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第六話 司書 (1)

 

 カトル・マルグーは夜が明けるのをまんじりともせずに、待った。

 本当は夜の内に、飛んでいきたいぐらいだったが、王族でも貴族でもない自分が皇族の屋敷に単身馬を乗り付けて、番衛に取り合ってもらえるとも思えなかった。

 そもそもの面会を求める理由じたい、声高に言える種類のものではなかったし、嘘八百をでっち上げるには、彼の性格は少々、生真面目すぎた。それに、彼とて自分の懸念に確信があったわけではない。

 まだ、赤味の抜けきらぬ朝の光が、寄宿舎の窓を透過して、卓の上に無造作に投げ出された文書を照らしだしていた。カトルは近寄って、その百五十頁あまりの厚みを手に取った。その重みに、彼は溜め息を漏らした。

 それは、彼が半年かけて、セル語に翻訳した、古文書の訳文だった。

 原書は文書館の奥深く、特級の閲覧許可がいる一画に秘蔵されている。そこに納められた文書の数々は、持ち出し禁止は勿論のこと、複写も禁じられており、閲覧にはベルグ王家の許可がいる。文書館の大移動がなければ、到底、一介の司書であるカトルなぞが、その本を眼にすることはなかったはずだ。

そして、そうであるべきだった。

 カトルは悔恨に苛まされていた。彼は司書としては決してやってはならない事をした。

 自分の立場と権限を著しく逸脱したばかりでなく、それが明るみにでた暁には、カトルも、またもう一人の共犯者も、どんな処罰を受けるか知れたものではなかった。

 知的好奇心とは言わない。最初はただの偶然と、ささやかな好奇心からだった。それを人は悪魔の囁きと呼ぶのかもしれないが。

 旧文書館から新文書館へ、棚から棚へ、行き来する司書達の一人として、自分の腕の中に収まっている羊皮紙の山に、興味を覚えなかったといえば嘘になる。なにしろ、それらは普段は埃と沈黙と厳重な警護の中で、半世紀に一回来るか来ないかの来訪者を待ち続ける、ベルグ王家の至宝であった。

 持つ手も、震えようというものだ。

 計らずもその一冊を落としてしまった際の心情は、とても言葉には表せない。暫くそのまま硬直していたと思うが、いつまでたっても罵声が飛んでくることはなく、ようやくの事で周囲の様子を確認した。そして、安堵の溜め息をついた。

 文書館は大移動のため手狭で、しかも雑然と積まれた貴重な古書の壁が、上級司書や同輩の目からカトルとその失敗を隠してくれていた。

 胸をなで下ろした。見咎められる前に自分の失敗の痕跡を消すべく、カトルは床に這いつくばるようにして本を整えた。

 幸い、目に見えるような損壊は生じていなかった。祈るような気持ちで中身を確かめた。

 値段などつけようのない、貴重な古書なのだ。カトルとて、司書の端くれだ。バレなければ、いいという問題ではなかった。

 だが、今にして思えば、自分は、中を覗き見るという行為に、何らかの理由付けが必要だっただけなのかもしれない。禁忌を犯す口実を、自分が望んでいなかったとは言い切れない。

 表紙には、走り書きのような文字で何かが書きとめてあったが、インクが滲んでいて読めなかった。ソレ以外には、題も著者の名も、ない。

 心臓が、高鳴る。もう一度、辺りを見回して、人間の不在を確認した。

 埃の匂いのする書物を開けると、古代文字の羅列があった。慎重に、頁をめくる。指が震え、思うに任せなかった。

 ――――物質とエネルギーは、創られることも、壊されることもない。雨が地に落ち、川や地下水や海を造り、やがては蒸発して空に返り、雲を構成し、やがては大地へと帰ってくるように、万物は循環する。

 魔道とは、すなわち物質からエネルギーを抽出し、その形を変えて、効率的かつ我々の役に立つように導く技にすぎない。丁度、水車が川の流れを槌の上下運動に変えて、粉をひくように。

 だが、もしエネルギーの総量が一定だというのなら、我々がしばしば経験するように、魔道において入力と出力のエネルギーが一致しないのはなぜか?

 この消えてしまうエネルギーの事仮に損失エネルギーと呼ぼう。

 一つのエネルギーを、他のエネルギーへと転換する際には、必ず損失が生じ、両者の差は熱や風などになって散逸し、失われてしまう。その際に生じる膨大な損失エネルギーは時に出力の数倍、時として数十倍に相当する。つまり、それだけのエネルギーを、我々が潜在的に活用しうる余地が残されているということである。

 もっとも、これは衆知の事であり、古の昔から術者達はいかにこの損失を少なくし、効率的にエネルギーを取り出すかを研究してきた。術中に置ける精神力の向上、微細なコントロール。技術面の魔道学において、これこそが一番研究されてきた分野だといっていい。

 しかし、と私は思う。転換の際の技術的なコントロールをいくら洗練させても、おのずから限界があるし、その面での研究はしつくされた感がある。いまや、考え直すべきは、そういった方法論そのものではないだろうか。

