6:《竜戦士・後編》
闇の王国ツァルガの王城。
もう、どれほどの時間そうしていただろうか?
しんと静まり返り、がらんとしてしまっている広間に、タージュタージェはただ一人立ち尽くしていた。
「……?」
不意に、 彼の存在する広間に向けて 誰かが歩いてくる足音を耳にした。それは、とてもゆっくりとした歩調であったけれど、戸惑いなどを感じさせることがない、規則正しい速度を保って響く音であった。
推が、この場に現れるというのだろうか?
そんな疑問を浮かべはしたが、それが兄王ではないことは分かっていた。兄王であるならば、歩調が違うと感じたのだ。では一体誰がこの城を訪れるのだろうかと、もう一度考えはじめた時、開いたままの扉の影から、足音の主がその姿を現した。
タージュはその人物の姿を見て、驚きに目を見開いたのちに、戸惑うような表情で、その人物の名を呼んだ。
「カーリア……なのか……?」
すでにその人物の姿ははっきりと彼の目に映り、彼にとってごく親しかった人物であるということも分かっているのに、彼はあえてそう問う。そこには、「なぜ、ここにいるはずのないお前がいるのか」という、疑問が含まれていたのだ。
「……お前は、自分の妻だった者も、見忘れたのか」
闇の王国ではまず見ることのない青灰色の髪と鉛色の瞳を持つその人物は、一瞬のうちに頬を膨らませ、むっとした表情を作って見せたカーリアと呼ばれた女性は、気に入らないという感情をあらわにしてそう言った。
だが、その直後にタージュの表情が驚きから、悲しみと悔しさをない交ぜにしたようなものに変化して、
「……忘れるはずがないだろう?」
と、声を絞り出すように言う。カーリアと呼ばれた女性の麦情が、先ほどの怒りを無くして、変わりに鉛色の瞳に深い悲しみを宿す。
「それに、俺はまだお前の事を、「妻」だと思っている……」
一度目を伏せて言えば、カーリアと名を呼ばれ、妻だと言われた女性がゆっくりと瞳を閉じる。
「お前は……そう思っていてはくれないのか?」
最初に自分のことを「妻だった者」と言い、先程のタージュの言葉にも何も返す事をしなかったカーリアを見つめてタージュが問えば、彼女は観念したよに何度か首を左右に振り、顔を上げた。
「できることなら、妻であり続けたかった。けれど私は「時の王国の王妃」……。ツァルガの王子妃じゃない……」
カーリアは時の王国の国王リングの妹であった。時の王国と闇の王国とは古くからの国交があり、カーリアこのツァルガで何年かを過ごしてそうした経緯もあって、この大陸では珍しく、違う一族の王家の王子であるタージュの元へと嫁いだのだった。もとより政略結婚ということもなく、お互いの気持ちを尊重しての婚姻だったといわれ、仲睦まじい二人だといわれていたのだが、「大戦」の終結間近に……いや、時の国王「時聖王リング」が亡くなった時に、不幸が襲った。
「俺は、お前を返したくなどなかった」
そのタージュの言葉が示すとおり、カーリアは強制的に、時の王国へとつれ戻され、タージュとの婚姻の事実も取り消されてしまったのだ。
その理由は、国王であり時聖王であるリングの死亡により、王位継承者がいなったことにあった。
すでにツァルガへと嫁いだ後であったけれど、唯ー王家直系の者であったカーリアは、半ば強制的に王国へと連れ戻され、時王家に近しい血筋の者から国王となる婿をとり、王妃とされたのであった。ただただ王家の血を残す、そのためだけに。
カーリア自身、 まさかこのような事になるとは思いもしなかった事であったが、それでも自らの故郷を思えば、従うほかなかったのである。ただタージュだけは、そのことに納得することができなかった。
「リング王健在のころはお前を守ろうともせず、ツァルガに身を隠させていただけだった奴らが、リング王が亡くなった途端に血相を変えてお前を奪っていった……。お前は、物じゃないんだ。なのに……」
「タージュ……ごめん。私だって一生お前のものであるつもりでいたのは確かなことなんだ。……なのに、なんでこんなことになったんだろう? なんで私はお前の妻でいられないんだろう……?」
時の王家特有の鉛色の瞳を涙で潤ませて、まるでクージュに教いを求めるように言うカーリアの姿に、タージュは自らが立っていた王座の傍らから歩き出し、広間の中央の辺りで立ち止まり、肩を震わせている愛しい人を抱きしめた。離ればなれにされた時から、細くなったその身体に、眉を顰めてめてしまう。
「お前も、苦しんだろう? ツァルガがこんな事になって……。俺は、お前が最後までツァルガへの侵攻に反対してくれていた事を知っている」
そう言えば、腕の中でカーリアが肩がかすかに震える。
