第十話 擾乱 (1)
「ちょっと待ってください!」
ナリタカは叫んだ。
「何を待つ? 待てばお前が今よりも招獣らしくなるとでも言うのか?」
「そういう事じゃなくて……剣を習うのはともかく、相手があなたというのは、その…」
万が一にでも女子の体に傷をつけたとあっては責任問題だ。たとえ相手が好意などいだきようのない鼻持ちならない相手であったとしても、それとこれとは別問題のはずである。
しかし皇女は意外な事でも聞いたという風に、ナリタカの反応をせせら笑った。
「習う? 何を勘違いしている。これは剣術指南などではない。立会いでお前の力を試してやると言っているんだ。私がなぜ、お前に手取り足取り剣の指導をしてやらねばならん」
「……だったら尚更のこと。もしあなたが怪我でもしたら」
どんな目に合わされるか……という事もあるが。
武器はおろか包丁さえ振るったことのないナリタカが真剣をあつかえば、力加減も何もあった話ではない。
銃の扱い方を知らない素人が、あやまって人を撃ってしまう……というようなことが起こらないとも限らない。相手がその道をきわめた達人ならまだしも、目の前にいる人間がいくら剣の鍛錬をつんでいたとしても十代半ばの女の子であり、またその自己申告は『二流』なのだから。
「その、正直な話、女性相手に剣をふるうのには抵抗があります」
「女だから、ね」
イリューシャは苛立たしげに息をつき、かまえた剣先をわずかに下げた。
「お前は虫を踏みつぶすとき、それがメスかオスか考えるか?」
「は?」
「つまりはそういう事だ。招獣は人間ではない。どころかこの世界の存在ですらない。お前と私は異なる種族系統に属するものだ。なら、その獣が、さかしらに人間の女を『女性』などと語ったりするな。招獣らしくない以前の問題だ。虫唾がはしる」
おそろしく奇怪な論理によって、ナリタカは侮辱された。
「あの、だから僕は招獣じゃないと……」
一度聞いた事は覚えているといったのはどこの誰だ?
「お前の泣き言にはもう聞きあきた。私に刃を向けられないというなら、そのまま突っ立っていろ。出血多量の致死量も人間と同じかどうか調べてみようじゃないか」
皇女は剣を構えなおす。立ち居地がわずかに前のめる。体重がかかる。踏み切る。
「ちょっ――」
ギィィンと鈍い音が至近距離にはじけた。
一瞬にして距離をつめ、ナリタカを襲った皇女の剣撃。
めっくらぼうに剣を鞘ごと顔の前に押し出し、大上段からの一撃をかろうじて受け止めたナリタカだったが、受け止める際に腰がひけて地面に膝をついてしまった。
彼我の膂力の差はわからないが、体重が乗っている分だけ上から押している皇女に分があった。
じょじょに鬩ぎあいで押し切られていく。剣の切っ先が、上からじりじりと眼前に迫ってくる。
「おいおい」
刃ごしに、ややあきれ気味の表情で皇女は言った。
「大上段からの大振りを真っ向から受けてどうするんだ? こういう時は、かわすか流すかだろう」
「だから剣は初めてだって言っ――」
その瞬間、一気に上からの圧力が消え、ナリタカは勢いあまって前につんのめった。
直後、くの字になった腹部をえぐるような衝撃がおそった。目の奥が真っ赤になり、呼吸が止まる。
ナリタカは吹っ飛んで、地面に転がった。
「…ぐっ……」
一瞬、意識が飛んでいたように思う。ナリタカの意識を呼び戻したものは、痛覚だった。
はらわたを太い火箸でえぐられるような痛み。全身の毛穴からぶわりと汗が吹きで、息することもままならない。痛みのあまり、そこいら中を転げまわった。
恐怖というよりは衝撃に、涙が流れた。何も見えない。
喉の奥、腹の底から逆流してくる暴力的なまでの衝動に、ナリタカはさらに深く体を折った。しかし三日間、飲まず食わずだった胃に内容物はのこっていない。
地面についた両手の先、咳き込み、むせ返りながら、ナリタカは胃液をまき散らした。
吐くだけ吐くと、ようやく視界が戻ってきた。ぼやけた世界の中心、ナリタカの鼻先にたたずむ皇女の両足。皮の長靴。
それを見て遅ればせら理解する。そうだ。この長靴だ。
