七頁目 なんでだ?おまえなのかよっ!(久々休暇)
白藤との戦闘と和解の後、従業員のみんなは急に神妙になった。
いよいよ、この宿の主人であることの危険さについて話すつもりらしい。意気込んだ様子で、葛葉が言葉を紡いだ。
「この宿の客には精霊や妖などの化け物も含まれるため、暴動が起きた際、非常に危険なのです。しかもそうした事態は実際、起こりやすい。おそらくは、自分たちがある種の『神様』であることからくる……人からすれば驕りと思えるような思考をしています。彼らには当然のことなのですけどね。しかもそれでいて、彼らの力は人間などでは及びません」
背筋を正した葛葉は、そう言って俺の目をまっすぐに見た。黒く鋭い瞳は、「本当に主人をやるつもりか」と言葉を使わずに問いかけてくる。
「それでも、やるよ。だって俺も、人間じゃないしね。というか、俺が思うに父さんはそんなに体の強い方じゃなかったはずだけど。どうやってそんなハードな仕事をこなしてたんだ?」
問いに対する答えは、葛葉ではなくその向こうから聞こえてきた。
「奴は陰陽道と神道に通じた術師であり、特に符を操る〝符札術式〟が得意じゃった。五行の力を自由自在に符札に宿して操るのじゃよ。それによって常に防御術式を張っておったからの、神格の精霊が奴に雷を投げつけたこともあったが、無傷じゃった」
さっきの契約方陣も奴のような術師だった初代主人の作じゃ、と補足説明をして、白藤はそっぽを向く。
なんだか打ち解けたようなそうでもないような、これが精一杯の愛想なのかもしれない。
「だとしても、あたしらがダンナを騙したり、さっきみたいに裏切ってた、信じてなかったことは本当だろが。……それについては、もう何も言えねーよ。最悪最低、従業員をやる資格なんて、すでにない」
たった一言だけ呟いて、姫は口を結んだ。そして、ゆっくりと頭を下げた。
もう二度と頭をあげることはないんじゃないかと疑うほどに、重たい謝罪の姿勢だった。
「すまない、ダンナ。あたしらは、下につく者が絶対にしちゃいけねぇことをした。どうしたってこの罪は流せない。だから、ダンナが裁いてくれ。あたしらに罰を。偽証に咎を」
姫に合わせるように、葛葉やぱとりしあも頭を下げる。白藤だけは一瞬眼が合うと、知らん顔してあさっての方向を向いた。しかし横目でこちらを窺い、俺の様子を見ている。モノクルを通した左目で、「おまえの度量を試してやろう」と笑っている。
勝手に試せ。
「あーもう全くなんなんだ。顔上げて。しゃきっと背を伸ばしてくれよ」
みんなが言うとおりにして、しかし表情は暗い。白藤だけは薄く笑みを浮かべている。
じっと見つめられると、なにを言っていいのかわからなくなる。そもそも、俺なんかが言っていいのか、とか。迷い惑う気持ちがむくむくと心中で頭をもたげてきた。
でも信じるしかない。俺がいま自分を信じなきゃ、みんなにも信じさせるなんて、たぶん無理だ。
「おそらくは、だが。俺の推測でしかないけど。みんなは、他にもなんか隠してるんじゃないかな、と思う」
ぱとりしあがビクつく。姫はやたらと俺に視線を合わせる。葛葉は深呼吸をする。
意外と、みんなも俺とおなじくらいシラを切るのが苦手のようだ。
「でも、それもどうでもいい。大事なのはこれからだ。人間生きてれば一つ二つ隠すこともあるだろうし、自己嫌悪に悩まされる日もあるだろうけど。これからがあるんだからさ。みんなで宿をやっていくっていう、未来の話が」
まだ三人とも表情が硬い。もう少し、直球で言わなきゃダメか?
