六頁目 戦って一悶着、疲れる。(戦闘終了)
白藤は瞬間、足を止めた。振り上げていた足を、カウントの終わりと共に振り下ろしたりしなかった。
正確には、出来なかった。それだけの痛みが、白藤のつま先に発生していたのだろう。
「なんだ? 白藤のやつ、なんで足を押さえて倒れこんだ?」
方陣の外に追いやられ、ことの成り行きを見守っていた姫が口を開く。横で見ていた二人も、何が起こったのかさっぱりわからない様子で足を押さえる白藤を見やる。一瞬にして、方陣内の立場は逆転していた。
倒れこむ白藤と、ゆらりと立ち上がる俺。ボロボロだというのに、力に満ちてきた。やっと、本領発揮ってとこか。
「あ。そういえばボクも、昨日姫ちゃんたちと追いかけっこしてたら急に足にネズミ捕りが引っかかってて。大変だったの」
「あたしの貞操追い掛け回してたんだろが!」
身の危険を感じさせられる『捕食者の襲撃』を単なるお遊び、『追いかけっこ』で済まされそうになった姫が憤慨する。しかしそれを聞いた葛葉は、不思議そうにぱとりしあの顔を覗き込む。
「ネズミ捕り、ですか。あのバネ仕掛けで挟む」
「うんー。誰なのかな? あんなもの廊下に置いてたの。わりと痛かったの」
「足の指ちぎれろ」
「姫ちょっと黙っててください。あの白藤様の様子……ネズミ捕りにでもかかったように、見えませんか?」
――父さんは、みんなに預けたにもかかわらずこの俺の正体、事情について教えていなかったらしい。この国では俺の異能も知れ渡っていないようでもある――ま、ひとまず、葛葉のつぶやきは、ほぼ正解だったと言っておこう。
「く、あっ……ばかな、なぜわしはこんなものを、くそ、なぜ!」
振り上げた足だけではなく、軸足も。両手で抱え込みながら、白藤は怨嗟を吐き出す。その様子を眺めつつ、俺は平然と立ち上がる。その実、蹴られた部位がうずき、すぐにでも倒れたかったりするけど。強がりだけ、意地一つを張り通すことで、膝が曲がることを押し留めていた。
「ああ、よかった。『虎挟み』ってものは識ってたみたいだな」
歯が軽くのぞく程度の不敵な笑みを浮かべ、虚勢を張りとおす。それに視線を合わせ、恨みがましい表情を見せる白藤。見下すと見下される、普通なら立場が決定的に違う、向き合う二人は。互いに互いの喉に刃を突きつけているような、そんな緊張感があった。
そして白藤も立ち上がる。ゆっくりと、しかし全身に力を行き渡らせて。こわいな。
「手負いの獣、って感じか。まあトラバサミにかかったままなんだから、正にそれだよな」
「やかましいわクソガキ。これしきでわしの動きを、止められると、思うな!」
音を立てて大地を蹴りつけ、突進する白藤。しかし一歩ごとに速度を失い、痛みに顔をしかめながらの特攻となる。左の拳が俺の顔面を狙い、重い空気の中を疾駆する。
先ほどまでよりは少しだけ軽くなった一撃を、それでも全力でもって回避する。そして右側、白藤にとっての死角に回りこみ。左の拳を地面と水平に、弧を描くように、ボディブローを放つ。
「――ハ、捉えきれる。果てしなく遅い」
空いていた右手でそれを防ぐ白藤。が、そこで気づく。本気の一撃ならば、その場に留まって強く踏み込んだ一撃を放つはずだ、と。ならば――なぜ、今そこに俺の姿がないのか? なぜ、左手を残しているだけなのか。
「残念はずれ」
そう、左手はハッタリだ。
囮に使った左手。それを残し、白藤の背後に回りこむ。そして、短距離でも確実な威力を持つ技、右の肘打ちを首筋に向けて、振り下ろす。
深く、抉りこむように打たれた肘打ちに、短くうめき声を漏らす白藤。しかし、まだ倒れない。手加減したつもりはなかった、んだけど、な。
手加減するつもりはなかった。しかし、力を緩めざるを得なかった。囮に使った左手、それを掴んで受け止めた白藤の右手が。俺の指を、へし折らんばかりの力でもって握りつぶしていた。それによって与えられた痛みに、僅かながら力を緩めてしまった。くそ、まさかこんな握力、
「……惜しい、のう。だが、無念の下に散れ!」
上体を前に倒し、重心を移動させる。移動した重心を全て左足に乗せて、白藤は背後に立つ俺の下腹部を鋭く蹴る。さすがに急所を蹴られるわけにもいかず、打点を上にずらすことには成功したが、重く熱い鉛を体内に打ち込まれたようなダメージに襲われた。正直、立ってるのも辛い。どうと脂汗が流れ落ちる。
距離を取らなければいけない、なのに、離れられない。未だ、白藤は俺の左手を握ったままだ。いい加減、離しやがれ!
