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九頁目 ルーチンワークの打破に伴うリスク。(暇無日曜)

 ふと目覚めた俺が外を見ると、まだ時刻は夜明け前だった。薄暗く、かすかに輪郭りんかくを捉えられるくらいに月光で照らされた中庭。近頃は寒くなってきた。こんな時間帯では長く廊下に居る事すら辛い。客用棟には廊下を歩くときも寒くないよう、一定の間隔をおいて石油ストーブを設置しているのだが、従業員棟にも備え付けてもらうのはどうだろう。

 ……いや、その前に真剣に客の呼び込みをしなくちゃならないか。いい加減この宿屋の中で従業員以外の人間の顔を見たい。俺を狙った侵入者とはたまに会うことになるだろうけど。

 何にせよここは寒い。とにもかくにも早く用を足して部屋に戻り、暖かい布団に戻りたい。なぜなら今はまだ日が昇っていない、つまり夜なのだ。夜は寝なくてはならない、と俺は思う。明日に備えて休むため。まあ明日は日曜日だけど。なんか寝ぼけてるな俺。

 トイレは一階の裏口に繋がる階段を下り、右手の方に見える廊下を進んで厨房を過ぎたところだ。大丈夫だ。今日は階段のところで酔いつぶれた白藤が寝ていることもない。昨晩踏んづけてえらいことになった。




 寝巻き用の作務衣の裾で濡れた手を拭きながら、なんとなく廊下の向こうにある、縁側から見える中庭の方に目をやった。わずか一、二分の間にも日は確実に昇っているようで、さっきまでは輪郭しか捉え切れなかった中庭の景色は、既に色合い、質感まで感じられるくらいに日に照らされていた。

 柔らかな日差し。晴れてゆく朝もや。――不思議だ。二度寝する気がなくなってしまった。


「ん?」


 穏やかな朝の中庭、その中央にある池の淵。そこに人影があった。全体的に黒っぽい人影の方向からは、素早く、鋭く、幾度も。何かの音が聞こえた。空気が断ち切られているようなその音は、人影の手元から聞こえてくる。その諸手もろてに握られているのは。

 一振りの打刀うちがたな。反りの深い、みだれの刃紋が映える、美しい日本刀。どきりとして、物陰に息をひそめた。

 もしも俺を狙ってきた襲撃者だった場合、わずかな気配を悟らせることが命取りになる可能性がある。足音を消し呼吸を殺し、尚且なおかつ戦闘体勢に移る。この宿には姫たち、従業員がいる。彼女たちに危害を及ぼすことは、許せない。どうにかしてここで、打倒する必要がある。

 人影の剣技は舞うように飛ぶように、鋭くそれでいて滑らか。踏み込みは音がしないが、決して弱いわけじゃない。技法として熟達しすぎて、音を出すような無粋な域をとうに過ぎているのだ。流れる足捌あしさばき、瞬時に入れ替わる重心。

 居つくことなく、花に降り立つ蝶のごとく優雅な斬り下げ。それでいて、落差の激しい滝のごとき力強さ。斬り上げは、素早すぎて落雷が天に昇っているように見えた。一つ一つの動作は流麗。豪快。優雅。大胆。矛盾しているけど、それがその剣技の美点となっていた。


「その程度の気配遮断では奇襲を仕掛けることはおろか、反撃も容易ではないでしょう。もう少し歩き方から構えを直すことを、わたしはおすすめいたしますね」


 薄く闇のベールがかかった中庭にいた、人影が声をかけてきた。手にした刀から、先ほどまで虚空に流れるだけだった殺気が向けられた。殺気は俺の目に穏やかな中庭の風景を、修羅の練り歩く戦場に視せる。

 鋭い瞳が首ごとこちらを向き、息が詰まった。脳内に警報が鳴り響き、自分が一太刀で仕留められる様子が幾度もまぶたを通り過ぎる。――斬撃は来ない。当然だ、目の前にいるのは俺の知ってる人物だ。斬られることはない。ない。ない。絶対に、ないはずだ。なのに。