「……えーと。俺は宿をやって、ここで暮らしていきたい。みんなも宿をやりながら、ここに居たいと思ってる。なら、他に何も必要ないよ。したいようにしていけばいい」
わしの自由な生き方は出来んようにしたくせに、と白藤がぼやくが気にしない。三人がうつむき始めたが、それも気にしない。ああ気にしない。あれもこれもそれもどれもみんな。気にしない!辛気臭いのは大嫌いだ。
いまがあるんだ。いまここに、いるんだ。そのことを、どうかみんな、自覚してほしい。
「あー、もう。みんなが嘘ついたのだって信じてなかったことだって、俺は気にしないって言ってるんだよ! ……みんなここに居て楽しそうだったじゃないか。みんな襲われてた俺を助けにきてくれたじゃないか。心のどこかでは俺を、信じてなかったのかもしれない。でも、やっぱりどこかでは、信用してくれてたんだろ。ならそれだけで俺は十分だよ。それだけで主人をやる義務があると、そう思える」
ぎむ? と口が動く。白藤は声を押し殺して大笑いしていた。「青い、青すぎる」とか不愉快な感想が耳に入るが無視だ無視。
自分にとって真実だと思える言葉以外が人に届く力を持つとは、俺には思えない。
「恩には報いる。信じてもらえたなら信じ返す。それだけの義務。だから、少しでもみんなが俺に恩を感じてたなら、返すべき義務も、あると思う……」
白藤の笑い声がとうとう両手の間から滑り出た。くすくすと息を小分けに吐き出し、心底おかしそうに。そこで姫が「恩を感じろ、って、そりゃー……傲慢な主人だな」と呟いた瞬間。葛葉とぱとりしあも微かに笑い声を漏らした。それが引き金となり、姫も笑い出す。
笑いに笑え。
接客業が辛気臭くて、どうする。
「ああ、恩を感じてくれ。そして改めて言うよ、俺が六代目『紅梅乃花弁』の主人だって。今度こそ、胸張って言える。今はそれだけの、義務がある」
こうして、晴れて俺は宿屋主人の肩書きを背負うことになった。
+
最近学校にも持ってきている経営指南書なるものを、休み時間に読みふける。ようやくダンナとしての風格がついてきたような錯覚を覚えるが、その実、中身は全体通して三割切るくらいしか理解できていない。これは実践しなくては身につかないものも多そうだから、と今は言い訳しているが。
大体、真剣にやる気になったのはつい最近のことだから仕方ない。
そんな俺を見て辻堂と要が気を利かせてくれたのか、久しぶりにどこかへ遊びに行こうと提案してくれた。こちらとしても最近ぱとりしあに追われたり白藤と殴り合いになったりで疲れていたので、その提案はとても嬉しいものだった。
で、今日、土曜日。俺は駅前にいる。
仕事はオフ。というか常時客がいない。おまけに従業員も全員揃っておらず、肩書きのみの宿屋主人が「遊びに出かけていいかな」と尋ねても笑顔でいってらっしゃい、と送り出されてしまうほどに仕事が無い。見かけると寝てばかりいる白藤によると、現在宿屋の表玄関は木曽の山脈のどこかに繋がっているらしい。軽く顔だけ外に出してみたが、森の奥深くで誰も来なさそうな、湿気た場所だった。
世界の狭間なる異次元をさまよい、客を探すこの宿が誇る、迷い家としての異能。名を〝流転漂流〟という。表玄関がどこに繋がるのかはランダムなので選べないらしく、客が入ればそいつが帰るまで停止するが、なければ三日でまたどこかへ漂流するらしい。旅好きだったという白藤の性格を反映した能力だが、固定客を掴むことは永久に出来ないだろう。
……いかん、仕事のことは考えるな。今日は久々に遊びに来たんだ。
「とは言っても都会には程遠い、『町』としか呼べない場所なんだよな、ここ」
ショーウィンドーに薄く映り込む、ぼさぼさの黒髪の中に細めの瞳を光らせる男。薄手の蒼いフリース地の服の下に、黒ずんだジーンズ。首には黒いネックウォーマー。見慣れたツラだが目つきが悪いこと以外さして特徴もないため、自分でも覚えづらい顔だと思う。
すると、ウィンドーの中から駆けてくる人影。もとい、後ろから近づいてきている人物が映り込んでいる。腰まで伸びた白銀のストレートヘアー、まなじりの垂れた、大きな黒い瞳。小柄な俺と並んでもまだ少し、小さい体格。が、一定の部分においては顕著な成長が見られる。あえてどことは考えないことにしているが。
「ごめん、ね。立ち読み、してたら、遅れ、ちゃった」
「……その理由はどうなの。秋とはいえもう大分寒くなってきてるのに、俺はここで二十分近く待ったわけだけど」
「ごめんね。服、選ぶのに、手間取って」
「それを先に言ってれば、まだ説得力もあったんだろうけどね」