そんな俺の心の叫びを聞いたがごとく。そのまま左足を元の位置に戻し、今度は右の踵で俺の顎を蹴り上げてくる。脳を揺らされかねない一蹴に、動き回る視界が抑えられない。
舌は引っ込めていたので噛み切ることは免れたが、軽い脳震盪を起こして意識が断ち切られそうになる。視界の端で最後に、動いた白藤を捉える。
意識が飛んでゼロコンマ数秒後。振り向きざまに遠心力を乗せて放たれた、左手の裏拳。俺は左のこめかみにその一撃を喰らい、痛みで再度覚醒しつつ、倒れた。五寸釘でも打ち込まれたんじゃないかってくらい、太い痛みが残留した。
「あ、あぐ、あっ!」
またも一転、立場は入れ替わる。白藤が見下し、俺が見上げる。ぐるうり回ってゆく視界の中では、見上げてるという意識も薄いが。
「っは、はっ……怪しげな幻覚を見させられたが、もうどうということはないわ。時間切れか? ハッ、どうした有和良の! その程度か!」
下駄の先、固い木材部分で蹴り上げる容赦ない攻撃に、防ぐべく差し出した腕に痛みと鈍い音が響く。
その意思の強さ、躊躇なく倒れた者に手を上げられる非情さこそが、今の白藤の根本たる強さとなっているようだ。その意思の根底にあるのは、ただ自由への渇望か。
「隙は与えん、追撃じゃ」
転がっていく俺は、しかし池に落ちる手前で止まり、迫り来る白藤を睨みつける。
「ッ、『識れ』!」
有和良も手は抜かない。再び仕掛ける、不可思議な技。
途端に白藤は立ち止まり、再度訪れた両足への激痛で顔をゆがめ、膝を折る。が、跪いたのは痛みを堪えられないからではなかった。つま先を挟む狩猟用の罠〝虎挟み〟を素手で強引に外すためだった。サメの歯を思わせる形状で獣の足を拘束し、動けなくするバネ仕掛けの罠。指に食い込む歯を必死で掴み、ミヂミヂと嫌な音をさせながら外す。しかしまだ、外せたのは片足のみ。もう片方は――
「貴様を屠った後じゃな!」
既に間合いを詰めてきていた俺に、立ち上がる瞬間の上方向への力、その全てを乗せた突き上げる一撃を打つ。血を流す指先、しかし気にせず。未だ痛む右足、しかし気にせずか。カウンター気味に放たれる一閃、貫き手。人差し指中指薬指の三本が、掌を天に向けた状態で俺の皮膚を文字通り、貫く。爪で腹部の皮下を抉られ、うめき声をあげるほかない。これだけ追い詰めてこれか、獣以上だな……
勝負が決するのはもはや時間の問題だろう。自分の求めるもののために、障害を全て排する覚悟の白藤。俺の動機とは違い、積極的な自由への望み。宿という一つの『物』としての生ではなく、一人の人物、白藤紅梅として、生きてゆきたいと願う気持ち。
……俺の抱く『住みかが欲しい』という保守的な考えとは違う。
そうだろう。それはそうだろうな。
が、そんなことが何だというのだろうか。
「誰が、屠られる、ものか」
積極的だろうが保守的だろうが。最後に勝つのはいつだって強い者の方だ。
後ろに倒れこみながらも、俺は目を背けない。逸らさない。倒すと決め込んで、向かい合う。
優位なのは白藤であっても、思いの丈が強いのは、俺だ。
生物にとっては、当然。必然。大前提。
――生存本能以上に強い意思など、この世には数えるほどしかないのだから。
+
「あれ? 何か音がしねーか」
赤い髪を掻き分けて耳に手をあて、姫が横の二人に囁く。言われて、葛葉とぱとりしあが耳をそばだて、葛葉の方だけ納得した様子でうなずいた。ぱとりしあは何もわからない様子である。
「やれやれ、招きたくもねー客が最初の来訪者か」