「あまり、買いかぶらないでほしい。私はただ、お前を殺されたくなかっただけ……」
タージュの背中へと手を伸ばし、ぎゅっとそのたくましい身体を抱きしめる。
「タージュ……怪我してない……?」
涙にくぐもった声で尋ねたそれに、タージュも応えるように彼女の身体をもう一度強く抱きしめる。
「大丈夫だ」
と。
「そう……なら、もう思い残すこともないかな……」
そういって安堵の息をもらし、彼女は今まで胸に埋めていた顔を上げる。
「タージュ、こんな事になった今でも……私達に国を滅ぼされ、ただ一人になった今でも……それでも、私の事を、愛してくれる?」
タージュを見上げて、切なげにそう言った。
「あたりまえだろう! 俺はお前を愛してる。そんなこと、ずっとずっと、変わりない」
カーリアの頬を両手で包み込むように押さえて、しっかりと目を見つめて言えば、みるみるうちに再びカーリアの瞳に涙が浮かんでくる。そうして、彼女は小さく微笑んで見せるのだ。
「ねぇタージュ、もう一度、私の事妻だって言って。お前のものなんだって、言って……」
それは懇願だった。
「ああ、何度だって言う。お前は、俺の妻だ。俺の愛する妻だ!」
彼女の願ったとおりにそんな風に返せば、ついに彼女の瞳から涙がこぼれ出して、その頬とタージュの手とを濡らしていく。タージュはそんな彼女の涙を止めたくて、その涙に唇を押し当てた後に、彼女の唇へとキスを落とす。
「タージュ、愛してる」
唇が離れた後に、泣いていることで声はかすれてはいたけれど、彼女は自らの愛する者の名をよんだ。
「帰りたかった、ずっと、ずっと、この国に。還りたかったんだ、お前の胸の中に……。お前の声が聞きたくて お前に抱きしめてもらいたくて……。ずっと、還りたいって……おもってた……。タージュ、愛してる。お前と出逢えて……幸せだったよ……」
その言葉を紡ぐ間に、徐々にタージュの背を抱きしめる彼女のカが抜けていく。
「カーリア、お前は還ってきただろう? 俺はもう、お前を離さない。だから、そんな事を……」
そんな事を言わないでくれ。
そう、告げたかったタージュであったが、そんな彼の腕の中で、カーリアの姿は次第にうっすらと霞みはじめたのである。今までしっかりと抱きしめ、その唇の暖かさまで感じ取れたというのに、何故か掌に感じるはずの彼女の温もりが次第に薄いものになっていくのだ。
そして徐々に彼女が光に包まれていき、その全てが光にとけこんでいく。
「カーリア!」
酷い不安を覚えて、腕の中で消えてしまいそうな彼女の名を呼ぶタージュであったが、カーリアはその声にうっとりと幸せそうに微笑んで、その笑顔をタージュの脳裏に焼き付かせたまま、夢のように消えてしまったのだった。
「カーリア! どうしてだ……! いったいどうして!」
わけが分からずに、いまだに彼女の温もりが残る掌を強く握りしめて、叫ぶように言うタージュであったが、どこをみやっても愛しい妻の姿はなかった。
「カーリア……どうして……!」
そう叫んだ瞬間。
ふいにタージュの元に、「声」が響く。
「それが、カーリアの最後の「心」だったのだ、タージュタージェ」
今までカーリア以外の気配などなかったはずなのに、何故かその声はタージュのすぐ近くで聞こえ、そのことに彼がはっとなって、声のした方向へと、強い視線を向ける。
「シュラント! その言葉はどういう意味だ! カーリアはいったいどうした!」
どうやら、彼にはその声の主が誰なのか分かったらしく、名を呼べば彼の目の前に朝焼け色の光が現れ、それが次第に一人の人物の姿へと変わっていく。朝焼け色の光と同じ色の長い髪を後ろでゆったりと一つにまとめ、タージュよりもカーリアよりも背の低い、外見だけではまだ十代後半くらいにしか見えない、しか
も男性であるのか女性であるのか判断の付きにくい外見となったその人物は、この大陸で知らない者はいないと言われるほどの人物であり、「賢者シュラント」と呼ばれ、大戦のおりに人々のために多大なる助力をしてくれた者であった。
「タージュタージェ」
悲しげに、朝焼け色の瞳を曇らせ、普段はかわいらしいと思える顔をゆがめたシュラントは、タージュから発せられた問いへの答えを口にしたくはないというように、眉を顰めて彼の名を呼んだ。
けれど、そんな事でタージュが退くはずもなく、彼はもう一度強くシュラントの名を呼び、その細い肩を掴んだ。そうされてしまえば、シュラントも目の前のタージュを見上げるほかなく、一度だけ息を吐き出して、言う。
「タージュ……取り乱さずに聞いてほしいのだ……。カーリアはすでにその命を失い、今お前の元に現れたのは、彼女に宿る、最後の力だったのだ……」
と、
「なんだと?」
命を失った? カーリアが?