遅れてきた理由に使われてしまった要の服装は、ハイネックの白いセーター、下は緋色とこげ茶のチェック模様が入ったフレアスカート。そこから伸びる足は黒いタイツで覆われ、同色の革靴を履いていた。色合い的にも、俺などよりよほど、見目麗しい。
「でもセーター、ちょっとサイズ大きくないか? ぶかぶかだけど」
「わかっちゃおらんな有和良。親指が隠れるくらいまで丈のある服というのは、それだけでもイイと思わんか」
知るか、と言いつつ振り向くと。そこにはローブみたいなオレンジのダッフルコートを着て、大きなフレームの眼鏡をかけた茶髪の男が俺を見下ろしていた。今日は髪を後ろで結んでいないらしく、代わりに黄土色のつばの広いハットを目深にかぶっていた。
「さて、じゃあ要。二人で行くか」
「待て待て待て待て待て待て。服装見ただけで私を除外か? ここからは二人だけの世界ですよい子は見ちゃダメよ、な展開に持ってくつもりなのかね。私の目の黒いうちはそんなことは許さんぞ。というか世の中でラブコメしてる奴みんなくたばれすごい死ね」
「えっと、その、辻堂君。ごめんね、やっぱり、ちょっと変だと、思う」
心底申し訳なさそうに言った要のセリフが、逆に本音であることを強調した。辻堂はウィンドーに両手をついて、ブツブツと自分のセンスを否定されたことについて弁解を呟き始める。俺たちは溜め息をついてその肩を引っ張り、当初の予定通りボウリング場に向かった。
休日のボウリング場は混んでいた。予約に行った辻堂が、何やら受付で口論を始めている。何やってるんだ、と俺が様子を見に行くと、カードを作ろうとして名前を書く欄に記入する際、受付の人が注意をしたことが原因らしい。
「だーから私の本名は『辻 堂』辻が苗字で堂が名前なんだよ! 私だって好きでこんな名前になったわけじゃないわい!」
「あーすいませんやっぱり『有和良』で予約もらえますか」
なんとか予約を終えて戻ってきた俺と辻堂に、要はふんわりと笑みを浮かべて「ご苦労、様」とだけ言った。まだ少し不機嫌な辻堂だったが、ふと俺の顔を見て動きを止める。……ああそうだな、『有和良春夏秋冬』とかさらにありえない名前だな。俺だって親にこんな大層な名前つけられて結構高頻度でイライラしてるよ。ちくしょう。
「ど、どうしたの、かな。二人とも、顔つきが、険しいよ」
「……時計」
話しかけられて、辻堂が要を振り返る。……時計。時計かー。時計もなかなか珍しいよな。
「気にしないで。じゃ、しばらくはゲームセンターで遊んで、ボウリングの順番が来るまで待つか。クレーンゲームに散財、退廃的な遊び方だ」
俺は千円札を二枚、全て百円に交換した。五百円入れると六回チャレンジ出来る台を探し、そこに歩み寄る。辻堂はヘタなくせに習慣になっているからか、ゾンビを撃ちまくるガンシューティングゲームで憂さを晴らすつもりのようだった。要は俺の横。
「さあてやるとしますか。要、何か欲しいものある? 結構得意だから任せてくれ」
あまり人ごみが好きではない、人見知りの激しい要。それゆえほとんどぴったりくっついて歩いていたのだが、なぜか少しの間止まって、俺と一歩分距離を離していた。どこかを注視しているようにも見える。
「要?」
「え、えああう、うん。えっと、じゃあ、そのおまんじゅうの、ぬいぐるみ」
背後に待つ人形の監獄。そこの中央で存在感を出していた、三色のおまんじゅう。紅白緑となんだか団子のようにも思える、ぬいぐるみ。……ちくしょう、丸っこくて引っかかる部分が少ない。レベル高いのを要求されてしまった。残存戦力で取れるだろうか。
「ったく、にぶくて嫌味な男だね」
「え、おい、なんだ辻堂。もう負けたのか」
先ほど要の立っていた場所に、辻堂が立っていた。コートのポケットからは硬貨の軽快な音がしない。五百円しか換金していなかったとはいえ、開始一分ちょいでよく使い果たせるもんだ。下手すぎるだろ。
「で、嫌味ってなんだ? なんの皮肉だ?」
「それこそ最大の皮肉だねえ」
呆れた表情の辻堂は、俺たちの横を通り過ぎざまに、要に何か囁く。それを聞いて顔を赤くする要だったが、俺には何を言っていたのかさっぱり聞き取れなかった。振り向いても辻堂はくつくつと笑うばかり、そのままレトロゲームコーナーに向かって落ちゲーを始めた。何がなんだかさっぱりだ。
「何言ったんだ、アイツ」
「そ、そんなんじゃ、ないもの……」
少し視線を落として要の顔色を窺うが、ハイネックのセーターに顔をうずめてしまって会話の出来る状態ではない。辻堂の方を見ると、時折画面から目を放してこちらを見ている。いや、俺らを通り越した、向こう?
