「恋がしたい」と言う婚約者に、婚約破棄をされまして
私は予定にない婚約者の来訪を侍女から告げられ、書いていた手紙の手を止めた。
急いで応接室へ行くと、
「君は美しくて聡明だ、公爵夫人となるには申し分ないだろう。だが、恋がしたいんだ」
と婚約者は黒い革張りのソファに、最近お気に入りの男爵令嬢とペットリくっついた状態で座って言った。
「一度も恋を経験しないままに政略で婚姻するなんてお互い地獄だと思わないか? だって婚姻を義務と利益としか考えない相手と長い人生をともにするなんて、まるで地獄のようではないか!」
政略? 公爵家の貴方と子爵家の私が? 違うわ、10年前に貴方が私と結婚したいと言ったから婚約したのよ。あまりに身分差があるからと父が断ってくれたのに、強引に。貴方は欲しかったおもちゃを手に入れて満足した子どものように忘れているけれども。
それに、お互い? その男爵令嬢は19番目の恋人では? 浮気し放題の貴方が、婚約破棄のタテマエに使うにしても酷すぎる台詞ですわね。
あ~、今流行の真実の愛という小説の台詞に似たようなものがあったような……? また自己陶酔して、カッコつけて。
破棄される私は、もう尻拭いをしませんからね。
「君は気難しい母が満足する婚約者だから我慢してきたが、自由が欲しいんだ。だから婚約破棄をしよう。もちろん君に瑕疵はないから、婚約時の契約通り今までの教育費は請求しないし破棄料も払うよ」
子爵家の娘が公爵家の夫人となるのよ。
10年間どれほど厳しく躾られたことか。公爵家から派遣された教育係たちや侍女たちが常に目を光らせて、淑女らしく未来の公爵夫人に相応しく、とべったり監視されて。
したい事もやりたい事もできずに。
なのに、貴方が我慢?
私に負担を強いて、公爵夫人は貴方に甘かった。貴方には最低限の義務だけで、その穴埋めは私。
不自由な生活をしてきたのは私。
貴方の尻拭いをしていたのも私。
そして身分差で逆らえないことがわかっているから、貴方は婚約破棄を一方的に命令してきている。いつものように私が従順にしたがうと思って。
「了承いたしました」
貴方は思い通りの状態になったと笑っているけど、私も自由になるのは大賛成よ。ただ、貴方と私どちらが本当に自由になるのかは、貴方は理解していないでしょうけれども。
「これは婚約破棄の公的書類だ。僕は署名をしたから、後は君が署名をして貴族院に提出しておくように」
私はちらりと視線を流した。男爵令嬢が勝ち誇った顔で微笑している。
なるほど、書類を用意するなんて彼女の入れ知恵ね。
ありがとう。10年間で一番嬉しい贈り物だわ。
「はい。かしこまりました。私たちは王国の成人たる15歳をすぎていますし、婚約時の契約でも成人後は貴方の意志で破棄が可能となっていますし」
私は16歳、婚約者は18歳。
本当は婚約者が飽きたらおしまいの婚約だったけど、私が優秀に成長したから公爵夫人が私を手放そうとしなかったのよね。
「よかったら今から、ご一緒に提出に行きませんか? その方が手続きが滞りなく進むと思うのですが」
「それがいいわ」
1日も早く後釜に座りたいらしい男爵令嬢が甘い声を出す。
「うむ。捗るというならば一緒に行ってやろう」
男爵令嬢に胸を押しつけられて、デレッとした顔の婚約者が尊大に言った。
……こんな人ではなかったはずなのに。
厳しい教育に泣いていた幼い私を慰めてくれたのは貴方だったのに。
真っ白な馬に乗せてくれたわ。
物凄く速くて、風が流れ星みたいに光って、飛ぶ鳥を追いかけて。
木々の間を手を引いて歩いてくれたわ。
古の姫君の衣装のように色鮮やかな葉の、緋色、朱色、柿色、鶸色、鶯色、鳶色、樺色と指さして教えてくれて。
一面が花で埋まる花畑へも行ったわ。
花を摘み絡めて花冠を作ってくれて、ナズナの茎を持って回してシャラシャラ音をたてて。
でも15歳で成人して、女性に持て囃されるようになって貴方は変わってしまった。
端正な顔立ちの公爵家の継嗣である貴方は、とても人気があって。この3年間、嫌味や誹謗中傷に晒されて、子爵家の娘でしかない私は散々な目にあったものだ。
