9 ヴァーツラフ
王都の情景が黄昏に沈んでいく。その中に佇む人形店を見つけて、ルチアはとぼとぼとと歩いた。
ヴァンツァは相変わらず不機嫌そうに腕組みして、少し後ろを歩いている。だが、エドの店が近くなると、彼は先に中へ入ろうと、歩調を速めた。
「エド?」
ヴァンツァが店の入り口に立って、中に呼びかける。
「ちょっと、早く入りなさいよ。そんなところに立たれたら、中が見えないじゃない」
店の中を見て立ち止まるヴァンツァの後ろで、ルチアは文句を言った。それでもヴァンツァが進まないので、ルチアは苛立ちながら店先の人形を眺める。
先日は気づかなかったが、棚にはルチアが依頼した『魔法使いの息子』に登場する黒い道化師が座っていた。その出来も大したもので、ルチアのために作られる人形がどんなものになるのか、今から楽しみに思えてくる。
「エド……?」
もう一度発せられたヴァンツァの声が震えたように思えた。様子がおかしいことに気づき、ルチアは無理やり店の中を覗き見る。
「糸?」
糸が、見えた気がした。
しかし、細々とした魂の糸はどこか頼りなく宙を彷徨い、今にも消えそうな色をしている。まるで、繋がるべき場所を探すように。
この糸の色には見覚えがある。いや、しばらく見ていなかったが、見慣れたものだ。
「人形移り?」
ルチアがそうつぶやいた瞬間、ヴァンツァが弾かれるように店の中へ走った。なにが起こったのかわからず、ルチアも中へと駆け込む。
店のすぐ奥は作業場になっていた。壁には作りかけの人形がかけられ、作業台の上には人形に使う端切れや、木を彫った細かいクズが散乱している。その奥で、エドが身体を横たえているのが見えた。
床に分厚いレンズの眼鏡が落ちている。暗くてよく見えないが、短めの栗色の髪に縁取られた顔は思いのほか整っており、少し驚いた。というか、前に見たときは美しい金髪だったような気がしたが……今はそれどころではない。
「エド!?」
ルチアが叫ぶよりも先に、ヴァンツァがエドを抱えて身体を揺すった。
しかし、エドは虚ろな表情を浮かべたまま天井を見上げ、ピクリとも動かない。まるで、糸の切れた操り人形のようだ。
人形移りだ。間違いない。エドは人形移りを起こしていた。
ルチアはとっさに作業場を見渡し、エドの魂が引きずり込まれた人形を探す。彼が人形移りを起こしたなら、そばに落ちているはずだ。けれども、どこにもそれらしい人形が見当たらなかった。
「どうして……?」
人形移りを起こした人形が自分で動くことはない。症状を引き起こした人形遣いと一緒に、動けないままそこにあるのが普通だ。
誰かが持ち去った? しかし、なんのために?
「エド! 戻って来い、戻れ!」
ヴァンツァが血相を欠いてエドの身体を揺すっている。こんな風に取り乱すヴァンツァを見るのは初めてで、ルチアはなにも言えずに固まってしまう。
やがて、ヴァンツァはやり切れない表情で狭い作業場の壁を拳で叩いた。その拍子に、飾ってあった黒い道化人形が棚から落ち、足元に転がる。
「こんなもの……!」
ヴァンツァは足元に転がる人形を見下ろし、おもむろに手を伸ばす。
その表情には、人形に対するはっきりした嫌悪と憎悪が読み取れる。同時に、怒っているような、怯えているような、複雑な色も浮かんでいるように思えた。
「ちょっと!」
ルチアは人形を壁に叩きつけようとするヴァンツァの手をつかみ、動きを止めさせる。
「落ち着きなさいよ! 今は人形を壊すんじゃなくて、探すのが先でしょ!?」
店には、まだエドの糸の名残がある。それを辿れば、持ち去られた人形を追いかけることが出来るかもしれない。ルチアは蹲るように片膝をついたヴァンツァの手を引き、立ち上がらせようとした。
「俺に触れるな」
「そんなこと言ってる場合じゃないわ。わたしなら、まだ糸を追えるかもしれない。エドの魂がどこにいるのか探すのよ!」
「事態はお前が考えるほど短絡的なものではない」
「ヴァンツァ、あんたも来るの!」
「人形遣い風情が気安く呼ぶな!」
ヴァンツァはルチアの腕を振り払うと、憎々しげな表情で立ち上がった。
明らかな敵意と憤り、鋭い殺気のようなものを感じて、ルチアは呆然と青年を見上げる。
「去れ」
ヴァンツァは冷たい表情でルチアを見下ろすと、鞘におさまった剣を前に突きだす。
わずかな光を吸いこんで輝く貴族紋章。そこに刻まれている、銀の剣を背にしたカラス――どこかで見たことがあるが、どこで見たのか思い出せない絵柄だった。
「ヴァーツラフ・ジェハーク。次期国王の座を約束されたエドムント・プシェミスル殿下に仕える守護騎士だ。一介の人形遣いが軽々しく呼んでもいい名ではない」
ジェハーク家――独立の英雄騎士カレル・ジェハークを祖とする家系。
代々、王族に仕え、プシェミスル王家を補佐する守護貴族。
王族の次に影響力のある貴族だと言われている名門。
紋章など覚えていなかったが、名前なら充分に知っている。チェスク人なら、誰だって覚えがあるだろう。チェスクの独立史は人形劇の演目にもなっている。
ルチアは意味がわからず、ヴァンツァから遠ざかるように後すさる。
別にジェハーク家と人形師に交友があってもおかしくはないし、支援者という関係は珍しくもない。ヴァンツァは人形嫌いと称しているが、彼の親がエドを囲っているなら不自然ではない話だ。
けれども、彼が仕えるのは王太子エドムント――愛称は、エドだ。
ルチアは信じられない結論に辿りつき、口を両手で押さえた。
にわかには信じがたい。だが、ヴァンツァの態度がそれを肯定している。
「彼は……エドは、もしかして……王子、さま?」
それ以上の言葉が出ない。
「理解したら、去れ。それとも、人形頭の小娘には説明が必要か?」
ルチアはヴァンツァの説明を待たずに、踵を返した。