「加工写真倶楽部? さっき要が見てたのも、あっちの方向」
「っ……!」
あれ? ひょっとして要、息してない?
「おっ、おい! 要!」
「あ、ああう…………」
コラ辻堂、何を生暖かい目で見守ってる。助け舟出せよ。ヤバい、今にも倒れそうだ。
「要、とりあえずクレーンゲームやろう。とにもかくにもクレーンゲームだ。ほら、あの三色まんじゅうが待ってる。まずはアレやろう、なっ!」
倒れかけた要を引きずっていく俺が、横目で辻堂を睨む。あろうことか奴は、唇の動きだけで「いやあ青春だねえ」と呟いていた。明日あたり燃えないゴミにして袋詰めにしてやる。
「さ、要。俺の手腕をとくと見とけ、アレ?」
ごまかすためにクレーンゲームをやるつもりだったのに、そこには先客がいた。要と同じくらいの身長の、頭に白い三角巾、あるいはバンダナと思しきものを巻いた少年。栗色の髪を後ろで二つに分けて結び、服はなぜかわからないが、漆黒の執事服である。
硬貨を投入、真剣な気迫を辺りに放ちながらボタンを押していく。が、そのコースは明らかにハズレだった。カラぶったアームは初期位置に戻り、うるさいゲームセンターの中、少年の周囲にだけ静寂が訪れる。
また硬貨を投入、真剣な気迫を辺りに放ちながらボタンを押していく。が、そのコースは明らかにハズレだった。カラぶったアームは初期位置に戻り、うるさいゲームセンターの中、少年の周囲にだけ静寂が訪れる。
また、硬貨を投入、真剣な気迫を辺りに放ちながらボタンを押していく。が、そのコースは明らかにハズレだった。カラぶったアームは初期位置に戻り、うるさいゲームセンターの中、少年の周囲にだけ静寂が訪れる。
通算五度の挑戦の末、少年はとうとうはじめた。
「……っなんですかねコレ。取れない位置にあるみたい、ですよね。決して僕の腕が悪いんじゃないです……ね。うんそうだ、そうに違いないです」
愚痴を。
イソップ童話だっけ、酸っぱいぶどうって。
ありがちな言葉と共に、少年は自ら作り上げた静かな怒りの空間を叩き壊した。狐によく似た糸みたいな目を、もう目視出来なくなるんじゃないかというくらいまで細め、そこを立ち去る。と、景品交換所のおじさんに話しかけ、また戻ってくる。
アレだな、確実に。景品を移動させる気だ。たまに見る光景だし反則ではないだろうが、取りやすい位置に移動させてもらうというのは達人を自称する以上、外道だと俺は思っている。
しかし、またも失敗。やはり失敗。今回も失敗。通算六連敗。可哀想な少年は、手をブルブルと震わせ始めた。
「有和良君、クレーン、ゲーム。上手なんだよ、ね」
淀んだ雑音の溜まり場とも言えるゲームセンターで、ギリギリ聞こえる声量。要はぼそりと呟き、俺を見上げてきた。
「一応そのつもりだけど」
「コツとか、教えて、あげたら?」
「却、下」
首を横に振ると、別に自分が拒絶されたわけでもないのに要は悲しそうな顔をした。が、こればかりは譲れない。俺がこれだけの腕をつけるために頑張った時間は、相当な額に上る。そう易々と教えないからこそ、秘伝は秘伝足りえるのだ。
「大体、教えてやるなんてあの子のプライドを踏みにじる行為だ。俺には出来ない」
「う……なんだか、都合のいい、解釈」
「そりゃそうだろう。ただの屁理屈だからな」
「わかってて、やるって。人として、どうか、な?」
「傷つくセリフをどうもありがとう。最高の褒め言葉だ。でも、俺は出し惜しみし続けるよ」
ハハハ、と後ろを向いて腰に手を当てのけぞってみせた。すると、ふいにのけぞる角度が四十度を越えた。あ、ヤバイ、
「あ゛ーッ! さっきから後ろでうるっさいんですよ! 嫌味なことばかり言って――」
見知らぬ少年にタックルされた。背中の筋肉がぎしっと悲鳴をあげ、脂汗という涙を流す。