 その切っ先は、俺を惑わす。寂しげな瞳が、俺に何かを訴えた。


「のぞき見とは、あまり感心出来ないことですね。有和良春夏秋冬ありわらひととせさん」


 なぜか役職名ではなく、俺の名を直接呼びながら。葛葉は刀をさやに納めた。瞬間、今まで一滴、二滴とこぼれるだけだった冷や汗が、大量の脂汗に取って代わられた。恐怖が発汗すら押さえつけていたらしい、今頃になって体中に熱がこもっていたことを感じる。汗と共にそれらは流れ去ったが、襲ってきた感覚はなかなか拭い去れなかった。


「……っ、はあ。おはよう、葛葉」

「はい、おはようございます、春夏秋冬さん」


 いたずらっぽく微笑みながら、精一杯しぼりだした俺の挨拶に軽く答えてくる。こっちはさっぱり笑えない。今でも、その左手に提げられた刀が威圧感を持って俺に殺気を叩きつけてくるのだ。これまでもかなり危ない人間、または人外と渡り合ってきたが。葛葉はそれらと並ぶか、ひょっとするとその上を行く剣客だろう。


「なんで名前の方で呼ぶんだ?」

「今はまだ就労時間外です。仕事の時間と定められているのは朝六時からですから。少なくともあと五分は、わたしは『従業員の葛葉』ではなく、『一個人の葛葉』です。まあ、だからどうということもないのですが」


 なるほど、腕時計を見てみると今はまだ五時五十五分。あと五分経過するまでは、葛葉は立場上も俺と同じ、ただの一個人ということか。


「いつもこういうことを?」

「そうですね、余程体調が悪くない限りは、五時から一時間。構え、動きから技法までの流れ、と毎日修練を怠りません」

「それはそうだよな。でなきゃ、あんなに綺麗な剣技になるハズが無いし?」


 葛葉は刀を取り落としそうになる。慌ててつかみ、胸に抱えながら尋ね返してきた。


「きれい、ですか?」

「うん。色々思うところはあったけど、やっぱりどれもなんかカッコつけた言葉になりそうだからさ。一番シンプルで一番似合った言葉にしてみた。やっぱり、合った言い方じゃなかったかな?」


 そんなことはないです、と首を振りながら、なんだか照れた様子の葛葉。刀を抱きしめながら、俺の居た縁側に近づいてきて、座り込む。立ったまま話すのもなんだったので、俺もその横に腰を下ろした。黙って日が昇る様子を眺める。


「……でもやはり、わたしは綺麗な剣だとは思えません」


 ちょっと間をおいてから、葛葉は重々しく口にした。横に硬さと重量感を併せ持つ音を立てながら置かれた刀を撫でる、その目は寂しそうだった。


「なんで?」

「今の春夏秋冬さんのその汗が、理由です」

「汗かいてるのは葛葉もだけど」


 バッ、と着物をはためかせ、俺から離れる葛葉。顔を赤くして自分の身体を撫で、どうも汗臭くないか気にした様子だった。別に気にしないっていうのに。


「でっ、ですから。春夏秋冬さんのその汗は、わたしが向けてしまった殺気のせいでしょう?」


 作務衣が身体にべとりと張り付いている感触。俺も相当、汗をかいたらしい。よく見ると、さっきまで俺が立っていた場所には、汗で小さく水溜りが出来ていた。殺気を向けられていた時間は、ごくわずかな間だったはず。だが俺には、数分くらいの出来事にも思えていた。


「まぁ、ね。それは否定できない」

「結局こうした剣技は、どんなに形式が分かれていっても全て人殺しの技です。それを褒め、あまつさえ綺麗と言ってのけるだなんて、不謹慎なことですよ。本質を見ないで表面だけ見たセリフととられます。もっと考えて、発言をしてください」


 ちらちらと俺の腕時計を気にしながら、葛葉はブツブツと暗い面持ちで俺をさとしてきた。就労時間まではあと二十秒くらい。

 龍頭りゅうずをつまんで俺が隣の葛葉に笑いかけると、なんだか困惑した表情で葛葉は笑った。俺は軽く龍頭を回して、六時迄の時間を(、、、、、、、)十分延長(、、、、)した。これであと、十分までは葛葉も遠慮なく俺にものを言える。


