9話 初めての魔法
「なんだ、アレ」
風を切るような猛スピードで、羊のようなモコモコした獣がこちらに向かってきている。よく見ると荷台を引いており、獣の上には少女が跨っていた。さっき聞こえた悲鳴は彼女から発せられたらしい。
「ひぇ~っ、ごめんなさいごめんなさい!」
「メェ~ッ!」
何人か跳ね飛ばされているし、道中の屋台もめちゃくちゃにしている。どう考えてもごめんなさいってレベルじゃないぐらい迷惑かけてるぞ、アレ。
このままあの獣に突撃されたら、俺とハルフィーさんも跳ね飛ばされかねない。
「うわ、危ない! ハルフィーさん、早く向こうに」
と、俺が手を差し伸べようと後方を見た時には、ハルフィーさんは姿を消していた。
「トウヤ様、ご安心を。ここは私に任せてお逃げ下さい」
消えたと思ったハルフィーさんの声が、獣が走ってきている方から聞こえた。いつの間に移動したのだろうか、全然気づかなかった。
ハルフィーさんは姿勢を低く構えて、腰の剣に手をかけている。そして彼女の周りがフワリと輝き始め、足元には魔法陣が展開されていた。
これが「魔法」と呼ばれるものなんだろう。俺は今起こっている現象から目を離せなかった。
しかし、ハルフィーさんの華奢な体だと吹き飛ばされてしまうのでは、と思ってしまう。俺を守るためにハルフィーさんが傷つく姿を想像して、俺は血の気がひいた。
「ハルフィーさん、危ないです! 逃げましょう!」
「大丈夫ですよ、すぐに済みます。貴方を絶対に……お守りします」
ハルフィーさんの声はとても真剣で固いものだった。思い詰めたような切羽詰まった様子に、俺は気圧されてしまう。
「で、でも、このままじゃ……」
確かに俺には、あの暴走する獣をどうにかできる術は持っていない。しかし、だからといって女の子に庇ってもらい、ここから逃げるなんてできるはずもなかった。
(嬢ちゃんに庇われるとは情けねぇなぁオイ。いっちょここでカッコいいとこ見せてやりな)
「え?」
寝ていたはずのオッサンの言葉が耳に入った瞬間、キィンと耳鳴りがして世界が灰色になる。と同時に、全てが静止した。
暴走する獣も、噴水の水も、逃げ惑う人たちも、腰の剣に手をかけたままのハルフィーさんも、何もかもが止まっている。
そして、この時をどれほど待ちわびただろうか……俺の胸から、青い光がフワリと出てきた。
「シャバに出れた礼ってやつだ。お前に、どんな魔法でも使わせてやる」
「は? え?」
状況が飲み込めず、周りを見渡す。俺以外、誰も、何も動いていない。
「おいオッサン、お前なにしたんだ!?」
「あん? 魔法でこの状況を何とかしようやって言ってんだ。そのために説明する時間が必要だろ。ちょちょいと時間を止めたまでよ」
「……時間を止めるって、そんな軽~い感じでできる魔法なのか?」
時間停止って結構すごい魔法じゃないのか。俺は魔法に詳しくないが、簡単な魔法には分類されてないと思う。
「ふん、全然軽くねぇよ。この時間停止魔法は俺が1番最初に生み出した超上級魔法だ。俺様以外に使えたやつは、大昔のシャバにはいなかったな。多分現代でもいないだろうよ」
「お前しか使えないのか。ちょっと見直したぞ」
もしかして、このオッサン実は俺が思っている以上に凄い存在なのかもしれない。
「すげぇだろ。俺は身を粉にしてこの魔法を生み出したんだぜ。おかげで、時間停止中は乳も尻も触り放題揉み放題ってわけだ」
「……」
少しでも見直した俺がバカだった。バナー広告のエロ漫画みたいなことをしたいが為かよ。そのまま粉になって消えれば良かったのに。
「何だその目は。……まぁいい、さっさとこの状況を何とかするか。このままじゃお前は男として最低だ」
「お前に言われるのは最高に不服だが、確かにそうだな」
ハルフィーさんが何をするのかは分からないが、できればこの危機的状況は俺が何とかしたい。要するに、かわいい子にかっこいいところを見せたいのである。
まぁそんな下心もあるが、ここでなんとかしないともっとたくさんの人が怪我をするだろう。それにこのまま獣が突進すると、この大きな石造りの噴水にぶつかってしまい、獣も少女も無事では済まないはずだ。
「貧弱なお前の力じゃ、あの獣を取り押さえるのも絶対無理だろうしな」
いちいち余計な一言が多いオッサンだが、ここで反論しては話が進まないので我慢する。
「いいか? 俺が術式や魔法構築、つまりは魔法で1番難しい部分をサポートしてやるから、お前は魔法でどうしたいのか、何をしたいのかをしっかりイメージしろ。想像力や意志が強くないと中途半端な魔法しか出ねぇ」
見ろ、とオッサンは獣の方へ飛んでいく。俺は喋れたり顔を動かしたりはできるが、この場から動くことはできないらしい。足を出そうとしたが、ビクともしなかった。
「こいつは興奮した獣だ。このままじゃまだまだ暴れまわるだろうな。で、獣の上には……おぉ、可愛いじゃねーか! あと数年したらさらに輝くな、こりゃあ……」