「ぎゃあ゛あ゛あ゛あ゛ァ」
+
「あーっ」
突然、廊下を歩いていた葛葉が声をあげる。中庭のベンチで眠りこけていた白藤がその声で目覚め、目をこすりながら近寄っていく。
「なんじゃ?」
「……すっかり忘れていました。今日、柊君が戻ってくるんでした」
これを聞くと、つまらん用事じゃの、と葛葉に返し、白藤は縁側で再び横になる。
最近の白藤はこうして軽く会話をしたり食事の席に現れたりと、一応は従業員たちとも接するようになってきていた。彼女としては『自由の身』という権利は得られなかったが、『人間としての生き方』を得ることが出来たために今のところは満足しているらしい。
土地に縛られた生き方もまた、人間らしいといえばらしいのだとかなんとか。それにしても人間の自堕落ぶりを真似しすぎだ、とは姫の言だが。横になりながらも、白藤は雑談に興じた。
「良かったではないか。これでまた宿も本格的な営業が出来る。と、そういえば川澄はどうしたんじゃ? まだ帰って来ておらぬようじゃが」
白藤が思い出したようにもう一人の従業員の名をあげる。それを聞くと葛葉は顔を曇らせた。
「それなんです。まだ川澄様が帰って来ていないのに、このままでは先に柊君が戻って来てしまいます!」
「あーそれは、少々困った問題じゃ、のう」
「……あの、白藤様? おもむろに本を取り出してそれを顔に乗せて、寝たフリですか? わたしだけに面倒を押し付けるおつもりですか?」
「知らん知らん。わしは従業員じゃないからのう。それに、おまえだけじゃなくほかにも従業員はおるじゃろうが」
本のふちから目だけをのぞかせて白藤が問うと、中庭の池を眺める葛葉は全く感情のこもっていない声で呟く。
「……みんな今日は外出しているのです。わたしだけ逃げ遅れた気分ですよ。ああ、朝のうちに思い出せていれば」
「ご愁傷様」
パサりと本が落ちる音と共に、白藤は姿を消した。人間体ではなく宿屋という本質の中に己を紛れさせたのだ。道連れを逃したと思った葛葉は、宿の中に響くような声で問いかけた。
「人間としての生き方を選んだのでは?」
「人間は卑怯じゃからのう。都合よく屁理屈をこねるもんじゃ」
あはははは、と宿の中に笑い声が響き渡る。と、そこで表玄関に誰か来たのか、チャイムの音。とうとう来てしまったか、と葛葉はうつむいて溜め息をつき、そこで白藤の置いていった本の題名が視界に入る。余計に気分が沈む。
題名は、『ああ無情』。
+
どこのガキだ、出会って数分、しかも会話すらしていない相手にタックルを御見舞するのは。どこのどなたが育てたのかは知らないが、しつけがなっとらん。
「なんだこの少年」
「そのセリフそのままお返しして差し上げるのですよ、この陰湿・口だけヤロウ。後ろでブツブツボソボソ、やれもしないくせによく口が回る、と僕は思う次第なのです……というか大体、店側が儲ける仕組みになっている場所で! どうやってどの口が! 取るとか言うんですか!」
俺の口について三回も悪口を言いやがった。しかも経験と信頼と実績のある俺の腕に、疑いをかけるだと。許せない、これは許せない。
「やってやるよ。お子ちゃま、おまえに目に物見せてやる。五百円入れて六回プレー? ハッ、その選択をする時点でそいつは敗者だ、負け犬だよ。自信がないから回数かけて取ろうとする? ヘタな鉄砲は何発撃っても当たりません。俺は、そんなことはない。三回だ。三百円で十分」
「ほざいてる間は良いですね、チビ」
……………………………………………………おーう。ガキがチビとか言ってくれたよ。
そうだな、確かに俺はちょっと背が足りない。あと六センチくらいは欲しかったな。
でも何様のつもりでおまえがそれを言う?