「そうかな。感じ方は人それぞれなんだから、俺がそう言ってるのは俺個人の意見として認めてほしいよ。今こうして、『従業員の葛葉』じゃなく『一個人の葛葉』として俺が認めてるみたいにさ」

「卑怯な物言いですね」


 俺と目を合わせず、刀を見つめて葛葉はうつむいた。


「卑怯か? 認めるって点では同じだろう。それに表面だけ見て言ったつもりはない」

「では何を見て先ほどのセリフを言ったのですか」


 ……それまで言わなきゃいけないのか。これは直接言うのは、ちょっとあれなんだけど。


「今までの葛葉を見てきて、だよ」


 ええい、言ってみると恥ずかしい恥ずかしい。葛葉もきょとんとしてるし。

 けど言いだしたら止まれないのが俺の常だった。なんだかなあ。


「まだまだ短い付き合いだけど、さ。人柄のまっすぐさとか、まとめ役として真面目に仕事に取り組んでるところとか。つまんないことだって言うかもしれないけど、それは十分大したことだ。俺にとっては少なくとも、そうなんだよ。だからそれら今までの葛葉を見て、俺は言える。普通なら人殺しの技でも、きっと葛葉ならそうじゃないものに変えられるって」


 立ち上がって、俺は廊下の向こうに逃げる。これ以上思いつきの言葉なんか言いたくない。やっぱまだ俺も寝ぼけてるんだろう、あんまり慣れないことは口に出すもんじゃあない。


「ダンナ様」


 後ろから、呼び止める声。無視しようかと思ったが、そのまま背を向けて俺は返事する。


「な、なんだ?」

「ありがとう、ございます」


 見えないけど。葛葉が、微笑んだ気がした。照れくさかったが、俺もそれに後ろ手を振りながら合図する。

 さて、汗をかいたことだし風呂にでも入ってくるか。朝早くだし、客もまずいない。たまには大浴場を使おうか。




 『風』の棟を突っ切って大浴場に向かう。と、のれんが下ろされた二つの入り口のうち右側に、『入り口落とし穴につき迂回せよ』と意味の分からない立て札があった。一度しか使ったことがないが、その時は確か、右側は女湯だった。のれんが下ろされているためどちらがどちらなのかよく分からないが、こんな時間だし関係あるまい。うう、汗が冷えてきた。早く湯に浸かりたい。

 二列並んだ棚に収められた籠のうちの一つにべたつく作務衣を放り込み、脱衣所の端っこにあるタオルを腰に巻く。室内の浴場は湯気が立ち込めており、既にいい湯加減になっていた。手桶で湯を汲み体にかけ、ある程度汗を流してから足先を湯に浸ける。急に肩まで浸かると、熱い湯だと心臓に負担がかかるとか。なので、最初は足から、徐々に慣らしていく。


「ふー。やっぱり従業員用の中浴場とは違って、開放感があるな」


 とぽとぽ湯をあふれさせている龍の口、その真下で熱い湯を受ける。他に人がいるときにこれをやると嫌な目されるからな。一人のときだけだ、こういうことが出来るのは。そのまま目を閉じ、しばらくは湯船に注がれる天然温泉の音に耳を澄ます。……早くも熱くなってきた。外に出て、風に当たって涼もう。

 ガラガラと引き戸を開けると、外から吹く冷たい風が、俺の身体を瞬間冷却。寒い。ところどころ設置された飛び石の上をすたすた走り、急いで俺は露天風呂に駆け込もうとした。が、それは叶わなかった。


「…………おい」

「あ、ダンナさんだぁ。何やってるの?」


 胸元でタオルをきっちり押さえた姫と、大して気にしてないせいで今にもずり落ちそうなぱとりしあ。前者はおろした髪をなびかせながら、左で音速を超えたアッパーカット。最後に俺に見えたのは姫の行動に気づいて制止に入ろうとしたぱとりしあ(タオルはズレた)と、迫り来る小型ミサイル級の威圧感を持つ拳。

