第二話 招聘 (1)
ぴちょん。
最初は、水の滴る音だと思った。
ぴちょん、ぴちょん。
額を打つ規則的な刺激。ぬるりとした感触は額からこめかみをつたって、耳に流れる。その重たげな軌跡から水よりも粘度の高い液体である事が分かった。金錆びた匂いが、鼻孔をくすぐる。
血。
不思議と、恐怖も嫌悪もなかった。いや、むしろその逆だ。
血は、暖かくまだ人体の温もりを留めていて、触れた箇所からその温もりが染み入ってくる。皮膚をとおして、その血を流した者の体温や脈拍まで伝わってくるような、奇妙な、だが鮮明な感覚。
ナリタカは、ゆっくりと目を開けた。
橙色の光の群が飛び込んでくる。周囲の明度に慣れ、ぼやけた視界が少しづつ戻っていく過程で、それが松明の炎なのだと知る。久しく目にする事のなかった類の炎だ。
自分を囲むようにめぐる松明の円陣。床をつたい絡まる不思議な紋様。だが、それを疑問に思い、いぶかしむ程にはナリタカの意識は覚醒していなかった。まどろみの抜けきらないまま、ナリタカは体を起こした。
血は上方から滴り落ちていた。のろのろと視線を上げると、白い腕があった。その肌を裂いて走る傷口にはいまだ剣の刃があてがわれており、流血は止まっていない。
血。白い腕。白い服。黒い髪。上へ上へと視線でたどり、その顔に到達した所で止まった。
碧の眼。瞳孔を凝縮させ、食い入るようにナリタカを見ていた。
「…お前は」
かすれた声。変声期前の少年のような中性的な声だが、その長い髪と男にしては整いすぎた顔が相手の性別を表している。
はじめて見る他人の筈なのに、なぜだか、ひどく身近に感じられた。
「お前は……何だ」
その問いの意味と、少女の驚愕の訳を計りかねて、ナリタカは呆然と相手を見返した。
血と刃物と少女の存在が、ナリタカの眠気を駆逐していった。どこかの民族衣装のような珍妙な格好をして、自分の腕を刃物で傷つけている異国の少女。
それだけでも理解の範疇を十分に超えている。加えて、少女の台詞と疑念に満ち満ちた目がナリタカを戸惑わせた。他人に対して物を尋ねる際の礼儀はともかく、普通、人は人に、お前は何だという風には問わないだろう。
「招獣……なのか?」
単語の意味が分からず、ナリタカは痴呆のように相手を見返した。
「私の言葉が分かるか?」
「………」
頷いた。
「…そうか」吐息は重い。「お前は、その……人間、ではないのであろうな」
訝しげな視線を返すと、少女はゆるくかぶりを振った。いや、いい。そう言い捨てて目線を伏せる。困惑はナリタカだけのものではないようだった。
あの、と遠慮がちに沈黙を破ったのはナリタカの方だった。
「怪我…大丈夫ですか?」
少女は目線を跳ね上げてナリタカを凝視する。驚きも新たに、もの珍しいものでも見るかのような目。まるでナリタカが声を発した事それ自体がさも驚くべき事であるかのような。
「…血が」
そういって、またも遠慮がちに手を伸ばす。冷たく、滑らかな皮膚を指の腹に感じるや否や、びくりと相手が後ずさり、拍子に短剣がその手を離れて宙を舞った。
金属製の音が静寂に響き渡り、床に描かれた幾何学的な紋様が少女の足下で乱れた。
刹那、全てがぶれた。
松明の炎も、床の紋様も、仄かな暗闇も、ナリタカを映す碧眼も。視界が引き伸ばされ、細くなり、長くなり、やがては線となって消失した。
ナリタカと共に。
「・・・消えた?」
嵐の後の静けさ。沈黙にシンハの声が落ちた。
松明の炎は全て吹き消えて部屋の隅に灯る獣脂の明り取りが、ほの暗く室内を照らしているばかりだ。方陣の紋様は跡形もなく崩れて、その中央にあった少年の姿も今はない。皮膚に残る衝撃波の余韻が今しがたの出来事が現実であったことを物語っている。
「イリューシャ様っ」
術中は何が起ころうと介入するなとイリューシャは言いおいてあったのだが、これは彼女自身にも想定外の状況だった。支え起こそうとするシンハの手にも気付かず、空っぽの方陣を一心不乱に睨みつける。
「・・・私のミスだ」
荒い呼吸の下でイリューシャは言った。
「・・・あれしきの事で!」
