14 たった独りの観客席で
自分がなにをしたいのか、全くわからない。
無視するつもりだった。
なのに、気がつけば路上ではじまったルチアの人形劇を見ていた。
ルチアはエドを襲った犯人に顔を知られているかもしれない。それなのに、こんな場所で目立たれては困る。あの人形頭は本当になにも考えていないらしく、いちいちヴァンツァを苛立たせた。
なにを考えているんだ。馬鹿か、俺は。
本当は放っておいてもいい。あの小娘が危険な目に遭ったところで、もうヴァンツァには関係ないのだから。
――そうか。じゃあ、二人とも約束だ。楽しみにしているよ。
脳裏に焼きついて離れない約束が思考を邪魔する。
そして、気がつけば、ルチアを屋敷に連れていた。
幼い頃に過ごしたジェハーク家の別邸だ。執事は未だにヴァンツァを「坊ちゃま」と呼ぶし、恥ずかしいことこの上ない。よく見れば、小さい頃に行った悪戯の痕跡も残したままだ。
ここには忘れたい思い出が影のように彷徨っている。
けれども、ここでしか、ヴァンツァはそれらに決別出来ない気がしていた。未だに未練がましく焦がれる感情と記憶がわきあがる。
とっくの昔にあきらめた想いと、底知れない恐怖はいつまでもヴァンツァを絡めて離してくれない。それが、今なら――先ほど、ルチアが見せた舞台が思い起こされる。
確かに見えた気がしたのだ。
ルチアの影に重なる人形遣いの姿が……あのとき、確かに彼女の父親が重なった気がした。
もう一度、テュヒョ・ゼレンカの演技が見られる気がする。そんな根拠もない期待がヴァンツァを駆り立ててしまった。
――君だって、昔と変わった。今度は、どんな風に変わってくれるか、僕は楽しみだよ。
エドはヴァンツァが変わると思っている。
だが、それはあり得ない……変われなければ、また後戻りするだけだ。
自嘲めいた笑みを浮かべて、ヴァンツァは「舞台」へ続く扉を押した。
かつて、自分のためだけに作らせた部屋だ。人形遣いを夢見た、けれども、なれなかった少年が立ち続けた小さな舞台に足を踏み入れる。
「無愛想で短気なお貴族様、御機嫌よう。ルチア・ゼレンカの舞台へ、ようこそ!」
小さな劇場へ入った途端に、舞台から少女の声が響く。相変わらず、根拠のない自信に満ち溢れた笑みを見て、ヴァンツァは半ば呆れたため息をついた。
「早く座りなさい。このルチア・ゼレンカがあんたのためだけに、舞台を披露するのよ。ありがたく思うといいわ」
「客に指示するな、人形頭。さっさとはじめろ」
ヴァンツァは煩わしく思いながらルチアを睨み、少ない客席の真ん中に腰かける。ルチアは確認すると、唇の端を持ち上げて笑った。
「わかってるわよ。――では、ご賞味あれ」
ルチアは軽やかにリュントの弦を指で弾く。
十五本もの弦が織り成す多彩な音色が小さな劇場に響いた。その一つひとつが重なり、旋律となって空気を震わせる。
前奏が『魔法使いの息子』のものだと気づき、ヴァンツァは眉を寄せた。
今日のルチアが持ち歩くのは老婆と赤の道化、少女の人形だ。『魔法使いの息子』を演じることは出来ない。
いや、出来る。ルチアは黒の道化人形を確かに持っている。
幕が上がると同時に、人形が現れた。
仮面の下に表情を隠した黒い道化師が佇み、ヴァンツァを見ている。
エドが作った、ヴァンツァの人形だ。
自分のために作られていない人形を使った舞台。それも、ヴァンツァのために作られた、舞台用ではない人形を使っている。
ルチアはリュントを鳴らしながら、ヴァンツァの様子をうかがっていた。
旋律に乗せて少女人形が美麗な歌を口ずさむ。舞台の中央では、愛する少女の歌声に引き寄せられる道化が宙を見上げていた。
舞台に漂う糸が緩く波打つ。
本来、糸は客に見えないことが前提で舞台は進む。だが、ルチアは客にそれが見えていると確信して、人形と自分を結ぶ糸を強く揺さぶった。
少女と道化師を糸で絡ませ、人形たちの感情の揺れを表現する。
小道具の代わりに糸で様々なことを表現する舞台など、見たことがない。人形遣いが相手でなければ、意味がわからないだろう。
これはヴァンツァのための舞台だとわかった。
たった一人の客のために演じられる舞台だ。自分が楽しむためではなく、客のために披露する。自己満足ではなく、人形遣いとしての舞台だ。
――すごいね、ヴァンツァ。
あれはいつだったろう。
幼い頃、エドはよくヴァンツァに城下へ連れて行くようせがんだ。
市民に扮して、フランチェスク橋で人形劇を見るのが日課になっていた。
その頃に、二人の前で人形劇を披露したのがテュヒョ・ゼレンカだった。
――楽しかった! いつか、あんな人形劇を作りたい。
ゼレンカの人形劇を見たあとにエドが笑い、ヴァンツァも笑い返す。
ランゲル劇団で人気を博する人形遣いが、たまたま披露した路上公演だった。そこに居合わせたのは単なる偶然だ。だが、二人にとっては、運命的な必然にさえ思えた。
――エドの人形はすごいからな。
――ヴァンツァも上手に人形が操れるでしょ? いつか、僕が作った人形で舞台に立ってよ。二人で最高の人形劇を作るんだよ。
――出来るか?