無防備だった腹にえぐった容赦ない蹴りが、ナリタカを地面に沈めた。
「胃液を吐いたか……我が招獣殿も人と同様、胃の中に酸を隠し持っているらしい……良かったな。これでお前の、自分はただの人だという主張の根拠が、またひとつ増したわけだ」
首筋に刃がおりてくる。
首に巻かれた包帯に、ぴりと鋭利な感覚が食い込み、新たな血でナリタカの首筋を汚した。
「立て、ナリタカ」
ナリタカの喉に刃をつきつけたまま平坦な声が再度命じる。
「立って剣をとれ」
「いやだ。僕には出来ない」
そうだ。無理に決まっている。土台むりな話なんだ。武器をとって戦うなんて芸当、僕に出来るはずもないじゃないか。
「なぜやってみる前から、そう分かる?」
でも本気になって試して、それでも駄目だったら? しゃにむに頑張った勉強でも、やはり母を失望させてしまったように。自分をさらけ出し、出し尽くしたその後で、全否定されるのはつらすぎる。
自衛に閉ざされた心は、もう二度とは同じ傷をつけられまいと殻を固くする。
「無理なんだ」
「立たなければ、このまま首を落とすまでだ。実戦でもないお遊びの立ち会いで死ぬような招獣ならハナから生かしておく価値もない。ましてや、真剣が怖くて持てない招獣など話にもならん。それともお前は自分が『大事な招獣』だからと、こちらが甘く出るとでも期待していたか?」
期待などしていない。彼女の言う招獣がどんな代物であれ、それは自分ではない。なぜなら、自分は誰かに望まれるような存在ではない。
口腔から地面にむかって垂れ下がる唾液と胃液の混合物をナリタカは見つめる。
「……気に入らないなら、このまま殺せばいい。どうせこんな命、死んで当然だったんだ。惜しくなんかない」
ぎゅっと目をつむる。怯えるな。震えるな。惑うな。自分自身に言い聞かせる。この期におよんで動じたりするな。
ずっと前にくるべきだったものが、少し遅れてやってきただけの話だ。一度は通った道をまた通るだけだ。だから……
「なるほどね。命が惜しくない、か。それがお前が死を恐れない本当の理由か?」
首筋の刃がまた少し食い込み、ナリタカの首筋を赤く汚した。
肌が粟立ち、生理的な嫌悪に体がこわばる。抑えようとすればするほど、体が震えだす。己自身のていたらくに泣きたくなる。
「……哀れだな」
一度は死んだ身なのに、怯えるなんて変だ。傷つくなんて変だ。
「お前は弱い。剣技がどうだという話じゃない。ただどうしようもなく弱い。招獣以前の問題として」
ナリタカは唇を噛む。
もし殺すというのなら、なぜ一思いに殺してくれない? どうでもいい会話を、分かりきった事実の確認を、惨めな自分自身を曝け出すことをナリタカに迫る?
「お前はなにも人を傷つけるのが怖い訳ではない。なにか、それ以前のところでお前は怯えている。武器が扱えないとか剣技が下手だとか、そういう段階の話ですらない」
「……」
「死を恐れぬと言いつつ、剣を持たせれば腰が引ける。自分は無理矢理つれてこられたとばかりに被害者面をする割に、不平不満を垂れ流すのだけは一人前。いまだって、首に刃をつきつられて震えているくせに命が惜しくないと虚勢をはる。お前の言動は矛盾だらけだ」
皇女の一言一言は、遠慮呵責なくナリタカの傷に押し入り、その中心に爪をたてる。
「死ぬのが怖くない、か。それはそうだろうな。生きることを投げた者に、死ぬ事など出来るはずもない」
ーーえぐられる。
知らず、指がかぎ爪の形をとって地面を掻いた。
「……る、さい」
「お前は何も死ぬのが怖くないわけではない。ただ――」
「うるさいっ!」
叫び、頭上を振り仰ぐと、静かに自分を見下ろす碧の瞳があった。
「ただ生きるのが怖いだけだ」
「あんたにっ……!」
心が、ばらばらになっていく。自分という人間が丸ごとさらけ出され、千々に破れていくような狂騒。
なのにその諸悪の根源である皇女は、そよとも揺らがないまっすぐな瞳でナリタカを見下ろしているのだ。
