八頁目 ようやく揃った従業員。(全員集合)
とりあえず指定されたレーンに向かい、ボウルを投げる俺たち三人。
その後ろからついてきた、ちっこい二人。姫もさすがに今日は着物ではなく、裾がギザギザに織られた白いワンピースを着ていた。その上には赤いジャケット。首にはいつもの黒いマフラー。腰には茶色い皮のベルトを、斜め掛けに二つ付けていた。足には白いニーソックス、靴は対照的に黒いブーツ。多少パンクな感じが、ゲームセンターに溶け込んでいたといえばそうかもしれない。
「初めまして、あたしの名前は姫。ダンナの宿屋の従業員やってるよ」
普段俺や他の従業員と話すような口調より、幾分控えめに姫は挨拶した。まあそれでも多少ぶっきらぼうなのはぬぐえない感じが、姫の基本なのだろう。
姫が頭を下げると辻堂や要も軽く頭を下げたが、柊は特に何も言わず、あさっての方向を呆けた表情で見つめながらぼんやりしていた。挨拶くらいはしてほしい、と雇い主の立場的に思う。接客業だろ?
「あの、姫さん、も、ボウリング、やりますか?」
「せっかくの誘いを断んのもなんだけど、さっきあそこで結構使っちまったんでね。今日は遠慮しときまよ。あと、一応あたし年下だから。呼び捨てでいいですよ、時計さん」
「あ。なら、こっちも、呼び捨て、敬語なしで……」
初対面同士らしい会話の流れ。とはいえ、話しかけた要でなく姫の方が会話を円滑に進めさせている辺り、やはり宿屋従業員として接客などをこなしているだけはある。……客がいるのを見たことは無いが。
「有和良、姫さん私らよりも年下なのかね?」
「らしいけど。まあ外見で大体予想つくだろ」
「……へぇ。それはそれは。うむ、なかなかに。素晴らしい」
何がだよ。犯罪者の顔してるぞおまえ。
「というか労働基準法はどこにいったのか。少なくとも十六歳以下って、確実にアウトではないのか?」
「え? あ、ハハハハ。次おまえの順番だぞ」
知らんがなそんなもん。世界の狭間まで取り締まりに来るやつも、いないだろ。
辻堂と要が球を取りに去っていき、一般人がいなくなってから。姫がすすっとこちらに近づいて、耳元で囁いた。
「で、ダンナ。なんであんたがここにいるんだ?」
「俺はそこの辻堂と要に誘われて、ボウリングをやりに来たんだよ。一応休みは取ったから問題はない。姫は何で?」
辻堂が三連続目のストライクを出す。適当に拍手などしながら、俺も姫に尋ねた。
「決まってんだろ、あたしも休暇だ。というわけでこっちまで出てきたはいいんだけど、途中でぱとりしあに追い回されて。逃げてるうちにどこだかわかんなくなって、気づいたらあそこでゲームをやってたってわけだな」
「気づいたら、って吸い寄せられるようにゲームするなよ」
俺が買ってきたジュースをちびちび飲みながら、姫は俺に自分の経緯を話した。少々高い位置にある椅子に腰掛けているため、足をブラブラさせているのがまた、なんだか子供っぽい。と、横にいる柊に目をやり。その眼が細められ、とても年下とは思えない眼光を放つ。
「それより問題は柊、おまえだろ。なんでいつまで経っても宿屋に戻って来なかった。おまけにこんなところで遊んでやがるし。相応に理由がなけりゃ、ちょっと一言言わせてもらうぞ」
姫に言いすくめられ、隅に座っていた柊はバツが悪そうな顔をした。一応姫の方が立場は上らしい、な。身長はけっこー負けてるけど。あ、考えてることバレたかな?なんか睨まれてる。