――出来るさ。ね、おじさん!
人を楽しくさせる舞台を作りたい。誰かを喜ばせたい。そんな想いが強くなった。
二人のやりとりを聞いて、ゼレンカが豪快に笑った。彼は青空色の瞳で二人を見下ろすと、大きな手で頭を撫でてくれる。
――そうか。じゃあ、二人とも約束だ。楽しみにしているよ。
あのときの約束通り、エドは王都一と謳われる人形師になった。
だが、ヴァンツァは――。
もう人形遣いになりたいとは思っていない。
エドと違い、ヴァンツァには決定的な才能がないことも知っている。そのまま人形を操っても、貴族の道楽にしかならないとわかっていた。母の件がなくとも、いつかはあきらめていただろう。
一番許せないのは、自分自身。
人形遣いになれなかった自分と違い、世間から賞賛されるほどの職人になったエドがどこかで羨ましく思っていた。そんな身勝手な嫉妬を抱いた自分が一番許せなくて、嫌いだった。人形など見たくもない。見れば、惨めな自分を思い出す。
あきらめたはずなのに、あきらめられなかった想いが情けなくて、許せなかった。いつかあきらめなければならないと、いつもどこかで思っていたはずなのに。
人形移りになったことなど、きっかけに過ぎない。人形劇をやめるちょうどいい言い訳だった。本当はいつもやめる理由を探していた。
もう一度、舞台が見たい。人形の楽しさを教えてくれたゼレンカの舞台を見たい。
だから、ヴァンツァはルチアの人形劇にこだわっていたのかもしれない。くだらないと思いながらも、どこかで期待していた。
舞台から目を逸らすことが出来なかった。時折垣間見える面影を拾い集めて、ヴァンツァは懐かしい舞台を探していたのかもしれない。
ヴァンツァはジェハークの嫡男として、政治の舞台に立たなければならない。いつか王位に就いたエドを守らなければならないのだ。
そこに人形に対する未練など残してはならない。
エドに対する嫉妬も、自分の情けなさも、必ず乗り越えなければならない壁だ。だが、ヴァンツァ自身には越えることが出来なかった。
結局、人形に対する想いが捨てきれずに、中途半端に逃げ続けていた。
変わらなければならない。しかし、変わるはずがないと思い込んでいた。――いや、変わりたくなかったのだ。しがらみを断ち切れば、完全に人形を捨てる気がした。
「馬鹿だな」
しかし、今、目の前のルチアは、ヴァンツァが期待した舞台を演じてはくれなかった。
ルチアの人形劇は、確かに父親の面影を引き継いでいる。
だが、それはテュヒョ・ゼレンカの舞台ではない。
一人の人形遣い、ルチア・ゼレンカの舞台だ。ヴァンツァが望んだものではなかった。
けれども、――悪くはない。
自分の中で絡み合っていたわだかまりがスゥッと溶けていく。暗い闇に閉ざされた恐怖も、淀んだ嫉妬に沈んだ心も、どうでもいいものに思えてくる。そして、気づいた。
チェスク王国は人形劇の国だ。自分がしがらみを断ったところで、人形との関わりが消えるわけではない。ヴァンツァはヴァンツァの立場で、いくらでも関わることが出来るではないか。
形にこだわる必要などないのだ。
「あ、笑ったわね! そこは、余韻を噛みしめて泣くところでしょ。一応、悲劇なんですけど!」
終幕を迎えたリュントの余韻を打ち消して、ルチアが喚く。ヴァンツァは少しだけ緩んでいた唇の端を更に持ち上げて、不敵に笑った。
「存在が喜劇の人形頭が悲劇を演じる光景が面白くて、ついな」
「存在が喜劇ってなによ。そこまで面白いことした覚えはないけど」
「無自覚なのか、可哀想に……」
「な、なによ。その本気で不憫なものを見るような眼はぁっ! あんた、このルチア・ゼレンカの舞台を独り占めしたのよ? 自分の贅沢を噛みしめることね!」
「お前こそ、この俺が客になってやったことをありがたく思え」
相変わらず、キィキィうるさい小娘だ。ヴァンツァは客席から立ち上がると、舞台に向けて足を進めた。
舞台中央で、黒い道化師の人形が操り手もなく座っている。ヴァンツァは恐る恐る、そして、赤子に触れるように、そっと手を伸ばした。
自分のために作られた人形をまともに触るのは、これが初めてかもしれない。
「どうして、こんな簡単なことが出来なかったんだろうな」
エドの人形を持ち上げて、ヴァンツァは自嘲を込めた笑みを浮かべた。ルチアが舞台から飛び降り、リュントを背中に担ぎ直す。
「どう? 負けを認める気になったかしら?」
ルチアは自慢げに鼻を鳴らし、亜麻色の髪をかきあげる。本当にいちいち腹が立つ。
