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女子寮たまかづら

作者: 久世 修

逢坂氏はこの春に勤め先を辞し、気ままな日々を送る身となった。

世に謂う団塊の世代とて、幼い頃の兄弟姉妹との食物争奪競争に始まり、受験戦争、大学闘争、そして企業戦士としても幾多の戦いに参加し、生き残ってきた。

CMで『24時間戦えますか』だの、『モーレツ』だのとハッパをかけられ、正に睡眠時間4、5時間の日々を送ったものだ。

色々人に話せぬこともあったけれど、こうして自らの力で小さいながらも一軒家を構え、三人の子供もそれぞれ相応の生活を築いて、小学3年を頭に孫も四人いる暮らしに不満はない。ある種の諦念かもしれぬが、役員になれなかったのもそうした巡り合わせだと納得している。 

日頃が夫婦二人の静かな暮らしなので、夏休みなどは、賑やかを通り越して、運動会かお祭の有様。とはいえ、全家族が一同に会することはない。できないが、正しい。

庭の一部を壊して増築はしたものの、四世帯が入れるほどの邸宅ではない。日をずらしながら、帰省する。

そんな氏の日課が、朝夕の散歩。

五十代になって体調を損なったのが災いして役員コースを外れた氏だが、それを契機に彼是十年余続けている。現職中は夕方に散歩の時間を取る余裕などなかったけれど、毎日が日曜になって追加した。

氏の同世代の倣いとも言えようか、麻雀、囲碁、将棋、ゴルフ、ボーリング等々流行りものには大抵手を出し、まあそこそこの腕前、というのが処世術だった。従って氏も趣味・娯楽は広い方だが、今は興味を失った態に見える。

朝夕の散歩以外は、時折細君の買物に付き合って外出するくらいで、めったに出掛けることもない。

そんな氏の散歩コースに、学生寮がある。源氏の好きな人の手によるものか、門に『たまかづら』の表札がある。駐輪場にずらりと並んだ自転車から、何処かの女子寮と看て取れるが、内を繁々と眺めるのも気が咎めて、そのまま通り過ぎるばかり。

5月下旬の、梅雨にはまだ早い時季ながら、走り梅雨のような日のことだった。

薄暗い雨の中をいつも通り歩いて、寮を通り過ぎた角に差し掛かかると、向うから傘もささずに駆けてくる人がいた。

もう、ほんとにバカなんだからとか何とか、呟きが聞こえた。氏は言葉を掛けられたのかと思って、娘を観た。

えっという顔をした彼女ははにかんで、

「ごめんなさい。独り言。わたし、すみません、あんまりバカだから、つい」

文にはなっていないが、言いたいことは解った。

顔から滴るほど、すっかり濡れていた。

「いや、なに」

ぺこりと頭を下げながら走って、その寮へ飛び込んだ。

垣に這わせた蔓バラの咲き乱れたのや、まだ咲きやらぬ紫陽花の小さな蕾を眺めながら家に帰り着いた氏は、その娘のことなどすっかり忘れた。翌朝、河川敷の散歩コースで遇わなければ、それっきりだっただろう。

その日も、生憎の小糠雨。濡れるというのでもないが、時間とともにじっとり湿っぽくなる降りだ。

用心に傘を持って出た、逢坂氏。

川面から霧が湧くように流れ出し、辺り一面白く靄っていた。視界は百メートルあるか、ないか。対岸が消えていたから、そこまでなかったかもしれない。

川上からタッタッタッとリズミカルな足音が近づいてくる。軽快だ。

突然、足音に驚いたか、川鳥がバタバタと舞い上がった。

「きゃっ」

足音が止む。体が凍りついたかのように、動きが止まる。

「どうしました。大丈夫ですか」

ゆっくり近づきながら、声を掛ける。

どうやら音楽を聴きながら気持ちよく走ってきたのに、突然の羽音に驚いて、金縛りになったようだ。汗と霧雨に濡れて、髪はべったり顔に張りついている。それで昨日の娘さんと分かった。

「ああ、あの寮の人ですな。これを飲みなさい、落ち着くから」

氏が差し出したのは、小さな水筒に入れたミルクティーである。常時、携行している。清涼飲料水が口に合わないことあるが、細君の淹れたお気に入りのティーが最も経済的なことも理由である。年金生活者なのだ。贅沢はできない。

