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コズミック・ドリフター⑥真実の書庫(隠れユートピア "ライブラリア")  作者: naomikoryo


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第十話:残すための撤退

排水路の闇は、逃げるほど濃くなった。

水音が背中を押し、腐臭が肺に貼りつく。

オルドの警報は遠ざかったはずなのに、振動だけが壁の向こうでまだ鳴っている。

施設の腹が怒っている。

そこに寄生していた異物を吐き出そうとしている。


リラは先頭を走り、時々だけ指を動かす。

右。

左。

止まれ。

進め。

言葉は使わない。

排水路の音に紛れても、言葉は“形”として残るからだ。


陸は右腕の内側の熱を、必死に抑え込んでいた。

抑え込むというより、形を崩さないように握っている。

さっき縫い付けた印が、まだ脈打っている。

本体の匂いが、引き潮みたいに遠ざかっても、糸は残る。

その糸が、こちらの胸の奥で細く震える。


(今は触るな)


触れば引かれる。

引かれれば跳びたくなる。

跳べば匂いが太くなる。

太くなれば、狩られる。

タルタロスの鎖は外れた。

だからこそ、別の鎖に繋がれたくない。


ザインは最後尾で、音を拾っている。

水音に混じる別の音。

金属の擦れる規則性。

排水路の壁を伝ってくる振動。

それらを、彼は獣みたいに聞き分ける。


「……来る。」


ザインが、唇の動きだけで言った。


リラの指が一度動く。

速く。

だが走るな。

音を増やすな。


矛盾みたいな命令。

でも、矛盾の中で生きるのが情報屋だ。

リラの身体は、その矛盾を自然に解く。

足場の硬い場所だけを踏み、音を小さくしながら速度を上げる。


排水路が少し広くなり、天井が高くなる。

水が深くなる。

膝から腿へ。

冷たさが骨に刺さる。

だがそこで、リラが止まった。


前方に格子。

さっき通ったものより大きい。

水門のような分厚い鉄。

その向こうに、薄い光。

外へ繋がる。

森へ戻る道。


だが、格子の前に“何か”がいる。

水面に影が揺れている。

人の影ではない。

細い。

長い。

節がある。


機械の脚。


狩り犬。


それは排水路の水面を滑るように進み、こちらへ向かっていた。

四足ではない。

六本。

蜘蛛みたいな足が、石壁に吸い付くように動く。

胴体は低く、頭部に赤い単眼がひとつ。

そして、空気を吸う音。

匂いを嗅ぐ音。

機械が呼吸している。


陸の背筋が凍った。

さっき橋で聞いた金属音と同じ種類。

だが今は近い。

逃げ場が狭い。

音が壁に反響する。


リラが唇だけで言う。


「……囮…」


陸は頷かない。

だが理解する。

橋で散らした欠片は、あくまで“迷わせる”ため。

ここで必要なのは“止める”ための囮だ。

狩り犬をこちらから引き剥がすための餌。


ザインが低く言った。


「俺が行く。」


リラが即答する。


「殴るな。」


「分かってる。」


ザインは水に足を踏み入れ、前へ出ようとする。

その瞬間。

狩り犬の単眼が、こちらを捉えた。

赤い光が、瞬きもしないで固定される。

機械の鼻が、空気を吸う。

その吸う音が、妙に大きい。


そして、狩り犬が跳んだ。

水を蹴らない。

水面の上を滑るように。

速度だけが異様に速い。

時間が縮むみたいに、距離が消える。


(やばい)