 鼻っ面が吹き飛んだような錯覚を覚えた。


        +


「って待ておかしいだろ、なんで俺が殴られなきゃならない?」


 理不尽に対する対抗心が、俺に覚醒をうながした。倒れてからおそらく数秒で、立ち上がる。見上げると、姫が肩で息をしながら右手でタオルを押さえ、左手でもう一撃、はなとうとしていた。


「だから、ちょっと待て! なんでだ?! 俺は男湯に入ったはずだろ、なんでおまえらがいるの?! そしてなんで殴られなきゃいけないんだよ! 男に対して女がセクハラするのも犯罪って知ってるか知らないのかじゃあ覚えろ!」

「安心しなダンナ。セクハラも何も、問題はねーんだ」


 おろした赤い髪が吹く風に舞い上げられ、白い柔肌が弾いた水滴が、空に散る。握り締めた拳に胸の前でさらに固く力を込め、姫は俺の顔面に狙いをつけていた。


「証拠も何も、まず告発する奴がこの世にいねーんだからな?」

「殺害宣言!?」


 慌てて避けた一撃には、さっきまでよりも力がこもっていた。逆に言えばそれはキレの方を捨てた攻撃だったので、とりあえず寸前で避けることが出来た。横に転がり、草むらの中に入る。


「待て、待て、待て! こんな格好で争うのもなんか間違ってる気がする!」

「んなこと言いながら、さっきからあたしの胸ばっか見てる気がすんだけどな」


 どうせ見るならもっと起伏ある体型の方が……くそう! なんで俺は心中の考えが表情に出やすいんだ! 違う、俺が見てるのは姫の構えた左拳が、いつも胸の前に来るからであって決してそういうやましい考えの元に起こった行動ではないだからその凶拳を下ろしてくれ頼む!


「二度目だろ?さすがにもう許してやるこたぁ出来ないね。覚悟して歯食いしばって目ん玉ひん剥け」


 あ、ダメだ。拳が近づいてくる。スローモーション。止まる時。

 そして、俺は止まった時間の中をものすごいスピードで逃げた。俺の力ではなく、ぱとりしあの力で。

 一応、という申し訳程度の位置で巻いてあるタオルが頭上に見えた。が、姫よりはよほど成長の見られる胸部に目はいかない。その上で輝く表情が、今後の自分の行く末を示唆しさしていた。

 じかに見たことは初めてだが、トリップしている人間とはみんなこんな表情なんだろう。危険度大。助けて。


「――いってらっしゃい、ダンナ。色々失うと思うけど、それも人生経験ってこったな。諦めな」

「いい笑顔だな姫! ちくしょう!」


 掴まれている右腕をひねって返し、拘束を外す。『眼』の異能ちからは……傷つけたくはないし、使うしかないか。『左』だけでいいかな、今回は。よし、使おう。瞬間的に目を合わせて、ぱとりしあの目から、幻を叩きこむ。


「『識れ』」


 幻覚を見て、それに惑わされているぱとりしあ。そのすきに後ろから担ぎ上げ、室内浴場に放り込む。引き戸はデッキブラシを使って固定、中から外には出られない。ふう。一仕事終えた感じで、俺は元の位置まで戻った。


「容赦しねーんだな。まあいいけど……やるか? ダンナ」


 相変らず左手だけで拳を握り、俺に向き合う姫。表情は硬く、俺は立ち合わねばならない不幸を呪いながら、両腕のガードをあげて専守防衛の構えをとった。


「ならこっからは正当防衛だ。やりたいって言うならやるけど、そうそう簡単に勝てると思うなよ?」


 軽く俺が構えると、姫は拳を下ろして不機嫌そうに口を尖らせた。そして唐突に大きくくしゃみをして、俺に指を突きつけると「次はないから」と宣言し、急いで湯船に戻っていった。

 俺も寒かったが、同じ湯船には入れない。柵を乗り越え、隣の露天風呂に向かう。入り口には立て札があったが、中は何も変わったところはないようだ。


「で、なんでそっちの湯船に居たんだ?」

「朝早くに起きて、あたしが弓の練習をしてたんだ。そしたら、汗流しに風呂行く途中であいつが先に向かうのが見えた。だから先回りして入って、立て札を立てたんさ。なのにあいつはさっぱり気にしないで男湯から入って、結果湯の跳ねる音で見つかっちまったんだよ……」