一口啜った娘。人心地がついたのか、しきりにお礼を言う。氏は、袖振り合うも何とやらと申しましょうと取り合わず、帰途に就いた。

少し行ったところで、先の娘と同じ年頃のランナーにすれ違う。お仲間だろうと安心して、足を速めた。

その日の昼前、近所のスーパーへ駆り出された、逢坂氏。

ティッシュだのトイレットペーパーだのが特売とかで、一人何個までの限定商品だからと連れ出されたのだ。嵩張る荷物を抱えてレジを待っていると、

「おじさん」

知らぬ顔。自分が呼ばれているとは想像できぬから、気にも掛けぬ。すると又、おじさんと声が掛かる。見回しても、他に男性はいそうもない。背後に視線を向けると、若い女性のグループ。

「今朝はありがとうございました」

やっと気が付いた。娘風の服装なので、まるで別人だった。

「ああ、あなたでしたか。若い女性に知人はいないもので」

細君が怪訝というか、疑わしそうな視線を向ける。いい歳をして、何というはしたなさと心中思いつつも、

「散歩道の途中にある、何とか寮のお嬢さんだ。朝、河川敷でお目に掛かった」

順番がきて、支払い。食料品などは細君が持つが、嵩張る荷物は氏の役目。

「お持ちします。沢山ですし、大変ですもん」

「そうです。三人で手分けすればどうってことないですから」

「遠慮しないでください。朝、りえが助けてもらったんですもの。これくらい当然ですわ」

そう言いながら、荷物を奪うように持ってくれたので、夫妻は手ぶらになってしまう。

スーパーと自宅とは徒歩10分足らずだから、氏夫妻にとっても負担になる距離ではないが、言葉に甘える形になった。

「わたしたちA大の駅伝部なんです。河川敷は朝練のコースにしているのでよく走るんですけど、このりえちゃんは新入生なので、余りよく知らなくて」

「まあ、あんなにガスが濃い中で、突然沢山の鳥が羽ばたいたら、ビックリもしますよ。わたしなんぞは、もうびっくりする元気もなくなってますがね」

そんな会話をしてる間に、到着。

学生たちがそそくさと帰ろうとするのを留めて、上に上げる。夫婦二人のひっそりとした屋内に、華やいだ空気が流れる。

女学生たちが応接室で畏まっている間もなく、奥さんが紅茶とケーキを持って来る。氏も普段着の作務衣に着替えている。

「今どき、珍しいお嬢さんたちだね」

「そうですわ。道々伺いましたが、宅は持参のティーを差し上げただけなんでしょ。それなのに恩返しなんて、奇特な娘さんがまだいらっしゃるのねぇ」

「そんな。恥ずかしいですわ。人から受けたご恩は有難いことですから、感謝するのは当然のことですし」

三人の代表格なのか、最も小柄だけれど、落ち着いた雰囲気の娘が答える。

「もうびっくりして、息が止まってしもうたけん。うち、ほんまに、怖がりなんじゃ」

りえと呼ばれた学生が、何度も頭を下げた。

「ははあ、りえさんは広島とか、そちら方面のお生まれですか」

「あ、はい、いえ、そうです」

しどろもどろ。どうやらいつもは標準語で話すよう心掛けているのだが、ついつい使い慣れたことばが零れ出てしまった、らしい。

「もう、ほんとうに面白いんです。ちょっぴり慌て者ですしね。イジられキャラなんです」

「なんですの、そのイジラレなんとかって」

若者用語で、揶揄いの対象になり易いキャラクターということらしい。文字通りの茶飲み話を楽しんで、娘たちはそろそろお暇を、と言い出す。

夫妻は玄関まで見送って、

「今日はありがとう。別段大したことはしてないのに、手伝ってくれてありがとう。助かったよ」

「皆さん、いつでも遊びにいらしてくださいね。他に誰もいない家ですから、遠慮なさらず」

女学生たちは、お茶の礼を言って帰った。

「好い子たちですわねぇ」

「駅伝部っていったか。スポーツウーマンだから、しっかり躾けられてるんだろうね。中々良い娘さんたちだ」

「応援してあげようかしら」

夫妻が後姿を眺めながらそんな会話をしているなど、知る由もない娘たち。自分たちの買物はそのままだったから、スーパーへ戻るのだろう。歩きながらの話に花が咲くようだ。


八月のある日。

夕方の散歩も、この時期は日暮れが遅いので時刻もゆっくり目。6時だと日も高いし、暑い。散歩中に倒れでもしたら迷惑を掛けるので、少し薄暗くなってから出掛ける。

お盆を過ぎると、暑いといっても稍涼やかな風も吹いたりして、気分的にも違う。たまかづら荘の前に通りかかって、灯が明るいことに気付いた、逢坂氏。そういえば随分長い間灯が細かったような、気もする。