あまりの事に、元々感情豊かなはずの彼の表情から一切の感情が消え、唖然とした様子で目の前の賢者を見返す。
「もとより魔力の強い被女は、死の間際、強いカで私を呼んだのだ。そして、こう言った。「もう、この身体ではタージュの元へと還れない。だからせめて心だけは、彼の元へと送ってほしい」と……」
だから私は、ここへと彼女の心を連れてきた……。
「馬鹿な。カーリアが死んだなんて。だいたい、あいつが死ぬ理由がないじゃないか。だれがそんな話を信じるものか」
口ではそんな言薬を返しても、何故か身体は震え、胸には鋭い痛みが襲う。
そんなダージュに、追い打ちをかけるように、賢者シュラントは告げる。
「カーリアはツァルガへの侵攻に最後まで反対していたのだ……。だが、時の王国の議会は、ツァルガへの侵攻することを認め、他国との同盟に荷担することを押し通した」
強く拳を握りしめたまま、タージュは賢者シュラントの言集を聞いている。
シュラントの方も、言葉にするのがつらいというように、かすかに顔が青ざめ肩が震えている。
「ツァルガへの侵攻を反対すれば、ツァルガに継ぐ軍事力を誇る時の王国はツァルガと同じ運命をたどることになりかねないからだ……」
「確かに時の王国は古くからツァルガと国交があったし、親しかったから……」
なにも自らすすんで他国に放たれた炎の火の粉をかぶりに行くことはなく、国を思えば時の王国の議会の決定は正しい事だと、タージュにも納得できる。けれど、それにどうしてカーリアの命が関わるのかが、わからない。
その疑間は、あからさまにタージュの表情に出たようで、シュラントはもう一度長く息を吐き出して、まるでしきり直しだというように、頭を強くふって自らの気を奮い立たせた後に、強い視線でタージュを見上げた。
「最後まで議会の決定に反対し続けた彼女だったが、それも既に無意味になってしまった事をさとると、彼女はお前の元へと向かう決心をし、たった一人で城抜け出したのだ……」
その言葉を聞き、タージュが驚きの表情をつくる。
「そんな馬鹿な。時の王国とツァルガとは大隣の西の端と北の端。そんな長い道のりを、女がたった一人で旅することなどっ」
無謀でしかあり得ない。
最後の言葉は声にならずに、唇がその動きだけで言葉を刻む。
「確かに、お前の言うとおりなのだ。いくら彼女が武勇、魔法の両方に優れているとはいえ、限度というものがある。しかも彼女の目的は、当時はまだ極秘裏だったツァルガへの侵攻計画を、ツァルガ王トゥラースへともたらす事でもあった。ゆえに……」
そこまで言って、再び賢者が口ごもる。
そこから先が、彼女の死に関する核心部分なのだろう。だがタージュはその事でシュラントを促すことはなかった。
賢者の今までの説明で、タージュの脳裏には一つの仮説が、すでにできあがっていたのだ。しかも、一番考えたくもない仮説が。
「時の王国の議会は……まさか……」
「その、まさか、なのだ。時の王国の議会は情報の漏えいをおそれ、彼女に……自国の王妃に追っ手をさしむけたのだ……」
「もういい!」
それ以上先はもう言わないでくれと、タージュは叫びに近い声で言い放った。
「なぜだ! 何放、奴らは俺からカーリアを引き離しておいて、自らその命を奪った?」
俺にはその命が必要だったのに!