 お気の毒。


「にしても、弓なんてやってたのか、姫。さっき葛葉も刀を振り回してたけど」

「あいつほどじゃねーけどさ。ここの連中はみんな色んな事情の末に学んだ、特技とか持ってんだ」

「へえ、全員?」

「ん。斎もそうだけど、お客さまとなんらかのトラブルになっても平気な程度には、戦える連中が揃ってんよ」

「大したもんだな」

「ダンナだって、戦えるほうだろ?」

「ああ、まあ」


 軽い声で問われたが、俺は誤魔化し、はぐらかしたような答えを返すことしかできない。……父さんがなにも話していないのか、俺の事情についてはみんな知らないようだし。いくら親しくなってきたとはいっても、話せないことはある。

 やがて、会話が途切れて、ざばり、と動く気配。その後もしばらく俺は湯につかり、お先にと声をかけた姫が先に上がってから、俺も男湯の脱衣所に戻ることにした。


「ふいー。ようやく出れる」

「な、ななななななな?! なんでダンナ様がこちらの湯に?!」


 アレ、葛葉? え、ちょっと待て。まさか……姫の奴立て札外していきやがったのか?!


「誤解だ。事情があって、姫とぱとりしあが男湯に入っててだ、俺は男湯にいるわけにはいかないだろ」

「支離滅裂なことを言ってはぐらかそうとしないでください!」


 四面楚歌。


        +


 たった一時間ちょっとの間にずいぶんと濃い時間を過ごした気がする。疲れた。ともかく、今日という一日を乗り切る力を得るために俺は朝食をとることにした。

 七人もの人間がそろった食卓というのは、小、中学校の給食以来の経験だ。少なくとも、自宅では一度も経験したことがない。


「しょうゆとってほしいです。こちらに渡すのです」

「自分で取れよ」


 目玉焼きを前にしたひいらぎが、俺にそう命令してきた。語尾に『です』と付いてるせいで勘違いしそうだが、この語尾には人を敬う気持ちは込められていない。お願いというものでもない。多分、こんな口調になったのは奴の親御さんが傍若無人やりたいほーだいな柊の態度を見て、せめて形だけでもと丁寧口調を教え込んだためだと思う。


「取れ、なのです」

「やっぱり命令形だったか。せめて丁寧な物言いを覚えてからこの食卓に舞い戻れ」


 この和風な宿に来てもなお、黒い執事服のままでいる糸目の少年は、じっとこちらを見据えてきた。


「……狭量な」

「今なんか悪口言ったか。言ったな。よしそこに直れ頭にしょうゆかけてやる」

「よせよ、大人げねぇ」


 うう。たしかに言われてみればその通り。でもなんでだろうな、不思議と、苛立つんだよな。姫が横からしょうゆを渡してやったからなんとかなったものの。

 第一印象って、大きいんだな。と、そこで突然に、川澄さんが立ち上がる。全員の注目を集め、こほんと咳払い。


「そういえば、すっかり忘れておったことがあった。発表する。あ、柊。私にもしょうゆをくれ」


 大声でそう宣言し、しょうゆをめざしにぶっかけながら、着物の帯に挟んでいた封筒を取り出す川澄さん。台所の端に居た黒猫、スミス(葛葉命名らしい)が、それを見上げてなーご、と鳴いた。


「帰路の途中、斎様いつきさまと会ってな。この封筒を現主人に、と預かってきた」

「やたら重要なことを忘れておったのじゃな、おまえ」

「へえ、父さんから。ふうん……なら預かっとくよ」


 しらけた目で川澄さんを睨む白藤の前に手を出し、川澄さんの硬い手から、俺はその茶封筒を受け取った。あの父さんは、一体何を言うために俺に手紙を送ることにしたんだろう?