まだ喋る様子のない柊から目を離して、俺はどんどん伸びていく辻堂のスコア表を見た。要は、ダメ、だな。何回やっても横の溝へと吸い込まれるように消えていく。それも毎回ほぼ同じ軌道を描いているのだから、ある意味恐ろしく正確だ。次、俺の番か。
「じゃあ今は宿屋に二人しかいないの、かっ!」
会話を続けながら投げた俺のボウル。僅かに弧を描いて転がっていき、三本。微妙。
「んにゃ、多分三人と一匹。もう一人の従業員が、飼い猫と一緒に帰って来てるはずだからよ」
「どんな人なんだそれ?」
ボウルを回収しながら問いかける。あれ、拭くための布はどこだ。
「どんなって、簡単に言えば変なオッサンだろーな。あと、仕事に関しては厳しい」
「それは困るな。俺はまだまだ仕事はうまく出来ない、からっ!」
あ、ガーター。
「だいじょーぶだ、努力してる奴には案外優しいからな。ただ……努力してない奴も、いるんでね」
横目で柊を見据えながら、聞こえよがしに呟く姫。ああ、つまるところそいつ、ダメなんだね。
目を逸らすなコラ。しかも俺を見て鼻で笑うか。このガキ。
「スットラアアアイクウッ!」
絶好調の辻堂が俺たちの間を駆け抜けていった。
なんだか釈然としないままだったが、とりあえずボウリングは終わった。ほとんど姫から話を聞くばかりだったのだが、終わってみると俺の点数はヒドいもの。たった七十二点。逆に、やたらと辻堂の点数が良い。二百七十一点。いや、これならプロボウラーでも目指せよおまえ。しかもなんでへこんでるんだよ。意味が分からん。
へこんでると言えば要もだ。なんだかかなり不機嫌。
「なんだ、あれか。ボウリングそっちのけで会話ばかりだったからか。それはごめん、謝るよ」
「……違う、もん」
あからさまに膨れ面だな。なんかアレに似てるぞ。そう、これだ。
「ほら、これ。さっきのクレーンゲームのおまんじゅう」
宣言通り、三回プレーで先ほど取ってきた品だ。ははは、柊の奴も目を丸くしている。俺を甘く見てたな。ずいぶんと悔しそうじゃないか、実に愉快だ。要はおそるおそる受け取ろうとしたが、けれど前述の表情を、なんとも形容しがたい感じにむにゃむにゃと動かしていた。
「あ…………うう。嬉しい、けど、哀しい……」
笑顔を浮かべてはいるものの、微妙そうな顔をする要。ん? 何か気に食わない点でもあったのだろうか。
というか、哀しいって、何が?
「嫌味な男だな、おまえさんは本当に」
「いや、だから何が?」
「今日はそこの赤髪少女、姫さん。その子と話してばかりだったじゃないか」
それについてはさっき謝ったはずだ。まだ何か言う気か、と俺が反抗的なツラで辻堂を睨む、と、逆に睨み返された。
「謝られてどうにかなるものでもない、ということなんだがねぇ。わからんか?今日おまえさんと会って、遊ぶ。そういう立場に居たのは、誰だ。だのにおまえさんは、ずっと従業員の姫さんと話してたわけで。……私事に仕事を、持ち込むな、ということなのだよ」
なんだか微妙に良いことを言った辻堂は、遠く山の向こうに消え行く茜色の空を見ていた。哀愁漂う背。
「そう、だな。ごめん要。また今度、今度は二人だけで、遊ぶか」
「さりげなく私を爪弾きにしてくれたな、ん?」
「ふ、ふたり、えう、ああゃう……」
いかんまた要が倒れそうになってる。なんでだ、ちょっと待ておい。
「……面倒くさい奴が主人になったもんですね。気落ちするのですが、仕方の無いことだと思わざるを得ない」
「気にすんな」
そこの二人、失礼なこと言ってないで手伝え!