しかし、憎めない。
天才と称しながら、いつも疲れてぼんやりするまで練習を欠かさない、ただの負けず嫌い。
失敗すればすぐに非を認めて、更に目標を掲げる努力家。突き放しても、妙な理由をつけて無理やり人の事情に足を突っ込むお節介。後先考えない人形頭で、人形劇でしか自分を表現出来ない人形遣い。
人形が好きでたまらない。そんな想いが滲み出ている。
「好きだった」
「え?」
「お前の舞台を、もう少し見てみたいと思った」
そう言った瞬間に、ルチアの青眸が大きく見開かれる。
何故か頬までほのかに染まっているので、ヴァンツァは不審に思って眉を寄せた。すると、ルチアは誤魔化すようにかぶりを振った。
「あ、いや……あんたがそんな風に笑うの、初めて見たから。そういえば、結構美形だったなぁって思い出しちゃって」
「……なんだ、その言い草は。まるで、俺が無愛想みたいじゃないか」
「自覚ないの? 超がつくほど無愛想よ。せっかくの美形が台無し」
ヴァンツァは憤りを覚えて眉間に縦じわを増やす。
「ほら、それ。その顔、すっごく無愛想で不細工!」
「なんだと?」
「そんな顔してるから、子供に泣かれるのよ。あんた、やっぱり人形遣いにならなくて正解ね。絶対に舞台向きじゃないもの。女の子にもモテないんじゃないの?」
「別に女にちやほやされて喜ぶ不埒な趣味はない。そんな相手は一人いれば充分だろ」
「へえ? そんな相手が一人いるのね?」
挑戦的な態度で問われて、ヴァンツァは返す言葉がなかった。
そんなつもりで言ったわけではないが……今の言い方だと、恋人がいると取られるのだろうか。内心で焦ってしまう。いや、焦る必要など全くないが。
「……俺はお前と違って、恋愛に苦労しないからな」
「なんか、微妙に誤魔化された気がするわ。っていうか、わたしが恋愛に困ってる言い方しないでよ」
「事実だろ。こんな高飛車な小娘が男に好かれるわけがない」
「うるさいわね。わたしは恋をする暇なんてないの。舞台が恋人だから、いいのよ!」
「負け惜しみだな」
「なんですって!?」
ルチアのことだから、本気で人形が恋人だと思っているのだろう。それでも、嫌味に返してやると、予想通りきちんと金切り声をあげて反論してくる。その様子が面白くて、ヴァンツァは少し勝ち誇った気分になった。
と言っても、ヴァンツァに今、恋人と呼べる相手はいない。恋愛経験はあるにはあるが、キスもしないうちに別れた子供のような付き合いしかなかった。
エドは、「ヴァンツァが奥手すぎるから、みんなすぐに飽きちゃうんだよ? 君、恋愛は潔癖症だもんね」とか言っているが、ヴァンツァにしてみれば、寄ってくる女がみんな不埒なのだ。
後継ぎのこともあるので、いずれは結婚しなければならない。だが、そこに愛がある必要はない。それが貴族だ。もう、そんなものは必要ないと本気で思いはじめていた。
だから、今までそんなものに肩入れするつもりなどなかったが、――不意に脳裏を小娘の顔が占領する。
予期せずルチアのことを考えていて、ヴァンツァは首をブンブン横に振った。あり得ない。その選択肢はナシだ。目の前で喚かれたせいで、少し疲れたのかもしれない。
「どうしたのよ。急におかしな顔して」
「常におかしな顔をしている小娘に言われたくない!」
そう返すと、更にキィキィ騒ぐので、ヴァンツァは意味もなく気が滅入りそうになった。
「まあ、いいわ。今日は帰る。暗くなると、クルトがうるさいのよ」
ルチアはそう言うと、部屋から出ようとする。外では執事が待っているはずだ。任せておけば、手厚く屋敷の外へ案内してくれるだろう。
だが、ヴァンツァは無意識のうちにルチアの後ろをついて歩いてしまう。気づいたルチアが首を傾げた。
もう護衛をしてやる必要もないのに、癖が出たようだ。
「送ってくれるの?」
「……変な意味はないからな。今日の舞台がなかなか良かったから、礼だ」
「ふふん。やっと、認める気になったのね。しょうがないわ。じゃあ、ありがたく送ってもらおうかしら。お貴族様の馬車って、乗り心地いいんでしょ?」
何故か馬車まで出すことになっていたようだ。
今までのように身分を隠しているわけではない(別に隠していたわけでもないが)ので、送ってやると言った反面、歩いて帰れとも言えない。ヴァンツァは大きなため息をつきながら、執事に馬車を一台手配させた。
帰りがけに屋敷を見学したり、馬車の造形を観察したりして興奮しているルチアの姿が異様に楽しそうで、なによりだった。