悔恨に満ちた呪詛を呟き、イリューシャは拳を地面に叩きつけた。方陣を描いていた粉末状のものが衝撃で舞い上がる。
「たかが、あんな事くらいで、集中力を乱すとは」
方陣を足で踏みにじってしまったのは、ほんのきっかけ、言わばほころびに過ぎない。方陣や神言や種々の儀式はあくまでも術の補強に他ならなく、術は本来、術者の資質と精神力による。集中力さえ途切れなければ、術を破綻させるには至らなかった筈だ。
だからこそ、この結果は言い訳の余地なく術者自身が、イリューシャが招いたものだ。想定外の状況であり、確かに虚をつかれたが、術の中途で精神の集中を乱すなど初歩中の初歩、素人のやる失敗だ。正式に魔道を学んだ者のする事ではない。
招獣の召還に現れたのは人間だった。
少なくとも外見は人間にしか見えなかった。なお、解せない事に子供・・・少年と言えばいいのか。イリューシャ自身とさして変わらない年齢。せいぜい十三、四の少年だ。
人間の姿をして、人間のように言葉を発す。その戸惑った表情。気遣うような眼差し。伸ばされた手・・・・
目を閉じる。落ち着け。自分自身にそう言い聞かせる。
「・・・ひとがた、か」
ひとがた―――人型。
そうだ。そうに違いない。
招獣に定型はない。カーライルのものは鳥形だし、他にも獅子や竜を思わせる招獣の例がある。人の形をしたものがあってもおかしくはない筈だ。
「あれは、おそらく、人型の招獣だ。人間ではない。それだけは、分かる」
「いましがたの、少年がですか?」
信じられない、といった表情だ。イリューシャは眉根を寄せる。信じがたいのはイリューシャとて同じだ。
「・・・人間であるならば、この世界の者であるならば、相応の匂いがする。あれは兄上の『焔』と同じ匂いがした。この世のものとは、一線を画する異質な・・・異界の匂い、とでもいおうか」
魔道の才を多少なりとも磨いた者ならば、誰もが感じるはずだ。初めて異母兄の 招獣に会った時と同等の違和感。感じた事のない空気。その感覚を知らぬ者ならば、招獣に結びつける事はないかもしれないが、自分は既にそれを経験している。
「だから、あれは人間の姿をした招獣・・・そう、解釈するしかない」
自分自身に言い聞かせるような口調だった。
虚脱感が波のように襲う。あれがもし招獣であったとすれば、自分は千歳一隅の機会を逃したことになる。あともう一歩という所までようやく漕ぎつけたというのに、事もあろうに己の失態で全てをふいにしてしまうとは。
ともすれば小刻みに震える腕を睨みやり、イリューシャは拳を握り締めた。さらに力を込めると、震えは止まった。
この疲労、何かがごっそりと体から抜き取られたような、今も抜き取られ続けているような感覚は失血のせいか、それとも禁術の代償か。そうでなくとも招獣は術者の生命力を奪う。召還するだけならいざ知らず、禁術まで使って寿命まで縮めたのだから、相応の負担が体にかかったのだろう。もっとも仮に召還を成功したところで、主人の精を糧とする招獣を使役する限り、生命力は奪われ続けるわけなのだが・・・
そこで、一つの可能性に突き当たって、イリューシャは戦慄した。
招獣を使役する限り、生命力は奪われ続ける?
招獣を使役する限り・・・招獣がいる限り・・・
その可能性にたどり着いた時、イリューシャは動悸が早くなるのを自覚した。
しばし目を閉じて動揺が収まるのを待った。息を長く吸って、長く吐く。心を平らに、感覚を研ぎ澄ます。どんな魔道にも通じる心得だ。
「・・・・感じる・・・やはり、感じる。つながっている・・・」
声は興奮を隠しきれてはいなかった。イリューシャは逸る心を押し留めつつ、さらに集中を深める。
微細な波動。それは、か細い糸に似ていた。
自分と相手を繋ぐ糸を掬い取り、手繰り寄せる。
そして―――
「とにかくも、今は御安静に。魔術がどれほど術者の体を消耗させるのかは存じませんが、今のイリューシャ様には明らかに休息が必要です」
「・・・じゃない」
イリューシャは手当てを施すシンハの腕を振り払い、立ち上がる。真新しい包帯が床を転々と舞った。
「術は失敗していない」
「どういう事ですか?」
「あれはまだこの世界にいる・・・しかも、すぐそこに」