+
幸いにも要も辻堂も俺も、住んでいるところは近い。世界の狭間という異次元にある宿屋を、近いというのはどうかと思うが一応裏口は近い。なので、またも倒れた要を背負っていくのもそう面倒なことではなかった。
ただ、家の近くに来たところで一度要は目覚めたのだが、またまた気絶した。もう理由を考えるのは面倒だ。俺の背負い方に問題でもあったのだろうか。
とにもかくにも久々の休日も終わり、今日は毎晩読んでる経営指南書もちょっとお休み、風呂入って夕飯食べてさっさと寝ようわーい。
「ダンナ様、それと姫。折り入って相談したいことがあるのですが。柊君のことです。あ、柊君お帰りなさいそしてありがとうございます良かったです帰って来てくれて二階の自分の部屋に行ってお仕事早速始めてください……さて、ダンナ様。こちらに来ていただけますか」
そうは問屋が卸さなかった。
中庭に面した縁側に呼び出され、腰を下ろす俺。横には正座している姫と、正面には葛葉。なぜかその横に寝転がった白藤。葛葉はその態度を戒めるよう白藤を叱ったが、「宿屋が無くては宿屋は宿屋とは成り得ぬ。つまりは宿屋は宿屋において一番偉いんじゃ」と宿屋五連呼の無意味論理で押し切り、そのままの体勢で話をすることになった。
「話というのは柊君と、川澄様のことです」
「川澄?」
「ボウリングやってる時に話しただろが、もう一人の従業員の変なオッサンのことだ」
ああ、そういえば姫が言ってたな。もう一人の従業員が戻って来てるから、宿屋は三人と一匹になってるだろう、って。
「つまりその一匹、の方か」
「真顔で恐いこと言うなよな、ダンナ……川澄源一郎っていうのはれっきとした人間だよ。普段の仕事は宿屋の外で食材の買い付けとか備品の業者への発注、あとは宿屋の宣伝とか対人折衝を中心にした、いわゆる交渉役の男のことさな。で、葛葉。あいつがどーした?」
軽い感じで尋ねた姫。しかし葛葉の表情は暗く、細くそれでいて重い溜め息をついた。白藤も同じく。西日の差し込んでいる中庭、そこに面した縁側にいるためだとは思うのだが……顔の陰影がかなり濃くなっている。それがまた、会話内容の重苦しさを引き上げていた。
「ついさっき、帰って来たのです。そして柊君がいないことを知るや否や、カンカンになって外に探しに行ってしまいました」
「なんだ、あの柊って奴はそんなに嫌われてるのか?」
白藤は欠伸をかみ殺しながら足元に歩いてきた黒猫を捕まえた。それを掲げるように、寝転がったまま天井に向けて、高い高い、と上下に揺すっている。
「源一郎からは限定に、じゃがな。あの少年はそう性根の悪い奴ではないがの、いかんせん仕事をサボりがちじゃ。柊は会計じゃ、金の出納を付けておる。そういうのが滞るとなれば、ホレ。こうした仕事場はあっという間に立ち行かなくなるからのう」
黒猫を白藤からひょいっと奪い、胸元に抱え込む葛葉。心なしか先ほどまでよりも、猫の表情が緩い。
……少し、羨ましい。少しな。
「ですから、今まではわたしや姫、ぱとりしあで手分けして出納簿を付けていたんです。でも、それだけじゃ手の回らない部分も出てきます。そうした部分は、やはり計算に優れた柊君でなければいけません」
今度は姫の元に走る猫。蒼い瞳をしたなかなか見かけない黒猫は、そのまま姫の膝の上で丸くなった。確かに。葛葉と比べてしまうと、そここそが正解かもしれない。
「二日くらい前から、微妙にその出納がぎくしゃくしてきてんだ。そろそろ戻ってきてもらわないとマズイ、と思ってたら丁度近くに来てくれるとは思ってなかったけどよ。だから今は奴も仕事中。そろばん片手に必死で計算中だろーな」
「パソコンとか現代の機器は使わないのか」
「無理。だって相手は精霊と妖だかんな。計算と金勘定は人間の定義だけじゃおさまらない、だからそんなもんに頼ってらんないんだよ」
