第五話 回想 (2)
「学年中、六十三位・・・また下がったな。これだと、今の志望校は難しいぞ。去年の夏から、これでもう五十番は下がってるんじゃないか?」
進路指導室。空調が効いてないのか、座っているだけで額に汗が滲む。
「もともと、やれば出来る相馬だから、みんな心配してるんだぞ。なかには、わざと成績を落としてるんじゃないかって言う先生もいるぐらいだ」
無論、先生のことじゃないぞーーー低い鼻、平坦な顔立ちは眼鏡を留めておくには凹凸が足りないらしい。ひっきりなしに、一差し指で、ずり下がる眼鏡を押し戻している。
「ともかく、このままだと志望校のランクを落とすか、成績を挽回するかしないと・・・・・・・それともお前、何か問題でも抱えているのか?友達とか家庭とかで上手くいってないのか?」
余計なお世話です、先生――――――とは、ナリタカは言わなかった。それでは、この居心地の悪い時間を長引かせ、真向かいに鎮座する扁平顔の教師魂を興奮させる結果になるのは火を見るよりも明らかだ。代わりに、いえ、と頭を振った。
「ちょっと、いろいろ、受験が近くなって落ち着かなくて・・・・集中できないだけです」
教師は、共感深げに、そして、望み通りの答えを得た満足をのぞかせて、せわしなく頷いた。何度も頭を上下に振る様は、啄木鳥を連想させる。
「分かる、分かる。先生だって、ずっと先生だった訳じゃない。昔はこれでも一人前に受験生だったんだ。といっても、苦しんだのは大学受験だけどな。で、先輩として言わせてもらえれば・・・・今、頑張っておけば、後々楽だってことだ。なんだかんだ言ったって日本は、いや日本だけじゃない、学歴社会なんだ。とくにお前の場合は私立のエスカレーターだで、一度はいってしまえば、後は楽なんだ・・・お前はラッキーだぞ。先生の時なんて授業料を払ってくれる両親もいなくて―――――」
別に、自分が選んだ学校じゃない。母親が是非にというものを、逆らうほどの理由を持っていなかっただけの話だ。
ナリタカは黙って啄木鳥の話を聞いていた。話したいだけ話し終えると彼は「とにかく、しっかり頑張れよ」と無責任な言葉をかけて、ナリタカを進路指導室から送り出した。
場面が変わる。
ベージュのソファ。その先に長テーブル、さらにテレビ。視線を手元に戻すと、右手に持ったフォークの向こうに中華風山菜スパゲッティ―、ホウレン草の冷製スープ。ツナのサラダに加えて、昨晩の残りのおかずが三品、食卓をところ狭しと彩っている。
メニューは日々変わっても、いつも同じだ。味がしない。
「ごちそうさま」
「あら、ナリタカ。もういいの?まだ半分以上残ってるじゃない?ちゃんと食べとかないと、勉強に差し障るわよ」
「いや、小食にしておいたほうが、頭の調子がいいんだ・・・・おいしかったよ。ごちそうさま」
皿を持って、流し台に向かう。のれんを押し分けて、台所に入ると、居間で「お母さん」という声が聞こえた。自分に似た声質は、四分の一のDNAを共有している事実を強調しているようだった。
「この間の期末テストの結果。学年で三番だった。すごいだろ?」
二歳という微妙な年齢差は、往々にして兄弟を競争相手に変えてしまう。常に比べられ、劣っている兄の立場からしてみれば、出来のいい弟を持つ事は、まごうことなき不幸だ。表面上はどうあれ、心中穏やかではいられない。
共有している筈の四分の一は声と外見だけで、中身の方は配列がまるで違うとしか思えない。
「まあ、そうなの。あなたも兄さんも出来がいいがから、お母さんは安心だわ」
別に、この「兄さんも」の部分にナリタカの事が入っているわけではない。「兄さん」というのは、ナリタカではなく最年長の兄の事であり、これまた両親の鼻を高くすることにかけては、他を抜きん出ていた。
小中高と共に、文武両道、温厚篤実、眉目秀麗との賞賛を惜しげもなく浴びて老い育ち、公立の某一流大学には主席で合格した。それでいて、卒業後はアフリカに行って難民キャンプなどで、ボランティアに捧げたい・・・などという、嫌味な性格の持ち主である。
両親も、折角の将来を投げ打ってと嘆くわけでもなく「当人の自由意志」とやらを尊重し、むしろ自慢に思っている節がある。出来た息子にして、理解のある親という事か。
兄と喧嘩をしたことはない。性格も経歴に劣らず優等生の兄であるから、仮に、こちらが突っかかっていったとしても、相手にされたかどうかも疑わしい。
第一、兄に「否のうちどころもない」というただ一点を除いて、正に否のうちどころのない人間だ。ナリタカもまた、自分から喧嘩を売るタイプではなかった。もっとも喧嘩を売りたくても売れない相手はいるものだと、実の兄を見るにつけ実感する。
弟はといえば、外見と声質だけはナリタカに似ていたものの、性格は明朗快活、時に破天荒とすら称される自由人である。兄に似て、文武両道。文よりは武に偏り気味だが、勉学の成績はナリタカが同年だった頃に比べてはるかにいい。
末っ子ゆえか、無神経なことを平気で言い、あまり人の感情を斟酌して行動するタイプではないが、総じて嫌味はなく、その愛嬌を加えると大概の人間は許してしまう。いるだけで場の空気が変わるような天性の明るさは周囲のものを引きつけずにはおかず、学校ではつねに人気者だった。同じ中学に通うナリタカは、 同級生にすら「○○君のお兄さん」と 認知される有様である。
こんな二人に挟まれたナリタカを形容するなら、冴えない奴、の一言につきる。兄弟中のみそっかすといえば、話が早い。
親戚の所に遊びにいって、上下の二人が賞賛と注目を浴びるなかで、一人だけ隅に放置され、顧みられないどころかその存在すら忘れられがちな…その手の人種だ。よって教育ママとしては一番危なっかしい息子であり、上と下の二人とはまた違った意味合いで多大な関心を向けられている。
三つの塾を掛け持ちし、必死に勉強してなお、学校での成績は上の下。車にもスポーツにも特に関心がないという男性失格であるのに加え、放課後には図書館に入り浸る根暗の帰宅部、果てには一時期、部屋で納豆菌を栽培していたとなれば、もはやどこに出しても恥ずかしくない社会的マイノリティーだ。
外見は、中学にはまだまだ残っている成長期前の小学生然としたもので、これに女顔というハンデと一般受けしない生活スタイルを加えれば、異性にもてるのは困難と言わざるを得ない。
人と話すのは苦手な方で、大勢の人間の前で話すと、心臓と胃がひっくり返って、目眩のあまり卒倒しそうになる。赤面症ではないので、あがっていることを周りに悟られにくいのは、せめてもの救いだった。
人付き合いは、しんどいとは思うが孤独をえらべるほど強いわけではなく、やはり同じような学校の下層扱いのものと消極的につるんでいる。