第二話 招聘 (2)
日没。
斜陽が噴水にたつ白亜の獅子を黄金に染め、樹木の陰はいよいよ長い。剪定にいそしむ庭師の姿や別館と本館を往来する侍女達の姦しい雑談が、中庭を彩り、平穏を絵に描いたような光景だった。
中空に忽然と現れたそれは重力にしたがって中庭の噴水に落下した。派手な音と共に、水しぶきが撒き散らされた。飛び立つ鳥の羽音がそれに続く。
丁度、付近にいた侍女数名は、何事かと変事に目をむけた。
水中と水面を行き来してもがくものが、生物であることはまず間違いはなく思われた。跳ね上がる水しぶきで、判然としなかったが、人間並みの大きさだ。
子供の肩くらいの水位である。それはやがて噴水の縁石に手をかけて、上半身を水面からのぞかせた。水を飲んでしまったのか、体をくの字に曲げて、激しく咳き込んでいる。濡れそぼった体から水の飛沫が勢いよく飛んだ。
「…人間?」
息をつめて注視していた侍女達の一人が呟いた。
水から這いでて、石畳に座りこむと、その人間は彼女達に気づいたようで、濃い色の目を大きく見開いた。侍女達が黒色の瞳を目にするのはこれが初めてだった。
子供と形容するほうが妥当な年の頃だ。その顔立ちと成長途上の体。遠目からは、性別が判然としないが、髪が短いのを見るところ、恐らくは少年であるようだ。
少年の風貌は束の間、彼女達を安堵させたが、警戒心が消えたわけではない。危険性はともかく侵入者であることは一目瞭然であり、放置する訳にもいかなかった。
三人の内、年長の侍女が二人に囁いた。
「衛兵を呼んできなさい。今すぐに」
それを気に硬直がとけ、はじかれたように二人は踵をかえして駆け出した。残った年長の侍女は侵入者に対峙した。
「お前は何者? どこから入りこんだの?」
少年は答えなかった。のろのろと起き上がり、前のめりに、たたらを踏む。反射的に侍女は一歩あとずさった。
「寄らないで!」
びくり、と少年の動きが止まり、戸惑いがちな表情で立ち尽くす。まさか本当に静止するとは思わなかった侍女は脱力を禁じえなかった。
「答えなさい。お前はどこから来たの」
その時、少年の上衣を染める赤いものに気づいた。柄ではなく染みのようなものが、この世の物とは思えぬ程白い生地に点在している。それが何であるか考え、答えに行き当たった時、侍女は戦慄した。
負傷。でなければ返り血。どちらにしろ穏やかではない。
「その血は…」
少年は初めて気づいたとでもいう様に、自分の襟下に目をやり顔を強張らせる。あせったように視線が辺りをさまよい、最後に侍女に戻った。
「……だれ?」
それが少年の発した最初の言葉だった。
「そう、お前は誰かと聞いているの」
「…あなたは?」
装っている風には見えない。心神喪失者か、知能に問題があるのか。だとすれば不幸なことだが。
どこからか紛れ込んできたのだろうか。
「ここはどこですか?」
おずおずと周囲を見回す。その様子はいっそ無防備なほどで、侍女をためらわせた。なによりも相手は自分より年下の、見るからに非力そうな少年だ。
「…正直に話せば、悪いようにはならないわ。この館の主人は寛大な方だから」
少年が感銘を受けた様子はなかった。ただ何か、言葉に詰まったように表情に困惑を深めただけだった。
「僕は−−−」
侍女がその言葉の続きを聞く事はなかった。侵入者の報を受けた衛兵達が駆けつけてきたのだった。