痛手なのに……。
エドの事情になどに首を突っ込まず、人形がなくても良いように新しい演目を考えるべきだったのだろうか? それなのに、ルチアは自ら機会を棒に振ったのだ。
いや、間に合わせの舞台など披露すべきではないと考えたのはルチアだ。
きっと、それでも後悔していた気がする。
壊れた人形を見下ろして、ルチアは唇を噛む。
「なにしてる」
噴水の縁に腰かけるルチアの背に、声が投げられる。しかし、ルチアは振り返りもせずに視線をさげた。
「見ればわかるでしょ。なにもしてないわ」
ヴァンツァが近くまで歩み寄るのがわかる。
ルチアは頑なに視線を上げようとしなかった。
「なにもなくてキイキイ喚くことが得意なくせに。雨でも降ったら、どうしてくれる」
「あいにく、わたしは晴れ女なの。いるだけで、ドカンドカン雷落としてる無愛想なお貴族様と違ってね」
「俺がいつ雷を落とした」
「いつも怒ってるじゃない。あ、ごめんなさい。落ちるというより、遠雷みたいにゴロゴロうるさいだけね」
そんな気分ではないのに、不思議と嫌味な言葉が次々と浮かんでくる。それくらい、ヴァンツァが腹立たしく思えるのだろう。
さっきから、目の前に立って見下ろすような姿勢を取っているのも癇に障る。
「座っていいか」
ルチアの内心を悟ったのか、無意識なのか、ヴァンツァが求める。
ルチアは少し気まずく思いながらも、不貞腐れたように「ご自由にどうぞ」と返した。
「練習しなくていいのか」
あまりにも無神経な言葉に、ルチアはいよいよ腹が立って顔を上げた。そして、隣に腰を降ろしたヴァンツァを睨みつける。
「なに言ってるのよ。人形が――ひゃっ」
けれども、そこにあったのはヴァンツァの仏頂面、ではなく、仮面をつけた黒い道化人形だった。ルチアは予期しない事態に驚いて、変な声を上げてしまった。
『大袈裟な小娘だな』
道化師の人形がケタケタと笑い、噴水の下へと飛び降りる。けれども、微妙な動きのズレによって足元が絡まり、ポテンと落下してしまう。
ヴァンツァを見ると、軽く舌打ちしながら必死に目で人形の動きを追っていた。
肩に無駄な力が入り、人形の動きに合わせて腕や身体が釣られて動いている。初心者にありがちな操り方だ。
『自称天才が聞いて呆れる。俺が出てやろうか』
人形が偉そうな口を叩いて、ぎこちない動作でルチアの膝に乗る。横目で再びヴァンツァを見ると、やはり必死の形相で人形を操っていた。
天下のジェハーク家のお貴族様が人形相手に悪戦苦闘している。
もう十年も扱っていないという話なので、当然ではあるが……なんだかおかしくなって、ルチアは唇に笑みを転がした。
「下手ね」
「うるさい、黙れ。集中出来ない」
再び人形の足がもつれて、地面に落ちる。
ルチアは見兼ねて、ヴァンツァの肩に触れた。
「もっと力抜いて。自分が人形になったつもりで、動きを思い浮かべてみて」
ルチアに触れられて、ヴァンツァがうろたえる。
人形も糸が切れて、コテンと地面に倒れた。
「な、なにしてる。不埒だぞ」
「いいから。力抜きなさい。そんなんじゃ、せっかくの人形が泣くわ。こんなに、良い子なのに」
ルチアに「集中」と言われると、ヴァンツァはすぐに視線を人形に戻した。
ルチアはそのままヴァンツァの耳元に顔を寄せ、邪魔にならない声で囁く。
「しっかり人形を見て。意識しなくても、ちゃんと目で追えるものだから」
ヴァンツァの顔が随分赤い気がするのは、集中しているからだろうか。
ルチアは大して気にせず、今度は人形に合わせて握ったり閉じたり、意味不明な動きをしている手を握りしめた。
「無駄に動かない。その分、人形の動きも硬くなるから。落ち着いて深呼吸してみて」
ヴァンツァは人形移りに恐怖心がある。力を抜くことで集中力が途切れるのが怖いだけなのだろう。
握りしめた手はしっとりと汗で湿り、異常なくらい緊張した脈が伝わってくる。ルチアは子供に教えるように、しっかりと手を握りしめてやった。
クルトに人形の操り方を教えたときを思い出して、少し懐かしくなる。今では日常的にカシュパーレクを操っているが、最初はこんな風に力んで怖がっていた。
「深呼吸して。落ち着くから」
ルチアはそっとヴァンツァの胸を撫で、深呼吸を促す。
少し荒っぽく乱れた吐息と共に厚い胸板が上下し、緊張が嫌でも伝わってくる。ヴァンツァは額から汗を流して動揺していたが、やがて、目を閉じて大きく息を吸う。
「そう、ゆっくり吐いて」