「招かれざる客人ですね。相応のもてなしをしましょう、か?」
「ちょ、ちょっと二人とも? なんで二人だけわかるの? ボクだけ置き去りなの?」
寂しそうに首をふりふり、二人の間に挟まれたぱとりしあはぼやく。すると頭の上から「訓練したからわかるだけ」と二人の声が重なって聞こえ、自分のすべきことをようやく理解する。
「人外じゃないんだ。じゃあ、ボクの出番はないね」
「そういうこった。あたしらがなんとかしてくるから、しばらく待ってろ」
この宿におけるトラブルは、姫がその対処を任されている。その仕事内容には料理にケチつけられただのキャンセル料の支払いトラブルだの泉質のイチャモンだの、時間をとられる面倒なものが大半である。
しかしこうした侵入者への対処もその仕事に含まれていたりする。この宿屋、白藤は世界の狭間に位置する以上、正規のルート、表玄関と裏口以外を通ることは、意図しての行為以外ではありえず、特殊な術をもってしか侵入は不可能なのである。
ちなみに、トラブル専門の従業員たる姫いわく。この仕事こそが最短で済む仕事である、とのこと。
「とっとと片付けてくるさ。ダンナは……きっと勝つだろ。見てても加勢できるわけじゃねーし、何よりあたしはまずその気がない。白藤に言われちまったからな、自分勝手にダンナの地位に誰かをつけるな、って。だから……卑怯なのは百も承知だけど、ダンナと白藤で残りの全てを決めてもらう。あたしらがここに残りたいと思って、ダンナを勝手にあの地位に押し上げちまったんだ。あとは、二人の勝敗だけで決めよう。ダメだったら、運が悪かった、それだけだ」
自嘲気味に肩をすくめ、宿の中へと戻っていく姫。装備を整えてから侵入者の所へ向かうのだろう、と葛葉とぱとりしあは後姿を見送る。二人の表情は、暗い。姫の言っていたことは、そのまま自分たちにも当てはまるからだ。人に勝手に地位を押し付け、自分たちの居場所を確保する、ということは。
+
姫たちが侵入者に気づいた頃、白藤も同時にそれに気づいていた。ずいぶんと術の巧い奴が来たものだ、と驚きつつ、しかし表面には全く出さず。自分の内のみでそれを抹消する。三つ編みを振り乱しながら、震脚。踏みつけた瞬間に、またも中庭に亀裂が走る。軽い揺れが辺りに伝導していく。
別段、白藤がとんでもない力を持つわけではないだろう。彼女の力は一般人とも大差ない。けれど宿は彼女自身。自分の体表を揺らすなど、きっと造作もないことだ。
そして、人間はごく小さな地震でも大きく取り乱してしまう。地面からの揺れというものに、心理的に弱い面を持っている。白藤の今の一手は、体勢と精神の両方を正に揺さぶる一手だった。
「クソガキ、貴様やけに強い目をしておるな? いささか、驚かされた。――この宿に留まることが、本当の目的なのか? 他にも何か、隠しておることがあるじゃろう」
問いかける白藤の白いシャツの裾が揺れる。中段蹴りで牽制、避けられるとその足を地面に下ろし、一歩間合いを詰める。そのまま左で二発のジャブ。
「隠してることはある。でも目的はそれだけだよ」
同じく白いシャツだが、俺の方は少々泥の汚れが目立ってきた。飛来した二発をいなし、両手を胸の前で交差させる。防御の構えに白藤は油断なく隙をうかがったが、そのまま突進してくるだけだったので拍子抜けした。一歩後ろに下がり、着かず離れずの距離を保つ。
しかし俺はほんの一瞬。白藤と自分の身体の距離が近づいた瞬間を狙った。
「ふっ」
「ん?」