「あ、ありわら、君。そ、そんなに、怒らないで、ね?」
「怒ってない怒ってない。ゲームは平常心でやらないと」
なんかオロオロしている要。その後ろの方でハイスコアを叩き出して落ちゲーを終えた辻堂。台に頬杖ついてこちらの様子を傍観している。なんか口だけ動かしてるな、何を言ってる?
……『――くだらないことで怒るよな、おまえさんは――』別に気にしないけど。くだらなくはない、金と時間と労力の結晶たる腕前を馬鹿にされてなおかつ身長のことも言われたら完膚なきまでに叩きのめす他に選択肢は提示されない。
「じゃあいくぞ、硬貨とうにゅ」
『NEW RECORD!!!!!!!』
大きな大きな音が、ゲーム台の向こうから響いてきて俺の声を叩き潰した。
「オイ有和良。おまえさんの必勝テクとは本体の破壊のことかね?」
「んなわけないだろう。俺じゃなくて、このクレーンゲームの向こうから音がしてるんだよ」
気になるのかクレーンゲームの横から顔を出す三人。さっきのツインテールの少年が混じってるのが少々イヤだが、あくまでも年上の対応としてあまり気にしない様子でその後ろにつく。
音の発信源は、どうやら先ほど辻堂が挑んで瞬殺された、ゾンビ討伐が主軸となるガンシューティングゲーム。画面の中では、ゾンビの巨人がたった今撃破された様子が映し出されていた。どうやらハイスコアだったらしく、真ボス戦に突入している。
そして辻堂が早々に退場せざるを得なかったのは、奴の腕の問題だけでなく『元々あのゲームの難易度が高いから』という理由にあることが観客の会話からわかった。今やゲームセンターの中心、狭いスペースに位置するシューティングゲームの周囲に、二十人ほどの人だかりが出来ている。それだけ、ハイスコアが出るのが珍しいということだろうか。
「ぬぬ、私は一面の中ボスまでも行かずに終わったというのに。一体誰があんな記録を叩き出しているのかねえ」
落胆をあらわにしながらいじける辻堂。おまえの腕じゃ落胆することすらおこがましいことに気づけ。
「人だかりの、せいで、見えない、ね?」
「でも目立ってるようですね」
なんだか会話を成立させている、少年と要。どうも両方ともクレーンゲームに対する興味は失くしてしまったようだ。……正直な話、俺としてもアレだけ目立ってる人間がいる近くで地味にボタンを押すだけのゲームはやりたくない。ここは、観客の立ち位置に回る他なさそうだ。
やがて、真ボスも撃破。画面内を縦横無尽に動き回る金色の強化ゾンビは、しかし精密な機械動作のごとく放たれる銃弾が生み出す弾幕によって蜂の巣にされた。観客はどよめき、驚きの声をあげる。そしてその中心に居た、ハイスコアを叩きだした張本人が、人の壁を押しのけて出てきた。
赤い髪をポニーテールにして、金色の瞳を上目遣いにさせている低身長な少女。
「お前かよッ!」
思わず俺はクレーンゲームの本体に頭をぶつけた。なぜか辻堂も同じようにずっこけていた。
「あん? なんでダンナがここに居るんだ……柊? なんでおまえ、ダンナと一緒に居るんだ?」
と、姫は俺の前に立っていたツインテールの少年を指差す。知り合い?
