第八話 共犯 (2)
カトルは自分が触れてはいけないものに触れた事を知った。
はじめて見る皇女の碧眼に気おされて後ずさり、我知らず首を振った。
「そういう意味では−ーー」
「残念だ。私は少々お前を買いかぶっていたらしい。それとも何か? そういう風に人の心理を手前勝手に推し量り、型に押し込め理解した気になれば、お前にとってこの事態は少しでも受け入れやすくなるのか? お前自身のした事も? 忘れたわけではあるまい。私に道具を与えたのはお前だ。まさか自分が一方的に利用されたと思っているだけでもないだろう?」
カトルは両の拳を握りしめる。知っている。分かっている。だから、ここにいるのだ。そもそもの始め、自分が越権を犯しさえしなければ、犯し続ける事を選びさえしなければ、いや皇女に訳文を渡しさえしなければ……
皇女の手前勝手な詭弁を受け入れる意味ではないが、彼女の言った事を否定しきれないのも、また事実。罪はカトルにもある。
「なぜ鈴をつけるくらいなら、はじめから私に訳文を渡した? 信用していないというのなら、なぜ文書のみでは埋めきれぬ細部の技術的知識まで、望まれるままに私に与えた?…知らぬというのなら教えてやろうか?私がいま禁術の事を知ったお前を前に、どうしてこれほど安心していられるのか。その訳を」
カトルの怯みに付け入るように、えぐり込むように皇女は言った。一言一言手応えを確かめるように。
皇女の言葉は的確にカトルの間隙に押し入り、その内部をかき乱した。絞り出すように口を開いた。
「…私達は、共犯者だと?」
「むろん、それもそうだ。私のした事をお前が告発出来ない理由の一つは、そうすれば必然的にお前自身のした事も告白せざるをえないという事。言い換えれば保身の心理」
だが本当の理由は、と皇女は立ち上がりカトルに歩み寄った。小刻みに震える肩に手をかけ、視線をそらそうとするカトルを覗き込む。
「本当の理由は別のところにある。お前は単にあの文書に書かれていた禁術を実際に試したくて仕方がなかったんだ。理論は理論。いくら本に書いている事に信憑性があろうが実地の試験結果がなければ、そんなものは、しょせん絵物語に過ぎない。断言出来るよ、カトル。私がやらなければ、お前は自らを実験体にしていた。お前はただ知りたくて知りたくて仕方がしなかたんだ。違うか?」
「それは違いますっ」
「いや違わない」
突き刺すような碧の視線が、カトルに踏み込む。
「知ってるよ、カトル。お前にとって、それこそが全てだという事を。純粋な好奇心。知識欲。真実への志向。好きなように呼べばいい…いくら理性が声高に危険性を訴えても、お前にとって知りたいという衝動の前には、どのような倫理も道徳も色あせてしまう。良心の呵責に苛まされようと我が身の破滅を招こうと、お前が取るものはいつだって同じだ。富も名声も、地位も信頼も人の命も、その神聖な欲望の足下にはいとも容易く、ぬかずいてしまう」
「違う!」
違う。確かに、自分は過ちを犯した。だが明確な意思があって渡したわけじゃない。こうなる事など分かる筈もない。皇女がここまでするなど誰が予想できた?
だが本当に? こうなる事を夢想だにしなかった、そう本当に言い切れるのか?
自分は本当に彼女がそうする筈はないと思っていたのか?
才知と美貌に輝く、天に一物も二物も与えられた幸せなラトギアの第一皇女。その闊達な笑顔、明晰な頭脳と軽妙な話し振り、きさくな人柄はカトルの羨望だった。
だがいま自分の面前で牙をむく飢えた碧の目はどうだ。自分にはこれがずっと見えていなかったと? 今の今まで見逃していた?
理知的な瞳の底に熾火のように燃える、底暗い情念の炎。
これに気付かなかったと?