紅い絨毯の上に力無く膝を落とせば、窓から暮れかかったタ日がタージュの視界に飛び込んでくる。けれど、彼はその夕日のまぶしさに、目を眇めるめることもせずに、初めからそんなものは見えていないかのように、ある一点をずっと睨み付けている。まるでその場にカーリアの仇がいるかのような視線で。
「実際には、追っ手に追いつめられたカーリアが、ツァルガの国境間近の崖から足を滑らせたのが、直接の死因となったのだ」
「……ツァルガの国境付近の……崖……?」
そんな近くで?
タージュの視線はそう語っていた。
「あともう少し早く、この国にたどり着いていれば、救うことができたのやもしれない。今回のこの無益な戦いも、違った終結のしかたをしたのかもしれないのだ」
目を完全に伏せ、ゆっくりと語った賢者ではあったが、その顔は悔しげに歪んでいた。
「馬鹿な。俺は、あいつがそんなに近くで、つらい目にあっているのに……何も気がついてやれなかったのか? あいつが俺に助けを求めていたかも知れないのに、俺は!」
握りしめていた掌を解き、先ほどまである一点を現み付けていた視線を、今度はその掌へと向ける。
「この国のために、あいつは死んだのか?」
「カーリアは、言っていた。愛する男のために、自分の国を犠牲にしようとしたのだから、神罰がくだったのかもしれないと」
シュラントのその言葉の直後、ダージュは自らの右手で挙をつくり、それを思いきり床へとたたきつける。人以外の竜の力を有した彼のその力に、激しい音を立てて、床に敷き語められている石が砕け、彼の拳が沈むが、彼はそれをじっと見つめている。
「そんなにも、ツァルガは畏れられていたのか……? あれほどに、この大陸のために戦ったのに。俺たちの持つ力はそんなにも強すぎたのか……? 国が滅ぼされなければいけないほどに? 王家が散り散りにならなければいけないほどに? カーリア……お前を失わなければいけないほどに……?」
その声はかすれ、肩が震え、紅い絨毯にぽつぽつと染みができあがる。
「カーリア!」
その名を叫ぶ声が響き、握りしめた手の中で床石が砕ける音が響く……。
「タージュタージェ……」
小さく名を呼びながらゆっくりとタージュへと近づき、その手を伸ばす賢者。そうして自らの視線よりも低くなった彼の、竜の角の存在する頭を両手で支え、そっと包み込むように胸に抱く。
「……っ」
ほんの少しだけ、賢者の行動に反発するタージュの意志を感じたが、賢者はそれをあえて無視して力いっぱい抱きしめる。
下手をすれば、この大陸に存在するすべての者に向かいそうなほどに大きな憎しみと、それと同じくらい強い自らに対する怒り。そして……その二つをも呑み込んでしまうような、深い深い悲しみ。
そんな彼の心が、賢者シュラントの心に直接流れ込んできて、賢者はタージュを抱きしめたまま、その瞳からはらはらと涙を流す。
「タージュ……お前の心が……痛い……。私にはその痛みを癒してやれないのだろうか……」
悲しげにつぶやいたその声に、タージュはためらいがちに賢者の背へと手をまわし、すがるように抱きしめた。
「くっ……うぅ、うわぁぁぁぁっっっ」
ついにこらえることができなくなったのか、タージュが大きな声をその場であげれば、その声に宿る竜の力が、彼と賢者とを中心に、広間の床を円形に押しつぶすように砕いていく。
賢者はそんな彼をただ抱きしめることしかできずに、ぎゅっと瞳を閉じた。そして彼の竜の力でこの城が崩れてしまわないよう、二人の周りに結界を張り巡らせて行く。
「……なぜ、人間はこんな風に他人を傷つけなければ、生きていけないのだろうか……?」
そんな賢者のつぶやきは、だれも聞き取るものがいないままに、タージュの叫びにかき消されてしまった。
「それでも……それでも私には、人間を見捨てることなどできないのだ……。私は……人間達の心によって生かされているのだから……。アルラネウス……お前が全てを託した人間を、私は救えるだろうか……?」
何も存在しない空中に視線を向け、タージュに魂を融合させた最後の竜への問いかけを付け足して、賢者はもう一度タージュを抱きしめたのだった。
こののち、竜戦士タージュタージェはツァルガの大地をただ一人で守り続けていく。
闇の王国の大地とその民達にかけれた呪いも、彼の竜の魔力の前では意味をなさず、ツァルガの大地は人の住まぬ大地のままに、数百年の時が流れていくことになった。