「あんたに何が分かる? 僕の何が分かる? あんたはいいよなっ! 仮にも皇女さまだ。左団扇の王侯貴族、こんなどでかい屋敷に住んで大勢の人間にかしづかれ、もてはやされて暮らしをしてきた人間に僕の気持ちが分かってたまるか!? 何一つ不自由なく育ってきた、あんたなんかにっ」
「……何不自由なく、か」
自嘲気味に笑みを刻む皇女を、ナリタカはキッと睨みあげる。違うとでもいうのか。
「そうさ。あなたは恵まれている。恵まれすぎている。身分とか財産とか、そういうことだけじゃない。あなたは……僕とは違う」
資質、才能、地位。そして、心の強さも。何もかもが残酷なほどに違う。皇女は“持っている”側の人間だ。彼女を見てると兄を思い出す。その背中を追いかけていた頃の苦しさを思い出す。
「不公平じゃないか。僕だって、あなたみたいだったら、こんな風にはならなかった」
劣等感も嫉妬も、もう隠さない。自分を飾る必要などない。醜いもの全部さらけ出して、目の前の人間に叩き付けてやればいい。
「努力しても努力しても、なお届かなかい事があるなんて気づかずにすんだ。誰かに嫉妬することなんかなかった。こんな惨めな気持ち、こんな醜い自分、知らずにすんだ」
怒鳴り声が途中から嗚咽へと代わり、ナリタカの頬を熱い液体で濡らした。
「一体お前がなんの事を話しているのか良く分からないが……」皇女は浅く息をついた。「そんな風に自分を哀れんでみせても状況は良くなりはしない」
慰めるでもなく責めるでもないその言い様は、いっそうナリタカを苛立たせた。
皇女は地べたに這いつくばったナリタカを見ているだけなのだ。立ち上がらせるために手を伸ばしてもくれなければ、切り捨ててもくれない。
「それに"届かない”と判断して諦めたのはお前ではないのか? 届かなかったと結論を下すことが出来るのは、死ぬまでその目標のために誠心したものだけだ」
「……死ぬまで、だって?」
胃の腑の底から暴力的なまでの笑いの衝動が突き上げてくる。ナリタカはそれにあらがわなかった。
声をはなって笑う。今はそうする事に快感を覚えた。いままでさんざん溜め込み、くすぶらせてきた鬱屈を外界に向けて解放する、かつてないほどの爽快感。
「何がおかしい?」
そうだ。何もかも、ぶちまけてやればいい。一切合切を叩きつけて修復不可能にしてしまえばいい。終わりにしてしまえばいい。この皇女との関係性もこの堂々巡りの葛藤も、全部。
「皇女さま、僕は一度死んでいるんですよ。いやもしかしたら今だって死んでいるのかもしれない。だって僕は自殺したんだから」
「自殺?」
いぶかし気な問いに、ナリタカは嬉々としてうなずいた。
「ええそうです。終わりにしてやったんです。人生とか目的とか、届くとか届かないとか……」
劣等と無力。臆病と狡猾。酷薄、姑息、卑劣……自分を表す二字熟語にはナリタカはことかかない。
それらはいまやナリタカを表す記号であり、ナリタカという人格を構成する部分である。しかしその全ては……自分という個人のアイデンティティは、あの日の行為に集約され、“あいつ”の視線によって表しつくされてしまった気がする。
ナリタカの行為に怒るでもなく、ののしるでもなく、ただただ哀れみだけを宿した、あの眼差し。ナリタカに己のおかした罪の重さを、その醜悪さを思い知らせた。自分のような人間に価値はないと理解させた。
「そういうの全部っ、終わりにしてやったんだ……ざまぁみろだ!」
いい終え肩で息をする。涙がとめどもなく流れて頬をつたい落ちていった。
「終わりにしたはずだったのに、あなたが……」
冷えた汗が体と心を冷ましていく。
「どうしてあなたは僕なんかを呼んだんだ。あなたが僕を呼んだから、だから僕は……」
うつむき、消えいるようにささやくナリタカから皇女は剣を下ろした。
「ナリタカ、私は――」
その続きの言葉を皇女が言うことも、ナリタカが聞く事もなかった。
「イリューシャ様っ!」
叫び、まろぶように駈けてきた侍女アリシアが異変の到来を告げた。
「大変ですっ! 正門にっ、正門に武装した市民が大挙しておしかけてきています」
擾乱ー 騒乱。あるいは事件などが起こって、社会、国などの秩序がみだれること。