よしよし、と膝の上に居る黒猫を撫でる姫。猫は腹を天に向けて、服従のポーズ。
「で、そいつが帰って来たことが、なんか不都合でも?」
話題の一番重要な点について指摘する。と、軽い溜め息と共に三人はそれぞれ違う方向を向いた。なんなんだ。なんでこんな空気になってるんだ。そんなにみんな苦手なのか、その川澄という人物が。やがて、こちらを恐る恐る振り返り。口にしたら本人に聞かれてしまうんじゃないか、とビビっているような様子で、姫は話した。
「……良くも悪くも仕事熱心、特に先代の主人だった斎には、かなりの忠誠心を持って接してた奴ってことだ。だから宿屋の運営を妨げるよーなことに対しては、相当に怒るんだよ。で、その性格のために柊にはかなり厳しい。サボってばっかだかんな」
「なるほど、でも他のみんなはよく働いてるだろう? なら、自分たちには被害はないんじゃないか」
思いつきのみで深く考えなかった俺の言動は、苦笑と失笑でかき消された。
「被害があるのですよ。もちろん川澄様も、最初は柊君だけを叱ります。でも、逃げたり反抗したりすることが多いんです、柊君。そのために血圧と一緒に怒りの度合いが上がっていきまして、最後には大抵、宿屋従業員全員を正座させて一晩中、ええ文字通り一晩。みっちり叱るのです。よくもまあ、あんなに喋ることがあるものですね。わたしたちが普段柊君に甘い態度を取っているから反抗的になるだの、そうした甘い風紀では接客業もまともにやれるかだの、ひどいものですよ」
最後の方は少しばかり目尻に涙を溜めての抗議。普段はしっかりしてて大人の雰囲気漂う葛葉だが、このときばかりはなんだかか弱い少女のようにも見えた。
身長は俺よりもちょっと高いけれど。支えてあげなければいけないような気が、何か男としての大事な部分を揺さぶられた気がする。
「源一郎は宿屋全体に響くような声で叱るんでの、どこに逃げてもわしにもダメージが来る。じゃから、の? なんとかして、源一郎を怒らせないようにしたいのじゃ」
「それにゃあ、源一郎よりも上の立場であるダンナが適任なんだ。頼む、源一郎を止めてくれ」
懇願。そして静寂。
三人の顔を代わる代わる見つめるが、どの表情も真剣そのもの。どうにもこうにも、全員川澄さんが苦手で仕方ないらしい。気持ちは、わからないでもないが。仕事熱心な教師に叱られたりすることほど、面倒なものはない。多分それと似たような感覚だと思う。今の三人はつまり、「ちょっと職員室来い」と呼び出しを喰らった気分なのだろう。
なかなか辛そうだ。
「……わかった。なるだけ説得はしてみる」
ほっと一息。嬉しそうに顔を見合わせる三人。
「でも、その前に一つ。一番問題があるのは、今上にいる柊なんだろ。なら俺はあいつとも話してこなくちゃいけない。サボるような従業員がいたら、主人として格好つかないだろう?」
+
町をぶらぶらと歩き回り、柊を探していた川澄。しかし行動パターンを把握しているわけでもない人間が闇雲に探していて見つかるというのは、かなり確率の低いことだ。一時間もしないうちに諦めて、十字路を曲がった角にあった自動販売機で一番安い銘柄のタバコを買い、火を灯した。
紫煙をくゆらせ、眼鏡のフレームを押し上げながら再び歩き出す。もう日も暮れかけていたので、そろそろ家路につこうと思ったのだった。と、次に曲がった角のところで見覚えのある人影を見つけた。軽く波打つセミロングの金髪、灰色のロングコート。川澄が後ろから声をかけると、少女は振り向いて微笑みかけてきた。
「川澄さん、お帰りなさい! 元気だった?」
「まあ一応体調を崩さん程度には、な。ぱとりしあ、元気そうで何よりだ。おまえには元気しか取り得ってもんがないからな」
それは失礼かも、と頬を膨らませて、すぐに笑顔に変わる。めまぐるしく変わる表情と、いつも変わらない元気。お客に力を与えるための仕事こそが、ぱとりしあに力を与えている。