散歩中きょろきょろとそぞろ歩くタイプではなく、背筋を伸ばし真直ぐ前を向いてすいすい進むから、余り周囲の変化を注意しない。だから昨日はどうだったかと思い出そうとしても、ほゞ記憶にない。偶々、このとき気付いたに過ぎない。

通り過ぎようとした時、中から女子学生が飛び出してきて、突き当たりそうになった。あっと言って、詫びようとした顔がにっこり。

「あのときのお爺ちゃん」

見れば、正しくあのときの娘。確か、りえさんだったか。誰かが慌て者と評したような気もするが、確かに少し周囲を観察するゆとりに欠ける、かな。

「その節は、ありがとう。いや、助かりました」

逢坂氏が先に礼を口にしたものだから、どきまぎして言葉が出ない女学生。

「うんにゃ、うちらの方こそご馳走になりましてからに」

中国地方の地ことばが口を吐く。

「まあ、また遊びにおいでなさい。愚妻も応援してあげようなどと、言ってました。じゃ」

帰宅後、家内にその話をすると、

「つい先日まで運動会とお祭りが一度に来たみたいに賑やかでしたから、こうして二人だけになってしまうと・・・・・、何か張り合いがないっていうか、寂しいですわね」

「そりゃあ、お前が外出をしないからだよ。カルチャーセンターとか色々あるだろうに。そんなに我が家の家計は逼迫しているのかね」

細君。すっかり出不精になってしまって、と曰う。

翌朝、庭木に散水している逢坂氏の垣根越しに、数台の自転車から元気なお早うございますが掛ける。例の女子学生グループだ。

「やあ、お早う。皆さんで、何処かお出掛けかね」

聴けば、この先に新しいカフェができて、9時までに入ると割引なので行くところだという。

これが垣根越しの遣り取りだったので、奥さんの聞きつけるところとなり、庭へ出てくる。丁寧に頭を下げてから、徐に、

「お帰りの際には、声を掛けてくださいな。子供たちが色々お土産を持ってきてくれたのですけど、二人ではとても食べきれないから困ってましたのよ。皆さん、若いお嬢さんですから、甘いものなんかお好きでしょ」

自動車で帰省した息子は、途中のドライブインで購入して、これでもかというくらい持ち帰った。それでなくても、他の子供らの土産があれこれあるというのに、だ。それらを引き取ってもらおうという目論見だ。

彼女らは、わあ、いいんですかと、破顔。夫人は何時頃この前を通るか訊き、それまでに用意しておくからと送り出す。

こうして、若い女性アスリートたちとの交流が始まった、逢坂家。


仲良く暮らしているように見えて、人が集まれば相性の良し悪しもあり、ちょっとしたことで仲違いも出る。

主将や副主将、寮長といった部の幹部が調整役を果たすようだが、独りで泣きたいことだってあるだろう。一人部屋なら閉じ籠ることもできようが、大所帯だからそうはいかないケースもある。

偶々、家の前をしょんぼり歩いている寮生を見かけた細君が招き入れ、話を聴いてやったことから、いつしか涙の駆け込み寺ならぬ相談所みたいなことになった。

ユキという学生は、自宅通学できるくらい近場に自宅はあるのだが、駅伝部の特待生として入学したので、寮に入っていた。しかし成績が上がらない。芳しい記録も出せず、上級生から皮肉と叱責を受けたことから、寮を飛び出してきた。

飛び出したはいいが、家には帰れない。帰れば、何を言われるか。親の勧める学校へ行かず、自分勝手を徹したのだから、どの面下げて・・・・・と罵られるのが、目に見えている。