しかし傷ついても貴方は寄り添ってくれなかった、たったの一度も。
許すつもりはないけれども、でも貴方を恨んだり憎んだりしていないわ。恨んだこともあったけど、人を憎しみ続けるのはとても疲れるのよ。
辛い勉強を頑張ってきたのは、動物や植物が好きで貴族なのにちょっと迂闊で優しい貴方を支えるためだったけれどもーーさようなら、3年前まで大好きだった人。
1ヶ月後、私は王立図書館にきていた。
天窓からの日差しを受けながら、連立する巨大な本棚の間を進み、黒光りをする板張りの廊下をギッギッと軋んだ音を響かせて歩く。
本棚の林の奥、古い空気がひとつに凝結したような薄濁りの行き詰まりの空間に、その文机はあった。
私は、いつものように文机の一番上の引き出しに手紙を入れた。
最後の手紙。
お別れの手紙。
一度だけでもお会いしたかったーー私は来週、王都を出るのだ。
この3年間、数々の嫌がらせに傷ついて弱気になった私は、吐き出せぬ心を宛先のない手紙を書くことによって自分を慰めていた。
心配げにオロオロしている父には、これ以上心労をかけたくなくて相談はできなかった。母を亡くし、領地を持たぬ法服貴族である父は、仕事が激務なこともあってずいぶん痩せてしまった。
万一、父に読まれたらと思うと屋敷には置けなかった。
そんな時に偶然見つけた文机を、書いた手紙の見つからない隠し場所として利用することにしたのだ。ここは建物の奥の奥で、人の姿など見たこともなかったから。
誰にも読んでもらうつもりはなかった。ただ辛い心を綴っただけの手紙だった。
けれども、いつの頃からだったろうか、返事がくるようになったのは。
姿も名前も知らない相手に、労られ優しくされて涙を流す夜がなくなったのは。
いつからだろうか、文机の一番上の引き出しに返事を入れてくれる相手に心ひかれるようになったのは。
相手が男性か、それすらもわからないのに、会いたくせつなく思うようになったのは。
カッ!カッ!カッ!
遠くから走ってくる足音が聞こえる。それは静かな図書館ゆえに大きく響いた。
ハッハッと呼吸を短く弾ませて男性が現れる。
高貴な身分をしめす宝石の額飾りと長い金色の髪が、天窓からの明かりにキラキラ輝き、大天使の降臨のごとく神々しい。
私は息を呑んだ。鼓動が跳ねる。
「やっと! やっと! 会えたっ! 部下にずっと見張らせていたんだ、君に会いたくて、この文机をもう3年間も!」
男性が近づいてくる。ぶわり、と総毛立つような美貌の男性だった。
「僕はいつも間に合わなくて。せめて名前と家を確認しようと部下があとをつけたけれども、用心深い君にまかれて成功したことはなくて。ああっ! やっと会えた!」
視線が絡まりほどけた。さらさらと水の音がするように流れる男性の金色の髪が、手を伸ばせば触れられるほどの距離で止まり。私は一歩を踏み出して男性と向き合った。
「会いたかった……!」
その言葉は私と男性の口から同時にこぼれた。
世界で一番美しい音楽のように。
世界で一番得難い宝石のように。
ピアノの鍵盤を奏でるように、お互いの親指、人差し指、中指、薬指、小指がゆっくり重なった。
翌日も会う約束をして、ふわふわした足取りで屋敷に帰ってきた私を、元婚約者が亡霊みたいな白い顔色をして待っていた。
「頼む。僕にやり直す機会を与えてくれないか?」
浮かれていた気分が一気に沈んだ。
はああ、と息をつく。まだ貴方に私が従うと思っているのか、と。
「君を失って、ようやくわかったんだ君の大切さを。君の惜しみない愛に慣れて君が尽くしてくれることが当然になっていて、僕は努力を怠った。けれども今度は間違えない。二度と君を裏切らない。だからもう一度僕と婚約してくれないか?」
「嫌です。裏切るとか、そういう問題ではないのです。もう貴方を私は愛していないのです」
3年間も酷い仕打ちをされて、愛情など砕け散ってしまっているのだと何故わからないのか。
冷めた気持ちは戻らないのに。愛には復活の呪文も回復の泉もないのに。
それに裏切らない? 流されやすい貴方が?