そういう意味では、間違いなくぱとりしあにはお客を喜ばせる『天分』があった。その笑顔はしばらく旅をしてきてあまり知り合いにも会わなかった川澄にとって、ひさびさにほっとする表情だった。
「宿はどうだ。柊と私と末蔵が一番最後に戻ってきたようなのだが。なんとかやっていけておるのか?」
「うん。新しいダンナさんも、まだちょっとヘタだけどお仕事頑張ってるの。それに葛葉ちゃんも姫ちゃんももちろんボクも。あ、それと白藤ちゃんとも仲良くなれたの!」
「それは上々。とは言っても以前から、あいつにはまだ人と接したいという欲があったようだからな。いずれはそのように仲良くやっていけるのではないか、と思っておったよ」
ぱとりしあと話しながら、家路に着く川澄。日も暮れた頭上には、菫色の天空が広がっていた。秋も終わりに近づいていき、じきに連休にも入るからか、客入りについての話題などもあがる。
「しかしなんだ、客が来るようになったとしても、今のままでは良くないぞ。特に、柊などは眼に余るものがある。さっき軽く眼を通してきたがな、かなりの仕事が溜まっておった。あやつはどういうつもりなのやら」
「お仕事出来ないわけじゃないのにね。帰って来るのが遅れちゃったら、溜まるのはわかりきってるもの」
そうだ、奴には自覚がない、と川澄が唸る。それを横目で見つつ、ぱとりしあは呟く。
「でも、まだ柊君は子供だよ?」
「十二歳の子供でもなんでも、仕事というものをやるからにはきちんと最後までやり通すのが筋だと私は思うがな」
それは、大人の理屈だねぇ、とぱとりしあが嘆息する。普段の彼女らしからぬ態度に、川澄は少しばかり動揺する。ちらりと横を見やると、整った横顔には何か考えている様子が窺えた。それは自然な様ではなくて、意図して作り出している顔だということも。
対人折衝を仕事とし、様々な局面を経験した川澄には、特にその様子が敏感に感じられた。そしてその意図した表情には、わざと気づかせようとしている節がある。
普段は子供っぽい言動も多いぱとりしあだが、それでもある程度の年数を生きている。その中には、何か普通ではない経験もある。何か、異常な体験。川澄は、宿屋にいる人間の大半が何かを抱えているということを、長年の仕事の経験から感じ取っていた。が、敢えて口には出さない。個々人の抱える闇というものは他人の関われるものではない、と。やはり経験から感じ取っていたからだ。
「仕事には責任もあると思う。でも、まだ柊君は子供で、精一杯他のことをするべき時をこうしてお仕事に割いてる。ボクとか葛葉ちゃんとか姫ちゃんは、それなりに理由があるから働くべきなんだけど……柊君は、まだ遊んだり学んだり自由にしなきゃいけないと、思うの。だから、川澄さん。ボクらがフォローはするから、そんなに厳しくしないであげて、ね?」
面食らった、と口に出して肩をすくめる川澄。くわえていたタバコを懐から取り出した携帯灰皿に押し付け、最後の煙を口から吐き出す。
「仕事の面は、そこまで言うならおまえらに任せよう。だがな、これだけは言っておくぞ。あやつの態度は悪い。年上に対して敬うとかそういうこともなく、微妙に間違った敬語らしきものでおちょくってくる。つまり性格も悪い。ここの矯正は、やはり私に任せてもらいたいのだ」
「ふふ、教育係ってことだよね。それはもちろん、お任せするの」
なんだか僅かに含みのある言い方を受けながら、川澄は軽く頷く。それに対してぱとりしあも頷き、二人は並んで宿屋に入っていった。
+
「 」
俺は絶句した。
「おお……どうしたダンナ。異様なまでに後ろに気迫を背負ってんだけど」
「ハハハハハ、姫。たった今出てきた、後ろの部屋の主がね。すごい口撃仕掛けてきたから、とりあえず休戦にしてきた。うん、下行って水飲んでからもう一回挑戦してくるよ」