交差させた手を引き戻す。そのまま留められたシャツの裾を掴み。
一気に引いた。ボタンは弾け、ピシピシと白藤に向かって飛ぶ。予想外の技に面食らった白藤は、目を見開いてその様子を捉えた。そして、見開かれたまぶたに向かってそのうちの一つが飛んでいった。
変則の眼潰し。白藤は右目を閉じる。左目はモノクルによってボタンを防いでいた。ゆえに、視界はまだ半分残っている。ならば反撃にと俺を蹴り上げてくるが、隻眼では距離感がズレているようだ。
横をすり抜け、白藤の背後に転がり込んでいく俺。目で追いきれない白藤は、即座に反転して俺を睨みつけんとしたため、
バッ、と土がひっかけられる。正真正銘の、眼潰し。顔を押さえ、白藤はのけぞった。
転がり込んだのは体勢が崩れたからじゃない、土を掴むためだ。そしてボタンを飛ばしたのは、眼潰しのためだけじゃない。
次の瞬間、白藤が己の目をかばっていた腕に俺は手刀を叩きこんだ。それでもなお反撃に転じようと拳を振るってきたが、この防御が解けた瞬間を逃さないためなら多少の攻撃は耐えられる。脱ぎ払ったシャツの袖を握り、通り抜け様に白藤の首に巻きつけた。両袖の端を握りしめ、その身を背負い上げる。
「かっ、はっ!?」
「しばらく、落ちろ……!」
ぐ、と力を込め、背負う感触。白藤足が地面を離れる。ばたばたと背中でうごめく感触はどうにも残酷な感じがして、こちらの背筋も薄ら寒くなった。けれどこんな技でもなければ、慮外の耐久力を誇る白藤は、倒せないと思ったのだ。
ほどなくして、抵抗の力が弱まったころ。急いで俺は白藤を下ろして、呼吸を確認した。
+
ようやく、絞め落とすことで俺は白藤を仕留めた。血流を少しの間だが止めてしまうこの首吊り技は、出来る限り使いたくない技の一つだ。ここまで使わせたのだから、白藤は本当に強かったと言っていい。場慣れしている俺でも幾度となく死の危険を感じた。実際、とっておきも二回使うこととなった。
「……ぬ」
「うわ起きた! 普通絞め落としたらしばらくは起きないと思うんだけど!」
「わしは、人ではない。じゃから見た目はこうでもある程度、人類からかけ離れた身体じゃ」
むくりと起き上がろうとして、両手をシャツで、足首をベルトで固定されたことに気づいた様子。ものすごく不機嫌な顔で俺を睨んでくる。
「往生際の悪いことを言うつもりは、ない。ほどけ」
「あ、うん」
手足の拘束を解く。まるで数日缶詰めにされていた後であるかのように白藤は大きく、溜め息をついた。敗北が相当、堪えたと見える。
「完敗じゃ」
「でもあんたが全力だったら俺は絶対勝てなかった」
「気づいておったのか。まあ殺す気ではあったが、の」
しれっと言ってのける白藤に、俺はまだ警戒を解けない。
……九十九年という歳月を経た物に宿る神、憑喪神。宿なんていう広範囲な奴じゃなかったけど、昔やりあったソイツは一軒の家全体の感覚を使って俺を攻めてきた。人間体となって攻撃してくることは変わりないが、いちいち攻撃後に家屋に戻るのだ。こっちからすれば常に全身の動きを見張られてるようなもので、おまけに攻撃後はこちらの攻撃が当たらないように消える。
元々こうした憑喪神に対する戦闘とは憑いている物全体を完全に粉砕することが肝要なので、俺みたいな非力な人間にはどうにも出来ないことだったりする。
「宿全体の感覚を持ってるんだから、俺の動きなんて例えこっちが攻撃の位置を宣言するとしても、それより早く分かってたはずだろう? それに、人間体から宿に戻って俺の背後に瞬間移動、とか。色々選択肢はあったのに」