信用とか信頼とか、砂粒のような貴方が?
「そんな……」
元婚約者はショックを受けたように目に涙を浮かべた。まだ私に愛されていて、愛されているから許されて、復縁できる気まんまんでいたようだ。
「君は公爵夫人になりたくないのか?」
「公爵夫人ですか? 私にとっては価値のないものです」
私の口調は冷めきっていた。お腹の奥底で黒々とした怒りが牙を剥いて唸る。
「ご存知でしたか? 私は貴方の婚約者だったので高位貴族の社交場に出席していました。3年前は、私は13歳で、守ってくれるはずの婚約者がいない子爵家の娘で。虐げられなかったとでも? 侮られなかったとでも? 罵られなかったとでも? 貶められなかったとでも? 私がどんな目にあってきたのか、一度でも考えてくれたことはありますか?」
冷ややかな声音が私から溢れる。過去の涙の残滓のように。
「辛くて辛くて毎晩泣きました。公爵家の派閥、貴方の友人、貴方の恋人、たくさんの高位貴族。3年間、貴方は一度でも助けてくれたことがありましたか? はっきり言います、私が酷い目にあっている時、貴方がどこにいて何をしていたのか私は知っているのですーーやり直しができるなどという甘ったれた考えは捨てて下さい」
元婚約者が私の一言毎に涙をポロポロ落とす。もともと打たれ弱い薄い金メッキの人なのだ。
年上なのに頼りないところがあって、ずっと私は元婚約者をフォローしてきた。だから公爵夫人は私を放したくないのだ。
「あの胸がたわわな男爵令嬢はどうしたのです? 次の婚約者の予定の令嬢でしたでしょう?」
「大事な茶会で失敗して……。マナーも教養も全てがダメダメで、母上が激怒して……」
なるほど。公爵夫人にお尻をたたかれて私のもとにきたのね。
恋だの自由だの自分に酔うように言っていたけれども、役にたたない恋人はすぐにポイで、結局は公爵夫人に逆らわないのは子どもの時のままなのね。
「それに私は来週には王都を出立します。貴方が婚約破棄をしたのです。準備に忙しいので、もう図々しく屋敷に来ないで下さい」
私は自分の人差し指を元婚約者の心臓に立てて、にっこり笑った。
「1発、いえ10発くらい殴ってもいいですか、と私が言い出す前にどうぞお帰り下さい」
公爵夫人が、元婚約者の役にたつ私を復縁させようと権力を使ってきているので、王宮での激務にうんざりしていた父とふたり、王都をトンズラして旅に出るのだ。
あれこれ妨害しようと公爵夫人がしてきているが、高位の方に父が伝を持っていて準備は順調に進んでいる。
手紙の男性とも会うことができたし、王都で思い残すものはない。淡い思い出として生涯忘れることはないだろう。
熱の消えた表情でしょんぼり帰る元婚約者の後ろ姿に、悪霊退散とばかりに塩をまいた私は、この時予想もしていなかった。
その高位の方が、父の文官としての能力を高く評価していて、父を手に入れるために動いていたことを。
翌日会った図書館の男性が、求婚してくることを。男性の身分が元婚約者よりも上だなんてことを。
父はその高位の方に、私は図書館の男性に、それぞれお持ち帰りされてしまうなんてことを。
「側妃なんて嫌です」
と、理由をつけて穏便な対応で控えめに結婚をお断りをしようとしたら、まさか正妃となり唯一の妻となって溺愛生活が始まってしまうなんてことを。
さらに1ヶ月後、王宮の夜会で元婚約者が考えなしに再び復縁を迫ってきて、私の夫のとてつもない怒りをかった。そして公爵夫人は、息子の教育の失敗を我が身で味わうことになるのだった。
読んでいただき、ありがとうございました