「姫さん、ちょっと待ってほしいんですが。今この男をダンナと呼んだのですか?」
「そーだぞ。そこのボサボサ鳥類頭があたしらの新しいダンナだ」
鳥類ってなんだよいくらなんでも鳥類って、ちょっと待て。あたし『ら』って言ったか? 複数形?
「ダンナ、紹介するぞ。そのツインテールの三角巾少年、名前は柊。宿屋では会計を担当してる、従業員」
瞬間、まるで鏡写しにしたように。俺と柊は顔をひきつらせた。
「何だって?!」
「なんだ、かんだで、案外、息ぴたり」
+
世の中ってうまくいかないけど、嫌なことは特に呼吸を合わせたように来るなあ。時々葛葉はそう思う。……よくもまあ木曽の山中にある入り口を、正確に狙って来れるものだ、と。
元々、彼は交渉役として外に出ていることが多い人物、ゆえに様々な位置に現れる表玄関を使って宿を出入りすることも多い。一応『その道』のプロだったこともあるらしく、空間を転移している気ままなこの宿の位置もある程度つかめるのだとか。後は、そこが現在地から近ければ移動。でなければ裏口から帰る。
そして今日は木曽の近くにいたらしい。玄関の曇りガラスには白髪、灰色の外套、など。彼が来訪者であることを決定づける要素が現れていた。溜め息をつく葛葉。
「おお、葛葉か。人が帰ってきたというのに溜め息をつくとは、何事だ」
バリトン歌手のように低い、抑揚だけはやたらにある声。終始一定のテンションを維持する葛葉とは違い、声だけとってもそれは常時、上下している。しぶしぶ、といった様子で玄関を開け、やってきた男の顔に視線を上げる。
「久々の宿だ、実に懐かしい。考えてみれば半年前に出て行ったきり、しばし戻っておらなんだからな。川澄源一郎、そして川澄末蔵。ただいま戻った」
細い白髪は柳のように幽玄。顔には深いが、少ないシワ。太く短い眉の下に、在るのは黒ずんだ灰色の瞳。四角い黒フレームの眼鏡をかけ、煙管をふかしている。
服は灰色の外套。その中に着込んでいるのは紺の地に藍の唐草模様をした着物。帯は黒。と、その帯がうごめく。耳と尻尾を生やし、蒼い穴が空く。……猫だ。蒼い瞳の黒猫。それが、帯の中に潜んでいた。そう、この猫の名こそが、末蔵。
「スミス、元気でしたか?」
「おい葛葉いくらなんでも帰って来た人間に。挨拶くらいは返してほしいのだが。それに何度も前から言っているが、スミスと呼ぶな。こいつの名は末蔵だ」
そこそこに年老いた容貌であるくせに、川澄はおやつを没収された子供のように寂しそうな顔をした。が、葛葉の目には帯の中から顔を出す猫しか見えていない。
「いいじゃないですか、スミスという名前。『川澄末蔵』真ん中を取って、スミスです。おいでなさい、スミス」
「断固拒否する。そのような呼び方、和の要素がまるでないであろう。あ、コラ」
奪われたスミス。しかし、心なしか表情が悦んでいるようにも見える。――末蔵、と川澄が名づけたことから大体判断は出来るが、この猫の性別は♂である。やはりそういった観点から見ても、表情が緩むのは仕方の無いことかもしれない。
老人の冷たい懐と、若い女性の暖かな胸元。どちらが良いかと問うのは愚問。
「末蔵、帰ってこい末蔵。いや、名前がやはり不服なのか? スミス、おいスミス」
あっさり自分の名前に対するこだわりを捨て、葛葉命名の名前で呼ぶ。しかし来ず。
呆気にとられること数秒、すぐに自分に向けた嘲笑を浮かべ、年相応の表情を浮かべる。とは言ってもその表情は『大枚はたいて買った馬券が全て外れた時』のような、かなりシュールな表情だったが。
「……で、葛葉。新しい主人はどこだ?挨拶をしておこう」
「川澄様の部屋は前と同じ場所です。スミスはわたしの部屋で預かりますからご安心を」
「……おまえ、私が帰って来てから一度たりとも、会話を成立させようとしていないのだろう」
