第四話:オルドへの線
夜は、音でほどけていった。
里の闇は静かで、殺す気配がない。
それでも陸の身体は、すぐには眠りに落ちなかった。
首元が、まだ痛い気がする。
実際には抑制が薄れている。
圧迫感も、熱も、半分消えている。
なのに皮膚だけが、タルタロスの記憶を覚えている。
(光るな)
陸は無意識にそう思って、指先が首輪へ伸びかけた。
触れたら痛む。
その条件反射が残っている。
陸は指を引っ込め、寝台の上で拳を握り直した。
壁の向こうで、紙の擦れる音が続いている。
リラだ。
眠ると言って、結局起きている。
あの女の“眠り”は、いつも最後の最後にしか来ない。
陸は目を閉じた。
闇が優しく降りる。
それでも、闇の底から白い光がにじむ。
タルタロスの独房の白。
殺菌の白。
息が詰まる。
陸は息を吸い、吐いた。
木の匂い。
布の匂い。
本の匂い。
里の匂い。
それを胸に詰めて、白い光を押し返す。
(明日がある)
その言葉が、ようやく陸の意識を沈めた。
どれくらい眠ったのか分からない。
目を開けると、窓の外が少しだけ明るかった。
星の光ではない。
薄い灰色。
朝の気配。
タルタロスにはなかった色。
陸は上体を起こし、首元を押さえた。
首輪はある。
でも冷たい。
熱がない。
それだけで心臓が落ち着く。
扉の外から、足音が近づいた。
軽い。
迷いがない。
コンコン。
控えめなノック。
「起きてるか」
治療師の声だった。
あの小柄な、淡々とした口調。
「起きてる」
陸が答えると、扉が音もなく開いた。
治療師が入ってくる。
相変わらず表情が薄い。
だが目は眠っていない。
里の人間は、眠っても目が死なないのかもしれない。
「朝だ」
治療師が言った。
「飯」
短い。
だが、それだけで胸が熱くなる。
朝。
飯。
当たり前の言葉が、今は贅沢だ。
廊下へ出ると、灯りは消え、代わりに柔らかな明るさが満ちていた。
本棚の間から、薄い日差しみたいな光が差し込む。
外は結界で覆われているはずなのに、朝の気配だけは入ってくる。
この里は“存在しない”のに、朝は存在している。
その矛盾が、妙に安心だった。
食堂は、広間の一角にあった。
長い木のテーブル。
湯気の立つ器。
硬いパン。
香草の匂い。
そして、温かい汁。
陸は器を両手で包み、湯気を吸った。
熱が肺に入る。
それだけで涙が出そうになる。
タルタロスの栄養ペーストとは違う。
味がある。
生きている味だ。
リラはすでに座っていた。
白い髪が整っている。
乱れを戻している。
それが彼女の鎧だ。
紫紺の瞳だけが少し赤い。
寝ていない。
それでも顔は平然としている。
陸が向かいに座ると、リラは器を口に運びながら言った。
「寝たか」
「……少し」
陸が答えると、リラは鼻で笑った。
「十分だ」
十分じゃないことを彼女も分かっている。
でも、この里では“十分”にして前へ進むしかない。
遅れて、ザインが来た。
肩の包帯が新しい。
顔色は悪いが、目はいつも通り鋭い。
椅子に座ると、汁を一口飲んで、舌打ちした。
「……うめえな」
素直すぎる言葉に、陸は思わず目を瞬いた。
ザインが食い物を褒める。
それだけで、この場所がタルタロスから遠いと分かる。
「黙って食え」
リラが言う。
「喋ると冷める」
「冷めても食う」
ザインが返す。
そのやり取りが、どこか普通で、陸の胸が少しだけ軽くなった。
食事が終わる頃、老人が現れた。
足音がしない。
気配が先に来て、姿が後からついてくる。
里の主の歩き方。
「よく眠れたか」
老人が問う。
リラは答えない。
陸も答えない。
ザインは鼻で笑った。
「眠れたら苦労しねえ」
老人は微笑む。
「ならば良い」
「眠れぬ者ほど、学ぶ」
意味が分からないまま、老人は三人に手を振った。
「来い」
三人は席を立つ。
治療師も、黙って後ろに付いた。
護衛ではない。
必要なら縫うための存在。
この里ではそれも当たり前なのだろう。
本棚の奥。
昨日と同じ円形の広間。
机の上には、航路図と複数の記憶媒体が並んでいる。
そして、床の紋様が淡く光っていた。
老人は言った。
「今日は」
「役割を選ぶ日だ」
リラが即座に言う。
「役割など、最初から決まっている」
「私が情報を集め、状況を作る」
「陸が跳ぶ」
「こいつが殴る」
こいつ呼ばわりに、ザインが眉を上げた。
「殴るのは得意だが」
「命令されるのは嫌いだ」
リラが睨む。
「命令してない」
「分類だ」
「分類なら勝手にしろ」
険悪。
だが、昨日までの険悪とは違う。
死に近い険悪ではない。
生きている険悪だ。
言い合える余裕がある。
老人が静かに言った。
「それが危うい」
三人が黙る。
老人は続ける。
「役割は、固定すると折れる」
「クロノスが強いのは」
「相手の役割を固定し、そこを折るからだ」
陸の背筋が冷える。
タルタロスでのこと。
異邦人。
末裔。
暴力。
全部、ラベルだ。
ラベルを貼って、そこに鎖をかける。