「まあいいか、とりあえず朝食だ朝食」

「あや? 重要そうなものなのに、開けなくていいの?」

「いや……長年あの人の息子をやってるけどさ。なんかこうやって改まったことしてくるときって、大抵ものすごくウザったいことの前触れなんだよな。多分開けた瞬間から気分を害すから、とりあえずその前に食事だけでもしておこうかな、って。気分悪いまま食べても、絶対おいしくないから」


 箸をくわえたままのぱとりしあに俺の経験則を説明。俺は反抗期に入る前から反抗しまくってました。正直な話、うちの父親はかかずらってると相当に疲れます。会話しなくても疲れる。

 そのクセ近所の人やら俺の友人やら学校の先生やら、『日々あの父さんと一緒には居なくていい人』たちからの人気は高かった。毎日あのテンションに付き合ってみろ、ものっすごい大変なんだ。


「色々あったんだろ、ダンナ。分かったからその遠い目すんの、やめてくんないか?見てるこっちも寂しい気分になっちまうから」


 え? そんな顔になっていたのか?


「台所仕事はそう得意じゃねーんだけどさ、あたしが作ったぬかづけ。これやるから元気出しなって、な?」


 あれ? 姫、なんでそんなに温かい目で俺を見てるんだ? あ、どうも。ぬかづけはいただきます。

 姫の赤い箸がきゅうり一本丸ごと掴み、食卓の上を通して俺に運搬してくる。俺はそれを半分まで食べた米用の茶碗で受けようとした。ああ、米とよく合いそうなぬかづけだ。が、横から飛び込んできたぱとりしあが、口でそれをキャッチ。どうやってその小さな口に納めたのかは謎だが、一本丸ごときゅうりが消えた。


「こらぱとりしあ! おまえにあげたわけじゃねーんだぞ!」

「ふぁっふぇふぃめひゃんのふへたふはふけ、ふぉくもふぁへふぁふぁっふぁ、ぃたっ!」


 食べながら喋ったせいで舌を噛んだらしい。頬を両手で押さえ、かぶりを振りながらうつむく。と、さらに喉にぬかづけがつまったらしく、頬に添えていた両手が首を押さえ始めた。


「おっと、これはマズいです。どうぞ、お茶なのです」

「柊おまえコレ熱湯でれた茶だろ。ダメージ追加してどうするんだよ」


 むー、むー、と苦しそうに唸るぱとりしあ。白藤が面倒臭そうに台所に置いてある急須きゅうすを取りに行く。確か、その中には冷えた緑茶があったはずだ。


「大丈夫か、ぱとりしあ」


 横に居た俺は心配になって、軽く背中を叩いてやる。ようやく届いた緑茶、白藤がそれを俺に手渡そうとした。が、白藤の手がすべり、机の上にとりあえず放置していた、茶封筒に、その中身を……


「うわっと!」


 空いていた右手で俺が湯のみを弾く。なんとか中身は封筒にはこぼれなかった。

 しかし空中を舞う湯のみ。行き先は、姫の頭。


「ん?」


 箸で叩いて軌道修正。さらに飛んでいく湯のみ。中身は、そのまま川澄さんの頭に。


「あっづああああああああああああッ!!」

「なんでさっき俺が柊に言ったのに、また熱い茶を持ってきてるんだよ」

「急須にこれしかなかったんじゃ」


 しらばっくれる白藤、叫ぶ川澄さん、横でうろたえる姫、半笑いの柊、相変らず苦しそうなぱとりしあ、それをどう出来るでもない俺。葛葉はこの惨状を見て、溜め息一つついた。


「む゛〜っ!」


 暴れだすぱとりしあ。俺は慌てて背を撫でる。おいおいこんなんで死にかけるとか洒落にならな、って。

 すると、何か、こう。手に引っかかった感じ、が。


「む?」


 ぴたりと動きを止め、頬染めてこちらを見るぱとりしあ。

 まさか。

 外、れ、た ?