男らしく角ばった手は小刻みに震えていたが、やがて、スゥッと力が抜けていく。それに伴って、人形も滑らかに動くようになっていった。
「出来るじゃない。操るたびに、そんなに顔真っ赤にするくらい集中してたら、とてもお客さんには見てもらえないけどね。美形が台無し」
ルチアが揶揄すると、ヴァンツァは拗ねたように顔を逸らした。
「誰のせいで余計な緊張をしたと……」
「なんか言った?」
「なにも言っていない」
久しぶりに人形を操って疲れたのか、ヴァンツァは酷く脱力した様子で項垂れた。
「お前は、本当に人形しかないんだな」
「人形遣いだもの。当たり前よ」
自信満々に答えると、ヴァンツァが少しだけ微笑んだ気がした。
なにかおかしいことを言っただろうか。
首を傾げると、視界に壊れた人形が入り込む。壊れてさえいなければ、繊細だが大胆で、個性的な造形の逸品だということがわかる。それだけに、尚更、惜しく感じられた。
「お前は舞台に立つべきだ」
「でも、人形が……」
口ごもるルチアの目の前にヴァンツァが自分の人形を押しつける。しかし、ルチアは首を横に振って、ヴァンツァの人形を拒んだ。
「これは、あなたの人形よ。ルチア・ゼレンカの舞台にはならないわ。祭典では使えない……相応しい舞台には、ならない」
「俺は祭典に相応しい演技をしろとは言っていない。舞台に立てと言っているんだ」
ヴァンツァは逃げようとするルチアの手を捕まえ、人形を握らせた。
彼はまっすぐにルチアを見ると、「その、だな……」と一瞬口ごもる。だが、すぐに言葉を発した。
「俺はお前の舞台を見たい、それだけだ。完璧なものなど望まない。――俺が認めるお前の舞台を披露しろ。俺のために、もう一度、お前の人形劇を見せてくれ」
祭典は国民に捧げる栄誉ある舞台だ。ヴァンツァ一人のために小さな劇場で公演したのとは、わけが違う。話にならない。
だが、悪い気はしないと思った。
たった一人のために舞台に立ち、たった一人の客が喜ぶ演技をする。たった一人の客でも、喜ばせたい。楽しませたい。
それは、悪いことだろうか?
ルチアは笑みを描き、ヴァンツァの人形を抱きしめた。
「このルチア・ゼレンカの力量が試されるというわけね。やってやろうじゃないの。お貴族様のために、最高の舞台にしてみせるわ」
出来る。根拠もなくわいてくる自信が明るく心を照らす気がした。いつものように、ヴァンツァを見ることが出来る。
「俺は、お前のそういうところが……その、気に入ってる」
ヴァンツァが頼りなげに黒眸を伏せる。そして、恐る恐る、生まれたばかりの赤子にでも触れるような手つきで、ルチアに腕を伸ばした。
指先がそっと亜麻色の髪を分け、やや丸みを残した頬に触れる。信じられないくらい優しい体温が伝わり、ルチアはうろたえてしまう。
先日はクリームをとることすら嫌がったのに、どうして、今日はこんなに優しく触れてくれるのだろうか。行動の意図が読めず、ルチアの小さな胸は縮こまって、速く脈打つ気がした。
「誰かを欲しいと思うのは、初めてだ」
「ヴァンツァ……?」
ルチアは唇から細い声を漏らす。
そして、ヴァンツァの熱情をはらんだ視線に応えるように、青空色の瞳を潤ませた。
「いいわ。好きなだけどうぞ」
求めに対して応じると、ヴァンツァが息を呑む。彼はぎこちない動作でルチアの頬を撫でると、ゆっくりと顔を近づけ、――。
「そんなに気に入ってくれてるなら、お礼にたくさん練習を見せてあげるわ! やる気出てきたし、今夜は徹夜ね!」
腰に回された腕を華麗にすり抜けて、ルチアは元気よく立ち上がった。そして、背負ったリュントの革帯を解く。
こんな風に自分の舞台が好きだと言ってもらえるなんて、素直に嬉しい。
ヴァンツァは口が悪いけれど、見る目はあるし、褒めるときはしっかり褒めてくれる。良いファンを持ったことを、単純に感謝した。
「一夜で完璧に調整してみせるわ。なんたって、わたし天才だし!」
意気込むルチアの傍らで、ヴァンツァがなにやら、顔を赤く染めたまま硬直している。まるで、石像のようにカチンコチンだ。
「ああ、お前はそういう女だったな……わかっている、もういい」
「なんか言った?」
「……なんでもない」
お貴族様の考えることは複雑で、面倒くさい。
それでも、勇気づけられたことに変わりないので、ルチアはありがたく思っておいてあげることにした。
蒼い月夜に、リュントの音色が響き渡った。




