第九話 無能 (1)
朝。鳥の囀り。顔を打つ朝光、肌を撫でていく清風。
眠りについていた自我の覚醒。夢の中に埋没していた自己という存在の認識に、今日もまた追いつかれる。
朝。
夢の終わり。一日の始まり。長い長い、一日の始まり。
ナリタカは目を開けた。
頭上には、見慣れた長方形の天井の代わりに、白地の布がかかっていた。視線を横にやると、柔らかい肌触りの布団の向こうに厳かに裾をなびかせる紗のカーテン……自分が天蓋つきのベッドに寝ているのだと気付くまで数秒かかった。
…ああ、そうか。
ナリタカは上半身を起こし、きしむ寝台から這い出した。
窓から吹き入る清涼な朝の空気が、寝汗をかいたナリタカの体に染み、ナリタカは誘われるように窓辺へと歩みよる。
窓枠にもたれかかり、朝の光に照らし出される眺望を眼下に発見して、ナリタカは小さく息を呑み、起き抜けの目を細めた。
白くきらめく波頭が眩しい港町…ギリシアの町並みはこんなだろうか。
地中海を思わせる白くて四角い感じの家々が連なり、港には帆船が幾艘も停泊がしている。右手には小高い丘の上に、他と一線を画する幾何学的な巨大建造物があり、何らかの宗教施設のような趣を呈していた。
(昨晩のアレは夢じゃなかったんだな)
それが喜ぶべき事なのか悲しむべき事なのか分からず、ナリタカはただ唇の端を自嘲に歪めた。
考えてみれば昨日から、こればかりだ。
窓を見てはここが異世界である事を再確認する。
だが今回ばかりは……異世界の印を発見する事は出来なかった。昨晩ナリタカに異世界であ る事を照明して見せた巨大な月は、いまは姿形もない。代わりにあるのは太陽だ。少なくとも太陽に類似した物体が、見慣れぬ町並みを燦々と照らしていた。
月と違ってこの太陽は、ナリタカの想像する太陽とさして違って見えない。丸くて明るくて、直視すれば失明しそうなほど眩しい。
しかし太陽は変わらないが、世界はナリタカの知っているものではない。眼下に広がる光景は寝る前に見た夜景を昼に置き換えただけのようだった。
―――夢じゃなかった。
落胆とも安堵ともつかぬ感情が、胸を撫で落ちていった。
元の世界――まだそう呼ぶには抵抗を感じるが――から突然こんな場所に連れて来られたというのに、自分は悲しむことも出来なければ、喜ぶこともできない。
元いた場所に帰りたいと思うこともなければ、眼前に広がる未知の世界に対する興味ももてない。ただ何か厄介ごとに巻き込まれたような倦怠感があるだけだ。
そんな自分がひどく空虚でつまらない人間に感じられて、心にのしかかった倦怠がいや増した。
その時だった。
突然背後から降って沸いた声に、ナリタカの思考は遮られた。
「どうやら招獣というのは、窓辺にすり寄っては、たそがれる習性があるらしいな」
振り向くまでもなく知っていた。
そこに立っているのは、今自分がここでこうしている全ての元凶にして、自分の『主人』であるところのイリューシャ・フォン・リーエンヴァイン皇女その人に違いなかった。
■ ■ ■
いつの間にか部屋に入ってきた皇女は、腕を組んで柱にもたれかかっている。
一体いつからそうして観察していたのか。入ってきたなら入ってきたで、声をかけるのが最低限の礼儀というものではないのだろうか。
ナリタカの無言の非難に気付いているのか、いないのか、イリューシャ皇女は、相変わらずの傍若無人ぶりを披露する。
「扉の開く音にも気付かないとは、耳に問題でもあるのか? 今度、医者に診てもらう事としよう」
なるほど。彼女が主人で自分がその飼い犬である以上、人間に払うような礼儀は必要ないという事か。
「随分とお早いお目覚めだな。どうだ? よく眠れたか?」
「……別に。悪くはありませんでしたよ。囚われの身としては」
卑屈な嫌味で答えると、皇女殿下サマは唇の端で笑った。姫君というよりは、喰えない悪役の表情だ。
なんだろう。この違和感は。
そも、お姫様などという人種は、絹のドレスとか高い宝石とかで身を飾って、スプーンより重たいものを持った事はありませんという顔をしているものではないか。そう、男の庇護欲をかきたてるような。
しかし目の前の皇女はあらゆる面で、そのナリタカ的ステレオタイプを裏切っている。まず、民族衣装のようなその服装だが、スカートではなく、どちらかといえば身軽そうなパンツであり、絹のように光沢のある素材ではない。
それにナリタカにあてがわれたものと形状的にそう違わない点を考えると、彼女が男物を着ているか、ナリタカが女物を着ているか、そもそもここいらでは服装による性別の差別化があまり進んでいないのかの三点に絞られてくる。
第二に、銀のさじをくわえて生まれて来た筈の姫君の腰には、細身ながらも装飾を排した剣がぶらさがっている。おてんば姫の洒落っ気とも解釈できるが、すくなくともスプーンよりは重たいことは確かだ。
第三に、自分を監禁だか軟禁だかしている人間に庇護欲を感じるほどの包容力など、残念ながらナリタカは持ち合わせていない。
「少しは、落ち着いたように見える。大した進歩だ。それとも開き直っただけか? いずれにせよ、泣いたりわめいたりされるよりは、こちらとしても話やすい。結構な話だ。三日の眠りは伊達ではなかったか」
「三日?」驚いた。「…まさか、あれから三日も立ってるんですか?」
「その様子を見ると、我が招獣殿の世界でも、少々ながい睡眠時間であったようだな。このまま半年も一年も眠ったままでいられたら、どうしようかと心配していた所だ」
三日間も自分は眠っていたというのか?道理で体に力が入らない筈だ。
「時にナリタカ、お前には山と聞きたい事がある。お前にしてもそれは同様だろう。順々に説明するとして、先に一つだけ言っておく」
ナリタカは無言でその先を待った。それに従順と解釈したのか、皇女は言葉をつなげる。
「私が命ずる事に関して、お前に拒絶する権利はない。私はお前の主人であり、お前は私の所有物だからだ。衣食住に留まらず、お前がそうして息をしていられる事さえ、私の保護下にあるからだという事を忘れるな」
保護…ものはいいようだとナリタカは思った。果たして、誘拐犯が攫って来た被害者に食費がかさむと恩を着せるのと、一体どれだけの違いがあるだろう。
「逆らえば、命の保証はしないとでも?」
ふと思いついたことを聞いてみる。
「良く分かっているじゃないか」
どこまで本気なのか、いまいち読めない表情で彼女は言った。
前言は撤回しなければならない。「喰えない悪役の表情」ではなく、むしろ正真正銘、喰えない悪役だ。
一目惚れされてもおかしくない外見と、百年の恋も冷める中身。そう例えれば多少かわいくも聞こえるが、実物を前にして、そんな境地には立てる人間は一握りだろう。少なくとも、それが自分ではない事は確かだった。
「お前に招獣としての適性が認められなかった場合も、それは同様だ。能力を隠したり、出し惜しみするのなら、その辺をよく吟味してからにしておけ」
ナリタカは肩をすくめた。
「…火を噴いたり、魔法を使って空を飛ぶのが能力だというのなら、僕はまごうことなき無能力者です」
無能。
自分の放った言葉の響きに触発されてナリタカは笑った。
言及されている『能力』の種類こそ違えども、こんな所に来てまで『能力』を求められ、変わらずに失望でしか報いることが出来ない自分が、なんだかおかしかった。