途方に暮れて、とぼとぼ歩いているのを見かけた、逢坂氏。注文していた本を受け取っての帰りだった。

虚ろな後ろ姿を見つけて、どうしたのかねと声を掛けると、堪えていた涙が溢れ出した。まあ、いらっしゃいと誘って、連れ帰る。ぽつりぽつり語る話を聴くと、実に他愛のない内容なのだが、この年頃には往々にして深刻に捉えがちだ。そして一生を台無しにしてしまうことだってある。

「そうなのかい。それは困ったね」

冷たいジュースとケーキを持ってきた細君も腰を下ろして、

「皆さんお仲間なんですから、謂わば兄弟喧嘩みたいなものでしょ。お婆ちゃんが付いてって謝ってあげるから、心配しないで」

「お前は黙っていないさい。上辺だけ糊塗しても、問題が解決することにはならないんだよ。自分の至らなさにも目を向け、人と人との関わりってものに気付かなきゃ、又同じ失敗を繰り返すんだ。これを教訓にするには、冷静に自分も相手も見詰める時間が必要なのさ。そういうものだ」

「あら、そう。昔は私たちもよく夫婦喧嘩しましたけど、あなたが帰ってくる頃にはすっかり忘れてましたけど」

「つまらないことを思い出さなくて良い。ほら、ユキちゃんも呆れてるじゅないか」

「ね、ご機嫌直ったでしょ」

昔から女三人寄れば姦しいというが、徒党をなす方も、真理のようだ。

中にしっかりしたリーダーがいれば良いが、対等な関係の場合には、2対1となって排除の論理が働くことも珍しくない。況して、生まれも育ちも異なる娘たちが大勢暮らしていれば、上辺はともあれ、好き嫌いはあって当然。そういう児戯心まで失ってしまっては、競技への情熱や挑戦意欲も減退するだろう。

逢坂氏には、老若男女、学歴も思想も異なる部下を束ねてきた永年の経験がある。例えば、東京出身の中年係長と関西出身の若年課長補佐が大声で罵り合い、掴み合い寸前までいったことがあった。もし本当に手を出したなら、会社の規定から二人とも解雇となったところだ。

切欠は、一つの詞。あほう。

「幾ら上司か知らないが、あほとは何だっ」

「なんだとは、それこそ何です。何をあほみたいに、カッカきてるんですか」

「ひとをコバカにしてるのか、君は」

アホという語の遣い方、受け取り方が全く違うことから、大騒動に発展したのだ。

大阪人は、「アホ」なる語を愛すべき頓珍漢の意で用いることがある。それは語感や表情から汲み取るしかないが、他の地方人には難しいところだ。その点を相互に理解していなかったことから、そのケンカは起こった。似たようなことは、組織が大きくなれば大なり小なり抱えなければならない問題だ。況してや、グローバル化と称して国際化する企業では。

今回の件も、文化・風土の違いから生じたもの。持って生まれた相性の良し悪しを抜きにしても、共同生活では相互理解の努力が最も大切だ。だが、入学して程もない一年生に、それを求めるのも酷なことかもしれない。環境の変化に適応することに精一杯だろうから。であれば、冷静に思案すれば問題解決の糸口は見つかる。こう考えた、逢坂氏。