「……んく……、ダンナさん。勘違い、しちゃうよ?」

「違うッ! そんなつもりじゃなかった! 本当だ、なんでそんな潤んだ目で俺を見る?! 姫、葛葉、そんな犯罪者を見るような目で……」


 罪悪感。被害者ぱとりしあは違う方向に気にし始めたみたいだがそこはスルー。これは自己の尊厳プライドとか矜持プライドとか、そういうものに対する自己嫌悪と、罪悪感だ。どうしようもないな、俺。最悪だ、俺。


「あーちくしょう」


 頭を抱えて机に突っ伏す。瞬間、肘が何かを押した。


「?」


 パシャ、と水気の広がる音。見ると、味噌汁の池で茶封筒がプカプカ浮かんでいた。


        +


 全面的に俺が悪い。それは分かっているんだが、どうも今朝は不運だ。ただ思うに、食堂の一件は柊と白藤と父さん(の手紙)が悪い気がするのは気のせいか? 気のせいか。


「しかしどうしような、これ。父さん、相変らず万年筆でしか物を書いてないみたいだし。インクがとろけて全然読めない」


 茶封筒の中には三枚の薄い便箋びんせんと共に、何かの御札おふだも入れられていた。けれども全てインクがにじみ、文字と呼べる形態をしていなかった。永久に読めない状態になってしまったわけだ。

 いけ好かない父親ではあったが、急に旅になど出て何をしているのか。それだけが少々、気になった。自室の畳に寝転がって天井を見る。印象の薄い顔立ちだった父さんの顔は、木材の木目にすら見てとれるくらいにどこにでもありそうな顔だ。特徴として挙げられるのは、長い間暮らしてきた俺でも二つ三つしか挙げられない。それも『ついていけないマイペース』だの『やたら不死身』だの、長所には出来なさそうなものばかりである。


「それでも一つだけ挙げられる長所としては、息子と仕事のことには一所懸命、ってところか」


 その一所懸命さが俺にはものすごく面倒だったが、周りから見ると美徳らしい。よって長所と数えてやろう。


「何やってんのかなぁ」


 これで特に理由が無かったりしたら殴ってやる回数さらに二回増加だ。既に一回分は俺に色々押し付けたことで決定済み。早く帰ってきやがれクソ親父。天井を見上げながらそんな怨嗟えんさを吐き出してみる。すると、部屋の入り口であるふすまを、軽く叩く音がした。


「邪魔するぞ。ダンナ、居るか」

「はいよ」


 ふすまをすっと開けて、姫が入ってくる。俺は身体を起こしてあぐらをかき、座布団に手を伸ばして姫の座るスペースを作った。姫はそこに正座で座り込み、俺に向き直る。……毎回思うけどちっこいな。座布団が大人サイズだから、上に座ると人形みたいに思えてしまう。


「さっきのことなんだけどよ」

「いや、だからミスではあったけど故意じゃあないんだ。大体俺、そんな物の構造について詳しくもないし。たまたま、外れただけ。ごめんなさい」

「……そのことじゃねーよ」


 よかった。これからいつまでも引きずられるんじゃないかと思ってかなりビクついてた。


「……だよな、大体姫はああいう装備のこと心配する必要なさそうな体型だし……」

「なんか言ったか?」


 いかん声に出てた。


「で、話なんだけど。その手紙の裏面にさ、なんか違和感があったんだよな」


 言われて、俺は手紙の便箋の裏を見る。しかしそこには特に違和感は……アレ?


「なんか微妙に浮いてる部分が」

「だろ?」


 触ってみるとはっきりしたが、びんせんの裏には他の余白とは違い、明らかに浮いている部分があった。爪の先でこすってみるとその違和感の正体が少々がれ、どこかで覚えのある独特の臭いが感じられた。そう、それは結構昔に使った覚えのあるもので――


「クレヨンか」


 白いクレヨン。それで手紙の裏面に、文字を書いていたらしい。味噌汁の色と便せんの色とのコントラストの中で浮かび上がっていたのは、見覚えのある字だった。


「便箋は薄いし、光に透かせば見えそうだな。ありがとな姫、おかげで助かった」

「気づいたことを言ったまでだ、そんなに感謝されるほどでもねーさな」


 くすぐったそうな表情で呟き、寝転んだ俺の横に同じ様に寝転がる。光に透かすと、薄くクレヨンで書かれた文字が浮かんでいた。


「『久しぶりだな息子、これを読んでいるということは手紙は雨に濡れてしまったんだろうな。だが伝達方法が少々違っても内容が正しく伝われば何も問題はないよね、だからこれでよし』……意味分からん」

