第三話:糸を絡ませる
寝所へ続く通路は、灯りが低かった。
目を刺す明るさではない。
火の芯だけを残したみたいな、眠りのための光。
本棚の匂いは薄れ、代わりに乾いた布と木の匂いが混じる。
陸は歩きながら、足の裏の感触を確かめていた。
金属ではない。
木の床。
軋む音が、ちゃんと“音”として返ってくる。
タルタロスの床は音を吸って、絶望だけを返した。
ここは違う。
生きている場所の音がする。
リラは先を歩く。
歩幅が小さい。
いつもなら音もなく滑るように進むのに、今はほんの僅かに足音がする。
疲れている。
それを認めたくないから、姿勢で持ち上げている。
ザインは最後尾で、治療師に渡された布を肩に巻いたまま歩いていた。
血は止まっている。
でも呼吸が重い。
痛みを押し潰しているだけだ。
押し潰した痛みは、いつか反動になる。
通路の先で、老人が立ち止まった。
梁の陰に小さな扉が三つ並んでいる。
どれも簡素で、豪華さはない。
けれど鍵穴が見当たらない。
「それぞれの部屋だ」
老人が言った。
声は相変わらず低く、余計な温度がない。
「鍵はない」
「ここでは、入る者が自分で閉じる」
自分で閉じる。
その言い方が妙に胸に残った。
タルタロスでは閉じられるだけだった。
ここでは閉じ方を選べる。
同じ“扉”でも意味が違う。
老人はリラを見る。
「明日」
「お前の答えの一端を見せる」
リラは眉を動かした。
「……答え?」
老人は微笑んだ。
「血の答えだ」
リラの瞳が硬くなる。
言い返しかけて、やめた。
怒鳴ったところで何も変わらない。
それを分かっている顔だ。
その分、怒りが内側で燃えている。
老人は陸へ視線を移した。
「お前は」
「眠る前に」
「一度だけ、自分の力を確かめよ」
陸の喉が鳴った。
「……跳べってことか」
「跳べ」
老人は短く言う。
「だが遠くへ行くな」
「縫い目に触れるだけでよい」
縫い目。
世界の縫い目。
今日、陸は初めて“閉じる”感覚を使った。
跳躍だけではない。
縫い目に触れれば、別の形になる。
その可能性が怖い。
でも、怖いからこそ確かめたい。
老人はザインへ視線を向ける。
「お前は」
「眠れ」
「明日まで生きていれば、それで十分だ」
ザインが鼻で笑った。
「……言われなくても」
老人は答えず、踵を返した。
足音が本棚の奥へ消えていく。
まるで最初からそこにいなかったみたいに、気配が薄れる。
残された三人の間に、短い沈黙が落ちた。
遠くで木が軋む。
誰かがページをめくる音。
里が、夜の呼吸をしている。
リラが先に扉へ手を伸ばした。
しかし手が止まる。
躊躇。
彼女にとって珍しい躊躇。
陸は思わず言った。
「……眠れるか」
リラは振り返らないまま、短く言う。
「眠る」
言い切り。
でも、声が少しだけ硬い。
「眠らないと死ぬ」
それは事実だ。
タルタロスでは眠れずに壊れる囚人を見た。
眠りは贅沢じゃない。
武器だ。
リラは扉を押した。
音もなく開く。
薄暗い部屋。
机と椅子。
簡素な寝台。
そして壁一面の小さな本棚。
情報屋のための牢屋みたいに整っている。
リラが一度だけ陸を見る。
紫紺の瞳。
そこに言葉にならないものがある。
ありがとう、でもない。
心配するな、でもない。
もっと不器用な何か。
「……勝手に死ぬな」
リラはそれだけ言って、扉を閉めた。
木の扉が、静かに音を立てる。
閉じた。
彼女が自分で閉じた。
それが陸の胸を少しだけ温めた。
次にザインが、自分の部屋へ向かった。
扉の前で立ち止まり、陸を見た。
金色の瞳が、さっきより少しだけ柔らかい。
柔らかいというより、疲労で尖りが削れている。
「……坊主」
ザインが言う。
「さっき」
「助かった」
陸は目を瞬いた。
礼を言うような男じゃない。
貸し借りでしか動かない男だ。
なのに今、礼に近い言葉を落とした。
「助かったのはこっちだろ」
陸が返すと、ザインは鼻で笑った。
「うるせえ」
それだけ言って、扉を押す。
中へ入る前に、もう一度だけ振り返る。
「明日」
「目を閉じるな」
同じ言葉。
でも今度は、タルタロスの脅しじゃない。
生きるための合図だ。
扉が閉まる。
残ったのは陸だけだった。
廊下の灯りが、ゆっくり揺れる。
陸は自分に割り当てられた部屋の前に立ち、深く息を吸った。
木の匂い。
布の匂い。
それが逆に不安を呼ぶ。
安心すると、気が緩む。
気が緩むと、夢が来る。
タルタロスの夢が。
(それでも)
陸は扉を押した。
中は簡素だった。
寝台。
机。
水差し。
そして小さな窓。
窓の外は真っ暗で、星が見えない。
結界の中だからか。
あるいは、この里が“存在しない”からか。
陸は机の上に手を置き、右腕に意識を向けた。
老人に言われた。
縫い目に触れろ。
遠くへ行くな。
確かめろ。
陸は目を閉じた。
座標を組まない。
ただ、この部屋の空気を感じる。
木目の匂い。
灯りの揺れ。
自分の心臓の音。
そして、その向こう。
世界の薄い膜。
縫い目。
そこに指先を伸ばすように、意志を伸ばす。
右腕の内側が、微かに熱を持つ。
青白い光が出るほどではない。
でも確かに、“応える”。
(……ここか)
陸はその感覚を掴もうとする。
すると、空気が少しだけ歪んだ。
灯りが揺れたのではない。
空間そのものが、ほんの一瞬だけ揺れた。
机の上の水差しが、かたん、と小さく音を立てる。
水面が震え、波紋が広がる。
陸は目を開けた。
何も起きていないようで、何かが起きた。
自分の力が、ここでも生きている。
跳躍だけではない形で。
(縫い目に触れる)
その意味が、少しだけ分かった気がした。
世界は固定された板じゃない。
縫い合わされた布だ。
なら、ほどける。
なら、縫い直せる。
その可能性に、陸は背筋が寒くなる。
もしこの力が、帰り道だけではなく、誰かの“終わりの扉”まで開けてしまうのなら。
カシウスが言った“鍵”という言葉が、急に現実味を持つ。
(俺は)
(何を開くんだ)
答えはまだない。
でも、答えを探すための場所に来た。
陸は寝台に腰を下ろし、手のひらを見つめた。
指先が僅かに震えている。
恐怖だけじゃない。
興奮も混じっている。
新しい力の輪郭を掴みかけた興奮。
その時、壁の向こうから微かな音がした。
紙が擦れる音。
リラの部屋だ。
彼女は眠ると言ったのに、もう仕事を始めている。
それがリラだ。
眠らないと死ぬのに、眠る前に一度だけ確認したくなる。
陸は小さく笑って、息を吐いた。
(相棒だな)
その言葉を胸の奥にしまい、陸は横になった。
灯りを落とす。
闇が、優しく降りてくる。
タルタロスの闇とは違う。
殺す闇じゃない。
休ませる闇。
それでも、夢の中で冷たい首輪が光るかもしれない。
カシウスの目が覗くかもしれない。
それでも。
(明日がある)
陸はそう思いながら、瞼を閉じた。
胸の奥で、青白い熱が小さく脈打っている。