オッサンは説明よりも獣の上に跨る少女に興味を持っていかれたようだ。
「おい、脱線してんじゃねーよ。早く説明しろ」
「あー、はいはい。んで、お前はこの1匹と1人をどうしたい?」
フワッと俺の元に戻ってきたオッサンが目の前で止まる。
「どうしたいか、だって?」
そんなこと急に言われても、まず魔法でなにができるか分からない。
「ったく、ちょっと考えりゃ色々出てくるだろーが。俺だったら、この獣を木っ端微塵にするね。躾のなってない獣は今後の為に始末しといた方が良い」
「な、なんて恐ろしいこと考えるんだよ……俺は嫌だぞ、そんな物騒な魔法を発動させるなんて……」
確かにここまで暴れる獣は危ないかもしれないが、なにも殺すことはないだろう。
「ふーん、またなんでだ?」
「だって、殺すなんてかわいそうだろ。迷惑はかけてるけど、人を殺したわけじゃないと思うし。それに、多分その獣の飼い主は跨ってる子だろ? 悲しむんじゃないか?」
それを聞いて、オッサンは盛大に舌打ちした。
「チッ! 甘ぇな! 実に平和ボケしたやつの思考だ!」
なに怒ってんだ、と思ったが一瞬黄色い輝きに変わったので、怒ってはいないらしい。天邪鬼もいいとこだ。
「ふん、まぁお前がそうしたいならそうすればいい! 俺はもう口出ししないから、お前のやりたいようにやれ!」
「え、いやいや分かんねーよ! 説明フワッとしすぎだろ!」
瞬間、オッサンはまた俺の胸に入っていった。出てけよ戻ってくんな! と思ったところで時間が進み始める。
灰色だった景色は色が蘇り、人々の悲鳴が聞こえ、獣がこちらに向かい、今まさにハルフィーさんが大技を繰り出さんとしていた。
「精霊たちよ、私に力を……」
「待ってくれハルフィーさん!!」
俺はハルフィーさんと獣の方へ手を伸ばし、1歩前に出た。瞬間、俺の足元から魔法陣が展開し、物凄い速さで地面に広がる。
「!?」
「え?」
広がった魔法陣はハルフィーさんの足元に展開していた魔法陣をいとも容易く覆い隠し、飲み込んでしまった。それに驚くヒマもなく、どんどん魔法陣は広がっていく。
「な、なに?」
「どうしたんだ!?」
周りからザワザワと驚いた声が聞こえてくる。
そして視界に入っている自分の手が青く光り始めた。多分今俺自身が発光しているのだろう。劇的な変化に俺は焦るが、さっきのオッサンの言葉を思い出して冷静になった。俺はこの状況をどうしたいか。
(とりあえず止まれ! 落ち着け! こっちに来るな!)
そう強く思った途端、俺の身体の中を何かが駆け巡った感覚が襲う。そして羊のような獣が跨っている少女と荷台ごと、フワリと宙に浮いた。
「えっ、なになに、キャーッッ!」
「メェーッッ!」
少女と獣は結構な高さまで飛び、宙に固定された。獣は空に飛ばされて驚いたのか、大人しくなったようだ。
何とかこれ以上の怪我人は出ずに済みそうでホッと安心する。
(バカ野郎! 気を抜くな!)
「うわ、やだ、落ちるー!」
「メェッ!?」
オッサンの声に驚き見上げた瞬間、魔法の効きが弱くなったのか獣と少女が落下しそうになっていたので、慌ててもう一度手をかざし強く念じる。すぐに落下は防げたが、大きく揺れたので荷台が傾いてしまい、そこから何かが飛び出してきた。
「うわああああん!」
飛び出してきたのは、小さな女の子だった。荷台に乗っていたようだ。このままだと女の子は地面に叩きつけられてしまう。さっきと同じ要領で魔法をかけなければ、早く、じゃないとあの子は、
(おい、冷静になれ! お前の思考がまとまらないと、魔法は発動しねぇぞ!)
「わかってる!」
予想外の出来事が起こって、俺は内心取り乱していた。何度も強く女の子が止まるイメージをするが、脳裏に最悪の展開がチラついて集中できない。考えていくうちに、女の子はどんどん落ちていく。
「ああ、もう! 考えるのは止めだ!」
(オイ、お前なにを……わーったよ!)
とにかくあの子を助けたい、と強く思った。オッサンも俺の思考を汲み取ったらしい。それ以上難しいことを考えるよりも、俺は無我夢中で駆け出していた。
「トウヤ様!」
後ろでハルフィーさんの声が聞こえたが、足は止まらない。強く踏み込んだ地面に魔法陣が展開され、俺は高く飛んだ。人間がジャンプして飛べる高さを遥かに超えていたが、この時の俺はそんなこと気にする余裕なんて無く、落ちてくる女の子しか目に入っていなかった。
あっという間に女の子との距離は縮まり、俺は女の子を抱きとめる。落ちていく恐ろしさで目をつぶっていただろう女の子は、俺の腕の中でゆっくりと目を開けると、涙で濡れる瞳を何回かパチパチとさせてこちらを見つめてきた。
「怖かったな。もう、大丈夫だからな」
出来る限り優しく、女の子に声をかけた。女の子はホッとしたのか、またわんわん泣き始めてしまったので、恐る恐る頭を撫でる。懐かしいな……小さい頃、妹が泣くたびにこうやって頭を撫でてたっけ。
そう思ったのも束の間、下からワッと歓声が聞こえてきた。




