前編
ムツこと矢那瀬睦美は新聞部の幽霊部員であった。
帰宅部同然の一年を過ごしていた彼女だったが、三年生の引退を期に状況が一転してしまう。
なんと新部長に「せめて週に一回は部活に出ろ」と注意されてしまったのだ。
「まぁ週一なら」と渋々了承したムツが、ようやく部室へ赴いたある春の日。
既に新入部員の手ほどきは始まっており、今更ムツの出る幕は無い状況となっていた。
「え、これ私いらなくね? 帰っていい?」
「良い訳ないだろ! 矢那瀬はやる事が無いなら田島さんとコラムでも書く練習してろ」
「へぁーい」
ムツは言われるがまま、部室の隅で過去の記事を読んでいる女子生徒に近付いた。
眼鏡をかけた大人しい新入生だ。
この生徒も週に一度しか部活に参加しないらしく、少し親近感の湧く部員であった。
「よっす、田島ちゃん。最近何か記事になりそうな面白い事あった?」
「い、いえ、特には」
困惑する田島に、ムツは「そっか!」とあっけらかんと頷いた。
「つーか書く事なけりゃ練習も何も無いよねぇ?」
「はは……とりあえず何でも良いから書いてみるしか無いのでは?」
「その『何でも良い』が一番困るんだよなー。折角ならウケたいじゃん。校内でバズりたいじゃん」
今までろくに記事を書いた事も無いくせに求めるハードルが高い。
何度となく「何かネタないかなー」と呟く彼女を見かねたのか、田島がおずおずと口を開いた。
「面白くはないですが、ちょっと気になる出来事なら」
「えっ、何かあんの? 株と政治以外なら何でも良いよ!」
思いきり食い付くムツに引きつつ、田島は歯切れ悪く語り始めた。
◇
田島は母と祖母の三人家族である。
家は古い一戸建てで、二階にある彼女の部屋からは隣家の門扉と玄関までのアプローチが見えるらしい。
隣家もかなり年季が入っている一戸建てで、一ヶ月程前から若い夫婦が入居してきたという。
夫の方は三十代前半位で愛想が良い。
登校時やゴミ出しの際によく会い、家の前を掃く姿も度々目撃するそうだ。
「旦那さんはいつも笑顔で優しそうな人です。自由参加の近所のゴミ拾いにも参加するし、今朝もゴミ捨て場にネットを掛けてて、挨拶もしてくれて」
一方の妻はというと、二十代半ばの美人でとにかく愛想が悪いらしい。
挨拶をしても会釈すら返さないのだそうだ。
「引っ越しの挨拶は奥さんが一人で来たんです。応対したのは私だったんですが、何ていうか『最低限すら関わりたくない』って感じのオーラが凄くて」
「へぇ。まぁご近所付き合い面倒って人も多いし、気にする事でもなくない?」
「それにしても、でしたよ。『隣に越してきた杉山です』ってボソボソ言ったかと思うと、タオル押し付けてドアバタン! でしたもん」
「んー、コミュ症なのかもねぇ」
「あ、それは別の日に旦那さんも言ってました。『家内は極度の人見知りなんでソッとしておいてあげて下さい』って」
今の所は「だからどうした」感が強い話だが、田島は構わずに話を続ける。
「えっと……ウチって壁が薄いし、お隣の門扉や玄関の軋む音、足音なんかがよく響くんです」
その音が聞こえる時間帯から察するに、平日の早朝から日暮れまでは奥さんが仕事で、旦那の方は夕方から朝まで仕事らしい。
日曜は奥さんが休みのようで、たまに一人で出かける姿を見かけるのだという。
「人様の生活を気にするのは良くないと思うんですが、最近は奥さんの顔色が悪いのがどうしても気になっちゃって……」
「病気って事?」
「えと……考え過ぎかもですけど」
田島曰く、常に人当たり良くニコニコしている旦那と、日に日にやつれていく奥さんのギャップに違和感があるとの事だった。
「私の両親、父のDVとモラハラが原因で離婚してるんです」
「わぉ、唐突にヘビーなの来たね」
「あ、すみません。でも、どうしても追い詰められてた頃の母と隣の奥さんが重なってしまうんです。父も……外面だけはとても良い見栄っ張りだったので」
なるほど、とムツも神妙な面持ちで腕を組む。