その晩は自宅に留め置くことにして、一応、たまかづら荘へ連絡。何かするにしても明日にしましょうと、付け加えておいた。

ケンカというのは、お互いチャイルドな心になっているから起こるもので、冷静沈着な計算の基に行動するアダルトな感情からは生じない。

仮に腹の立つことがあっても、その場で爆発させたりはせず、しっかりTPOと準備を整えた上で、最も効率的な場面を見極めて報復するものだ。

大学生ともなればそういう心の働きもできるはずだから、平静になる時間的猶予を持った方が良いと、判断したのである。

翌朝も日課の散歩に出る。預かっている女学生も、付いてこようとする。

「お目覚めはどうかね、ユキちゃん」

「はい、ありがとうございました。わたし、あれこれ考えたら、自分が悪かったって。けど、あんなこと言ってしまったから、合わせる顔がなくて・・・・・」

「まあ、いいさ。大丈夫。成るように成る。ま、して上げるから。お爺ちゃんに任せておきなさい。伊達に齢もとってないし」

いつものコース。寮の前に通りかかると、数人の学生たち。判で押したような日課だから、逢坂氏の通る時刻は先刻承知。

「おはようございます」

元気の良い挨拶。黙って、通り過ぎる逢坂氏。そのままジョグで追い越していく、一団。

「ユキちゃん、何してんの。行くわよ」

最上級生で寮長の、ハルカさん。

ユキは逢坂氏を観る。逢坂氏は頷く。

河川敷の散歩コースへ下りてしばらく行くと、広場で柔軟体操をしている二十人くらいの塊が見えた。

近づくと、

「ありがとうございました。至らぬ妹を助けて頂いて、ダメな姉も反省しています。それもこれも、出来損ないのキャプテンが一番悪いんです。頑張りますから、これからもよろしくお願いしま~す」

「それは次もあるってことかな」

苦笑交じりに問うと、

「甘えちゃいます。いけませんかぁ」

「調子良いなあ、君ぃ。こんな威厳のないキャプテンで良いのかね」

「可愛さで売ってるから、好いんです。選挙でセンターですから」

「それって、何とかいうKBとかいうヤツじゃないのかね」

「よくご存知ですねぇ」

「若いっ」

「年寄をからかうものじゃないよ」

それでもニコニコしている、逢坂氏。

「まあ、いい。元の鞘に収まってよかった」

「ご迷惑をお掛けしました」

これを契機に、逢坂氏夫妻は『たまかづら荘』のパトロン的存在になった。


そして『事件』は起こった。妊娠騒動だ。大学生ともなれば子供ではなし、妊娠を事件とは大袈裟な言い様だが、女子陸上部にとっては大問題。とてものこと、ああそう、それはおめでとうでは済まない。不祥事ではないが、エース格中心選手の突然の離脱とあっては、大打撃。他の選手の動揺も大きい。

しかし当の選手が、相手の名を口にしない。病院へも行こうともしないから、始末が悪い。

彼女―仮にA子さんとしておこうか―は、しっかり者と評判の4年生。既に実業団への就職も内定している。だからマサカ、そんな、何かの間違いだろうというのが、皆の共通認識。

しかし、本人から3ヶ月以上生理がないの言葉が出ている以上、嘘ともいえない。もし本当なら、前途は真っ暗だ。こうなっては、就職も白紙に戻される可能性が高い。

当初は寮内だけの小さな噂に過ぎなかったが、日と共にどんどん広がって、外へ溢れ出してしまった。

監督も噂を耳にして、真偽を確かめるべく面接。しかし、ないんです、の一点張り。相手の男性についても、口を開こうともしない。

見たところ、確かに下腹あたりがふっくらした印象は受ける。だが今の時代、面と向かって訊ける話でもないし、確認のために触れようものなら、セク・ハラ騒ぎで首が飛ぶ。そんなご時世だ。

八方ふさがり。監督さんもほとほと困り果てて、相談にやってきた。ああでもない、こうでもないと話は長時間に及び、細君がお茶とケーキを出す。

「ウチの学生がいつもお世話になっておりまして・・・・・」

「そんなことは構いませんわ。若い娘さんでも出入りしてくれなければ、こそとも音のしない幽霊屋敷になりますからね。何しろ散歩する以外は書斎に籠りっきりなんですから、この人は。それより、その学生さんはちゃんとお医者さんに診ていただいたの」

「さあ・・・・・、多分そうでしょう」

「想像妊娠てのも、ありますからねぇ」

「まさか。あのしっかり者のA子ちゃんだぞ」

「しっかり者だって何だって、この件については決してしっかりしていなかったわけでしょ。こういうことが起こり得ることをしたってことで・・・・・」

確かに、その通りだ。

成人男女のことだから、当然知識はあるはずだし、この事態を避ける方法もとれたはずだ。とすると、案外しっかり者も頭に血が上ってしまうと情熱家になるタイプかもしれない。

「これの言うことにも一理はありますからな。ただ、最悪の事態を想定して対応策を考えておきませんと、後手の後手を踏むことになって、余計混乱させることになりかねませんな」

先ずはA子さんの将来、幸福を根底に考える必要がある。例えば、それが結婚・出産なのか。それとも競技者としての継続なのか。

仮に結婚・出産を望むとしても、どういう形で始末をつけるか、が難しい。競技者を選ぶなら、そちらは諦めるのか。或いは二者択一でない、第三の道があるのか。何れにせよ、当事者とその両親の気持ちを知ることが先決だ。