「しょせん私達は同じ穴のムジナだ。私がお前を利用したように、お前も私を利用した」
「そうではありません。私は、ただ、ただ……」
皇女の言葉に盛られた毒は、確実にカトルに入り込み蝕んでいった。抗おうとした。必死に反論を探した。
だが、どこをどう探しても自分自身を納得させうるどんな答えも見つかりはしなかった。
「そうだ。お前は、ただ知りたかった。知りたいだけだった。だが恥じる事はない。欺瞞は大切だ。人は誰しも自らの良心と折り合いをつけねば生きてはゆけぬ。ただ、これだけは忘れるな。お前はすでに家族を捨て禁を犯した人間だ。私に禁術を使わせた結果産まれた潜在的な危険に多くを負う身だ。どのみち選ぶ道が同じなら、なぜ迷う? 苦しむ? 苦しもうが苦しむまいがお前の取る道はいつだって同じだったのに」
カトルは目を瞑った。
息のかかるほどの距離に、碧の目をした魔物がいる。彼女は傲慢で貪欲で孤独で、そしてそれだけに自分の欲求に忠実だ。
自分と周りを傷つける事をいとわない覚悟は、その一方で哀れなほどに一途であり、その無惨さがカトルに染みた。
そこにいたのは、ある意味もっとも正直なカトル・マルグーだった。目的のためなら結局は全ての事を犠牲にする。
誰を巻き込もうと何を失おうと、本能のままにひた走る貪婪な怪物はカトルの中にもいた。
そうだ。自分もまた当の昔にその怪物に捕われていたのだろう。
泣いて引き止める妹も、取りすがる病床の母も、暴力に頼って自分を行かせまいとしたのんだくれの父も、自分は振りほどいた。彼等の末路は見えすぎるほど見えていたのに。
それから七年。ようやく仕送りが出来る程度の身分は得たが、とうの昔に母は死んでいたし、父は母が死んでから間もなく自殺したと聞く。
残された妹は娼館で働いていた。変わり果てた妹を前に何も言えなかったカトルに、彼女は七年分の恨みをぶつけんばかりに罵詈雑言をつくした。
何もかも、あんたのせいよ。どの面さげて私に会いに来れたの。そう叫んでカトルの胸につかみかかった。
胸元も露な娼婦の衣装、安手の装飾品、どぎつい化粧、やつれた顔、明け透けな口調。
胸を打つ彼女の拳よりもそれらの方がより痛かった。結局カトルは彼女が要求した、たった一つのもの、『金』を与え、去った。二度と会いたくない、だけれども仕送りだけはしろ、そういった彼女の言葉を現在まで忠実に守りながら。
自分と皇女は同類だ。違いは自分はその怪物から目をそらし続けているというだけで。
「第一、こんな下らない事を長々と話すために、私に会い来たわけじゃないだろう?お前は、私の寿命や動機の事を心配するために、ここまで来たわけじゃない。お前はただ結果を質しに来ただけだ。私という実験体を観察し、術の成否を問い質しにきただけだ」
彼女と話していると、自分が目をそらし続けてきた事を鼻先に突きつけられる。道徳心や耳障りのいい言葉の影にいた本当の自分。その誘惑の手招き。甘い、言葉。
「……召還は成功したよ。現れたのは一風変わった招獣だ。禁術を使った影響かも知れない」
禁術を使って成功した招獣の技。
不謹慎とそしられても仕方がない。この期に及んで胸を踊らせている自分。
矢継ぎ早に繰り出したい質問の嵐を、かろうじて理性がおさえつけている。
その問いが保身の為ならば、こうまで罪悪感は覚えない。ごく自然に、ためらいもなく口にしていたに違いない。
だが気付いてしまかった。その問いこそが、答えそのものこそが自分の目的だったのだと。
いちど誘惑に負けてしまえば、きっともう止まらない。
「どうした? 顔色が悪いぞ。お前が聞きたくないというのなら、こちらも無理には話さない。どちらにしろ、そろそろ私は行かねばならない」
「そんな、一方的にっ、馬鹿を言わないでください。貴女のおっしゃることはともかく、話はまだすんでいない」
そうとも。まだ何も解決していない。
カトルの個人的な理由はさておき、今こんな風に尻切れ蜻蛉に放り出してしまえるような問題ではない。話し合う必要性があるのは確かだ。
「私も出立の準備や挨拶周りやらと、多忙の身だ。もう少しお前と別れを惜しみたいところが残念ながら、そうもゆかぬ。もしどうしても続きが聞きたいというのならラトギアまで私を訪うといい」
数秒の間、カトルは自分の耳を疑った。皇女の意味ありげな笑みが理解の後押しをする。
「……つまり、私にベルグを…祖国を捨てて貴女に仕えろと、そういう事ですか」
異物感が喉を塞いだ。
自分は今日まで、随分と愚かな思い違いをしていたらしい。
それまで自分と彼女の間にあったと思っていた信頼関係。それ自体がただの勘違いでしかなかったと良く思い知らされた。
そして今その関係に完全な終止符がつけられ、新たな関係を結ぶかどうかの選択肢をつきつけられている。選ぶのはお前なのだと。
「お前の祖国はベルグではなくベルグに体現される『知の殿堂』の方だろう? ベルグほどでないにしろ、ラトギアにも相応の設備や人材はある。決して退屈はしないだろう」
「あなたという人は……」
「ではカトル、再会を心待ちにしている」
皇女は踵を返し一方的に会話の終わりをつげた。
カトルを置き去りにする規則的な足音は、まっすぐ礼拝堂の扉に向かっていく。
これより先はお前次第だと、そういっている。
共犯者としての関係を受け入れるも受け入れないも、国を捨てるも捨てないも、カトル自身の問題なのだと。
カトルは遠のいていく背中を睨みすえて、声を張り上げた。
「大した自信です。それが過信でないと、本気で私が貴女の元へ行くと、そう思ってらっしゃるのですか?」
皇女の足が止まった。半身を返し、笑う。
「むろん無理強いはしない。私は個人の自由意志を尊重する平和主義者だ。だが……」
確信が、その笑みを彩る。
「お前は来るよ。絶対に」
扉の向こうに皇女の姿が消え、カトルは礼拝堂に取り残された。