19 ちょっと恥ずかしい
椅子に座るルチアの身体が急に跳ねあがり、短い悲鳴を上げる。
ヴァンツァは即座に異変を感じ取り、ルチアの身体を揺すった。
「おい、どうした!」
しかし、ルチアは力なく床に倒れ込むと、糸が切れた人形のように動かなくなる。
「だれ……?」
唇からかすかに漏れた言葉。
いったい、なにを見たのだろう。
その一言をつぶやいたきり、ルチアは少しも動かなくなってしまった。
呼吸はしている。脈も正常だ。ただ眠るように眼を閉じて――エドと同じだった。ヴァンツァはとっさにルチアの身体を抱きあげ、声を荒げる。
「起きろ、戻って来い!」
叫んでも、揺すってもルチアは反応を示さない。力なく床に落ちる腕や、身体の重みが虚しくヴァンツァにのしかかった。
心の中に、いつかの闇が蘇り、思考が停止する。
全部、ヴァンツァが悪い。――そんな言葉が闇を塗り潰すように繰り返される。
エドを守れなかった。そのうえ、ルチアに危険なことをさせ、こんなことになってしまった。全部、ヴァンツァの責任だ。
エドから離れなければよかった。ルチアに頼らず、自分の力でイグナーツを追い詰めるべきだった。今から後悔しても遅い事実が、押し迫るように胸を支配していく。
「ルチア、おい! ……起きろ!」
ヴァンツァは、どうにもならないとわかりながら、ルチアの身体を揺さぶって名前を呼ぶ。
今まで名前で呼んだことなどなかったが、その響きは不思議と違和感なく、胸にストンと落ちるような気がした。
「ルチア。ルチア・ゼレンカ! いつもうるさいくせに、急に黙ると調子が狂うだろ。お前は人形遣いであって、人形なんかじゃない。気持ち悪いから、なにか喋れ!」
ルチアが食いつきそうな罵倒を繰り返しても、返事はない。
ヴァンツァは顎が軋むほど奥歯を噛み、力ないルチアの身体を抱きしめた。
いつもリュントを背負って歩く少女の身体は、思いのほかしっかりしている。だが、男のそれとは比べ物にならないくらい小柄で、心もとない。
こんな風に異性を抱いたことなどなく、頭の中で「不埒だ!」と叫んだ。しかし、何故か身体が言うことを聞かない。こんなことは初めてで、なにも考えられなくなる。ただ、今まで抑えていたなにかが燃えるように激しく熱を求めていた。
本能なのか、衝動なのか……なにかに任せるまま、ヴァンツァはルチアの身体を抱きしめた。どうしてそうしているのか、自分でもわからない。
「…………ん」
きつく抱きすくめるヴァンツァの腕の中で、ルチアがわずかに身動ぎした。
ヴァンツァは驚きながらも、急いで少女の顔を覗き込む。
「ルチア!」
ヴァンツァの声に反応して、ルチアの瞼が震えた。
リュントを弾いて傷だらけの手に力がこもり、ヴァンツァの服をつかむ。
「あれ……なに、が。ヴァンツァ?」
ルチアが不思議そうな眼差しでヴァンツァを見上げ、青空色の瞳を瞬かせている。
ヴァンツァは離れようとするルチアの身体を引き寄せ、しなやかな腕の中におさめた。明らかに戸惑っているのがわかったが、有無を言わせない勢いで腕に力を込める。
「紛らわしい真似をするな。お前までいなくなると思った……!」
声に熱がこもり、震えそうになる。自分が心底安心しているのだと気づいて、ヴァンツァは内心でかなり動揺した。
だが、今はそれを隠す余裕などない。
こんなに心が乱されるのは初めてだ。それまで、女に触れるのも億劫だったのに、今はこの手で……二度と離したくないと思うほどに、腕の力がこもってしまうのは、何故だろう。
自覚したくはないが、意識せずにはいられない感情が理性の邪魔をする。
まさか、そんなことは――ヴァンツァは心中で何度も否定しようとした。しかし、それを拒むように、腕にこもった力は抜けない。
「あのさ、ヴァンツァ……お取り込み中、水を差すようで悪いんだけど。ちょっと恥ずかしいよ?」
「俺だって恥ずかしいから、なにも言うな!」
ヴァンツァ自身にも、自分がなにをしていて、なにを言っているのか、よくわからない。
徐々に赤くなって熱を帯びていく顔を隠そうと、ルチアを押さえつけるように抱きしめた。
「君はよくてもね、僕にそんな趣味はないんだよ……流石に、男同士で熱烈に抱き合うのは困るというか、許容範囲外なんだよね。せいぜいハグまでで、よろしく頼みたいんだけど」
「は?」
確かにルチアの声だが、口調は普段から聞き慣れているものだった。
なにが起きているのか、いよいよわからなくなる。
「君のことは好きだし、人形を作るくらい愛しているつもりだよ。でも、あいにく、君を王太子妃には出来ないから。ごめんね」
慌てて身を剥がすヴァンツァを見上げて、ルチアはニッコリと人懐っこい表情で笑っていた。
† † † † † † †
暗い闇の中で目を覚ました。
だが、想像していた深い闇ではない。
手首を縄で縛られ、肌が擦れる。
冷たい石の床が徐々に体力を奪っていった。
暗闇に目が慣れると、そこが倉庫のようなものだとわかる。樽や瓶が並んでいた。
人形の身体では、ない。
だが、自分の身体でもない。
……ややこしいことになってしまったらしい。
完全に魂がエドの身体に引き寄せられてしまった。
操っている状態ではない。ルチアから離れて、すっぽりとエドに入り込んでしまったのだ。
「やっちゃったかしら……」
ルチアはやけに重い身体を起こそうと、近くの壁に肩をつける。両手を塞がれていては、起き上がるのさえ苦労してしまう。幸い、足元は自由だが、立ち上がって動き回るほどの元気は湧いてこなかった。
「うう。動き難いわね」
暗い倉庫に響く自らの男声を聞きながら、ルチアは顔を歪めた。即座に糸を切らなかったせいで、おかしなことになったのかもしれない……。
だが、すぐに顔を上げて、倉庫の入り口に視線を移す。誰かが扉を開けて、中へ入る音が聞こえた。
自分(正確にはルチアの身体ではない)をここまで運んだ犯人かもしれない。ルチアは動きにくさを覚える身体で立ち上がり、隠れられる場所はないかと周囲を一瞥した。
足音が近づいてくる。
ルチアは凍りつきそうなほど緊張した身体を落ち着かせようと、唇を噛んだ。