寮や大学ではこんな話はできないし、喫茶店などで出来ることでもないので、結局逢坂氏宅で聞き出そう、の結論になった。

女子マネージャーに付き添われてやつてきた、A子さん。応接室に通して、暫く。

「いらっしゃい。硬くなることないのよ」

「すみません。ご迷惑をお掛けします」

細君が紅茶とケーキを出して、引っ込む。

それから少しして、

「すみません、お手洗い貸してください」

 血相が変わるほど、大慌ての様相。

「はいはい、ご案内しますわ」


「どう、すっきりしました?顔色まで変わっちゃったわね」

「・・・・・・・」

「苦しかったでしょうね。何も言わなくていいのよ」

「・・・・・・・」

A子さんは、静かに涙を流した。

「いいこと、これはあなたとお婆ちゃんの二人だけの秘密。私も誰にも言わないから、あなたも決して話さないこと。あはは、違ってたって、笑い話にしちゃいなさい」

「でも・・・・・」

「恥ずかしいのは、自分を欺き続けることよ。ほんの軽い気持ちで口にしたことが大きくなってしまって、あれは冗談なんて言い難いわよね。特に若いうちは」

「・・・・・・・」

「形だけでも病院に行く?行っても仕様がないとは思いますけど。あなた、処女でしょ。男性経験なんてないでしょ」

A子は目を瞠り、やがて小さく頷いた。老婦人の慧眼、的中。

「どうしてこんなことになったのか、お話ししてごらんなさい。さっきも言った通り、これは二人のヒ・ミ・ツ。内緒ごとですからね」

A子の話、あらすじ。

事の起こりは、ほんの些細な戯言。便秘気味で、食欲が今一つ。友人と昼食に、有名なラーメン店へ行った。いつもなら大盛をぺろりと平らげてしまうのに、その日は苦しくて残す。しかも痞えた感じがして、少し吐いた。

友人は驚いて、どうしたのと訊く。A子は、うん、ちょっと、と曖昧な返事。ここ数日通じがないなんて、いくら親しい友達でも話せない。

「ま、まさか、ひょ、ひょっとして、アレ?まさかねぇ、そんなことあるわけない」

あるわけないに引っ掛かった、A子さん。

「私だって、そんなバカにしたものじゃないかもしれないよ」

勿論、冗談のつもりだった。ところが、噂は千里を走る。あっという間に、A子は妊娠していて、それは誰某の子供らしいと、実しやかに広がった。その何某が全く無関係な相手であれば即座に否定したかもしれないが、密かに好意を寄せていたので、その願望も手伝って敢えて否定しなかった。

そうこうしているうちに、噂は広がる。その騒ぎがストレスになって、益々便秘はひどくなり、気分は悪くなる一方。体調不良で、練習からも遠ざかる。悪循環。

寮の人たちも、次第に変な目で見るようになる。余計滅入る。人間不信。閉じ籠り。

監督から真偽を尋ねられても、答えることは何もない。根も葉もない噂が一人歩きしただけなのだから。まして相手のことを訊かれても、話せないとしか言えない。うつ病と強度の便秘で、大変な状態に陥る寸前だった。

「明日、知り合いのお医者さんへ行きましょう。大丈夫。上手く図ってくれるから。こう見えても、私も三人の子供を出産したのよ。昔は、あなたと同じように若かったの。一目見れば、赤ちゃんを身籠っているかどうかくらい分かります」

A子はそのまま一晩泊まり、翌朝、小さく看板は掲げてはいるけれど、実際にはやめている産婦人科医院へ連れていかれた。

夕方、老婦人に付き添われてたまかづら荘へ戻った、A子さん。顔色も体つきも見違えるようにすっきり。

「私の見立て通り、違っていました。妊娠はしていませんでした。もうすっかり快復しましたからね。又、みなさんと一緒に頑張ってくださいね」

寮生たちが、しきりに目配せする。寮の外に何かあるらしい。

「A子先輩、外に、あの、彼氏さんが」

えっと驚いた、A子。

外に出ると、自転車置き場の蔭から現れた男性。男子禁制なので、ずっと外で待っていたらしい。

「A子さん、僕、やっと就職が決まったんだ。もし、よかったら、その、結婚してくれませんか」


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