老人は机の上の媒体を一つ持ち上げた。
薄い結晶板。
表面に、微細な模様が走っている。
「これは、教本ではない」
「鏡だ」
老人が床へ結晶板を置いた瞬間、光が立ち上がった。
空間に、立体映像が浮かぶ。
星図ではない。
人の形。
若い女。
長い白髪。
紫紺の瞳。
リラに似ている。
いや、似ているどころではない。
同じだ。
ただし、表情が違う。
今のリラより少し柔らかい。
そして、ひどく疲れている。
リラの呼吸が止まった。
「……嘘」
かすれた声が落ちる。
映像の女が口を開く。
『――ライブラリアは沈む』
『――鍵は外から来る』
『――私の血は、扉を閉じる』
『――だから、遅れた者は――』
映像がノイズに揺れ、途切れる。
リラは一歩、無意識に前へ出た。
拳が震えている。
紫紺の瞳が、痛みで濡れそうになるのを必死に堪えている。
「……誰」
リラが老人に突きつける。
老人は穏やかに答えた。
「お前の母だ」
空気が凍った。
陸の胸が締まる。
母。
リラの母。
生きているのか。
死んでいるのか。
そのどちらでも、リラにとっては刃だ。
リラは歯を食いしばり、声を絞り出す。
「……私の母は、いない」
老人は首を振った。
「いないのではない」
「隠したのだ」
「お前を」
「そして、血を」
リラの瞳が揺れた。
怒りが、悲しみが、混乱が一緒に溢れそうになる。
それを抑えるために、彼女の口調がさらに尖る。
「……そんな話を今するな」
「今はクロノスが――」
老人が遮った。
「今だからだ」
「クロノスは、お前の“知らない部分”を武器にする」
「知らないまま戦えば」
「必ず折れる」
その言葉が、リラの肩を僅かに落とした。
折れる。
彼女は折れたくない。
折れたら、全部が終わると知っている。
陸は思わず言った。
「リラ」
名を呼んだだけで、リラがこちらを睨む。
だが睨みの中に、助けを求める色がほんの少しだけ混じっている。
それを見た陸の胸が痛む。
(支える)
言葉じゃなくて。
ここでは、ただ隣に立つ。
ザインがぽつりと言った。
「……血の話は面倒だな」
「だが」
「武器になるなら、握れ」
意外と真面目な声だった。
リラが一瞬だけ、ザインを見る。
敵だった男の言葉に、ほんの少しだけ驚いた顔。
それがすぐに消える。
老人は映像を消した。
広間の光が落ち着く。
だが、残ったものは大きい。
リラの中に、穴が開いた。
その穴は痛い。
でも、塞がる穴だ。
知らないという暗闇よりは、痛みの方が進める。
老人が言った。
「ここからが本題だ」
「お前たちの役割を」
「固定ではなく」
「交換できる形で整える」
「そのために」
老人は床の紋様を指さした。
円が三つ。
互いに繋がっている。
「陸」
「お前は、跳ぶな」
陸が目を見開く。
「……え」
「跳ぶな」
老人は繰り返した。
「今日は、閉じろ」
「縫え」
「守れ」
陸の右腕が、じくりと熱を持つ。
守る。
縫う。
昨日やった“存在を薄くする”感覚が蘇る。
それを、もっと意図的に。
もっと強く。
老人はリラを見る。
「お前は、読むな」
「書け」
リラが眉をひそめる。
「書け?」
老人は頷いた。
「情報を集めるだけでは足りぬ」
「偽装を作れ」
「相手の目を誘導する“物語”を書け」
物語。
情報屋が、物語を書く。
リラの顔が僅かに歪む。
好きじゃない。
でも必要だと分かっている顔。
老人はザインへ視線を向けた。
「お前は、殴るな」
ザインの金色の瞳が細くなる。
「……は?」
老人は淡々と言った。
「止めろ」
「引け」
「守れ」
ザインの拳が握られる。
首輪は光らない。
ここでは抑制が薄い。
だからこそ拳が自由で、だからこそ怒りも自由だ。
「ふざけるな」
ザインが低く唸る。
老人はその怒りを受け止めたまま言う。
「止められぬ力は」
「ただの災いだ」
その言葉が、ザインの喉を詰まらせた。
災い。
暴力。
利用されるもの。
昨日言われた言葉が、また刺さる。
陸はその瞬間、三本の矢の意味を理解しかけた。
力を並べるだけじゃない。
役割を交換できるようにする。
相手が狙いを定められないようにする。
クロノスがラベルを貼れないようにする。
老人が静かに言った。
「始める」
床の三つの円が光る。
陸の足元が淡く熱を持つ。
リラの足元が揺れる。
ザインの足元が重く沈む。
それぞれに違う感覚。
違う課題。
違う“役割”。
陸は息を吸った。
跳ばない。
縫う。
守る。
リラは唇を噛んだ。
読むのではなく、書く。
偽装を作る。
ザインは舌打ちをしながら、拳を緩めた。
殴らない。
止める。
引く。
守る。
不慣れだ。
怖い。
でも――。
(これなら)
陸は思った。
(クロノスのラベルを)
(少しは剥がせるかもしれない)
光が強くなり、広間の空気が変わっていく。
授業が始まる。
戦うための授業。
生き延びるための授業。
そして何より。
自分で選ぶための授業。