かなり本気で憤怒の形相に変わりゆく川澄。だがもちろん、葛葉だってわざと怒らせようとしているわけではない。柊が帰って来るまでは、出来る限り時間稼ぎをしなくてはいけないと思ってのことだった。
そんなことを思案する。と、視界の端に何かを捉える。長い髪を振り乱して、歩いてくる。
「帰って来たようじゃな、源一郎」
「む? 白藤か。引きこもりのおまえが二人以上人間の居る場所に出て来よるとは、珍しいこともあるものだな」
やかましい、と失笑しながら近づいてくる。さっきは逃げたのに今さら何をしに来た、と軽く睨む葛葉。白藤はそれを手で制して、目線だけで「悪かったのう」と返してくる。
ちなみに有和良との一件以前の白藤は、他の従業員ともあまり折り合いは良くなかった。しかしその中で川澄だけは、軽く憎まれ口を叩き合えるくらいに心を許していたのだった。葛葉たち従業員の考えとしては、斎が川澄のように面倒な男を雇い続ける理由はそこにしかない、というものである。
「して、新しい主人はどこにいるのだ、白藤」
「今は休暇中じゃな。っと、そんな目で睨むな源一郎。あやつはわしとしても認められる、なかなかの男じゃと思うぞ。おそらく、ぬしも見れば気に入る」
「おまえにしてはいやにベタ褒めだな。逆に気味悪くなってきよるぞ。それでは、従業員はどうなのだ? もう言霊による連絡から一週間、そろそろ全員集まっておるのでは」
「ああ、それならもう。既に全員集まって、宿としても本格的な再開業が出来ています。何も心配はありませんよ」
葛葉が答え、白藤もうなずく。人間、同じ目的に向けて進んでいると自然と息は合ってくるものである。
「そうか、それは良い。ところで、あの少年はちゃんとやっておるのかね?」
問題となっている部分への問いかけ。ここでミスすると大変面倒なことになる、と目線で会話する葛葉と白藤だった。息はぴったり動作は完璧。ここからは僅かなミスも許されない、危険地帯だと認識する。
「大丈夫です、彼はやれば出来る子ですから。きちんと会計処理をしてくれています」
「まあ、今の所は客も来んようじゃし会計と言っても食費と備品の交換くらいしかないがの」
「フム……それはそれは結構なことだ。なれば私と顔を合わせても支障はあるまい」
落ち着け、冷静に対処しろ、凍てつく思考を持て、と心中で己を鼓舞する二人。
「あー、今彼も休暇中ですので」
「なんだと、二人も休暇中なのか?」
「というかぱとりしあも姫の奴も休みじゃの。今ここにおるのはわしと葛葉だけじゃ」
ほう、と呟き、考え込む川澄。嫌な汗がダラダラと背を滑り落ちる一瞬。この短時間で脱水起こして倒れるのではないか、と思えるほどに緊張した一瞬。
そのあとに。
「しかしな、先ほど勝手口まで一度おまえたちを探しに行ったのだが、まだ裏口に奴の靴がなかったようだが……」
表情が固まる二人。今度は汗がぴたりと止まって、耐えがたい一瞬の空白が生まれた。
「……というのは嘘なんだが、まあ今のおまえらの顔を見ていれば分かる。まだいないのか、あの小僧」
ピくっと頬がひきつる川澄は、はあーと長く、絶望的な溜め息を放つ。しくじった、と心中で大絶叫する二人の前で、延々と長く、続けられた。
微妙な表情の三人、時は止まったまま。動き出すのは、川澄から。
「ちょっと出かけてくるぞ。あの小僧にイイ物を渡してくる」
そう言って二人の横を通り過ぎ、階段を上がっていく川澄。渡り廊下の向こうにある従業員棟に向かい、裏口から出るのだろう。
「何を渡すか、と?」
二人ともそんなことは訊いていない。
「職務怠慢で世間舐めてる小僧に、地獄への片道切符を、だ」
……二人ともそんなことは聞きたくない。
オッサン登場 ではまた次回