陸の身体が反射で跳躍を描きかける。

逃げろ。

後ろへ。

上へ。

でも跳べば匂いが太くなる。

ここで跳べば、オルドからの撤退が無意味になる。


リラの指が、二度動いた。

守れ。

今だ。


陸は右腕へ意識を叩き込んだ。

狩り犬と自分たちの間。

空気の縫い目。

そこへ布を一枚。

薄い膜を縫い付ける。

水と空気の境界に、壁を作る。


青白い歪みが走る。

狩り犬の前脚が、その歪みに当たった。

カン、と金属が硬いものにぶつかる音。

狩り犬が一瞬だけ姿勢を崩す。

たった一瞬。

でも、その一瞬が命の幅。


リラがその隙に“書いた”。

端末を見ない。

指先だけが踊る。

狩り犬の赤い単眼が拾う“匂い”の順序をずらす。

獲物は前ではなく、横。

獲物は一つではなく、三つ。

そして“本命”は、より濃い匂いへ。


リラは腰の布袋から、橋で使った匂い消しの粉を掴み、狩り犬の横へ叩きつけた。

粉が湿気で固まり、ぼとりと落ちる。

臭い。

強烈な香草と鉄と薬。

それが狩り犬の嗅覚を一瞬だけ飽和させる。


狩り犬が頭を振った。

赤い単眼が乱れる。


ザインが前へ出た。

殴らない。

折らない。

止める。

彼は狩り犬の脚へ飛びつくのではなく、胴体の側面へ回り込んだ。

短剣の黒い刃を抜き、脚の関節へ差し込む。

切るためじゃない。

結び目を解くため。


ザリ。


刃が滑り、関節の固定ピンの位置を探り当てる。

カチ。

小さな音。

それだけで、狩り犬の脚の一つが“力を失う”。

折れたのではない。

外れた。

結び目がほどけた。


狩り犬が姿勢を崩し、水面に胴体が触れる。

水が跳ねそうになって、陸は反射で膜を広げる。

水音を抑える。

音を増やさないための守り。


リラが唇だけで言った。


「……今。」


撤退。

格子を抜ける。

外へ。


だが格子のロックはまだ生きている。

リラが指を伸ばす。

しかしその瞬間、狩り犬が尾のようなケーブルを振り、リラの足首に絡みついた。

引っ張られる。

水面が揺れる。

音が立つ。


リラの顔が、ほんの僅かに歪んだ。

痛みではない。

苛立ち。

そして――焦り。


「……ッ」


声にならない息。


陸の胸が締まる。

まただ。

相棒が引きずられる。

タルタロスの麻酔の匂いが、脳裏に蘇る。


(守る)