人が説教しに来たのに、あのガキは目も合わせずにまずは溜め息。それからというもの、こちらが口を開く前に言うことを先読みしてぶつけてきて、さらにそれに対する反論しか口にしない。
もうこれはアレだよ。あのガキは怖い。どう育つか怖い。
「もう放っておくのも手なんじゃねーのかな」
「放っておいたら多分ツケあがるタイプだ。敗北宣言はしたくない」
見上げた根性、と感心した様子の姫。くう、辛い。なんで従業員に虐げられなきゃいけないんだ……。
と、そこで裏口の引き戸が開く音がした。ぱたぱたと上がってくる足音は二つ。姫や葛葉が一瞬で気を引き締めた。つまり、帰って来たのは。ぱとりしあと、最後の従業員。川澄、源一郎さんか。ぱとりしあの後ろから入ってきた彼は、俺の姿を見るとすぐ、表情を引き締めた。
「お初にお目にかかりますな、新しい主人。川澄源一郎と申します」
「あ、どうも」
丁重な挨拶と共に、まずは一礼。俺も腰から身体を曲げてきちんと礼をし、それに返した。見たところ、眼鏡で白髪で和装の好々爺、という感じにしか見えないのだが。そんなに激昂するような人柄とは思えない。まさかとは思うが、これは擬態か?
「柊は、帰っておりますかな?」
「……俺が今しがた口論してきたばかりです。上に居ると思いますよ」
「そうですか。まあ、ならば一応は良しとしておくこととします。それと、敬語を使う必要はございませんぞ。私はあなた様の下で働く、従業員なのですからな」
ふむ。どうやら忠誠心が強いというのは本当らしい。といっても、俺にというより先代、つまり父さんに対してなのだろうが……それにしたってこんな、川澄さんからしたら己の人生の三分の一くらいしか生きてない小僧に、敬語まで使って礼儀正しく接してくれるとは。面喰ってしまった。
「ダンナ、ともかく積もる話は夕飯のときにしたらどうだ?そんな所でずっと話し合うのもなんだしよ」
姫の呼びかけに振り返り、頷こうとする。途端に、背後から何やら寒気がする。
「おい、姫。おまえは雇われの立場だろう。何故そのような言葉遣いで接しておるのだ?」
うわあ、本当に厳しい。姫も心なしか引いてる。慌ててフォローをいれるべく間に滑り込んだ俺は、あたふたしながら頭の中に言葉を思い描いた。
「いや俺の方は別にこれでいいんです。同じ仕事場で働く人間同士、立場の差異は決定権だけであればいい。意見が割れた時にまとめるための『立場』なんだから、それ以外は他の従業員となんら変わらないつもりなんだ。だから、川澄さんも、敬語とかを使わないでもらえれば、と」
「……承知しました、いや、承知した。なれば私もそのようにさせてもらおう」
案外面倒な人かもしれない。好々爺、というのは訂正だ。
そこで、葛葉が手を叩いて全員の注目を集める。
「ではまた食事の席で続きを話しましょう。その頃には、柊君も仕事が終わっているでしょうし」
その言葉を合図に、皆散り散りに移動していった。食事は大体六時半くらいにあるだろう、つまりまだ一時間半弱は時間がある。話も込み入ったものになるかもしれないし、今のうちに風呂に行っておこう。
五枚の花弁からなる華のように、五つの棟からなる宿屋『紅梅乃花弁』。従業員棟である『雪』と客用棟である『花』『鳥』『風』『月』。そのうちの『風』の棟には客用の露天風呂なども備え付けられているのだが、深夜など客の少ない時間ならともかく、基本的に従業員が客と同じ風呂場を使うのはいただけない。最初にここに来た時には一度だけ使ってしまったが、それ以降は従業員棟にある中浴場を使うことにしている。
湯船に早く浸ろうと、俺は脱衣所の戸を開いた。適当に服を籠に放り込み、かけ湯だけはしてから湯に滑り込む。ああ、疲れが取れる。
「あまり湯を跳ねさせないでもらえるとよいです。顔にかかって心底うっとうしいのですね」