「宿屋で働いてる時は大抵こーいう喋り方だったぞ」


 耳に息を吹きかけられてるようでこそばゆい。横で話す姫の口調は、呆れと嬉しさの混じったものだった。なんだかんだで、元主人の動向は気になるようだ。続きを読む。


「続きだ。『急な出立で、みんなには行き先も伝えることができなかった。ごめん。今僕は外国に居るんだ。仕事を放り投げてしまって、尚且なおかつ引継ぎもちゃんとしてなくて、従業員のみんなには本当にすまないと思ってる。ごめんよ。そして息子。おまえはちゃんと仕事をやってくれたまえ』……うぜぇ。続きだ! 『なんでこんなことをしてるのか、今は言えない。けれども、僕が宿屋に戻る頃には、きっとみんなに話すからね。ただ、帰りはいつになるかわからないよ。そもそも、帰れるかどうかの保障すらないんだけど……とりあえず、気合入れとく。ファイト、僕』……一人で何やってんだこの人」

「たまに一人でラジオ体操やってたからな。一人遊びは得意らしい」


 なんとも寂しい大人の一面を聞いてしまった。


「『帰れたら、ブリ大根が食べたい。葛葉にいつでも作れるように準備を頼むよ。ぱとりしあ、あんまり姫を襲わないように。仕事はきちっとしてるから問題ないけど。反対に柊、休息は適度に。川澄は外回りいつもご苦労様。白藤は、これを見てないだろうけどいつもありがとう。この場所を使わせてくれて、感謝してる。あと、姫』」


 横で身を硬くしたのがわかる。こういう反応を見てると、一応父さんは上に立ってた人なんだな、と思う。


「『うちの息子の教育係、よろしく頼むよ。お客さんをやたら殴らないように。トラブルについては一任してるんだけど、やりすぎ厳禁。ロリコンのお客様でも半殺しは勘弁。あと、息子はおそらくロリコンじゃあないから身の安全は保障する』」


「……いぃーつぅーきーッ!」


 その声量、帰ってきたら父さんの耳元でやってくれ。俺の鼓膜大丈夫だったろうか? うまく聞こえない。


「『最後に息子へ。あげた台帳と万年筆は日記にでも使ってくれ。大事にしてくおくれよ、アレが宿屋主人の証だからね。ちなみにあと今回同封した御札には色々効果があってね、詳しくは川澄にでも聞いておいてくれたまえ。じゃ 有和良斎』だとさ。お札、濡れて読めないようになってんのに……」


 身体を起こしつつ、横の姫を見る。なんとも形容しがたい、近づきづらいオーラを放っていた。今朝風呂で遭遇した時よりもさらに激しい気迫だ。やれやれ、うちの父親はしょっちゅうこんな風に姫を怒らせていたのか?


「とりあえず父さんは、元気そうだ」

「あいつ絶対にストレスとか知らない体だろ! あたしは頭にきたぞ!」


 左様で。かんかんだな。


「帰ってきたら思う存分ぶつけてやってくれ。俺は今の文面をみんなにも伝えてくるよ」


 立ち上がり、姫を残して部屋を去ろうとする。すると、ふすまを閉める直前に、手首をがしっと掴まれた。やたら握力が強い。ギリギリと痛む。


「まだ何かあるのか?」

「もうあいつに言ってやりたいこととか色々、頭の中でぐるぐる回って……どうにかして吐き出さないとおかしくなっちまいそうなんだよ!」

「で?」

「話相手。そこであたしの話を聞いててくれ」


 う〜、と腹に力を入れた声を出す姫。しゃがんだ体勢から上目遣いにそんなことを言われると、こちらとしても断りがたい。仕方なく手を引かれるままに、部屋の中に戻って正面に座り込む。長期戦を覚悟だな、と思った。

 今日一日は、父さんの手紙のせいでずいぶん疲れるハメになってしまった。明日は月曜日。今日は休めない日曜だ。


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