 ――――もし、一番慣れ親しんだエネルギーが、もっとも糧として効率的だと仮定するのならば、それは人間の生体エネルギーという事になる。その論法に従うのならば、必然的に、術者自身の命を糧とするのが、究極の変換効率を可能にするという推論が導かれる。

 ―――研究結果からは、被験者二十名の命から、中級術者が得た出力は、平均して人間を七人殺す程度のものであり、また重傷のものを癒すには最高で二人だった。

 ――――どのような術でも、成功率を飛躍的に高め、魔力の質、量、コントロールの不在を補うためには、自分自身の命を糧とするのが一番効率がいいという推論はここでも確認される。

 ここでいう、命とは一般的に術者が術を行使する際に消耗する体力のことではない。術の乱発による、身体的な影響、あるいは長期における健康の害も含まない。もっと、根源的な生命力の源の力である。我々の体内で静かに時を刻む、有機的な微小の構成要素、その内部に蓄えられた−−−―――しかし、これは、胡桃のように固い殻に守られていて、中の実を取り出すためには、まずこの殻を割る方法を見つけ出さねばならない。

 人間には自己防衛反応というものがあって、実験に同意した被験者を対象とする場合においてさえも、正攻法では上手くいかないのは前に述べた通りだ。折角の高変換率のエネルギーであるのに、取り出す際に無駄が生じてしまっては、本末転倒である。術者が己の命を取り出す場合にも、防衛本能が術を阻害する主因となる。

 ―――では、どうすればいいか?

 カトルは本を閉じた。

 数頁をめくったばかりだった。興味を失ったのではない。だが、それは、ただの好奇心で覗き見が許される種類のものではなかった。

 胸は早鐘のようだった。脳裏に焼き付いた文字を未だに翻訳し、反芻している自分がいる。喉はからからだった。

 ……これは、一体、なんだ?

 研究とある箇所は人体実験と言い換えてもよく、書かれている内容は、あまりにも突飛だ。人体の生体エネルギーが術の糧として、最も効率的?そんな話は聞いた事もなければ、考えた事もない。王立学院で学んだ十年余の年月の中で、ただの一度も。

 なによりも、人の「命」を術の対象とすることは教会法で禁じられている。それが、合意に基づいた被験者であろうと、己自身であろうと、禁忌には変わりない。

 カトルは常々、疑問を覚えていた。

 「命」を術の源とする事を禁じる教会法は、確かに道徳的見地からして正しい。ギルドもそれに賛同している。

 しかし……そもそも、教会や魔術士ギルドが説くように、「命」を術の行使の原動力として使うことが効率的でも現実的でもないならば、なぜわざわざ法典に一章をさいてまで、厳重に禁じる必要があるのだろう、と。

 そして、その疑問は、もしこの書物に書かれている事が正しいのなら、分かるような気がするのだった。つまり、なんらかの特殊な方法によって、「命」を使う事で通常では考えられない変換率を可能に出来るならば、そしてそのような方法が万人に開かれたのならば、それは――――――脅威だからだ。教会にとって、ギルドにとって、いや事によると、世界における魔力の均衡にとって。

 多大なる力は、バランスを崩す。その先にあるのはカオスだ。

 仮に術者自身の命を削らなければ得られない、リスクの高いものだとしても、人は必要な時、すぐそこにある力を使わないでいられるほど、強くはない。

 もし、我が身を捨てることで、それよりも大事なものを救えるとしたらどうだろう?自分の命を代価にしても果たしたい復讐、野望、夢。もし、そんな可能性が不特定多数の人間に開かれるとしたら、個人の衝動が世界を揺るがす事になりかねない。その際、国家や教会、種々の権威は秩序や統制の執行機関としての価値を失うだろう。

 力は魔だ。持てば、使いたくなる。一度使ってしまえば、もう逃れられない。個人であれ、集団であれ、それは変わらない。

 人間が楽園を追放される原因となったのもまた、原初の人間が、その身には過ぎた力を手に入れてしまったためだ。神は人間の越権を許さず、その時より、人は地を這いずりまわる運命となり、永久の安寧を失った。

 有史以来、持たざる者が権力の階梯を上り詰めた例は数多にあるが、その道のりが平坦だった例はない。人がその身の間尺に合わぬものを欲すれば、周りを巻き込まずにはおかない。悲劇は増産され、惨劇は幕をきっておとされる。

 仮に、多くの犠牲の果てに望むものを得たとしても、そこに安息はない。力を維持するためには、それを脅かすものを取り除きつづけなければならない。猜疑と疑心暗鬼は、支配者の伴侶だ。特に、他者を裏切り、利用し、押しのけてその座についた者にとっては。

 剣を一度握ってしまったものが、それなしでは生きられないように、振り上げた刀の数だけ、斬った敵の数だけ、犠牲にしたものの数だけ、呪縛は深まる道理だ。

 だから、古の昔から、人は自然と生命を司る技を魔術と呼んだ。それは、戒めなのだ。使う者が、その恐ろしさを忘れ、力に溺れないようにとの。


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