第三話 世界 (1)
頭痛がするのは、きっと傷のせいばかりではないだろう。本当は思い出すまでもない事だった。
相馬成隆は、廃ビルの屋上から飛び降りて自殺した。約九十メートルの高所から、アスファルトの地面に叩き付けられて、死なずにいるのは、たとえ猫にだって無理だ。
なら、ここにいる僕は誰だ?
悪寒を感じて身震いをすると、手当をしてくれていた女性が手を止めた。確かそう、アリシアという名前の金髪碧眼の女性。
「すみません。痛みますか?」
僕は自殺した。自殺した、はずだ。ならば、どうしてこんな訳の分からぬ場所で見知らぬ女性に傷の手当をされているのか。その傷をつけられた理由も、良くは分からぬもまま。
頭が痛い。どうして、なんで、どうやって。ありとあらゆる疑問形が、まともな質問の形をなさないまま思考を埋め尽くし、氾濫する。
「…あの、大丈夫ですか?顔色が」
伸ばされた指には、体温があって、手触りがあって、現実の感触があった。暖かい人肌の温もりに今は冷や汗がでる。いや、脂汗だ。
彼女の手を逃れるように、ナリタカは身を引き、顔を伏せた。
「あの、ナリタカ様?」
顔を上げる。
歪みそうになる表情を必死に押さえながら、可能な限り冷静に尋ねた。
「ここは、どこですか?」
「…皇女殿下のお屋敷ですが」
答えになっていない答え。皇女、殿下、その屋敷。いつの時代のどこの場所の話をしているのだろう。時代錯誤、いや文化錯誤か。
ここは日本ではないのか?それとも、日本どころか……ある予想が胸をかすめるが、そんな発想を認めるのはナリタカのなけなしの矜持が許さなかった。そんな、馬鹿馬鹿しい、幼稚な発想は。
「地図…そう、地図でいうと」
なおも食い下がる自分の姿は、アリシアから見れば、さぞ奇妙に見えたことだろう。屋敷の主人に招かれたはずなのに、ここはどこだと騒ぎ立てる客人など、ついぞ迎えた事がなかったに違いなかったろうから。
実際の話、現在地を把握して、どうしようという明確な展望はなかったが、とにかくその時は聞かずにはいられなかった。日本地図の、いや世界地図のどこかを指し示してもらえれば、それで少しは安心できると思ったのかもしれない。
足元が、がらがらと音立てて崩れ去っていくような焦燥の中で、ただひたすら何らかの足がかりを求めていた。
「ベルグです。あの、レソト半島の」
アリシアは怪訝そうな顔を浮かべながらも、ナリタカの質問に素直に応じた。気遣うような視線がナリタカに向けられる。
ナリタカは条件反射的に、視線をそらす。こういう視線が苦手だった事を思い出す。相手を案じる善意の視線。その善意を信じて、疑わない者の目。
「ベルグ? レソト?」
反芻しても、まるで親近感のわかない地名だった。だというのに、まるでこちらの地理の常識を疑うように、アリシアはナリタカを気づかわし気に見るのだった。
ひるみを押して、重ねて問う。
「…それは、どの大陸にあるんですか?」
アリシアは数秒の沈黙の後、探るような表情を浮かべた。
「からかってらっしゃるんですか? それともひょっとして何かの謎かけ?」
謎掛け。確かに、これは壮大な謎掛けだ。ただし謎をかけられているのはこちらの方だ。
「……そうじゃなくて」
さらに質問を放とうと口を開くが、結局、何も出てこなかった。
焦燥が膨れ上がる。形のない、不定形の焦慮。
ひたひたと足音が聞こえる。何か怖いものが追いかけてくるような、それなのに、どこにも活路を見出せない。足音が次第に大きくなっていく。
逃げなければ。そう思うのに、何から逃げなければいけないのか、どこへ逃げればいいのか、分からない。
「そろそろ支度をなさらなければ。お湯も冷めてしまう事ですし」
目の前の笑みがうらめしい。ナリタカの切迫はアリシアには届かない。
どうしたら自分の窮状を理解してもらえるだろうか、とナリタカは頭をめぐらす。論理的に説明しなければ、きっと理解してはもらえない。
だが、ならどう説明したらいい?
自殺するために屋上から飛び降りたはいいものの、目覚めたら噴水の中で、這い出したら見覚えがないどころか、ナリタカの常識をいちじるしく逸脱した奇妙奇天烈な場所であり、あなたもまたその住人の一人なのだと、一体どう言ったら分かってもらえる?
分かってもらえやしないさ、と内なる声が囁く。
もらえやしないって事をお前はすでに薄々感じている。ただ再確認するのが怖いだけだ。
第一、とそれは笑った。
いまさら現在地を確認してどうなるんだ。それとも、ここいらで一番高い建物はどこですかって、聞くつもりか? もう一度、死に直すためにさ。
追いつかれた、と感じた瞬間。何かが凝って黒い塊になり、ナリタカの中に、すとんと落ちた。
お前は死ねなかった。
宣告は、まるで嵐の後の静けさだった。方々に吹き荒れていた雑念が一瞬にしして払われ、最後に残ったそれだけが、正面きっての対峙をナリタカに迫った。
(僕は死ねなかった)
それは全ての思考の前提として、そこにありながら、意識的に焦点を当てる事を避けていた命題だった。
(どうして?)
死んでない。死ななかった。死ねなかった。吐き気も、傷の痛みも、この唾棄すべき思考も、みな自分がまだ生き長らえているという証明。
「…ナリタカ様、あの、泣いていらっしゃるのですか?」
伸びてくるアリシアの手から逃れるようにナリタカは身をひき、体をくの字に曲げた。両の掌で顔を覆い、こみ上げてくる嗚咽をこらえた。息もせず、せりあがってくる何かを呑み込み、呑み下し、何度もそれを繰り返す。
「ナリタカ様」
相手が自分の目線の位置にしゃがんだことが気配で分かった。労わるようなその声が、癇に障る。
うるさい。あんたは何だ。あんたなんか知らない。あの庭であった連中も、あの少女も、あの青年も、自分を押さえつけた男達も、誰一人だって知りやしない。こんな場所、知らない。
「大丈夫です」
何が大丈夫だというのか。
アリシアの両腕は、全身で拒絶を露にするナリタカの体を抱き取り、抱きしめる。ナリタカの僅かな抵抗は、その柔らかい抱擁の中にからめとられた。
「大丈夫です。涙を流すのは、恥ずべき事でも隠すべき事でもありません。だから、こらえる必要はないんです」
慰めがかえって心を波立たせる。わずらわしい。余計に惨めになる。
初対面の相手の前で涙を流している自分がひどく滑稽に思えて、ナリタカは更に背中を深く丸めた。
「もう大丈夫です。何の心配もいりません。ここにはあなたを傷つける人はいないし、もし万が一そんな事があったとしても、私がきっと守って差し上げますから」
脈絡のない、無駄に優しい声が、心の亀裂を押し広げ、かき乱す。
「なにか、辛い思いをなさったんですね」
黙れ。あんたに何が分かる。何も分かっていないくせに。何も知らないくせに。出て行ってくれ。見ないでくれ。頼むから、一人にさせてくれ。
そう言いたいのに、口を開けるたび言わんとする言葉は、喉を震わせる、すすり泣きに掻き消されるのだった。
「大丈夫です」
泣いている間中、耳元で、ずっとアリシアの声がしていた。