「うお?!」
誰もいないと思っていた浴場に、大きく声が響く。振り向くとそこには、不機嫌そうな糸目の少年。男子にしては長い栗色の髪は二つに分けて結ばれていたが今は解かれ、湯にぷかぷかと浮かんでいる。
「びっくりした……なんだ、風呂に来てたのか」
「仕事が終わったのです。あんまり机に向かっていると肩が痛くなるのですね、だから風呂で癒そうと思った次第です。つまるところ、あなたのように暇だから湯に浸かろうとかではなく。疲労回復という極めて合理的な労働活動の一環ですよ」
やたらに難しく言ってるような気がするが、言いたいことは「疲れたから風呂」じゃないのだろうか。遠まわしに偉ぶって言わなくてもいいと思うのだが。
ざばりと立ちあがった柊は、鼻を鳴らして去っていく。俺の方へ見向きもせず、湯船の端から出ていく。
「僕はもう出るのです。のんびり湯に浸かって湯当たりでもして、軽くトリップしてきたらいかがです」
「嫌味なことを。人生は生き急いだら負けだぞ」
「……ふむ、さいですか」
特に意味あることを言ったつもりではなかったのだが。柊は思い直したのか、また湯に浸かる。
二十畳くらいはありそうな風呂場には、湯気がもうもうと立ち込めている。時折、天井に溜まった水滴が、風呂の水面に落ちる音だけが何度も何度も、断続的に室内に反射している。
「なあ」
「なんですか」
声のない状態がしばらく続いたが、耐えられなくなって俺から話しかけた。予想外なことに、柊は普通に反応してくる。会話が成り立つとは、正直思っていなかった。いや、でも多分今思ってることを口にすれば予想の範囲内の答えが返ってくるだろう。
「もう仕事、終わったのか? あんなに山積みにしてあったのに」
一瞬、湯気の先にいる柊は、視線を水面に落として考えたようだった。けれど、また視線を戻して無機質な声で答える。
「ある程度は葛葉さん、姫さん、ぱとりしあさんがやっておいてくれたようです。僕がやったのは点検と、残っていた半分だけなのですから、大したことじゃないですね」
「でもすごい量だったろ? 俺はアレだけの量、たったこれだけの時間じゃ絶対に片付けられない」
「慣れです、なんでも」
少し疲れた様子で、柊は呟いた。
その表情に、俺は何かを見たような、そんな気がした。が、多分気のせいだろう。
ただ、なんとなく。ふっと思い出したことが一つ。それを、言ってやろうと。そんな気持ちになった。
言ってないことが、あったな。
「おつかれ。俺は有和良春夏秋冬。おまえの上で、宿屋の主人をやらせてもらうことになってる。これから、よろしくな」
「とうとうボケたのですね。既知の情報を教えられても僕は困るのですが」
「失礼な。そんな理由で自己紹介なんてするか。会ってから一度も、俺は自己紹介してなかったと思ったんだ。だから、今ここで自分の口で言うことにした」
意味がない、理由が不明です、などと柊は反論した。だが、基本的に挨拶には深い意味なんてないと思う。
ただ一つあるとすれば、それはある程度相手に信頼を置いて、自分の内に招き入れることではないだろうか。俺は当然、それをしなくてはならない立場にいる。人の上に立つことは、下の立場の人間を信頼することでもあるはずだ。
「馬鹿らしい。先に僕は上がるのです」
ざばり、と湯船から上がり、出口に歩いていく。俺はもう少し浸かっていようかなと――
「あんた大分ボケてる様子ですから、僕の名前も忘れてるんじゃないですかね?一応名乗っておきますが、僕は柊です。覚えておくことです」
思ったが、柊が名乗りをあげて、去っていくのを見て。なんだか湯につかっているだけというのも、つまらないように思えた。俺は奴の後ろについて、湯船をあがる。
「ああ、覚えたよ」
なんとなく、あいつとはそのうちうまくやれる気がした。