陸は右腕の熱を、膜ではなく“縫い合わせ”に変えた。

ケーブルとリラの足首の間。

そこにある“結び目”を縫い閉じる。

絡みついた結び目を、ほどけないようにするのではない。

逆だ。

結び目を“存在しなかったこと”にする。

絡みが成立する瞬間を、縫い直す。


青白い歪みが、ケーブルの一部を撫でる。

ケーブルが、すっと滑った。

絡みが解ける。

リラの足が自由になる。


同時に、ザインが短剣で二つ目の関節の結び目を解く。

カチ。

狩り犬の脚がもう一本、力を失う。


狩り犬が吠えた。

機械の吠え声。

金属が鳴るだけの声。

それでも背筋が凍る。


その吠え声が、上へ届く。

オルドの警備に届く。

クロノスの手に届く。

ここで長居はできない。


リラが格子のロックへ指を入れ、短く言う。


「……三秒。」


三秒。

短い。

だが、リラの三秒は信用できる。


陸は右腕で、周囲の音の縫い目を縫い閉じた。

狩り犬の吠え声の残滓が、排水音に混ざるように。

外へ漏れにくいように。

完全には無理。

でも薄くする。


ザインが狩り犬の前に立ち、腕を広げた。

殴らない。

だが、道を塞ぐ。

止める。

守る。


狩り犬が跳ぶ。

今度はザインへ。

だが脚が二本失われ、軌道がわずかに乱れる。

その乱れを、ザインが利用する。

拳ではなく、肩で受ける。

体重で押し返す。

床の水で滑らせ、勢いを殺す。


「――開いた…」


リラの声。

短い。

完了。


三人は格子を抜けた。

外の空気が一気に入る。

森の湿った匂い。

土の匂い。

風の匂い。

それが肺を刺すほど新鮮だ。


だが、背後の排水路の闇から、金属が擦れる音がまだ聞こえる。

狩り犬は止まっていない。

結び目を解かれても、追ってくる。

それが機械の執念だ。


リラが走りながら、記録カプセルを確認した。

結晶片の光が安定している。

持ち出せた。

残せた。


「……帰る。」


リラが言った。

里へ、ではない。

次の足場へ。

追跡の糸が太くなる前に、次の場所へ。


陸は息を吸い、右腕の内側の印を感じた。

本体への目印。

今は触らない。

でも、確かにそこにある。

糸は握っている。


その時。

森の上空で、低い音が鳴った。

ドローンの羽音ではない。

もっと重い。

もっと広い。

機体が空気を割る音。


リラが顔を上げる。

紫紺の瞳が、嫌な光を拾った。


「……来た!」


枝葉の隙間に、影が見えた。

黒い機体。

クロノスの紋章。

砂時計。

円。

剣。


索敵網が、こちらを掃いている。

さっきの狩り犬の吠え声が、位置情報になった。

リラの物語でも隠しきれない種類の“現実”が、今頭上を覆う。


陸の喉が鳴った。

跳躍の誘惑が、今度は恐怖として迫る。

跳べば匂いが太くなる。

だが跳ばなければ、焼かれる。


(選べ)


老人の言葉が胸の奥で鳴った。

学べ。

そして選べ。

今が選ぶ時だ。


リラが短く言った。


「陸!」


「短距離!」


「薄く…」


陸は理解した。

遠距離の跳躍は匂いを太くする。

だが、短距離なら。

束ねて、薄くして、痕跡を縫い閉じながら跳べば。

糸は太くならない可能性がある。

授業の応用。

外で束ねる。


ザインが低く笑った。


「やっと出番か。」


リラが即答する。


「調子に乗るな…」


その声が、少しだけ震えている。

怖いのだ。

でも指示は揺れない。


三人は手を掴んだ。

呼吸を揃える。

陸は右腕の熱を、跳躍と縫い閉じの両方に分けた。

跳ぶ。

だが同時に、跳んだ痕跡を閉じる。

矛盾を抱えたまま動く。

それが束ねるということだ。


上空の黒い影が、照準を落とす。

赤い点が森を走る。

次の瞬間には撃たれる。


陸は跳んだ。


青白い光が一瞬だけ森を裂き、同時にその裂け目を縫い閉じる。

光は残らない。

匂いも残らない。

残るのは、ただ風が揺れたという程度の異常。


次の瞬間、三人は数十メートル先の岩陰に転がり込んでいた。

背後の森が、赤い光で焼かれる音がした。

遅れた一撃が、空気だけを焦がす。


陸は息を吐き、胃が裏返る感覚を飲み込む。

短距離でも、負荷は大きい。

縫い閉じながら跳ぶのは、筋肉を二重に使うみたいに苦しい。


リラが即座に言った。


「……続ける!」


「一回じゃ足りない!」


上空の索敵網は、焼いた場所を中心に再探索する。

こちらは逃げるのではなく、糸を絡ませながら離れる。


ザインが岩陰から顔を出し、機体の進路を見た。

金色の瞳が狩人の計算をする。


「次は左だ。」


リラが即答する。


「いい。」


「左に“物語”を書く!」


陸は右腕の熱をもう一度握り込んだ。

苦しい。

怖い。

でも、できる。

束ねればできる。


(時間を奪われる前に動け)


今、奪われているのは時間じゃない。

余裕だ。

余裕が削られていく。

だから、動く。

削られる前に。


三人は岩陰から滑り出し、次の影へ走った。

跳ぶか。

走るか。

守るか。

偽装するか。

止めるか。


選ぶのではなく、交換する。

束ねて、入れ替えて、生き延びる。


そして陸は胸の奥で、静かに確信した。

今の自分たちは、タルタロスの囚人ではない。

クロノスのラベルでもない。

役割を自分で選ぶ者たちだ。

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