「それは勝負の大前提を覆す発言じゃな」
けほけほと咳き込みながら、白藤は呟いた。どういう意味なのか俺にはわからない。素直にそう口に出すと、白藤はほとほと困り果てた様子で説明した。ごく簡単に。
「わしは、宿であることを捨てるために戦ったんじゃろうが。ゆえに、地を揺らす地鳴りを使用した時点で、わしの矜持は折れておったよ」
……ああ、そうか。
この人は人間としての生き方をしたいがために戦った。それは宿としての自分を捨て去るためのものだった。ならば、宿としての能力を使うことは全ての前提をひっくり返してしまう。
それは、自分の信条という何よりも折りたくないものを折ることになるんだ。
「人間としての定義で行けば今のは確実に死に向かう一手じゃった。人間としてのわしは、死んだ。もはや宿としての生き方しか残っておらん」
白藤は立ち上がり、さっきの巻物を取り出した。するすると広げ、一番端に俺の名前を書き加えている。終わると筆をしまい、親指の腹を噛み切る。人差し指と合わせて指についた血を押し広げ、それを巻物に、押した。
「さあ主人よ、この下に同じ様に血印を押せ。それで、全て終わる」
巻物を手渡される。が、それに押す前に。これだけは、話しておかなければならなかった。
人外の化け物だとしても。妙な異能があったとしても。人に迷惑かけたくない。それが出来なくても、せめて忠告くらいはしたい。
自己満足に過ぎないとはわかっているけれど、安心出来なければ夜眠ることすらできないじゃないか。
「? 今さら躊躇するでない。なぜ巻物を下ろす」
「その前に話さなくちゃならないことがある。俺が、ここに居たい理由についてだよ」
「葛葉、今終わった……なんだ、ちょうどダンナも終わったの、か」
心なしか、落ち込んだ様子で姫が現れた。待て、いくらなんでも死線をくぐった俺に、敗北していてほしかったのか? それは死ねということか?
「――まあいいよ。勝ったんならそれで。これからもこの宿を続けていくことに、なったんだろ」
よく見ると葛葉もぱとりしあも似たような顔をしている。
どなたも、俺の敗北を欲していたようで。
「三人とも。俺に負けてほしかったのか?」
問いかける。しかしそれに対する返答はない。ただ顔を伏せるだけ、誰も言葉を発しようとはしない。
ああ、確かに。俺は四分の三は自分のために戦った。自分の居場所が必要だから、それを得るために立ち上がっただけさ。でも、残り四分の一は、三人も居場所が必要だと思って、頼ってくれたと思ったからだ。
恩着せがましい。そんなことはわかってる。どうせ俺は自分のためにしか動けない自己中心的な人間だ。でも、はっきりした態度で接してきてほしいと思う。ここが必要ならここに居たいなら、素直に喜んでほしいと思う。イヤだったなら、最初に言ってほしかった。
「……ああ、なるほどのう。ようやく得心いったわ」
問いかけたのは白藤に、じゃなかったのに。最初に沈黙を突き破ったのは彼女だった。
おもむろに近づいていく。きびきびとした歩みで姫たちの元へ近寄り、そして、
「ボケが」
三人全員殴り飛ばした。
「貴様ら三人、ホンットにボケじゃのう。救われん。嗚呼救われん。こんな従業員と顔つき合わせて生活していかにゃならん主人が、本当に救われん」
「し、白藤、様」
「貴様ら全員、今の勝負における判決、それに従って生きようなどと考えておったのじゃろう。……阿呆か。馬鹿が。滓が! そうじゃな、貴様らは確かに揺らいだのじゃろう。わしの言葉で精神が揺れたのじゃろう。それは仕方あるまいて、そうなるよう仕向けたんじゃ。