確かに人知れず夫に酷いことをされて心身衰弱していたとしたら、周りに気を遣う余裕は無いだろう。
下手に助けを求める事も出来ず、結果として周囲を断絶してしまっているのだとしたらかなり悪い状況である可能性が高い。
「しかも一昨日、奥さんの悲鳴が聞こえたんです」
「悲鳴!?」
いよいよ物騒な展開である。
目を丸くするムツとは対照的に、田島は短くため息を吐いて目を閉じた。
「夜の七時頃、ガチャンって門扉の開く音がしたんです。あぁ、奥さん帰ってきたなって思っていたら、玄関の開く音がした直後に『キャアー!』って……」
「ドア開けてすぐ?」
「はい。慌てて窓から覗いてみたら、丁度奥さんが外に飛び出す所で……泣きながら電話をかけてるようでした。私、どうしたら良いか分からなくて、怖かったけど心配で……暫く様子を見てたらパトカーが来ました」
微かに聞こえた会話の内容から、田島は空き巣か何かが入ったのだろうと結論付けたという。
「パトカーが帰った後も気にしてたんですけど、結局旦那さんは帰って来なかったんです。それどころか翌朝、私が登校する時に旦那さんが帰宅してきて……」
「えぇ? それは流石にないわな」
「ですよね? 普通仕事より奥さんの事優先して帰りますよね? それで私、つい『昨日パトカー来てましたけど、奥さん大丈夫ですか?』って聞いちゃったんです。そしたら旦那さん、何て言ったと思います!?」
田島は怒りで頬を紅潮させながらも、一呼吸だけ置いて言葉を紡いだ。
──玄関付近が少し荒らされていただけで、特に取られた物はなかったみたいです。家内も怪我した訳じゃないから大丈夫ですよ。
「ですって! それを呑気に笑って言うとかあり得ないですよね!」
「うわぁ。それは確かにドン引きだねぇ」
ひとしきり怒った田島だったが、やがて「でもお隣さんって言っても所詮は他人だし、結局何も出来ないんですよね」と肩を落とした。
「心配だけど下手に関わって母や祖母に迷惑をかけられないし。どうしたら良いのか分からないんです」
「田島ちゃん……」
後輩の優しさに胸を打たれたのも束の間だった。
「すみません、オチが無くて」
「いやいや、話を求めたのは私だしそこは気にしないで!」
「なんなら『近所付き合いの希薄化』をテーマにコラム書きます?」
「今の流れでそれは自虐が過ぎない?」
結局その日は雑談ばかりで終わってしまい、まともな文章は一つも書けずに終わったのだった。
◇
「っていう話があったの! 二人はどう思う!?」
翌朝の通学路にて、ムツは幼馴染みである虎之助と孝幸に会うやいなや鼻息荒く詰め寄った。
「うっせぇな。別にどうも思わねーよ」
「ウッソだろおい! トラはいつからそんな薄情モンになった訳!?」
面倒臭そうにあしらう虎之助の襟元をムツが掴む。
傍から見れば背の高い男に追い縋る憐れな女のような光景だが、両者の間にそのような艶っぽい空気は微塵もない。
対する孝幸は終始真面目に耳を傾けており、「どうどう」と二人を宥めると考え込むように顎に手を当てた。
「その憶測が正しいとしたら確かに問題だろう。大家や管理会社にDV相談をするのも手だな。もし警察へ相談するなら生活安全課だろうが……」
「さっすがタカ! 頼りになるぅ!」
孝幸の冷静な発言にムツの機嫌が一気に良くなる。
しかし──
「アホ。確証もねぇのに通報する訳にゃいかねぇだろーが。確かに匿名で通報は可能だが、勘違いだったら迷惑じゃねぇか。それに警察は現行犯じゃねーと立ち入らねーよ」
「うぐ、トラのくせに難しい事言うじゃんか」
「トラが言ってるのは民事不介入の原則って奴だな。せめて証拠があれば話は変わってくるんだが」
二人がかりの説明にムツの勢いが削がれていく。
それでも彼女はしぶとく「でもさぁ」と食い下がった。
「田島ちゃん、凄く気にしてるんだよ。話を聞いてる内に私も奥さんの事心配になっちゃったしさぁ」
「いや単純か」