じゃがな! なんでじゃ! なんで最後まで自分勝手を貫かん! わしを見よ、貴様らの都合を無視して宿を辞そうとしたぞ。なのになんじゃ貴様ら! 一度でも主と見込んだ男じゃろうが! なんで最後まで、自分勝手に信じない! 今貴様らがやったことは、天の判決に身を委ねたのではない。ただの裏切りじゃろうが!」
ぶち切れた白藤の言葉は、たしかに三人の胸に響いた様子だった。
……四分の三くらいは自分のために戦いました、とは言い出せない空気になったな。
「で、白藤。話しておかなきゃならないことがあったんだけど」
「ん、ああそうでした、のう」
忘れてたな。あれだけ激昂してたし無理もないか。
「で、どうしても話すべき重要な話題なんだけど……ちょっと待て姫、その左手に握ってるのは何?」
「ん、侵入者だけど、よ」
なんでもなさそうに、ぶらんと首根っこをつかんで俺の前に差し出す。見るからに怪しい黒服の、侵入者然とした男が気絶していた。
……ああ、話す手間省けそうだな。
+
とりあえず宿の中に戻った五人。首に吹き矢の刺さった黒服の侵入者も引きずってきたから、それを数えると六人になるだろうか。場所は厨房、大きなダイニングテーブルを囲んで俺たちは座った。侵入者は隅に縛って転がしてある。
「さて、何から話そうかって前置きも面倒だし、簡単に話す。これだ」
懐から取り出したのは、パック。普段俺が飲用している水分が入っている代物だ。
「しょっちゅうダンナが飲んでる奴だろ、それ」
「ああ。そしてこれで全ての説明が出来る」
蓋を開け、ほとんど残っていなかったが中身をしぼりだす。なんとか一滴、二滴三滴。テーブルの上に雫が落ちた。
紅い、赤い、朱い。
鉄臭い雫。
「なにっ、これ……血?!」
その場にいた全員が驚き、のけぞる。反応としては想定していたものだが、やはりちょっと傷つく。この心の傷みは、多分気味悪がられるからだけじゃない。忌避されることによって、自分がやはり人外なのだと思い知らされるからだろう。
「そう、――俺は、吸血鬼だ」
と言っても、日に当たることも十字架もにんにくも流水を渡ることも聖水も、その他もろもろ吸血鬼の弱点などないのだが。実はそれらの弱点は人々を油断させるために吸血鬼自身がばらまいた嘘の情報だという説が多い。実際効かないのだし。
「たとえば、夜しか動かないと聞けば昼出歩く人が多いだろう。それも油断して。十字架や聖水が苦手と聞けば教会にでも行くだろう、神父に紛れているとも知らず。にんにく好きや水泳好きの吸血鬼もいたのかもしれないね」
ともかく、吸血鬼に必要なのは血液だった。生命の象徴が必要だった。それを摂取することの始まりは、単に好奇心だったのかサドマゾゆえだったのかなんだかよくわからないが。無くては辛い。だが飲んでいると落ち着く。渇きが癒される気もする。……麻薬と似たようなものかもしれない。
「そこで先祖は吸血のために色々考えた。不死であるなどと自称して人々を恐れさせ、血液を提供させたり。コウモリだの狼だのを使役したり。まあこれらは全て催眠術だったりしたわけで、実際には幻覚を見てただけらしいんだけど……ああ、そうだよ白藤。俺の異能もそういうことだ」
ちょっと趣きは違うし、話してしまうと知られたくない事情までバレる恐れがあるので、詳細は伝えられないが。
で、まあ吸血鬼ってのは長い歴史の間に、特殊な身体に進化したわけだ。催眠術と、牙。それらを操るために。