困ってるなら助けてあげたいと駄々を捏ねる彼女の頭に虎之助の軽い手刀が落とされる。
「その田島って奴ですら他人なのに、お前は更に遠い他人だろーが。俺等に至っては完全に無関係だからな。いちいち他所んちの問題に首突っ込む事ねーだろ」
「もー、トラは冷たいなぁ。このご時世、何か事件が起きてからじゃ遅いんだよ?」
「なら尚更放っとけよ。野次馬なんざ碌な目に遭わねーぞ」
「これでも新聞部だから野次馬は褒め言葉なんですぅー。ね、ね、タカはどう思う?」
ムツが頭をおさえながら孝幸を見上げれば、彼は端正な顔を少しばかり顰めながら薄い唇を開いた。
「今の情報だけでは何とも言えないな。とはいえ話を聞く限り幾つかの違和感がある」
「そりゃそうでしょうよ。不自然な位に愛想の良い旦那さんと、ぞんざいに扱われてる可能性のあるやつれた奥さん」
その違和感があったからこそ田島が気が付き、こうして問題になっているのではないか──
そう突っ込めば、虎之助が「そこじゃねぇよ」と吐き捨てた。
「おいタカ。下んねぇ好奇心なら止めとけ」
「心配するな、好奇心ではない」
孝幸は未だ疑問符を浮かべているムツに笑みを向ける。
「ムツ。田島さんに隣人の家の場所を聞いておいてくれないか?」
「! わ、分かった! むしろ今聞いてみる!」
パァと明るい表情を浮かべてスマホを操作する彼女を一瞥し、孝幸は苦い顔をする虎之助に「親切心さ」と呟いたのだった。
◇
放課後。
三人は田島に教わった住所を訪れていた。
田島本人は家計を助ける為にバイトがあるとの事で不在である。
田島家の隣の表札には確かに「杉山」と書かれており、この家が件の夫婦の家で間違いないようだ。
三人は杉山邸の玄関が見える曲がり角の陰に身を潜めた。
「あの家だねぇ。この辺は他に杉山さんって居ないらしいし」
「おいムツ。あんまジロジロ見んなよ。お前のせいで通報されたら置いてくかんな」
「んだとコラ」
「二人共、少し声を落とせ。田島さんの話通りなら、まだご主人が家に居るかもしれない時間帯だ」
孝幸に注意され、ムツと虎之助はピタリと口を閉ざす。
息の合った二人を満足気に見やり、孝幸は杉山邸に向き直った。
つられるようにムツも杉山邸を眺めたものの、特に怪しい物は見当たらない。
「別に普通の家だねぇ」
暗い灰色の屋根に古ぼけたクリーム色の壁という、これといって特徴の無い家だ。
強いて挙げるなら二階のベランダと門扉の右横にある車一台分の駐車場が目を引く位か。
ベランダは南向きで日当たりは良好だ。
今日のような天気の良い日は洗濯物がよく乾きそうなものだが、杉山家のベランダには洗濯物はおろか竿すら掛かっていなかった。
「洗濯物を干さない時は竿を下ろしてるのかな?」
「だとしたらすげー几帳面だな。手間過ぎんだろ」
駐車場はアーチ屋根があるだけのシンプルな造りで、車の代わりにピンク色の古びた自転車が一台停まっている。
自転車の他にも空のプランターや植木鉢、ホウキやホース等が雑多に積まれている事から、杉山家は車を所持していないと考えられた。
どの窓も二重のカーテンで閉め切られている為、中の様子は窺い知る事が出来ない。
「ん~、見た目じゃ留守かどうか分かんないねぇ。そういやタカは違和感がどうとか言ってたけど、何か分かった?」
「ふむ。気になる点は増えたな。トラもそうなんじゃないか?」
「……まぁな」
虎之助は険しい表情で孝幸に同調する。
完全に置いてきぼりのムツは急かすように二人の腕を揺さぶった。
「何々。何が気になるの?」
「っせぇな。ヒントその一、駐車場」
「ヒントその二はベランダかな。ムツは既に見ている筈だ。ただそれを違和感として認識していないだけさ」
「?」
虎之助と孝幸のヒントを頼りに、ムツは改めて観察を始めた。
しかしいくら考えてもおかしな点は見つからず。
悔しい思いで降参宣言をしようと口を開いた時だった。
ガチャリ ギィィィ
突然、件の家から大きなボストンバッグを提げた一人の男性が姿を現した。