「牙の進化はすさまじくてね、俺もこの通り犬歯が少し長い。でも重要なのは見た目じゃなくて中だ。――この牙は、差し込まれた瞬間に筋肉を弛緩させる麻酔と感覚の鋭敏化、二つの作用を持つ成分を含んだ液体を打ち込む。これによって得られる快感が相当なものらしくて、俺たち一族は麻薬のように扱われてるわけだ。
……もうわかると思うけど。今さっき姫が捕まえた侵入者も、俺を狙って来てるんだ。俺を麻薬のように取り扱うために。どっかの好事家が大枚はたいてでもこういうのを、ちょくちょく送り込んでくる。捕まれば奴隷に近い生活が待っているらしい、と風の噂では聞いてる」
もうわかったろ、と重ねて俺は言う。みんなは押し黙って、俺の言葉に耳を傾けてくれていた。
「俺は、身を隠すにはうってつけだと思って、ここを住みかにしたいと思った。そんなに、みんなの身勝手と変わらないよ」
説明を終えて俺が黙ると、みんなはうつむいてテーブルの上に垂れた、三滴の血痕を見つめた。こんな説明をした後だからか、横にいる葛葉とかのうなじがものすごく美味しそうに見えてしまう。まったく不謹慎にも、程があるってのに。一族の本能は案外強力だ。
正直ここで暮らしてきた数日の間にも、何度か本能が働きかけてくることはあったけれど。今のところは輸血パックから頻繁に摂取することで凌いでる。
「……自己中心的で利己的」
唐突に、静寂を破ったのはまたしても白藤だった。
「結局、そういうことなのかもしれんの、人間というのは」
締めにしては最悪すぎる一言だと思うのは俺だけ、だろうか。けれどくつくつと笑う白藤からは、ネガティブな考えというわけではないなにかを、感じさせられた。
「じゃが、それこそわしが人間に成りたかった理由なのかもしれん。自分から動くということは、多かれ少なかれそうした要素がなければ成り立たんのじゃから。それは宿であるまま、物であるままでは、出来んと思った。ゆえに、本質である宿という在り方を捨ててでも、わしは人間になりたかった。人間が、羨ましかった。ずるいではないか、貴様らは自分に従い、勝手気ままに出来るのじゃから」
「むう。ボクらだって色々あるもん。たまには物言わず動かず、物みたいになりたいって思ったりするよ」
「正に今、あたしはそう思ってる。場の空気が重過ぎてここに居づらいからよ」
傲慢な、なんて贅沢な、と白藤はぱとりしあと姫を睨みつけた。俺はその死線(視線、かな)の間に割って入り、三人をなだめる。
「……そんな考え方をして、人間を『ずるい』と思える。もう既にそれは、人間の嫉妬心じゃないのですか?」
頬杖を突いて溜め息一つ。
葛葉がそう言った瞬間に、場が凍りついたように動きを止めた。
「な、なんですか?」
そして誰からでもなく、笑った。
+
別に誰かが「これにて一件落着」などと大岡越前みたいなことを言ったわけでもない。裁定なんてのはそれぞれがすべきものだ、他人頼りになることもない。
つまるところ、俺たちはそれぞれがあの瞬間に、悟ったのかもしれない。そうした自己中心的で利己的な『人間』は、どこかで自分以外の人のことを思っているのだと。考えているのだと。それに対して恩義を感じ、誰かが誰かに恩を返す。そういうことの積み重なりが、人と人の絆を生んでいるんじゃないか、と。
まあこれは俺の見解。みんながどう思ってるかはわからない。でも確かなことが一つ。
みんな、さっき笑ったのだ。
みんな自分勝手さ、という第六話でした。
ではまた次回